山梨方面のスキー場へ向かうバス。
車内には、阿笠博士と少年探偵団の姿があった。
コナン、灰原、歩美、元太、光彦。
それぞれが思い思いに過ごしている中、灰原哀だけは、尋常ではない様子でシートに身を沈めていた。
(……この、背筋が凍るような感覚)
灰原は、じっとりと額に冷や汗をにじませ、震える手で自身の腕を抱きしめた。
間違いない。組織の気配だ。
しかし、どこから感じるのか、誰がその気配を放っているのかまでは分からない。
ただ、この閉ざされた空間のどこかに、組織の人間がいる。
それだけは確かだった。
「江戸川君……」
灰原は隣に座るコナンへ、今にも消え入りそうな、しかし切迫した声で話しかけた。
「ん? どうした?」
「席、代わってくれない……? お願いだから……っ」
「え?」
「いいから早くっ!」
灰原は悲鳴を噛み殺すように言い、フードを深くかぶって身を縮めた。
コナンは一瞬だけ彼女の顔を見つめる。その青ざめた表情と、ガタガタと震える肩から、ただ事ではない恐怖を感じ取っているのだと察した。
「……分かったよ」
席を代わると、灰原は膝の間に顔をうずめ、一切の気配を消そうと必死に息を潜めた。
その少し離れた席に、一人の女性が座っていた。
一ノ瀬美月。
彼女は窓の外を眺めながら、静かにバスの揺れに身を任せていた。
今日の彼女は、ただの乗客としてこのバスに乗っている。
特別な目的があるわけではない。
少し遠出をしてみようと思っただけだった。
だが、車内をそれとなく見回した時、美月は興味深い顔ぶれに気づき、口元をわずかに綻ばせた。
(……あら)
黒いニット帽をかぶり、鋭い眼光を隠すようにマスクをした男。赤井秀一。
そして、帝丹高校の英語教師として潜入しているFBI捜査官、ジョディ・サンテミリオン。
さらに、新出智明の皮をかぶり、完全に周囲に溶け込んでいる組織の幹部、ベルモット。
美月はその場にいる全員の「本当の正体」を正確に把握していた。
(FBIに、組織の魔女。ふふ、面白いこと)
偶然にしては、あまりにも贅沢なキャスティングだった。
美月は表情一つ変えず、再び窓の外へ視線を戻す。
しかしその瞬間、車内の空気が一変した。
美月がほんの少しだけ、自身の内にある「本質」を意識したせいだろうか。
灰原は、先ほどまでの組織の気配とは明らかに異なる、致命的な異変を察知して息を呑んだ。
(……え!? な、何……これ……っ!?)
先ほどの組織のプレッシャーが「冷たい刃物」だとするなら、今度は「底の知れない底なし沼」に引きずり込まれるような感覚。
もっと異質で、生物としての本能が「全力で逃げろ」と脳内で警鐘を鳴らし続ける、説明のつかない何か。
ドクン、と心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が収縮する。
肌を刺すような悪寒に、灰原は呼吸の仕方を忘れるほど硬直した。
(組織の気配だけでも息が詰まりそうなのに……この、もう一つのおぞましいものは何なの!?)
