「こんばんはー。今日も配信に来てくださってありがとうございます!」
画面の向こうへ向けて、美月はいつもと変わらない、鈴を転がすような柔らかな笑顔で視聴者に挨拶した。
その瞬間、画面の右側に配置されたチャット欄が、ものすごい速度でスクロールを始める。
『みづきちゃんこんばんは!!』
『待ってたーーー!今日も声が最高に癒やされる』『今日の配信内容なんだろ?』『お、画面にペイントソフト映ってる!?』
今日の配信内容は、美月にとって初めてとなるイラスト制作、通称「お絵描き配信」だった。
普段の配信ではゲーム実況や雑談、時には歌枠などが多い美月だが、イラストを描くことも好きだということは以前から配信中の雑談で何度か口にしていた。
もっとも、実際に彼女が絵を描いている手元やプロセスをリアルタイムで公開するのは、今回の配信が初めてのことだった。
『今日はお絵描き配信なの!?』
『美月ちゃんの絵、ずっと見てみたかったから嬉しい!』
『どんな絵を描くんだろう、ワクワクが止まらん』
「はい、今日は皆さんのリクエストもコメントで受け付けながら、のんびり描いていこうと思います。何か描いてほしいジャンルとかモチーフがあったら、自由にコメントしてくださいね」
美月は画面の向こうにいる視聴者のコメントを愛おしそうに眺めながら、楽しそうに微笑んだ。
画面には、またたく間に無数のリクエストが流れていく。
犬や猫などの可愛い動物、幻想的な風景、あるいは架空のファンタジーキャラクターなど、リスナーたちは思い思いのお題を投げかけていた。
「んー、そうですね……。たくさんありがとうございます! 今日はリクエストの多かった『人物』にしてみましょうか。それも、少し雰囲気のある男の子を描いてみようと思います」
そう言って、美月は右手に握ったスタイラスペンを液晶タブレットへと滑らせた。
最初は、画面全体のバランスや構図を決めるためのラフ画の工程だ。
しかし、そのペンの動きを見た瞬間から、絵心のある視聴者たちは奇妙な違和感を覚え始めていた。
普通、人間の身体を描くときには、頭の丸を描いて、骨組みを取ってから肉付けをしていく。
だが、美月のペン先からは、迷いのない、極めて洗練された美しい線がいきなり次々と画面に紡ぎ出されていくのだ。
カチ、カチカチ、と静かな部屋にペン先がガラス面を叩く小気味いい音が響く。その手つきは、まるで最初からそこに完成した絵が存在しており、それをなぞっているだけかのようだった。
『え、待って、もう形になってきたんだが……?』
『アタリなしでいきなり服の構造まで描いてない!?』
『線の迷いが一切なさすぎて見てて気持ちいいレベル』
『ラフの時点でデッサンが狂ってないのヤバすぎるだろ』
「ふふ、ありがとうございます。でも、まだまだこれからですよ? ここから細かくしていきますからね」
美月はマイクに向かって穏やかに答えながら、拡大・縮小ツールを軽快に使いこなし、細かな部分の調整に入っていく。
首の角度、風に流れる髪の毛の1本1本、そしてジャケットに刻まれるリアルな布のしわ。
人間の骨格や筋肉の付き方を完全に、それも細胞レベルで理解していなければ絶対に描けない正確無比な線。
徹底的に他者を観察し、その行動や肉体の限界までを計算し尽くす『演出家』としての精密性は、デジタルイラストというキャンバスの上でも遺憾なく発揮されていた。
やがてラフのレイヤーが薄くされ、本番の清書である「線画」の工程へと移った。
この段階になると、コメント欄の空気は「楽しそうな雑談」から「驚愕」へと完全に変わり始めていた。
『おい待て、線画だけでもう売れるだろこれ』
『これ本当に生配信で一から描いてるの……?』『プロのイラストレーターがサブ垢で配信してると言われても信じる』
『手の動き速すぎて残像見えそうwwwww』
「ふふ、ちょっと褒めすぎですよ。皆さん、ハードルを上げないでくださいね」
楽しそうにクスクスと笑いながらも、美月の手は寸分も狂わない。
線画が終わると、今度は「色塗り」の工程だ。
美月はバケツツールで一瞬にして下地を塗ると、そこから複数のブラシツールを切り替え、色を何層にも塗り重ねていった。
それは単に線の中に色を置いていく作業ではなかった。
髪の毛には環境光を意識した柔らかな光が入り、切れ長の瞳には光の屈折による複雑な色彩の変化が、細かなドット単位で生まれていく。
