演出家   作:光り輝くダンディー

14 / 14
第14話 バスの中の異変

 

 

山梨方面のスキー場へ向かうバス。

 

車内には、阿笠博士と少年探偵団の姿があった。

 

コナン、灰原、歩美、元太、光彦。

 

それぞれが思い思いに過ごしている中、灰原哀だけは、尋常ではない様子でシートに身を沈めていた。

 

(……この、背筋が凍るような感覚)

 

灰原は、じっとりと額に冷や汗をにじませ、震える手で自身の腕を抱きしめた。

 

間違いない。組織の気配だ。

 

しかし、どこから感じるのか、誰がその気配を放っているのかまでは分からない。

 

ただ、この閉ざされた空間のどこかに、組織の人間がいる。

 

それだけは確かだった。

 

「江戸川君……」

 

灰原は隣に座るコナンへ、今にも消え入りそうな、しかし切迫した声で話しかけた。

 

「ん? どうした?」

 

「席、代わってくれない……? お願いだから……っ」

 

「え?」

 

「いいから早くっ!」

 

灰原は悲鳴を噛み殺すように言い、フードを深くかぶって身を縮めた。

 

コナンは一瞬だけ彼女の顔を見つめる。その青ざめた表情と、ガタガタと震える肩から、ただ事ではない恐怖を感じ取っているのだと察した。

 

「……分かったよ」

 

席を代わると、灰原は膝の間に顔をうずめ、一切の気配を消そうと必死に息を潜めた。

 

その少し離れた席に、一人の女性が座っていた。

 

一ノ瀬美月。

 

彼女は窓の外を眺めながら、静かにバスの揺れに身を任せていた。

 

今日の彼女は、ただの乗客としてこのバスに乗っている。

 

特別な目的があるわけではない。

 

少し遠出をしてみようと思っただけだった。

 

だが、車内をそれとなく見回した時、美月は興味深い顔ぶれに気づき、口元をわずかに綻ばせた。

 

(……あら)

 

黒いニット帽をかぶり、鋭い眼光を隠すようにマスクをした男。赤井秀一。

 

そして、帝丹高校の英語教師として潜入しているFBI捜査官、ジョディ・サンテミリオン。

 

さらに、新出智明の皮をかぶり、完全に周囲に溶け込んでいる組織の幹部、ベルモット。

 

美月はその場にいる全員の「本当の正体」を正確に把握していた。

 

(FBIに、組織の魔女。ふふ、面白いこと)

 

偶然にしては、あまりにも贅沢なキャスティングだった。

 

美月は表情一つ変えず、再び窓の外へ視線を戻す。

 

しかしその瞬間、車内の空気が一変した。

 

美月がほんの少しだけ、自身の内にある「本質」を意識したせいだろうか。

 

灰原は、先ほどまでの組織の気配とは明らかに異なる、致命的な異変を察知して息を呑んだ。

 

(……え!? な、何……これ……っ!?)

 

先ほどの組織のプレッシャーが「冷たい刃物」だとするなら、今度は「底の知れない底なし沼」に引きずり込まれるような感覚。

 

もっと異質で、生物としての本能が「全力で逃げろ」と脳内で警鐘を鳴らし続ける、説明のつかない何か。

 

ドクン、と心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が収縮する。

 

肌を刺すような悪寒に、灰原は呼吸の仕方を忘れるほど硬直した。

 

(組織の気配だけでも息が詰まりそうなのに……この、もう一つのおぞましいものは何なの!?)

 

誰なのか分からない。

 

どこから見られているのかも分からない。

 

ただ、この狭い車内に「怪物」が潜んでいる。

 

それだけで、精神が崩壊しそうなほどの狂気が車内を支配していた。

 

灰原は涙目を浮かべながら、フードをさらに深くかぶって頭を抱え込んだ。

 

「灰原……!? おい、本当にどうしちまったんだよ」

 

コナンの声も、今の灰原の耳には遠く 濁って聞こえる。

 

「……なんでも、ないわ……っ」

 

「本当に、体調が悪いんじゃ……」

 

「大丈夫だから話しかけないで……っ!!」

 

血の気の引いた唇を噛み締め、灰原はただ嵐が過ぎ去るのを待つように身を丸めた。

 

コナンは彼女の異常極まる怯え方にただならぬ危機感を覚え、メガネのスイッチに手をかけながらギロリと車内を鋭く見回す。

 

だが、怪しい動きをしている乗客は見当たらない。

 

一ノ瀬美月もまた、退屈そうに外を眺めているだけの、無害な一般客にしか見えなかった。

 

