※本話には、ナイフを用いた生々しい自傷・自殺の描写が含まれます。苦手な方は閲覧をご遠慮いただくか、ご注意の上お読みください。
長門家
古くから続く名家であり、その名を知る者は少なくない。
広い敷地に建つ屋敷は、歴史を感じさせる重厚な造りをしていた。立派な門をくぐれば、手入れの行き届いた庭が広がり、その奥には大きな邸宅が構えている。
一ノ瀬美月は、屋敷の外観を眺めながら、手元の資料に目を落としていた。
長門会長。
長男の秀臣。
その婚約者であり、会長の秘書を務める日向幸。
そして、長門家に関わる人々。
資料に記された名前を一つずつ追っていく。
「……随分と複雑なご家庭ですね」
美月は小さく呟いた。
そこに記されているのは、表向きの経歴や家族関係ばかりだ。人間の本当の感情までは、当然ながら書かれていない。
けれど、過去の出来事を知れば、少しずつ見えてくるものもある。
二十年前の火災。
両親を失った一人の女性。
そして、長門家に残された因縁。
美月は資料を閉じた。
「さて……」
静かな声が漏れる。
彼女は、長門家の人間関係に興味を持っていた。
何があったのか。
誰が何を知っているのか。
それぞれが、どんな思いを抱えているのか。
人間の感情は、外から見えるほど単純ではない。
そして、その複雑さこそが美月の興味を惹くものだった。
*
数日後。
美月は、長門家の屋敷を訪れていた。
玄関で応対したのは、秘書の日向幸だった。
「お待ちしておりました。一ノ瀬様ですね」
「はい。お忙しいところ、ありがとうございます」
「こちらへどうぞ」
幸は丁寧に案内する。
落ち着いた物腰で、仕事にも慣れているように見える女性だった。表情には大きな乱れもなく、来客への対応も手際がいい。
美月は、その様子を静かに見ていた。
「こちらで少々お待ちください。会長にお伝えしてまいります」
「分かりました」
幸が部屋を出ていく。
その背中を見送りながら、美月は室内を見回した。
長門家の屋敷には、古い調度品がいくつも置かれている。壁に掛けられた絵画や、棚に並べられた置物にも、長い年月を感じさせるものがあった。
やがて幸が戻ってくる。
「お待たせいたしました。会長がお会いになるそうです」
「ありがとうございます」
美月は立ち上がった。
そのとき、幸の表情がほんのわずかに曇ったように見えた。
ほんの一瞬。
普通なら気づかないほどの変化だった。
美月は何も言わず、幸の後についていった。
*
会長との面会を終えた美月は、帰り際に幸と再び顔を合わせた。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございました」
幸はいつものように丁寧に頭を下げる。
美月は彼女の顔を見つめた。
「日向さんは、長い間こちらでお仕事をされているんですか?」
「ええ。秘書としてお仕えしております」
「大変なお仕事でしょうね」
「慣れておりますから」
幸は微笑んだ。
しかし、その笑顔にはどこか疲れが滲んでいるようにも見えた。
「そうですか」
美月は少し間を置いた。
「……長門家には、いろいろな歴史があるんですね」
幸の表情がわずかに変わった。
「歴史、ですか?」
「はい。長く続いているお家ですから。きっと、外からは分からないこともたくさんあるのでしょうね」
「……そうですね」
幸は短く答えた。
それ以上、会話は続かなかった。
美月は軽く会釈をして、屋敷を後にする。
門を出たところで、彼女は一度だけ振り返った。
あの女性は、何かを抱えている。
それは単なる仕事の疲れではない。
過去に関わる、深い感情。
美月はそれを感じ取っていた。
*
その後、長門家では不穏な出来事が続いていた。
長男の秀臣は、すでに亡くなっていた。
しかし、その死をめぐっては、家族の間にも複雑な事情があった。
さらに、婿養子の光明にも、長門家の財産や立場に関わる思惑があった。
それぞれが秘密を抱え、互いに本心を見せない。
その状況を、美月は少し離れた場所から見ていた。
彼女が知っているのは、表に出ている情報だけではない。
日向幸が、二十年前の火災によって両親を失ったこと。
その出来事が、彼女の人生に深い影を落としていること。
そして、長門家に対して、簡単には割り切れない思いを抱いていること。
美月は、その事実を知ったうえで、幸と会話を交わしていた。
