新世紀GPXサイバーフォーミュラ RED RAVEN ―名もなき翼― 作:天羽々斬
「セナ。さっき言っていた、二つ目の右だけど」
水を半分ほど飲んだところで、エレナが戻ってきた。
端末には、走行中の操作と車両の反応を示す線が重ねられている。
「入力に対して、制御側が少し穏やかに応答する設定になっていたの。そこを変えたわ」
セナは画面を見た。
「早く曲がるようになるんですか」
「切り始めの反応は早くなる。ただ、その先まで良くなるかは別。まず同じペースで走って、違いを教えてほしい」
「分かりました」
「合わせて操作を変える前に、最初の一周は前と同じようにできる?」
セナはコース図へ目を移した。
「やってみます」
エレナはうなずき、それから彼の手元を見た。
「水、もう少し飲んでおいて」
*
再びコクピットに収まると、身体の位置がさっきより自然に決まった。
ベルトを締めてもらい、肩を動かす。問題ないことを伝えると、スタッフが車体から離れた。
『システムチェック、完了』
セナは無線のスイッチを押した。
「こちら、準備できました」
『出していいわ。タイヤを温めてから、前回と同じペースへ』
ピットロードを進む。
コースへ入ってもしばらくは速度を抑え、指示された手順でタイヤとブレーキの感触を確かめた。
やがて、二つ目の右が近づく。
前回と同じ場所で減速する。
同じ位置から、ハンドルを切った。
車の向きが変わる。
セナは出口へ視線を送りながら、わずかに指を緩めた。
さっきより早い。
思っていた場所より、少しだけ内側へ車が向いた。
*
「重ねて」
エレナの指示で、モニターに前回の走行データが加わった。
ブレーキを踏み始めた位置。
踏み込む速さ。
ハンドルを切り始める位置。
二本の線が、ほとんど重なっていた。
計測担当が表示を拡大する。
「これ、別の周ですよね」
「ええ」
エレナは車両の反応を示す線へ目を移した。
変更した部分には、狙ったとおりの差が出ている。その直後、セナの操作にも小さな変化があった。
無線が入った。
『入り口は早くなりました。ただ、途中から少し戻したくなります』
「前より切り込んでる感じ?」
『はい。最初のつもりで待つと、内側へ寄ります』
エレナは画面を見ながらうなずいた。
「確認できたわ。次は今の車に合わせていい。ただし、ペースはそのままで」
『分かりました』
次の周、セナは切り始めをわずかに遅らせた。
車両の向きと操作がそろう。
途中で戻していた動きが消え、出口まで一本の滑らかな線になった。
エレナは端末を脇へ置き、モニターへ近づいた。
*
セナは同じコーナーを、もう一度通過した。
今度は、確かめるためだった。
同じ位置で減速し、同じだけ待ってから切る。前の周と同じ場所へ車が収まった。
その先の左も、姿勢を崩さず抜けられる。
『どう?』
「さっきより、次へつなげやすいです」
『右の出口で待たなくていい?』
「はい」
短い返事のあと、エレナの声が少し途切れた。向こうで誰かと話しているらしい。
セナは前を見たまま、ストレートを走った。
この速度なら、まだ余裕がある。
けれど、上げる指示は出ていない。
アクセルを一定に保ち、次のブレーキングへ備えた。
*
トトはガレージの奥で、エレナが戻ってくるのを待っていた。
「どう見る?」
尋ねると、彼女は走行中のレイブンを一度振り返った。
「比較がしやすい」
トトは続きを待った。
「同じ条件で走ってほしいと言えば、本当にそろえてくる。こちらが変えたところと、本人が合わせたところを分けて見られるわ」
「速さは?」
「まだ上限を決めて走らせてる。その状態で結論は出せない」
エレナはそう言ってから、腕を組んだ。
「ただ、今は車のほうに余裕があるようには見えない」
画面の中で、レイブンがコーナーを抜けた。
「もう一段、上げる?」とトトが聞いた。
「その前に、一度戻す。こっちが確認したいことだけで走らせすぎても仕方ないわ」
*
停止したレイブンの横へ、エレナが歩いてきた。
