開拓地に来てから1ヶ月が過ぎた。
「──っはぁー、キッツ......」
クワを地面に突き立て、僕はようやく背筋を伸ばした。
腰が痛い。腕も重い。手のひらは何度も豆ができては潰れ、そのたびに新しい皮ができている。
一応、今世では身体を鍛えてきたつもりだった。それでも、朝から晩まで荒れ地を耕すとなると話は別だ。慣れてない作業は体力を使う。
土は硬いし、石は多いし、少し掘り進めたと思えば、また大きな石が顔を出す。昨日と今日で景色がどれだけ変わったのか、正直よく分からない。
「ノア、手が止まってるぞ」
近くでクワを振っていた男に声をかけられた。
「止まったんじゃなくて、次の一振りのために力を溜めてるところです」
「なら、そろそろ溜まっただろ」
「残念。もう少しかかりそうで」
「口だけは元気だな、お前」
呆れたように笑われ、僕も適当に笑い返す。
まあ、働かないわけにもいかないしね。
周囲にいるのは、ウォール・マリアから逃げてきた人たちだ。大人も子供も、老人もいる。誰も好きでここへ送られてきたわけじゃない。
畑を作れと言われても、作物が育つまでには時間がかかる。
その間の食べ物すら足りないのだから、皆の顔が険しくなるのも当然だった。
「よいしょっと......」
クワを振り下ろす。
石に当たって、嫌な音がした。
「......石、多すぎない?」
「この前も同じこと言ってたぞ」
「そりゃ、今日も多いですからね」
男はとうとう声を出して笑った。
こんなくだらないやり取りでも、少しは気が紛れる。午前中をどうにか乗り切ったところで、配給の時間を告げる声が響いた。
僕も周りに習って道具を片づけて列に並び、自分の番になるとパンだけを受け取った。
「スープは?」
「大丈夫です。いらないので」
「そうか。次」
僕が食べなければ、他の人に少なからず回されるだろう──もちろん、そんな善意から受け取らなかったわけではない。
ここで出される食事は、硬いパンと、ほとんど具なしで味の薄いスープだ。
毎日こんな食事だと、栄養がまるで足りない。肉体労働なら尚更。まあ、だから普通の労働者は不味くても食べざるをえない。
でも、僕には別の手段があるから、わざわざ無理して食べるつもりはない。
配給所から離れ、人気のない物置の裏へ回る。
誰もいないことを確かめて、パンを手のひらに載せた。
『貯金』
パンがふっと消え、目の前に小さな数字が浮かぶ。
『ネットショッピング』の残高に、パンを換金した分が加わったのだ。当然、大した額にはならない。それでも、証拠隠滅に使えるのはありがたい。
続けて『ショッピング』と念じ、サンドイッチと牛乳を購入した。包装を手早く片づけ、誰にも見られないように食べ始める。
ちなみに、購入した商品の包装はこの世界でも不自然に見えない仕様へと変わっている。
そのため、現代の企業名が書かれた包装紙などが出てくる心配はない。まあ、それでも見慣れない食べ物を持っていれば、周囲から怪しまれる可能性はあるんだけどね。
「......生き返るなぁ」
これがなかったら、開拓地の暮らしはもっときつかったはずだ。
ウォール・マリアが陥落する前に、できるだけ稼いでおいて正解だった。残高にはまだ十分な余裕がある。
牛乳を飲み終えてから、僕は立ち上がった。
残念なことに、午後の仕事もまだまだたっぷり残っている。頑張らないとなぁ。
ようやく午後の仕事が終わった。
こんな毎日の中でも、僕には唯一楽しみにしていることが1つだけある。
アニ・レオンハート。
どういう巡り合わせなのか、僕が送られた開拓地には彼女がいた。
最初に見つけたときは、さすがに驚いた。壁内には開拓地がいくつもあるだろうに、まさか同じ場所になるなんて。
日頃の行いが良かったからかな。
アニとは作業場所が違うことも多く、昼間はほとんど話せない。だから労働が終わった後、アニが1人で休んでいるところに顔を出すようにしている。
まあ、流石に頻度は考えてるよ。朝も昼も夕方も僕が隣にいたら、さすがに鬱陶しいだろうし。
「あ、いた」
今日もアニは、いつもの木陰に座っていた。
