『イリスを引退させるしかない』
その夜、牧場の宿泊室――ホセはそこが好きだった――で俺は言った。
『売り上げはもうずっと塩漬けだ。牧場に札束を持ち込めないからだ。イリス担当じゃないトレーナーにすら誰かが張り込んで新ネタを嗅ぎ回ってる。運びようがない。もう手口が使えないんだ。イリスが飛ぶ限り』
『引退して、解決するのか?』
ホセはお気に入りの酒をグラスに注ぎ、煙草をくゆらせて、俺に訊いた。
寂しそうな目だった。
楽しい時間が終わるときにする、ああいう目。
胸が痛かった。それでも俺は言わなきゃならなかった。
『もう充分稼いだし、出られるレースはあらかた出た。同じレースを何年も連覇できるはできるが、出ても結果は同じだから引退を決めたって不自然じゃない』
『引退して、どうなる?』
『イリス専用の繁殖センターを新しく作る。イリスの子供を産む場所なんだから、要塞並みに思い切り厳重にしたって不思議には思われない。その中なら自由にあれこれ出来る。色んなものがたくさん必要になるから、物理的にも帳簿的にも紛れ込ませるのは簡単だ』
俺は必死に説明した。
『イリスと番うんだ。今までよりずっと値段の張るスタッド・ワイバーンを買い込んだって怪しまれない。購入したけどイリスには相応しくないオスだったから手放した、って言って売り払って金に換えても問題ない。イリスに相応しいオスなんていないんだからな。だから――』
『分かった』
俺の言葉を途中で遮って、ホセは頷いた。
ホセの表情は、やっぱりつまらなそうなままだった。
つまらなそうな顔で、お気に入りの酒を煽って、何度も煙草を深く吸った。
部屋中が煙草の煙で充たされるんじゃないかってくらい、何本も吸っていた。
俺は黙ってそれを見ていた。
灰皿の上に吸い殻が山になるまで溜まっても、俺は何も言わなかった。
そして、ついにホセは口を開いて言ったよ。
『分かった、引退させよう。お前に任せるよ、マルコス。いつもみたいに』
俺はつい安堵しかけたが、
『ただし』
ホセは、なんてことのない声で、続けた。
『大陸横断レースを、ラストフライトにする』
俺は息を呑んだ。
唯一イリスが参加していないレース。
100頭以上の名だたるワイバーン達が集結して、大陸の端から端まで一週間近く飛ぶ。
ワイバーンレース最高の栄誉。
………俺たちの、原点。
それは、端から見れば、イリスほどのワイバーンの最後のレースとしてこれ以上相応しいものはなかった。
が、
『いや、ホセ、駄目だ、それは駄目だ……長すぎる、レースの間ずっといなきゃならないんだぞ』
大陸横断レースは、自分のワイバーンがスタートしてゴールするまでの間、オーナーかその代理が必ず会場にいないといけない。
大陸横断って名前の通り、大陸各地にチェックポイントを兼ねた休憩所が会場だった。レース関係者や招待客が集まる。
各地にある会場には鉄道や飛空艇で移動できるが、必ず世話係という名の見張りがついた。ひとりで勝手にどこかには行けない。だから大抵のオーナーはスタート地点かゴール地点で過ごす。
つまりホセは、短くても5日は掛かるレース中、会場に拘束されることになる。
『危険すぎる。徴税局や魔剤取締局が動いてるって噂もあるんだ。今、動きが取れなくなるのはマズい』
イリスの栄光は、俺たちの過去を照らして晒した。
戦場帰りの零細雑貨商が牧場を買ったこと。
かなりの数のワイバーンを現金で買ったこと。
レース会社もトレーニングセンターも作ったこと。
疑われる要素は山のようにあった。
記者連中がそれをあからさまな記事にしても、イリスを手にしたホセへの嫉妬にしかならない。あることないこと書くのがやつらの仕事だったからだ。
だが、役人は違う。
『行くなら俺が出る。ホセ、お前は急病になったってことにして家から出るな。お前が捕まったら終わりなんだ』