背景にも、中央の人物を劇的に引き立てるための補色やグラデーションが絶妙なバランスで加えられ、画面全体の空気感が一気に統一されていく。
どこに最初の一視線を集め、どうやって絵の奥へと観客の目を誘導するか。
キャンバスという名の舞台をどう「演出」するか。美月の頭の中には、完璧な完成図が最初から描かれていた。
『色塗りの厚みのセンスが国宝級なんだが??』『光と影の入れ方が完全にプロのそれ』
『これ、普通に有名なイラストレーターの神絵じゃん……』
『美月ちゃん、本職は絵描きさんなの!?』
「ありがとうございます。絵を描くのは昔から好きなんですよ。集中すると、本当に時間を忘れて没頭しちゃうこともあって」
美月は画面を極限まで拡大し、キャラクターの瞳のハイライトや、唇の微かなハイライトなど、細部を丁寧に仕上げていく。
最後に、画面全体のコントラストを整えるエフェクトレイヤーを追加し、彼女は満足そうにペンを置いた。
「……はい! これで完成です!」
画面いっぱいに、完成した1枚のイラストが表示される。
それは、繊細かつ力強い線と、鮮やかでありながらもどこか退廃的で美しい色彩が見事に融合した作品だった。
描かれた男の表情には、ぞっとするほどの生々しい生命感と、何かを憂うような色気が宿っており、背景の光の粒子まで含めて、完全に一つの芸術として完成していた。
しばし、画面がその美しさに圧倒されたかのように静まり返った後、爆発したかのような速度でコメント欄の流れが加速した。
『うわああああああああああ神絵師だあああああ!!!』
『完成度高すぎて鳥肌立った、マジで何これ!?』『これをこの短時間の配信中にライブで描いたの!?嘘でしょ!?』
『プロじゃん!!普通に1枚ン万円で取引されるレベルじゃん!!』
『ゲームも全一レベルで上手くて、歌もプロ並みで、絵まで神って何者なの!?』
『神は一ノ瀬美月に何物与える気だよ……多才すぎて怖い……』
「わあ、皆さんたくさん嬉しいコメントをありがとうございます」
美月は画面の向こうの熱狂を受け止め、少し照れたように、はにかんだ声を出す。
「でも、私なんてまだまだ勉強中の身ですよ。世界にはもっと素晴らしい表現がたくさんありますし、描きたいものも、もっと上手になりたい表現もたくさんありますから」
『これ以上上手くなったら次元の壁ぶち破るぞ』『どこまで向上心あるんだよ、好きすぎる』
『次のイラスト配信も絶対やって!何時間でも見てられる!』
「はい。また機会があったら、ぜひ皆さんと一緒にまったり描きましょうね」
その後もしばらく、美月は興奮冷めやらぬ視聴者たちと楽しげな会話を交わし、配信は終始、温かく穏やかな雰囲気のまま幕を閉じた。
「それでは、今日の配信はこの辺で終わりにしたいと思います。遅くまで来てくださって本当にありがとうございました。また次の配信でお会いしましょうね。皆さん、おやすみなさい」
配信終了のボタンを押すと、画面が静かに暗転する。
緑色に点灯していたライブ配信中のインジケーターが消灯したのを確認した瞬間、美月は先ほどまで顔に貼り付けていた、無邪気で愛らしい笑顔をピタリと消し去った。
しん、と静まり返った部屋には、液晶タブレットの画面だけが白々と明るく残っている。
美月は、先ほど完成させたイラストをもう一度画面に大きく表示させると、頬杖をつきながら冷徹な瞳でそれをじっと見つめた。
「……絵を描くのも、悪くありませんね」
その口から漏れた声は、配信中の優しく甘いトーンとは完全に異なり、低く、落ち着いていて、どこまでも淡々としたものだった。
大勢の人間から天才だと崇められ、絶賛の言葉を浴びせられたこと自体には、彼女の心は何の感慨も抱いていなかった。他人の評価など、美月にとっては呼吸をするのと同じくらいどうでもいいことだった。
ただ、自分の手によって、脳内にあるイメージを正確に、完璧に「形」にすることそのものは嫌いではなかった。
それがデジタルイラストであっても、精緻な音楽であっても――あるいは、他人の心理を誘導し、恐怖に陥れる人間の行動制御(ピカレスク)であっても。
美月にとっては、それを実行する過程に「興味を持てるかどうか」、それだけが唯一の価値だった。
「さて……」
彼女は冷ややかに微笑むと、スタイラスペンをデスクに置き、ソフトを閉じて椅子から立ち上がった。
次は、どの舞台で、誰を踊らせようか。
そんな暗い愉悦を脳裏に浮かべながら、美月は部屋の明かりを消し、深い闇の中へと溶け込んでいった。
まだ悩み中