背中を木に預け、膝を軽く抱えている。遠くを眺めていた彼女は、僕の足音に気づくと顔を向けた。
「アニ、お疲れ様」
「......また来たの」
「うん。今日も無事に生き残ったから、報告にね」
「大げさ」
「クワを振ってると、たまに明日まで腕が残ってるか不安になるんだよね」
「残るでしょ」
「そうだと助かる」
アニは呆れたように視線を逸らした。
「隣、いい?」
「......好きにすれば」
少し間を空けて腰を下ろす。
初めて話しかけた時は、嫌な顔をされた。今も愛想がいいとは言えないけど、こちらが何か話せば返事くらいはしてくれる。
少なくとも、本気で追い払われてはいないから、それだけで十分だ。
「今日は大きい石がやたら出てきてさ。畑を作ってるのか、石を掘り出してるのか分からなくなってきたよ」
「......石をどかさないと畑にならないんだから、仕方ないでしょ」
「正論だね。もうちょっと優しく慰めてもらえる予定だったんだけど」
「私に期待するのが間違い」
「それも正論か」
軽く笑うと、アニは口元を動かしかけ、すぐに顔を背けた。
今のは笑ったのかな。
確かめたくなったけれど、わざわざ指摘するのも野暮だろう。
夕暮れの風が吹き、僕は肩を回しながら問いかけた。
「アニは疲れてない?」
「疲れてる」
「だよね」
「......何、その返事」
「いや、平気って言われると思ってたから。ちゃんと疲れたって言うんだなぁって。その場合の返答を考えてなかった」
「人を何だと思ってるの」
「僕よりずっと我慢強い人」
アニは一瞬だけ黙り込んだ。そんなおかしなことを言ったつもりはないんだけど。
「......別に、我慢してるわけじゃない」
「そっか、なら良かった」
「ねえ、あんた」
珍しく、アニの方から口を開いた。
「ん?」
「どうして毎日ここに来るの」
「前にも聞かれた気がするね」
「答えになってなかったから」
なるほど。十分答えにはなってたと思うけど、納得いかないんだ。僕は少し考えて、空を眺めた。
「アニと話してると、気が楽だからかな」
「......私と?」
「うん。何を言っても、無理に愛想よく返してこないでしょ。だから、話してると気が楽なんだ」
「......変なの」
「よく言われる」
もちろん、それだけじゃない。
可愛いと思っているし、もっと仲良くなれたら嬉しい。だけど、今ここで全部口にしたところで、無駄に警戒されるだけだ。
「アニが迷惑なら、来る回数を減らすけど」
「......別に、そこまでは言ってない」
「そっか。じゃあ、当分は今のままで」
「勝手にすれば」
アニはそれきり、口を閉じた。
僕も無理に話を続けなかった。
原作を途中までしか追っていなかった僕でも、アニが女型の巨人だということは覚えている。ウォール・マリアの陥落に関わったことも。
多分、それも相まって僕にどう対応すればいいのか迷っているんだろう。まあ、僕は知ってたからなんとも思わないけど。
「......何」
いつの間にか、アニがこちらを見ていた。
「いや。そろそろ暗くなるなぁって」
「見れば分かる」
「それはそうだね」
立ち上がって服の土を払う。
「じゃあ、今日はこの辺で。毎日大変だけど、体調に気を付けてね」
「......あんたもね」
小さな声だった。
僕は軽く手を振り、その場を離れる。
──数日後。
昼前に降り始めた雨は、荒れ地をあっという間に泥へ変えた。靴が重くなり、クワを振るたびに湿った土が張りつく。それでも作業を休むことは許されない。
「......面倒くさい」
誰にも聞こえないように呟いて、私はまた土を掘り起こした。
もっと厳しい訓練なら、嫌というほど受けてきた。これくらいで弱音を吐くつもりはない。ただ、何のためにこんなことをしているのかと思うと、余計に疲れる。
任務を果たして、故郷に帰る。
そのために壁を壊した。その結果、こうして開拓地に送られた人間がいる。私もその中に混じって、何食わぬ顔で働いている。
少し離れた場所で、監督役の怒鳴り声がした。
「ノア!また口を動かしてるのか!」
「手だって動かしてますよ。口まで休ませたら、僕の取り柄がなくなっちゃうじゃないですか」