『お前が捕まっても同じだよ。お前にしか金とワイバーンのことは任せられない』
そこでやっと、ホセは笑った。
力を抜いた、緩めた表情。
『どっちでも同じなら、俺はイリスを見たいんだ』
『ホセ……』
俺は言葉が続けられなかった。
穏やかな目。
穏やかすぎた、目だったよ。
ホセの目は。
………今でも、夢に見る、あの目だ。
きっと、俺が死ぬまで、見続ける目。脳みそに焼き付いて、永遠に、思い出し続けるんだ。
イリスの眼と同じように。
『ま、俺の最後の我が儘だって思ってくれよ。それ以外は全部お前のプランで行こう』
言葉に詰まってる俺に、ホセはいつもの表情と調子に戻って、グラスを持ってきて俺に酒を注いだ。
俺はそれを受け取って、一息で呑んだ。ホセは口笛を吹いて笑った。また酒を俺のグラスに注いだ。俺は今度はゆっくり呑んだ。
ホセは上機嫌で煙草を吹かし、
『憶えてるか? オヤジのところから抜け出して、お前と原っぱで道分かんなくなってたとき、頭ん上を、ワイバーンが通ったよな』
『ああ、憶えてる』
『かっこよかったよな、あれ』
ホセが俺に言った。
俺は頷いた。
『あぁ、格好良かった』
『だよなあ』
ホセはくだけて笑った。
俺も笑った。酒を呑んだ。ホセも。
俺とホセは、昔の話をした。ずっと。夜が明けるまで。
ずっと。
次の日、ホセはイリスの引退と、ラストフライトに大陸横断レースを選んだことを発表した。
終わりの日の準備を、俺たちは始めたんだ。
*** *** ***
《イリス引退》
《イリス引退》
《イリス引退》
《ラストフライトは大陸横断レース》
《出社拒否、相次ぐ》
《引退ショックの救急出動、激増。病院の悲鳴》
《暴動、鎮圧。イリス引退への抗議か》
《各業界に衝撃》
《社会的混乱。政府、冷静な対応を市民に呼びかけ。前代未聞》
《大陸横断レースは通常通りに開催》
《観覧チケット販売、瞬殺》
《悪質な転売、相次ぐ》
《定価の100倍超》
《チケットを巡る殺傷事件、止まらず》
《家を売ってチケット代を工面》
《借金して購入したのに偽チケット》
《チケット詐欺に注意》
*** *** ***
開会式の会場は、異常な、正気が恐ろしく薄い熱気で充ち満ちていたよ。
殺気と呼んでも良かった。
イリスを見るためなら隣の人間を殺してもいい、そんな狂気が、約100頭のワイバーンとそのオーナーやトレーナー全員が余裕をもって並べるあの広大な会場に充満してた。
それが、イリスが入場した途端、粘ついてドロドロしてた悍ましさから、混じりっ気のない歓喜そのものの怒涛になった。
雑念なんかない。
イリスを見た。
その歓びと嬉しさ以外、なんの意味も価値もない。
そんな声、叫び、悲鳴、怒号が、爆発した。
空気が千切れて地面が震えた。
耳が潰れそうだった。
イリスの感覚を弱める装具を、だいぶ強めのやつにしておいて正解だった。
『すげえなマルコス!』
イリスの手綱を引く俺の隣で、ホセが怒鳴って笑った。怒鳴らないと声が潰される。
『ああ、凄いなこりゃ』
『聞こえねえ! マルコスなんだって!?』
『すげえなって言ったんだ!』
『だろ!? すげえよ!! 大陸横断レースも! イリスも!!』
ホセは大声で怒鳴り、大笑いし、そして、涙を流していた。
泣いていたんじゃない。
涙を流してたんだ。
そこに、
『……イリス?』
イリスが、ホセに顔を寄せた。
そして、そっと、舌で舐めた。
人間の顔なんて簡単にひと舐め出来る舌を、先を器用に細めて、涙の垂れるホセの頬を、舐めたんだ。
虹色の眼を、ゆっくり細めて。
『イリス…』
ホセは詰まった声で、名前を呟いた。
あんな怒号の中でも、ホセがイリスを呼ぶ声は、なぜかはっきり聞こえた。
ホセは自分を舐めるイリスの顔を撫でて、そのまま首に抱きついた。
顔をイリスの硬い鱗に押し付けた。
『……』
俺からは、ホセの顔は見えなかった。