(……あの子)

 

美月の視線が、限界を迎えている灰原に向く。

 

フードを深くかぶり、小さな体をこれ以上ないほど縮こまらせて震えている女の子。

 

(私の『影』に気づいているのでしょうか。だとしたら、驚異的な感性ですね)

 

美月はわずかに目を細める。

 

隣にいる江戸川コナンも、先ほどから凄まじい集中力で車内を警戒している。

 

(本当に、飽きさせない子供たちです)

 

その頃、車内の後方にいた赤井秀一もまた、言葉にできない極限の違和感に襲われていた。

 

(……何だ、この圧迫感は……)

 

ニット帽の奥で、赤井の額からタラリと一筋の冷や汗が流れ落ちる。

 

明確な敵意や殺気ではない。

 

だが、まるで巨大な捕食者の胃袋の中に閉じ込められたかのような、圧倒的な支配感。

 

長年、修羅場を潜り抜けてきた赤井の直感が、これまでにない最大級の警戒信号を発していた。

 

赤井はポーカーフェイスを維持しながらも、ポケットの中の手を銃のグリップへと伸ばし、いつでも引き金を引けるよう全身の筋肉を緊張させた。

 

ジョディも同じだった。

 

眼鏡の奥の瞳が、恐怖と緊張でわずかに見開かれる。

 

(何、これ……心臓が、痛い……っ。このバスに、一体誰が乗っているの……!?)

 

鳥肌が止まらない。

 

普段なら見逃さないような小さな変化にまで神経が過敏になり、呼吸が浅くなる。

 

ただ立っているだけでも、膝がガクガクと震えそうになるのを、彼女はプロのプライドで必死に抑え込んでいた。

 

そして、新出に化けているベルモットもまた、内心でかつてないほどの戦慄を覚えていた。

 

(……妙ね。この寒気は……まさか、ジン? いいえ、違うわ。あいつらとは明らかに毛色が違う。もっと、得体の知れない『何か』が……)

 

完璧な変装の下で、ベルモットは密かに奥歯を噛み締めていた。自分がここにいることを知っている何者かの罠か、それとも。

 

いずれにせよ、普段の妖艶な余裕は完全に吹き飛び、彼女はいつでもこの場から離脱できるよう、極限の警戒態勢に入っていた。

 

三人の実力者が、表面上は平静を装いながらも、内側では冷や汗を流して爆発寸前の緊迫感を漂わせている。

 

その異様な空気に気づいていないのは、この後、間抜けなバスジャックを企てている男たちだけだった。

 

やがて、予定通りに車内で騒ぎが起こる。

 

スキーウェア姿の男たちが銃を突きつけ、乗客を脅してバスを占拠した。

 

男たちは携帯電話を没収し、宝石強盗団のリーダー・矢島邦男の釈放を要求する。

 

車内に悲鳴と緊張が走る。

 

歩美は怯え、元太と光彦も顔をこわばらせて博士にしがみついた。

 

しかし、灰原にとって目の前の銃口など、もはや些末な問題でしかなかった。

 

(こんな、ヘタな悪党どもの陰に……あの化け物が潜んでる……っ)

 

目の前の男たちも危険だが、彼女の神経をズタズタに引き裂いているのは、未だに消えない「もう一つの気配」だった。

 

どこにいるのか。

 

誰なのか。

 

それすら掴めない恐怖が、彼女を絶望の淵に追い込んでいた。

 

一方、美月は銃を突きつけられても、塵一つ動じない様子でその騒動を淡々と眺めていた。

 

(バスジャックですか。)

 

彼女はこの事件に手を貸すつもりも、止めるつもりもなかった。

 

ただ、極限状態に置かれた人間たちの反応を観察する。それだけが目的だった。

 

もっとも、今日の観察対象としては、バスジャック犯など前座に過ぎない。

 

(ジョディさんは銃を前にしても、意識の半分を『別の何か』に向けている。赤井さんも、ベルモットも……)

 

それぞれが何事もないように振る舞っている。

 

だが、彼らの衣服の隙間から滲む冷や汗や、微かに強張った指先を、美月は見逃さなかった。

 

彼らは、同じ車内に潜んでいる「演出家」の存在を感じ取り、必死にその姿を探しているのだ。

 

(何がいるのか分からないまま、見えない恐怖に怯え、警戒し続ける……。素晴らしい表情です。これだから人間を見るのはやめられない)

 

やがて、コナンとジョディが息の合った連携を見せ、バスがトンネルに入った瞬間を狙って事態を動かした。

 