誰なのか分からない。
どこから見られているのかも分からない。
ただ、この狭い車内に「怪物」が潜んでいる。
それだけで、精神が崩壊しそうなほどの狂気が車内を支配していた。
灰原は涙目を浮かべながら、フードをさらに深くかぶって頭を抱え込んだ。
「灰原……!? おい、本当にどうしちまったんだよ」
コナンの声も、今の灰原の耳には遠く 濁って聞こえる。
「……なんでも、ないわ……っ」
「本当に、体調が悪いんじゃ……」
「大丈夫だから話しかけないで……っ!!」
血の気の引いた唇を噛み締め、灰原はただ嵐が過ぎ去るのを待つように身を丸めた。
コナンは彼女の異常極まる怯え方にただならぬ危機感を覚え、メガネのスイッチに手をかけながらギロリと車内を鋭く見回す。
だが、怪しい動きをしている乗客は見当たらない。
一ノ瀬美月もまた、退屈そうに外を眺めているだけの、無害な一般客にしか見えなかった。
(……あの子)
美月の視線が、限界を迎えている灰原に向く。
フードを深くかぶり、小さな体をこれ以上ないほど縮こまらせて震えている女の子。
(私の『影』に気づいているのでしょうか。だとしたら、驚異的な感性ですね)
美月はわずかに目を細める。
隣にいる江戸川コナンも、先ほどから凄まじい集中力で車内を警戒している。
(本当に、飽きさせない子供たちです)
その頃、車内の後方にいた赤井秀一もまた、言葉にできない極限の違和感に襲われていた。
(……何だ、この圧迫感は……)
ニット帽の奥で、赤井の額からタラリと一筋の冷や汗が流れ落ちる。
明確な敵意や殺気ではない。
だが、まるで巨大な捕食者の胃袋の中に閉じ込められたかのような、圧倒的な支配感。
長年、修羅場を潜り抜けてきた赤井の直感が、これまでにない最大級の警戒信号を発していた。
赤井はポーカーフェイスを維持しながらも、ポケットの中の手を銃のグリップへと伸ばし、いつでも引き金を引けるよう全身の筋肉を緊張させた。
ジョディも同じだった。
眼鏡の奥の瞳が、恐怖と緊張でわずかに見開かれる。
(何、これ……心臓が、痛い……っ。このバスに、一体誰が乗っているの……!?)
鳥肌が止まらない。
普段なら見逃さないような小さな変化にまで神経が過敏になり、呼吸が浅くなる。
ただ立っているだけでも、膝がガクガクと震えそうになるのを、彼女はプロのプライドで必死に抑え込んでいた。
そして、新出に化けているベルモットもまた、内心でかつてないほどの戦慄を覚えていた。
(……妙ね。この寒気は……まさか、ジン? いいえ、違うわ。あいつらとは明らかに毛色が違う。もっと、得体の知れない『何か』が……)
完璧な変装の下で、ベルモットは密かに奥歯を噛み締めていた。自分がここにいることを知っている何者かの罠か、それとも。
いずれにせよ、普段の妖艶な余裕は完全に吹き飛び、彼女はいつでもこの場から離脱できるよう、極限の警戒態勢に入っていた。
三人の実力者が、表面上は平静を装いながらも、内側では冷や汗を流して爆発寸前の緊迫感を漂わせている。
その異様な空気に気づいていないのは、この後、間抜けなバスジャックを企てている男たちだけだった。
やがて、予定通りに車内で騒ぎが起こる。
スキーウェア姿の男たちが銃を突きつけ、乗客を脅してバスを占拠した。
男たちは携帯電話を没収し、宝石強盗団のリーダー・矢島邦男の釈放を要求する。
車内に悲鳴と緊張が走る。
歩美は怯え、元太と光彦も顔をこわばらせて博士にしがみついた。
しかし、灰原にとって目の前の銃口など、もはや些末な問題でしかなかった。
(こんな、ヘタな悪党どもの陰に……あの化け物が潜んでる……っ)
目の前の男たちも危険だが、彼女の神経をズタズタに引き裂いているのは、未だに消えない「もう一つの気配」だった。
どこにいるのか。
誰なのか。
それすら掴めない恐怖が、彼女を絶望の淵に追い込んでいた。
一方、美月は銃を突きつけられても、塵一つ動じない様子でその騒動を淡々と眺めていた。
(バスジャックですか。)
彼女はこの事件に手を貸すつもりも、止めるつもりもなかった。
ただ、極限状態に置かれた人間たちの反応を観察する。それだけが目的だった。
もっとも、今日の観察対象としては、バスジャック犯など前座に過ぎない。
(ジョディさんは銃を前にしても、意識の半分を『別の何か』に向けている。赤井さんも、ベルモットも……)
それぞれが何事もないように振る舞っている。
だが、彼らの衣服の隙間から滲む冷や汗や、微かに強張った指先を、美月は見逃さなかった。
彼らは、同じ車内に潜んでいる「演出家」の存在を感じ取り、必死にその姿を探しているのだ。
(何がいるのか分からないまま、見えない恐怖に怯え、警戒し続ける……。素晴らしい表情です。これだから人間を見るのはやめられない)
やがて、コナンとジョディが息の合った連携を見せ、バスがトンネルに入った瞬間を狙って事態を動かした。
二人の鮮やかな行動によって、バスジャック犯たちは一瞬で制圧される。
しかし、車内には爆弾という最悪の装置が残されていた。
制御を失ったバスから、乗客たちはパニックになりながらも次々と脱出していく。
コナンは危機を前にしても冷静さを失わず、最後の瞬間まで全員を避難させるべく動いていた。
無事にバスから離れ、冷たい雪の上に避難した灰原は、激しく上下する呼吸を整えながら、煙を上げるバスを振り返った。
(……まだ、いる。あのバスが爆発しても、あの人は死なない。そんな確信がある……)
あのおぞましい気配の残滓が、胸の奥にこびりついて離れなかった。
事件が完全に解決し、警察による車内の現場検証が進められる中、それは発見された。
「……ん? 何だ、これ。乗客の落とし物か?」
捜査員が、大破を免れた座席の隙間から、一枚の美しいカードを拾い上げた。
そこにあったのは、精巧に描かれた「一本の操り糸と、歪んだ笑みを浮かべる仮面」の印。
それを遠目から目撃した瞬間、ジョディの顔から完全に血の気が引いた。
(っ……あ、ああ……!!)