ホセの肩が震えて、体を屈めてイリスに体重をかけていたのだけは、分かった。
どれだけ体重をかけても、イリスはものともしない。
ただ、柔軟に首を回して、ホセを口の先や舌先で、撫でたり舐めたりした。
数えきれない無数の人間たちの歓声を浴びながら。
俺からは、それしか見えなかった。
『―――……』
顔の見えないホセと、
虹の眼のイリス。
それが、それだけが、俺の目に映っていたものだった。
*** *** ***
(写真)
(イリスと、その左右にオーナー、牧場長が並んだ写真)
(開会式の後の、飛空前記念撮影)
(――――――この2名と1頭が揃った、最後の写真)
*** *** ***
……大陸横断レースのスタートは、とても俺の貧相な語彙じゃ表現できない。
凄かった、としか言いようがない。
100頭のワイバーンが一斉に飛び立つんだ。
一斉にだ。
これだけの数、どんなレースだって集まりはしない。
大陸横断レースにのみ許された数、そして景色。
特別だ。
特別な光景だった。
『……じゃ、もう行くぜ、俺は』
ホセはなんてことない口調で俺に言ったよ。
『さっさと行かないと、イリスのほうが先にゴールしちまうからな』
『冗談に聞こえないから怖いんだよ、あいつは』
俺はホセの軽口に肩をすくめながら、
『なあ、本当にお前が残るのか? 今ならまだ俺が』
『俺はオーナーなんだよ、マルコス。イリスのオーナーなんだ』
ホセは笑って言った。
誇りの声だった。
素寒貧の、いつも腹を空かしてたようなガキの、兵隊あがりの食い詰め者が、誇りをもって
『お前が、オーナーにしてくれたんだ』
……どうしてかな、その時のあいつの顔が、よく思い出せない…声しか、憶えていない。笑ってたことだけは確かなのに
声しか、憶えていない
俺に言ったことしか、憶えていないんだ
俺に
『ありがとな、マルコス』
俺に、言ったんだ…
俺に………
*** *** ***
(※証言、一時停止)
(※証言、翌日から再開)
*** *** ***
…………とにかく、俺は牧場に、ホセもゴールの会場に、それぞれ飛空艇で向かった。
有名だから言うまでもないが、俺たちの牧場は大陸横断レースの針路上にあった。
先頭は、言うまでもなくイリスだった。
だから俺は早く牧場に戻った。
牧場でいつもの仕事をして、待ったよ。
繁殖ワイバーンの産卵計画、
赤ん坊ワイバーンの世話、
休養中のレースワイバーンの放牧、
壊れた設備の修理依頼、
足りない資材の発注、
従業員のスケジュール調整、
トレーニングセンターからの相談、
ケンカし始める若いワイバーンたちの取り押さえ、
現金の保管状態の確認、
帳簿の確認……
そういった、いつものことをして過ごした。
そして、来た。
『――――――』
イリスは、来た。
*** *** ***
(イリスが、自身の産まれた牧場を通過するのを、当時の牧場長は目撃する)
(……それ以降、彼がイリスをその目で見ることはなかった)
*** *** ***
今さら言うまでもないが、イリスはずっと先頭だったよ、スタートしてからずっと。
当たり前だな。レースに関しては、俺より詳しい人間ばかりだものな。
レースの情報というか、イリスのことはどのメディアもひっきりなしに放送していたから、イリスが何時くらいに牧場に来るかは分かっていた。
だがそれとは関係無しに、イリスは分かった。
近づいてくるワイバーンの影。
まだ形もはっきりとしない距離からでも、イリスなのが俺に分かった。
トレーニングでも放牧でも、あいつを遠くから見ることは何度もあった。
そのたび、こいつは違うんだ、って思い知らされた。
ワイバーンとは違う。普通の、というより、そもそも本当にワイバーンじゃないかもしれない、神々が戯れにワイバーンの姿になって地上に遊びに来たんじゃないか、そう思わずにはいられなかった。