「取り柄は料理だろうが!」
「おっ、知ってくれてるんですね。嬉しいなぁ」
呆れた男が立ち去ると、ノアは何事もなかったようにクワを振り始めた。
......本当に、変な奴。
あいつは店を失った。住み慣れた街も、日常も。ここで働くようになったのは、私たちが壁を壊したせいだ。
こんな状況で、どうして笑っていられるんだろう。
私はノアのことを、何も知らない。
料理が得意で、口が達者で、メンタルが強い。それくらいだ。別に親しいわけじゃないのに、最近は気づくとあいつの姿を探している。
......別に、会いたいわけじゃない。あいつが監督役に怒られていないか、少し気になっただけ。
雨が止んだ頃には、空が赤く染まり始めていた。
私は人の集まる場所を避け、いつもの木陰へ向かった。ここなら静かに休める。木の根元に腰を下ろし、遠くの畑を眺める。
まだ湿った空気には土の匂いが残っている。
.....あいつは今日も来るんだろうか。
そう考えて、私は眉をひそめた。
待っているわけじゃない。ただ、毎日のように来るから、来ないと少し変な感じがするだけだ。
「お疲れ様、アニ」
噂をすれば、とはこのことだろうか。
振り返ると、ノアが片手を上げていた。髪は雨に濡れて乱れているのに、表情だけはいつも通りだった。
「......今日も来たんだ」
「うん。途中で靴を泥に持っていかれそうになったけどね」
「......泥に?」
「僕より靴のことが好きみたい。なかなか離してくれなくてさ」
くだらない。
本当に、どうしようもなくくだらない。
それでも口元が緩みそうになり、私は慌てて顔を背けた。
「......座れば」
言ってから、自分でも驚いた。
ノアは少し目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
いつものように、少し間を空けて座る。
私のそばに来たがるくせに、ノアはそれ以上近寄ろうとしない。沈黙が続いても、無理に話題を探さない。
私はその距離が、嫌ではなかった。
「今日は特に疲れたね」
「毎日同じこと言ってない?」
「毎日疲れてるからね。嘘はついてないよ」
「......文句ばっかり」
「言うだけならタダだから」
「少しは我慢したら?」
「してるよ。アニに会うまで、今日の愚痴を取っておいたんだから」
「私を何だと思ってるの」
「ありがたい話し相手」
あまりに平然と言われ、返す言葉が見つからなかった。
......調子が狂う。
他の人間なら、私の態度を見て離れていく。当然だ。そうなるようにしてきたんだから。
なのにこいつは、何度冷たくしても翌日には笑って現れる。
しばらく風の音だけが聞こえる。
「......ねえ」
気づけば、私から話しかけていた。
「ん?」
「あんた、元いた街から逃げることになって......どう思ってるの?」
聞いた途端、後悔した。
そんなこと、嫌に決まっている。壊した巨人を、私たちを恨んでいるに決まっている。わざわざ確かめなくても分かるはずなのに、どうして聞いたんだろうか。
ノアは少し考え、首を傾げた。
「どうとも思ってないかな」
「......は?」
「もちろん、巨人が来たせいで店はなくなったし、こんなところで働くのは嫌だよ。でも、店ならまた作れるしね」
「......そんな簡単に?」
「簡単じゃないかもしれないけど、僕なら出来る。それに、ここにきてからいいこともあったし」
それから、ノアは私を見て笑った。
「──ここに来たから、アニに会えた」
息が止まりそうになった。
「だからさ。悪いことばっかりじゃなかったと思うんだ」
「......馬鹿じゃないの」
やっと出てきたのは、そんな言葉だった。
「えっ、今のはけっこういいこと言ったつもりなんだけど」
「自分で言わないで」
顔を背ける。夕日のせいだろうか。頬が妙に熱い。
違う。そうじゃない。
私が気にしているのは、そんなことじゃない。
あんたは、知らないんだ。
自分の日常を奪った人間が、すぐ隣に座っていることを。
私が壁を壊した側の人間だと知ったら、同じことを言える?私と会えてよかったなんて、まだ笑える?
