その日の夜
一ノ瀬美月は、自宅の防音配信部屋で静かにゲームの起動を待っていた。
モニターの淡い光が、彼女の端整な横顔を白く照らし出す。その瞳の奥にあるのは、娯楽を楽しむ無邪気さではない。標的をじっと見定めるような、冷徹で底知れない光だ。
今日の配信内容は、世界中のゲーマーを絶望の底に突き落としてきた超高難易度アクションゲーム。
一歩足を踏み外せば即死。敵の配置は悪意に満ち、わずか1フレームの操作ミスが文字通りの「死」へと直結する、プレイヤーの間で「究極の死にゲー」と恐れられる狂気の作品だった。
何百回、何千回と泥をすすり、仕様を身体に叩き込んでようやくスタートラインに立てる修羅の国。そこに、美月は完全な「初見」で、一切の予備知識なしに挑もうとしていた。
「さて、準備はできましたね」
マイクの音量を絞り、配信開始のボタンを滑らかに押し込む。
「こんばんは。今日は少し、歯応えのあるゲームに挑戦してみようと思います」
『こんばんはー!』
『うおおおゲーム配信助かる!』
『何のタイトルだ?』
『待って、画面に映ってるの、あの狂った死にゲーじゃねえか!?』
『初見!? 嘘だろ、心が壊れるぞ!!』
「ええ。初めてプレイする作品です。かなり理不尽だと伺っているので、とても楽しみですね」
美月はふわりと、慈愛すら感じさせる微笑みを浮かべた。
だが、その視線はすでに、ゲーム画面の隅々に配置された「罠」の可能性を冷酷にスキャンしている。
暗転が明け、画面に映し出されたのは血と錆に塗れた監獄のような城。
美月の操作するキャラクターが、無駄のない足取りで動き始める。
最初のエリア。物陰から不意に躍り出た、最初のゾンビ兵。
普通なら初見の突進に驚き、なす術なく切り刻まれる場面。しかし、美月の瞳は敵の肩の微小な跳ね上がり、足元の下がり方を完全に捉えていた。
(――骨格の連動、重心の移動。一撃の後に生じる、約0.8秒の硬直)
美月の脳内で、敵のモーションがミリ秒単位で分解されていく。それはゲームの攻略というより、現実の「獲物」を解体する暗殺者の思考に酷似していた。
ゾンビ兵が錆びた剣を振り下ろす。
美月はその刃が肌をかすめる極限のタイミングで、すっと最小限のステップを踏んだ。
完璧な、フレーム単位の回避。
直後、美月の放ったカウンターが正確に敵の急所を穿つ。数発の刺突。それだけで敵の体力は消し飛んだ。
「倒せましたね」
『は?』
『今、初見のディレイ攻撃をジャスト回避したか……?』
『動きを完全に読んでただろ』
『いや、まだ序盤だからな! この先はマジで地獄だから!』
リスナーの動揺をBGMに、美月はさらに奥へと進む。
ここからが、このゲームの本番――開発者の悪意が牙を剥く。
崩落する足場。死角から音もなく放たれる毒矢。狂気的な連撃を繰り出す複頭の獣。
普通の人間なら何度も肉片にされて覚える「死の初見殺し」を、美月はまるで最初からそこに罠があると知っていたかのように、流れるような身のこなしでパスしていく。
「ここは……少し、待った方がよさそうですね」
天井の不自然な影を察知し、美月はキャラクターを急停止させる。
直後、巨大な鉄球が目の前を爆音と共に通り過ぎた。風圧で髪が揺れる演出の中、美月は冷徹にその隙を突く。
「今ですね」
最短の軌道、最速のフレームで、美月は敵の群れの中心へ躍り出た。
踊るようなステップで刃を振るうたび、敵の血飛沫が画面を染める。一太刀たりとも無駄がない。
『おいおいおいノーダメージなんだが!?』
『これ初見で突破するの人間じゃないって!』
『反応速度と判断力どうなってんだよ』
『動きが完全にプロの暗殺者なんよ……』
『事前に攻略動画を1万回観たな?』
美月はチャット欄を視線だけで追い、くすりと小さく笑った。
「予習などしていませんよ。人間の動かし方……いえ、キャラクターの動かし方なんて、どれも根本は同じですから」
『今の言い方、なんかゾッとした……』
『ゲームの才能ってレベルじゃねえ』
『死にゲー(死ぬのは敵)』
美月の進撃は止まらない。
複数の敵に完全に囲まれた絶望的なシチュエーションでも、彼女の心拍数は1つも上がらなかった。
敵の攻撃の重なり、そのわずかな「隙間のミリ秒」を見切り、信じられない精密さでキャラを滑り込ませる。
一度も、ゲームオーバーの赤い文字は浮かばない。
リスナーたちのコメントは、驚きから徐々に、正体不明の化け物を目撃しているかのような畏怖へと変わっていく。
そして、最深部の重厚な鉄扉が開いた。
現れたのは、画面を埋め尽くすほどの巨躯を持つ、このエリアの主――異形の処刑人。
圧倒的な威圧感と、逃げ場のない広範囲攻撃で数多のプレイヤーを絶望させてきた、真の「初見殺し」のボス。
「わあ……大きいですね」