恐怖が表情に出てしまい、思わず身体が強張る。
FBI捜査官としての冷静さを保とうとするけれど、完全には隠せない。
(嘘……でしょ……? なんで……なんでここに……っ!?)
赤井秀一もまた、表情は大きく崩れないものの、目を見開き、冷や汗が流れる。警戒態勢が一段階どころか最大まで引き上げられる。
(……ッ!! 『演出家』……!!)
赤井の背中に、滝のような冷や汗が流れた。
あの国際的な大物犯罪者であり、数々の国家を裏から翻弄してきた正体不明のあの怪物が、自分たちと同じ空間に、同じバスに乗っていたのだ。
自分たちが感じていた、あの世界の終わりを予感させるような異様なプレッシャー。
あれは組織の仕掛けた罠などではなく、「演出家」その人が放つ異質な気配だったのだ。
そして、新出の姿のままその光景を見ていたベルモットも、普段の余裕ある微笑みが消える。
変装した顔にまで緊張が表れるほどの衝撃を受ける。
(嘘よ……あいつが、日本に……!? このバスに、私の一挙手一投足を、あの化け物が見ていたっていうの……!?)
ベルモットの指先が、恐怖で細かく震える。
組織のボスやジンですら、あいつの動向には細心の注意を払っていたはずだ。
その怪物が、なぜ今、ここにいる。
三人だけが知る、絶望の象徴たる印。
彼らは互いに顔を見合わせることさえできず、ただその場に縫い付けられたように、冷や汗を流しながら驚愕に打ち震えていた。
灰原はそのカードの意味こそ知らなかったが、赤井やジョディ、そして新出(ベルモット)の、ただ事ではない、まるで死神を目の前にしたかのような恐慌ぶりに気づき、息を呑んだ。
(あのカードを見た途端、みんなの空気が変わった……。あの恐ろしい気配の正体は、やっぱり……)
灰原はコナンの服の裾を強く握り締め、ガタガタと震え続けた。
その、誰も彼もが恐怖に支配された喧騒の中。
少し離れた雪道の上を、一ノ瀬美月は何事もなかったかのように歩いていた。
(ふふ……本当に、今日は最高の舞台でした)
FBIの優秀な捜査官が、誇り高き組織の魔女が、そして知恵の回る少年探偵が。
そして、今日初めて見つけた、新しい観察対象。
灰原哀。
(あの子は、本当に良い反応をしてくれました。また近いうちに、客席から彼女を眺めに行くとしましょう)
美月の口元に、妖しくも美しい笑みが浮かぶ。
足跡すら残さないかのように、彼女は静かに、しかし確実にその場から姿を消した。
冷や汗を流し、血眼になって周囲を警戒する彼らの誰も、去りゆく演出家の背中を追うことなど、決してできなかった。
ただ一枚のカードだけが、世界の均衡を揺るがす怪物がそこにいた証として、冷たく輝いていた。
※ジョディ、赤井、ベルモットの3人は、これまでに得られた情報から、演出家が常識外れの身体能力と知性を持つ、極めて危険な人物であることを知っています。