彼女の言葉は、幸の中に残っている過去を思い出させるものだったのかもしれない。
ただ、美月はその女性の苦しみを理解したいわけではなかった。
同情も、憐れみもない。
彼女が知りたいのは、人間が何を抱え、何を選ぶのかということだった。
そして、その選択がどんな結果につながるのか。
*
ある日、長門家で事件が発生した。
警察が屋敷に駆けつけ、関係者への聞き込みが始まる。
そこに居合わせたのは、江戸川コナンと服部平次だった。
「こら、コナン! 勝手に走り回るんじゃない!」
小五郎の声が屋敷に響く。
「ご、ごめんなさーい!」
コナンは一応謝りながらも、視線は周囲を観察していた。
「相変わらず落ち着きのないガキやなあ」
平次が呆れたように言う。
「服部君も、あまり人のこと言えないんじゃない?」
蘭が小さく笑った。
「何やて?」
「だって、服部君も事件があるとすぐに夢中になるでしょ」
「そら、事件なんやから当然やろ!」
平次は胸を張った。
そのやり取りを、少し離れた場所から美月が見ていた。
彼女は今回も、事件の関係者の一人として屋敷にいた。
コナンとは、米花美術館で一度顔を合わせている。
あのときの少年。
そして、その隣にいる関西弁の少年が服部平次だろう。
美月は二人を交互に見た。
コナンは周囲の人間の話を聞きながら、さりげなく現場を確認している。
一方の平次も、独自に情報を集めているようだった。
(今度は二人、ですか)
美月は静かに目を細めた。
前回、コナンの観察力には興味を持った。
今回は、そこにもう一人の探偵が加わっている。
どちらも、普通の子供とは違う。
*
捜査が進むにつれて、長門家の人々が抱えていた事情が少しずつ明らかになっていく。
秀臣の死。
光明の思惑。
そして、二十年前の火災。
それぞれの証言には食い違いがあり、隠されていた過去が次々と表に出てきた。
「どういうことや……」
平次は資料を見つめ、眉を寄せた。
「最初に聞いた話と、ずいぶん違うやないか」
「うん。まだ何か隠されている気がする」
コナンも頷く。
二人は互いの考えを照らし合わせながら、事件の真相へ近づいていった。
美月は、その様子を眺めていた。
彼らの推理は鋭い。
隠された事実を見つけ出し、関係者の言葉を一つずつ検証していく。
ただし、彼らがすべてを見通せるとは限らない。
人間の心の中にあるものまで、すべて知ることはできないのだから。
美月は、幸の姿を探した。
彼女は少し離れた場所に立ち、警察の話を聞いていた。
その横顔には、疲労と緊張が浮かんでいる。
美月は近づかなかった。
今は、何もする必要がない。
すでに彼女と交わした会話は終わっている。
その言葉がどのように受け取られ、どんな意味を持ったのか。
それを今ここで確かめる必要もなかった。
美月はただ、幸の表情を見つめていた。
*
やがて、コナンと平次の推理によって事件の全貌が明らかになった。
長門家の人々が隠していた過去。
秀臣の死の真相。
光明の企み。
そして、それらを利用した日向幸の復讐。
事件の犯人は、日向幸だった。
彼女は二十年前の火災で両親を失っていた。
その過去と、長門家に対する思いが、今回の事件につながっていた。
真相を突きつけられた幸は、静かに俯いた。
「……もう、いいんです」
その声は、ひどく疲れていた。
だが、その絶望の底で、幸の脳裏には数日前に一ノ瀬美月が残していった言葉が、まるで冷たい雨のように降り注いでいた。
『復讐を遂げた人間が、その後にどんな顔をして生きていくのか……私はとても興味があるんです。けれど、もしあなたが「醜く生き恥を晒す姿」を、亡くなった秀臣さんに見せたくないとお思いなら、別の綺麗な終わり方もあるのかもしれませんね』
美月は方法など何も言わなかった。
ただ、幸の中にあった「秀臣への罪悪感」と「生き恥を晒したくないという矜持」を優しく刺激しただけだった。
それが、今の幸にとって決定的な道標となっていた。
コナンと平次は、彼女の尋常ではない雰囲気に気づき、声を荒らげた。
「日向さん!」
コナンが叫び、その手首を掴もうと手を伸ばす。
「まだ終わってへん! あんたが何を抱えてきたんかは分かった。せやけど、ここで全部終わりにしたらあかん! 生きて償わなあかんのや!」
平次が真剣な表情で叫び、彼女の身柄を確保しようと一歩踏み込んだ。