見れば分かる。
イリスの飛ぶところを見れば。
説明なんて必要ない。
誰だって納得する。見さえすれば。
イリスが牧場に近づくときも、俺はそう思った。
『イリス!? あれイリスですよね!』
『本当だ、イリスだ!』
『イリスだ、イリスだ! みんな来たぞ! イリスが来た!』
牧場の誰もが、俺と同じくイリスに気付き、集まった。
自分の子供を迎える目だったよ。みんな。
イリスがまだ赤ん坊の頃から知ってる人間ばかりだったからな。
あいつがどれだけ賞金を稼ごうが世間を狂わせようが、彼らの中じゃ、犬と猫にしつこく構われにいって犬に吠えられ猫に頭を叩かれてた甘えん坊なんだ。
あの牧場じゃ、おてんばのままだった。いつまでも。
『……?』
ふと、どんどん近づいてきていたイリスが、大きく螺旋を描く飛び方をした。
バレルロール。
障害レースでよくする飛び方だった。大陸横断レースでするはずのない動き。必要のない飛空。
俺達は気付いた。
俺達に、気付いたんだ。
『――――』
歓声が上がった。
気持ちよく飛んでいるのが分かった。
空に弧を描いて、イリスは飛んだ。
牧場の上を。
俺は見上げていた。
記憶にある何よりも、子供の頃に見たレースのそれよりも、頭上のイリスは力強かった。
……綺麗だったよ。掛け値なしに。息をするのすら忘れるくらい。
怖れも疎ましさも消えるくらい、あいつは綺麗だった。
横断レースは最低高度制限があるから、地上近くまでは飛べない。だからイリスはそれなりに高い位置を飛んでいた。
けど、なぜか、その距離でも、俺にはイリスの眼が分かった。
眼が、俺の目と合った。
眼が、笑った
『!!』
衝撃とか、
閃光とか、
稲妻とか、
そういったものが俺を貫いて、刻み込んだ。脳みそとか魂とかそういうものに。
死ぬまで消えない何かを。
「――――――」
俺は目を限界まで見開いて、イリスを見つめるしか出来なかった。
イリスを焼き付けることしか。
永遠に消えない、
虹の眼を。
俺を、そんなふうにして、イリスは、
蹴り飛ばされたみたいに急加速した。
大加速だった。
『イリス…?』
俺も、牧場の連中も、怪訝に見送った。
それは本当に、とてもワイバーンに出せるとは思えない加速ぶりだった。
砲弾かと思った。よくドライバーはしがみ付いていられたよ。流石イリスのドライバーだったな。その後イリスに色々な目に遭わされるが今でも元気にドライバーやってるんだから。
……そうだ。俺たちは見たんだ。イリスの、あの信じられないレース、飛空の、始まりを。俺達の牧場から、イリスは始めたんだ。
信じがたい、冗談みたいな、ゴーレムの記録能力がなけりゃ作り話にしか聞こえない。
誰でも知ってるイリスの伝説。
なにせ、5日はかかるはずの大陸横断レースを、イリスは――――2日で終わらせたんだからな
*** *** ***
(イリスは牧場に到着するまでに1日を消費していた)
(そのため、牧場からゴールまで、たった1日で辿り着いた)
(オーナーの元へ)
*** *** ***
*** *** ***
*** *** ***
*** *** ***
……イリスは、知ってたのかもしれないな。俺達に何が起きるのか。
イリスが去って、しばらくして、俺はそう思ったよ。
―――――完全武装した徴税人が、数台の装甲ゴーレムに乗って、回転翼飛空艇まで飛ばせて牧場にやってきた時に、な。
*** *** ***
*** *** ***
*** *** ***
*** *** ***
(徴税局執行部隊、霊薬売買に関与する牧場およびトレーニングセンターを速やかに制圧)
(いずれも抵抗は軽微)
(帳簿、および大量の現金を発見、押収)
(関与していたトレーナーらも確保)
(オーナーの逮捕以外、予定通りに進行)
*** *** ***
……俺は甘かったんだ。
嗅ぎ回ってるなんてレベルじゃなかった。
