演出家   作:光り輝くダンディー

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第12話 続・ウォッカの悪夢

 

 

その日、ウォッカはジンからの命令で、一人で取引に向かっていた。

 

普段なら、単独での仕事など何でもない。

 

しかし、今のウォッカにとっては違った。

 

取引そのものは問題なく終わった。相手とのやり取りにも特に不審な点はなく、予定どおり仕事を済ませることができた。

 

問題は、その帰り道だった。

 

「…………」

 

ウォッカは車を走らせながら、何度も周囲を確認していた。

 

バックミラーを見る。

道路の先を見る。

もう一度、バックミラーを見る。

 

誰もいない。

 

当然だ。ここまで来る間、怪しい人影など一度も見ていない。

 

それなのに、どうしても落ち着かなかった。

 

壁。

 

そう、壁が気になるのだ。

 

前回の出来事以来、ウォッカは壁の近くを通るたびに妙な緊張を覚えるようになっていた。

 

あの女は、壁の向こうから現れた。

 

しかも、普通なら人が通れないはずの場所を、まるで何でもないことのように突破してきたのだ。

 

思い出しただけで背筋が寒くなる。

 

「……くそっ。あんなことが何度もあってたまるか」

 

ウォッカは自分に言い聞かせるように呟いた。

 

相手は人間だ。

 

幽霊でも妖怪でもない。

 

ただ、異常なほど身体能力が高く、何を考えているのか分からない女だった。

 

それだけだ。

 

「……そうだ。もう会うこともねぇだろ」

 

そう呟き、ウォッカは車を降りた。

 

車を停めた場所から少し歩けば、組織の車が待つ場所に着く。

 

大した距離ではない。

 

しかし、周囲には人影がなく、街灯もまばらだった。

 

ウォッカは自然と歩く速度を上げた。

 

そのとき。

 

「私、メリーさん。今あなたの後ろにいるの」

 

「うわああああっ!?」

 

耳元で囁かれた声に、ウォッカは飛び上がるように振り返った。

 

心臓が跳ね上がる。

 

そこにいたのは――。

 

「ふふ。こんばんは」

 

一ノ瀬美月だった。

 

「ま、またお前かぁっ!!」

 

ウォッカは思わず後ずさった。

 

前回の悪夢が一気に蘇る。

 

何度逃げても現れる女。

壁の向こうから聞こえた声。

そして、こちらの反応を楽しむような笑顔。

 

忘れたくても忘れられない。

 

「どうして……どうしてまたいやがるんだ!」

 

「どうしてでしょうね?」

 

美月は小首を傾げた。

 

いつもの柔らかな声。穏やかな表情。

 

まるで、偶然知り合いに会ったかのような態度だった。

 

「今日はメリーさんじゃありませんよ」

 

「……は?」

 

「今日は、テケテケです」

 

「テ、テケテケだと……?」

 

ウォッカは困惑した。

 

その名前には聞き覚えがある。

 

都市伝説の怪談だ。足のない女が、腕だけで地面を這って追いかけてくるという、あの話。

 

まさか。

 

「……おい、冗談だろ?」

 

美月は答えず、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。

 

そして、両手を地面につく。

 

「それでは、始めましょうか」

 

「お、おい……?」

 

次の瞬間、美月の身体が動いた。

 

下半身を地面に預けたまま、両腕の力だけで身体を前へと押し出す。

 

テケ……テケ……。

 

その動きは、まさに都市伝説のテケテケそのものだった。

 

腕だけで身体を支え、信じられないほど滑らかに前進する。

 

テケ……テケ……。

 

床を叩くような音が、静かな通路に響いた。

 

「ひっ……!」

 

ウォッカは反射的に後ずさった。

 

美月は下半身も普通にある。だが、今はそれを使わず、両腕だけで身体を進めている。

 

しかも、その速度は尋常ではなかった。

 

「う、うわあああっ!!」

 

ウォッカは踵を返し、走り出した。

 

背後から聞こえる音。

 

テケ……テケ……。

 

その音は、徐々に大きくなっていく。

 

「な、何なんだよ、あいつは!!」

 

振り返る余裕などない。

 

前回のように、いつの間にか目の前に現れるかもしれない。

 

そんな考えが頭をよぎり、ウォッカは必死に逃げた。

 

やがて、音が聞こえなくなった。

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

ウォッカは足を止め、周囲を見回した。

 

誰もいない。

 