「お疲れさま。調整した状態と、最初の状態。どっちが走りやすかった?」
セナはヘルメットを外した。
「今のほうです」
「理由は?」
「曲がり始めるまでを、自分で待てるので」
エレナが眉を上げる。
セナは言い方を考え、ハンドルへ手を置いた。
「最初の状態だと、車が向くまで先に操作しておく必要がありました。今は、ここで曲がりたいと思ったところで切れます」
「反応が強すぎる感じは?」
「この速さなら、大丈夫です」
「もっと速くなると?」
「まだ分かりません」
エレナはうなずいた。
その答えを聞いて、初めて口元を緩めた。
「そうね。まだ走ってないものね」
セナが車から降りる間に、トトが近づいてきた。
「今日の走行は、ここまでにしよう」
セナは壁の時計を見た。予定していた時間に近かった。
「分かりました」
「このあと少し、話せるかな」
タオルを受け取りながら、セナはうなずいた。
*
ガレージに隣接した小さな部屋には、テーブルと椅子が四脚あった。
トトが冷えた水を置く。エレナも端末を持って席に着いた。
セナは二人の向かいへ座った。
「まず、今日来てもらってよかった。ありがとう」
「こちらこそ」
「率直に言う。私は君に、レッドレイブンのドライバーになってほしい」
セナはトトを見た。
空港でも似た話はされた。それでも、実際に車へ乗ったあとでは、言葉の重さが少し違った。
「……競技に出る資格がありません」
「そこは手順を踏む。今日の社内テストだけで、参戦できるわけじゃない」
トトはテーブルへ一枚の資料を置いた。
「正式な審査を申し込む。担当者に立ち会ってもらい、走行試験と規則の確認を受ける。競技歴については特例を申請するつもりだ」
セナは資料へ目を落とした。
「それに通れば、乗れるんですか」
「参戦資格についてはね。そのうえで、うちとの契約が必要になる」
「今の仕事を続けながらは?」
トトは首を横に振った。
「本格的に始まれば、難しい。テストと遠征、体力面の準備にも時間が要る」
セナは黙った。
エレナも口を挟まなかった。
部屋の外で、台車を動かす音がした。
やがてセナが顔を上げた。
「妹と二人で暮らしています」
「ああ」
「毎月、決まって必要な金があります。賞金が出たときだけでは、続けられません」
トトはうなずいた。
「固定給を用意する。レースの成績による報酬は、それとは別だ」
「走れなくなったときは?」
「怪我や車両の事情も含めて、条件を書面で出す。保険の内容も一緒に」
セナは資料の端へ指を添えた。
トトが続ける。
「今ここで返事をしなくていい。君に生活があることは分かっている。こちらの提示を読んで、必要なら誰かに相談してほしい」
「……分かりました」
「審査に向けた準備も有償でお願いする。仕事を休んでもらうなら、その分も考える」
セナの視線が上がった。
「その条件も、書いてもらえますか」
「もちろん」
隣で、エレナが小さく息を吐いた。
セナがそちらを見ると、彼女は端末を閉じた。
「安心したのよ」
「何がですか」
「乗りたい一心で、何にでもうなずく人じゃなくて」
セナは返す言葉が見つからず、手元の水を飲んだ。
トトが笑った。
*
駅へ送ってもらう車の中で、セナは端末を開いた。
ニーナから、短いメッセージが届いていた。
『テスト終わった?』
『終わった。これから帰る』
少し考えて、もう一行打つ。
『仕事の話をされた』
送信すると、すぐに既読がついた。
『採用?』
セナは画面を見つめた。
まだ契約していない。審査も受けていない。確認することは、いくつも残っている。
『その前の相談。帰ったら話す』
返事を送り、端末を伏せた。
窓の外を、フェンスが後ろへ流れていく。
その切れ目から、コースの一部が見えた。
セナは無意識に目で追った。
最後の走行で、速度を保ったまま抜けた右コーナー。
あそこで、もう少し踏んでいたら。
フェンスの向こうへ見えなくなってからも、出口までの線が頭に残っていた。