そんなことを聞けるはずがない。
「......アニ?怒った?」
「怒ってない」
「ならよかった」
少しも疑っていない声だった。
その無防備さが、かえって苦しい。
「僕はさ、失くしたものばっかり数えてたら、これから手に入るものまで見逃しちゃう気がするんだよね」
「......随分、前向きなんだね」
「まあ、そうでもしないとやってられないから」
ノアは肩をすくめた。
軽い言い方だったけれど、何も考えていないわけではないのだろう。笑っていられるのは、失ったことを忘れたからではなく、そこに留まりたくないからなのかもしれない。
......私とは、違う。
私は過去を振り切れない。やってきたことも、これからやることも、見なかったことにはできない。
「そうだ。アニって、甘いものは好き?」
突然話が変わった。
「......何、急に」
「いつか美味しいものを食べさせるって約束したでしょ。その参考にしようと思って」
「......そんな約束、覚えてたんだ」
「当然。僕が言ったんだから」
こっちが忘れていたと思っているのだろうか。そんなわけがない。あのときの言葉は、妙にはっきり覚えている。
「......嫌いじゃない」
「好きってことだね。んー、じゃあ、シュークリームはどう?」
「......シュークリーム?」
聞いたことのない名前だった。
ノアは待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「外側は軽くて香ばしい生地でね。中には甘いクリームがたっぷり入ってるんだ。かじると、ふわっと甘さが広がって......ああ、説明してたら僕まで食べたくなってきた」
「......中にクリーム?」
「そう。バニラの香りがする、とろっとしたやつ。甘いのが好きなら、アニもきっと気にいるよ」
目の前の景色とは、まるで似合わない話だった。
湿った土。粗末な食事。疲れきった人々。その中でノアだけが、そこにはない甘いものを本当に目の前にあるかのように語っている。
「......そんなに美味しいの?」
「もちろん。僕の得意料理の1つだよ」
「得意料理多くない?前は肉料理が得意って言ってたけど」
「腕のいい料理人だからね」
「自分で言うんだ」
「言わなきゃ伝わらないかもしれないし」
呆れたはずなのに、今度は笑いをこらえきれなかった。
「......ふっ」
「あ、笑った」
「笑ってない」
「今、絶対笑ったよね?」
「気のせい」
ノアは楽しそうに目を細めた。それ以上追及しないところが、また腹立たしい。
「ははっ、約束通りいつか作ってあげるから、楽しみにしてるといいよ」
「......いつかって、いつ?」
「ここを出て、ちゃんとした台所が使えるようになったらかな?」
「......そんな日、来るとは限らないでしょ」
「きっと来るよ」
あまりに簡単に未来の話をするから、私は何も返せなくなった。
私には帰る場所がある。果たさなければならない任務がある。いつか、ノアとも別れることになるだろう。
「......期待はしないから」
「うん。期待を超えられるように頑張るよ」
「人の話、聞いてる?」
「ちゃんと聞いてるって」
いつもの調子で笑うノアに、私は小さくため息をついた。しばらくして、空が暗くなった。
「そろそろ戻らないとね」
ノアが立ち上がる。
「今日も付き合ってくれてありがとう。また明日」
いつもなら、適当に頷いて終わる。
「......ノア」
呼び止めると、あいつはすぐに振り返った。
「どうしたの?」
「明日も......来るの?」
口にした瞬間、自分が何を聞いたのか分かってしまった。これだと私が、ノアのことを待っているみたいじゃないか。
「アニが嫌じゃなければ、来るよ」
「......別に、嫌とは言ってない」
「そっか。なら、また明日」
「......うん」
小さく答えると、ノアは手を振って歩いていった。
私はその背中が見えなくなるまで、立ち上がれなかった。
罪悪感が消えたわけじゃない。あいつが真実を知ったら、今のように話してくれる保証もない。
むしろ、私から離れるべきなのだろう。
それなのに、明日もあの声が聞けると考えると、少しだけ気持ちが軽くなる。
......ずるい。
何も知らずに笑って、私に約束まで残していく。
私は木の幹に背を預け、暮れていく空を見上げた。
シュークリーム。口の中で、知らない言葉をそっと転がす。
どんな味がするんだろう。
そんなことを考えてしまった自分に気づき、私は膝に顔を埋めた......本当に、馬鹿みたい。
明日も私がここに来るのは、静かで休みやすいから。ただ、それだけ。
そう言い聞かせても、胸の奥に生まれた小さな楽しみは、どうしても消えてくれなかった。
アニ