しかし、幸は二人を見て、悲しく、どこか憑き物が落ちたような笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、ボク。……私、あそこ(刑務所)で醜く生き長らえる勇気はないの」
幸の視線が、探偵たちの遥か後ろ、壁際に佇む美月へと向けられた。
美月は同情も憐れみもない、いつもの配信者としての「綺麗な笑顔」を浮かべ、静かに幸を見つめ返している。
その笑顔が、幸には「お疲れ様」という終わりの合図に見えた。
次の瞬間、幸は隠し持っていた細いナイフを、自らの喉元へと突き立てた。
「日向さん――!?」
「しまっ――!」
コナンと平次が飛びかかったが、一瞬遅かった。
鮮血が古い洋館の絨毯を染め、幸の身体が崩れ落ちる。
「おい! しっかりせえ! 日向さん!!」
平次が彼女を抱き起こし、必死に傷口を押さえる。コナンもまた、信じられないものを見たという顔で、ガタガタと震える手で救急車を呼ぼうと携帯電話を取り出した。
だが、その甲斐もなく、幸は二人の探偵に看取られながら、静かに息を引き取った。
美月はその光景を、一歩も動かず、ただ静かに見つめていた。
*
事件の後、屋敷を出る人々の表情は、原作以上の重い絶望に満ちていた。
小五郎は顔を覆い、蘭は涙を流して崩れ落ちていた。
犯人を目の前で死なせてしまった。その事実が、若い二人の探偵の心に深い傷を残していた。
「……何でや」
平次は拳を血が滲むほど強く握りしめ、地面を見つめていた。
「俺らの推理が……あいつを追い詰めてもうたんか。」
(オレは……また、救えなかったのか……)
かつて、同じように犯人を自殺で失った工藤新一としての記憶が、コナンの胸を締め付ける。コナンは唇を噛み締め、小さな拳を震わせていた。
美月は少し離れたところから、その様子を見ていた。
やがて、コナンがふと顔を上げ、美月と目が合う。
「お姉さん……」
コナンの声には、いつもの覇気はなく、ひどく掠れていた。
「……悲しい結末になってしまいましたね」
美月は歩み寄り、そっとコナンの前にしゃがみ込んだ。その表情は、痛ましい事件にショックを受けた一人の女性のそれだった。
「お二人とも、自分を責めないでください。あなたたちは、真実を明らかにして、彼女を救おうとした。素晴らしい探偵さんです」
美月は柔らかく微笑み、コナンの頭をそっと撫でた。
「……うん」
コナンは俯いた。
だが、その胸の奥に、言葉にできない違和感が小さく芽生えていた。
(何かがおかしい。日向さんは、僕たちの推理に絶望したんじゃない。まるで、最初からこうなることを決めていたような……。誰かに、背中を押されたみたいに……)
コナンがその違和感の正体を探ろうと目を凝らしたときには、美月はすでに立ち上がり、静かにその場を離れていくところだった。
*
その日の夜。
一人になった美月は、机の上に置かれた資料を眺めていた。
長門家に関する記事。
日向幸の死亡を伝える、冷淡なニュースの画面。
美月はパソコンの画面を閉じ、静かに背もたれに身を預けた。
「人間というのは、本当に複雑で……そして、脆いですね」
静かな声だった。
彼女は、幸の死を悲しんでなどいなかった。自分が彼女を死に追いやったという罪悪感も、微塵もない。
ただ、心に小さな傷を持つ人間に、ほんの少しの言葉を囁くだけで、自ら破滅の道を選び取ってしまう。その人間の心理のメカニズムに、深い満足感を覚えているだけだった。
そして、もう一つ。
江戸川コナンと、服部平次。
彼らは事件の真相を明らかにした。しかし、事件の裏側にあった本当の『引き金』には、まだ気づいていない。
「あの子……最後、私を見て何かを感じ取ろうとしていましたね」
美月は窓の外、暗闇に包まれた米花町の街並みを見つめた。
コナンのあの鋭い、何かを疑うような視線。それを思い出すだけで、彼女の胸は奇妙な高鳴りを覚える。
「優秀な探偵さんたち。いつか、私の仕掛けた糸に気づいてくれるかしら」
柔らかな声で呟き、部屋の明かりを消す。
闇の中に消えた美月の顔には、いつもの配信者としての笑顔はなかった。
ただ静かに、次のターゲットを、そして自分を追いかけてくる探偵たちを待ち望むような、冷徹な微笑だけが残されていた。
気持ちが暗くなるな。削除コースか残酷な描写を無くします。