二人の鮮やかな行動によって、バスジャック犯たちは一瞬で制圧される。

 

しかし、車内には爆弾という最悪の装置が残されていた。

 

制御を失ったバスから、乗客たちはパニックになりながらも次々と脱出していく。

 

コナンは危機を前にしても冷静さを失わず、最後の瞬間まで全員を避難させるべく動いていた。

 

無事にバスから離れ、冷たい雪の上に避難した灰原は、激しく上下する呼吸を整えながら、煙を上げるバスを振り返った。

 

(……まだ、いる。あのバスが爆発しても、あの人は死なない。そんな確信がある……)

 

あのおぞましい気配の残滓が、胸の奥にこびりついて離れなかった。

 

事件が完全に解決し、警察による車内の現場検証が進められる中、それは発見された。

 

「……ん? 何だ、これ。乗客の落とし物か?」

 

捜査員が、大破を免れた座席の隙間から、一枚の美しいカードを拾い上げた。

 

そこにあったのは、精巧に描かれた「一本の操り糸と、歪んだ笑みを浮かべる仮面」の印。

 

それを遠目から目撃した瞬間、ジョディの顔から完全に血の気が引いた。

 

(っ……あ、ああ……!!)

 

恐怖が表情に出てしまい、思わず身体が強張る。

FBI捜査官としての冷静さを保とうとするけれど、完全には隠せない。

 

(嘘……でしょ……? なんで……なんでここに……っ!?)

 

赤井秀一もまた、表情は大きく崩れないものの、目を見開き、冷や汗が流れる。警戒態勢が一段階どころか最大まで引き上げられる。

 

(……ッ!! 『演出家』……!!)

 

赤井の背中に、滝のような冷や汗が流れた。

 

あの国際的な大物犯罪者であり、数々の国家を裏から翻弄してきた正体不明のあの怪物が、自分たちと同じ空間に、同じバスに乗っていたのだ。

 

自分たちが感じていた、あの世界の終わりを予感させるような異様なプレッシャー。

 

あれは組織の仕掛けた罠などではなく、「演出家」その人が放つ異質な気配だったのだ。

 

そして、新出の姿のままその光景を見ていたベルモットも、普段の余裕ある微笑みが消える。

 

変装した顔にまで緊張が表れるほどの衝撃を受ける。

 

(嘘よ……あいつが、日本に……!? このバスに、私の一挙手一投足を、あの化け物が見ていたっていうの……!?)

 

ベルモットの指先が、恐怖で細かく震える。

 

組織のボスやジンですら、あいつの動向には細心の注意を払っていたはずだ。

 

その怪物が、なぜ今、ここにいる。

 

三人だけが知る、絶望の象徴たる印。

 

彼らは互いに顔を見合わせることさえできず、ただその場に縫い付けられたように、冷や汗を流しながら驚愕に打ち震えていた。

 

灰原はそのカードの意味こそ知らなかったが、赤井やジョディ、そして新出(ベルモット)の、ただ事ではない、まるで死神を目の前にしたかのような恐慌ぶりに気づき、息を呑んだ。

 

(あのカードを見た途端、みんなの空気が変わった……。あの恐ろしい気配の正体は、やっぱり……)

 

灰原はコナンの服の裾を強く握り締め、ガタガタと震え続けた。

 

その、誰も彼もが恐怖に支配された喧騒の中。

 

少し離れた雪道の上を、一ノ瀬美月は何事もなかったかのように歩いていた。

 

(ふふ……本当に、今日は最高の舞台でした)

 

FBIの優秀な捜査官が、誇り高き組織の魔女が、そして知恵の回る少年探偵が。

 

そして、今日初めて見つけた、新しい観察対象。

 

灰原哀。

 

(あの子は、本当に良い反応をしてくれました。また近いうちに、客席から彼女を眺めに行くとしましょう)

 

美月の口元に、妖しくも美しい笑みが浮かぶ。

 

足跡すら残さないかのように、彼女は静かに、しかし確実にその場から姿を消した。

 

冷や汗を流し、血眼になって周囲を警戒する彼らの誰も、去りゆく演出家の背中を追うことなど、決してできなかった。

 

ただ一枚のカードだけが、世界の均衡を揺るがす怪物がそこにいた証として、冷たく輝いていた。

 

 





※ジョディ、赤井、ベルモットの3人は、これまでに得られた情報から、演出家が常識外れの身体能力と知性を持つ、極めて危険な人物であることを知っています。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。