美月は感心したように声を上げたが、その瞳は酷く冷ややかに、ボスの骨格と攻撃範囲のデータを弾き出していた。
『本ボス来たあああ!』
『さすがにこれは無理! 確定で1回は死ぬ!』
『動きのパターンが多すぎて初見じゃ絶対見切れない!』
『美月さん、逃げて――!』
戦闘開始の咆哮が響く。
ボスが巨大な斧を大上段から振り下ろす。爆風を伴う、超高速の一撃。
美月はその刃がキャラクターの額に触れるかという極限で、わずかに横へ身を翻した。
一度、二度、三度。
狂気的な連続叩きつけを、美月はすべて紙一重の最小限の動作でかわし切る。ボスの武器が地面に深く突き刺さり、最大の硬直が生まれた。
美月の指先が、流れるようなコマンドを入力する。
「私、メリーさん。今あなたのうしろにいるの」
鈴の鳴るような、ひどく穏やかで、それでいて心臓を冷たく掴むような声。
その言葉と完全にシンクロして、キャラクターはボスの死角――背後へと、音もなく滑り込んでいた。
直後、美月の放った致命の一撃が、ボスの背肉を深く切り裂く。
ゴリッと、ボスの体力ゲージが信じられない勢いで消し飛んだ。
『!?』
『メリーさん出たwww』
『声は可愛いのにやってることがエグい!!』
『台詞と裏回りのタイミングが完璧すぎて鳥肌立った』
『ボス、後ろ後ろー!!』
美月は画面の凄惨なエフェクトを見つめたまま、一瞬の油断も捨てていない。
ボスが狂乱し、先ほどを遥かに凌駕する速度と変則的なタイミングで、周囲を薙ぎ払う暴風のような連撃を放ち始める。
「おや」
美月の唇が楽しげに弧を描いた。
ここからが彼女の本領。現実の修羅場で培われた、肉体の限界を超える反応速度。
「テケテケ、テケテケ……」
美月は楽しそうに、リズミカルにその言葉を口ずさむ。
それと同時に、美月の指先は超高速の入力を完璧に刻んでいた。
キャラクターは地面を獰猛に転がり、ボスの斧の判定を完全に「無敵フレーム」ですり抜けていく。右へ、左へ、懐へ。その軌道は、まさに地を這う怪異そのもの。
「テケテケ……」
もう一度、あり得ない角度からの神速の回避。
ボスが最大の攻撃を空振りしたその刹那、美月は敵の懐へと完全に潜り込んでいた。
暗殺のコンビネーションが炸裂する。
無慈悲なまでの手数の乱舞。ボスの巨躯が、美月の精密な暴力の前に激しく揺らぐ。
『テケテケの口ずさみ怖すぎwww』
『回避の精密さどうなってんだよ! 完全にフレームを見切ってる!』
『動きがマジで怪異のそれ』
『ボスが完全に翻弄されてて可哀想になってきた』
『初見プレイの動きじゃない、これ、暗殺者の間合いだ……』
美月の表情は、微笑みを崩さない。
ボスが最後の足掻きとして、周囲を巻き込む自爆特攻を仕掛けようと輝きを放つ。
だが、その光が弾けるよりも早く、美月の指先が最後の一撃を叩き込んだ。
鈍い音と共に、巨大なボスが膝から崩れ落ち、地響きを立てて絶命する。
画面中央に大きく表示される、【VICTORY】の文字。
「……あら。倒せましたね」
美月は少しだけ小首を傾げ、さも意外そうに呟いた。
『うおおおおおおお!!!』
『初見撃破きたああああ!!!』
『ノーデスクリアだと……!?』
『このゲームで1回も死なずにクリアした奴、人類史上初だろw』
『今日の配信、完全に伝説、いや都市伝説だわ』
『美月さん、あなた一体何者なんだ……』
「ふふ。皆さん、とても驚いていらっしゃいますね」
荒れ狂うコメント欄を愛おしげに眺めながら、美月は穏やかに微笑んだ。
「でも、とても合理的なゲームでした。相手の殺意(うごき)を観察して、どうすればそれを無力化できるか考えるのは、とても有意義で……楽しかったです」
『殺意って言ったか今!?』
『楽しめたなら何よりだけど、こっちの心臓が持たないw』
『次はもっとヤバいゲーム持ってこないと美月さんを満足させられないな』
「ええ。また機会があれば、是非」
そう言って、美月は配信終了のボタンを押した。
画面がブツリと暗転する。
その瞬間、先ほどまでの柔らかな「一ノ瀬美月」の笑顔は完全に消え失せた。
静寂が支配する部屋。
美月は椅子の背もたれに深く身体を預け、冷徹な瞳で暗いモニターに映る自分の顔を見つめる。
初めて見る、敵の殺意のパターン。
隠された悪意の数々。
難しいとされる場所を突破したときの、視聴者たちの反応。
彼らは驚き、困惑し、最後には大いに盛り上がっていた。
「……ふふ」
美月の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
同じ出来事でも、人によって反応は違う。
そして、その反応を眺めるのは、いつだって興味深い。
今日の配信も、なかなか面白い観察になった。
美月はそう考えながら、静かにパソコンの画面を閉じた。
欲しいから その見切り発車 ちょっと待て
結果、ネタが...