後ろにも、左右にも、美月の姿はなかった。

 

「……逃げ切った、のか?」

 

しばらく待ってみても、何も起こらない。

 

ウォッカはようやく息を整えた。

 

「くそっ……。今度こそ、撒いたぜ……」

 

その瞬間。

 

「お疲れさまです」

 

「うわあああっ!!」

 

すぐ横から声がした。

 

壁際に、美月が立っていた。

 

「な、何でだぁっ!?」

 

「追いつきました」

 

「見りゃ分かるわぁっ!!」

 

美月はにこりと笑う。

 

「思ったより速く走るんですね」

 

「誰のせいだと思ってやがる!!」

 

「ふふ。元気ですね」

 

まるで褒めているかのような口調だった。

 

ウォッカは震える手で、懐に手を伸ばす。

 

しかし、美月はその動きを見て、少しだけ首を傾げた。

 

「また、前回と同じことをするんですか?」

 

「……っ!」

 

美月は、すぐ近くに置かれていた鉄パイプを手に取った。

 

「ふふ。今回は、どんな反応を見せてくれるのでしょうね」

 

ウォッカの顔色が変わる。

 

「お、おい……それは何だ」

 

「鉄パイプです」

 

「見りゃ分かるわ!!」

 

「そうですか」

 

美月は鉄パイプを軽く持ち上げた。

 

その仕草は何気ないものだったが、ウォッカには嫌な予感しかしなかった。

 

「ま、待て! 話し合おうじゃねぇか!」

 

「お話ですか?」

 

「そうだ! 俺は今、仕事帰りでな! 急いでるんだ!」

 

「私も、あなたの様子を見に来ただけですから」

 

「だったらもう十分だろうが!!」

 

「そうですね。ですが、もう少し観察したいんです」

 

美月は穏やかに答えた。

 

「それでは、始めましょうか」

 

「お、おい……?」

 

次の瞬間、美月の身体が不自然に折れ曲がった。

下半身を残したまま、信じられない速度で両手をアスファルトに叩きつける。

 

──シャカシャカシャカシャカッ!!!

 

衣服が地面に擦れる不快な音と、手のひらが肉厚な音を立てて爆走する。

 

四足歩行というより、本当に下半身を引きずって腕の力だけで跳躍しているような、人間の限界を超えた機動力。

 

「ひっ、うわああああああああっ!!!」

 

ウォッカは脱兎のごとく走り出した。

 

振り返る余裕などない。背後から迫る音は、人間の足音とは明らかに違う。

 

ザザザッ、シャカシャカシャカッ!

 

そして──キィィィィィィンッ!

 

金属がアスファルトを削る、耳をつんざくような音が夜の路地に響き渡った。美月がどこからか拾い上げた鉄パイプを引きずっているのだ。

 

「な、何なんだよあいつはぁぁぁっ!!」

 

必死に角を曲がる。だが、背後の金属音は遠ざかるどころか、鼓膜を突き刺すほどに近づいてくる。

不意に、音が消えた。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

ウォッカは壁に背を預け、必死に呼吸を整える。撒いたか。そう思った瞬間。

 

頭上から、かすかな物音がした。

 

「見ぃつけた」

 

ウォッカが顔を上げる。

 

そこには、美月が壁に張りついていた。

 

両手両足を使い、まるで重力など気にしていないかのように、壁を這い下りてくる。

 

驚愕で硬直するウォッカの視界で、美月の細い腕が、凶悪な鉄パイプを大きく振り抜く。

 

ガキィィィィンッ!!!

 

「がはぁっっ!?」

 

容赦のない一撃が、ウォッカの太ももを直撃した。

 

骨が軋む嫌な音。巨体が真横に吹き飛び、地面を転がる。あまりの激痛に視界がチカチカと明滅した。

 

本気でへし折りにきている。

 

「おや、プロの割には隙だらけですね」

 

美月は鉄パイプを肩にトントンと打ち付けながら、にこりと笑う。その瞳には一切の慈悲もなく、純粋な「実験動物を見る目」だけがあった。

 

「あ、足が……クソ、動け……っ!」

 

「次は頭を狙います。避けてくださいね?」

 

美月が再び鉄パイプを振り上げる。ウォッカは死に物狂いで地面を這い、ガムシャラに足を動かして再び走り出した。背後から、またあの「シャカシャカ」という異様な這走音と、鉄パイプが火花を散らす音が追いかけてくる──。

 

もう何が何だか分からない。

 

人間なのか。

怪物なのか。

それとも、本当に都市伝説の何かなのか。

 

考えるだけ無駄だった。

 

とにかく、あの女から離れなければならない。

 

何度か角を曲がり、ようやく人気のある道路に出た。

 

ウォッカはそこで立ち止まり、後ろを確認する。

 

美月はいない。

 

鉄パイプの音もしない。

 

「……はぁ、はぁ……。今度こそ……」

 

安堵しかけた、そのとき。

 

「こんばんは」

 

「ぎゃああああっ!!」

 

目の前に、美月が立っていた。

 

「……どうして、そこにいやがるんだ」

 

「こちらの方が近かったので」

 

「意味が分からねぇよ!!」

 

美月は少しだけ笑った。

 

「今日は、前回よりもたくさん反応を見せてくれましたね」

 

「もうやめてくれぇっ!!」

 

「そうですか?」

 

「そうだ!!」

 

「残念です」

 

美月は、まるで本当に残念そうに呟いた。

 

そして、鉄パイプを肩に担ぐように持ち直す。

 

ウォッカは、その動きを見ただけで再び後ずさった。

 

「……もう勘弁してくれ」

 

「では、今日はこの辺にしておきましょうか」

 

「ほ、本当か!?」

 

「ええ。十分に観察できましたから」

 

美月は鉄パイプを下ろし、にこやかに微笑んだ。

 

「それでは、また」

 

「またって何だよぉっ!!」

 

ウォッカが叫んだときには、すでに美月の姿はなかった。

 

残されたウォッカは、しばらくその場から動けなかった。

 

やがて、周囲を何度も確認しながら、ようやく組織の車へと戻っていった。

 

その後、ウォッカは帰還するまで一度も壁に背を向けなかったという。

 

───

 

組織のアジト。

 

ジンは戻ってきたウォッカを見て、眉をひそめた。

 

「遅かったな」

 

「な、何ですか、兄貴」

 

「何かあったのか」

 

「べ、別に何でもありません!」

 

ウォッカは慌てて答えた。

 

ジンはその様子をしばらく見ていたが、それ以上追及することはなかった。

 

「……そうか。ならいい」

 

「は、はい」

 

ウォッカはほっと息をついた。

 

だが、ジンが視線を外した直後、壁の方から小さな物音がした。

 

コツ。

 

「ひっ!」

 

ウォッカの肩が跳ねる。

 

ジンが再び振り返った。

 

「……どうした」

 

「な、何でもありません!」

 

ウォッカは壁から距離を取った。

 

ジンは不審そうに目を細めたが、結局何も言わなかった。

 

───

 

その頃、美月は自宅にいた。

 

テーブルの上には、今日の出来事を記録したメモが置かれている。

 

前回と今回のウォッカの反応。

 

恐怖を感じる場面。

逃げるときの様子。

こちらの姿を確認した際の表情。

 

美月はそれらを思い返し、静かに目を細めた。

 

「前回よりも、ずっと警戒心が強くなっていましたね」

 

壁際を避けるようになったこと。

背後を頻繁に確認するようになったこと。

そして、あの音を聞いただけで逃げ出したこと。

 

どれも興味深い変化だった。

 

現在、美月が特に興味を持っている観察対象は二人いる。

 

一人目は、江戸川コナン。

 

彼の推理力や判断力、そして時折見せる子供らしくない言動。観察すればするほど、知りたいことが増えていく。

 

二人目は、ウォッカ。

 

こちらはまったく別の意味で興味深い。

 

前回の出来事が、彼の日常にどのような影響を与えたのか。

 

そして、再び同じような恐怖を与えたとき、どんな反応を見せるのか。

 

実際、今回の彼は前回よりも分かりやすかった。

 

「ふふ……」

 

美月は小さく笑った。

 

人間は、一度経験した恐怖を簡単には忘れない。

 

それがどれほど些細な出来事だったとしても、本人にとって強烈な印象を残せば、その後の行動に影響を与える。

 

ウォッカは、これからも壁を気にするだろう。

 

そして、あの音を思い出すたびに、今日のことを思い出すかもしれない。

 

「次は、どんな反応を見せてくれるのでしょうね」

 

美月はメモを閉じた。

 

彼女の中では、もう次の観察への興味が芽生え始めていた。

 

 





見切り発車気味だったからか、そろそろネタが...

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