役人どもは、俺の現金の変換装置を完全に把握していた。
現金でワイバーンや土地を買い漁ったことも、トレーナーやサドラーに現金を支払ったことも、口座の契約も、イリスのせいで変換装置が止まって現金の山を持て余していたことも。
最初は記者のひとりが、牧場の違和感に気付いただけだった。
イリスの特集を組んで一花咲かせたいとしてた記者だ。当時は山のようにいた。
そいつが知り合いの、まだ新米だった徴税局の捜査官に話を持ちかけた。
そこから、新米捜査官は真面目に熱心に具に、俺達の牧場や表家業の雑貨商、トレーニングセンターの記録を事細かに調べた。
そして、俺達に気付いた。
恐れ入るよ。新米といっても流石は徴税局の捜査官だ。手も足も出なかった。
後は、特に言うことはないな。
こうならないように血眼になったんだが、結局はこうなった。
それだけのことだ。
それだけの、ことなんだ。
*** *** ***
(大陸横断レースのゴール会場に展開した魔剤取締局の武装展開部隊は、霊薬売買の主犯たるオーナーを包囲。投降を呼びかける)
(同時刻、会場、怒号に震撼する)
(イリス、ゴール)
(空前絶後)
(2位のワイバーンがゴールしたのはその3日後である)
(大陸中がイリスのゴールの真偽に蜂の巣を突いたような大騒然になる中)
(イリス、オーナーの真上、それも危険なほどの低空を通過)
(暴風がゴール会場に吹き荒び陳列していた様々な物品を巻き上げて)
(イリス、会場の高空を飛翔。飛空艇の飛空管制局が警告を出すほどの高度)
(混乱する会場にて、取締局の職員、目撃する)
(―――――――オーナーが、グラスを一口だけ、飲むのを)
(空を見上げながら)
(オーナーは、口から血を溢れさせ、笑い、仰ぎながら)
(その場で、自死した)
*** *** ***
*** *** ***
(元牧場長マルコス。禁止薬物売買の共謀罪、反資金洗浄法違反、組織犯罪法違反等により懲役25年)
(獄中にて、彼は語る)
*** *** ***
*** *** ***
何もかもが、あっという間に崩れて消えた。
霊薬を売っていた連中も、牧場で働いていた従業員の連中も、次々逮捕された。
役人達は準備万端で裁判に臨み、押収した帳簿や証拠もあって、実に見事に有罪にしていったよ。
流石のワイバーン業界も大量の現金での一括支払いには規制が入るようになったし、ワイバーンオーナーになることも、レース事業会社を設立するのも、審査がだいぶ厳しくなった。
俺達の牧場もトレーニングセンターもワイバーン達も、押収されて最終的には競売に掛けられた。
その公売オークションは、凄まじかった。
もちろん目玉の中の目玉は、イリスの競りだった。
なにせ自分の手の中にイリスが転がり込むチャンスだったんだ。異常だった。異常なのが通常だった。そんなオークションだったな。
天井知らずに跳ね上がった。
大陸中の金持ちという金持ちが糸目を付けず争った。
凄まじかったな。それ以外の感想が出ない。
イリスを手に入れたやつは、イリス専用の繁殖センターを作った。
イリスを中心として、何頭ものスタッド・ワイバーンを囲って暮らす宮殿だ。
奇しくも俺が考えていたことと同じことをしたんだ。
そうやってイリスは子供を産んだ。
子供達はレースに出た。
どれもこれも強かった。イリスの子供以外は話にならない。おかげで俺も稼げた。
……あまり大きな声で言うもんじゃないが、牢屋の中の連中は賭けが大好きだ。
ワイバーンレースの賭けもあった。胴元は秘密だ。
俺はワイバーンレースがよく分かっていない他の囚人に、俺が賭けるのと同じワイバーンに賭けろと言って儲けさせた。これを繰り返すとそれなりに牢屋の中での待遇は良くなった。看守すらこっそり俺に聞いてくることもあった。
刑務が言い渡されてるが、実質的な俺の仕事はレースを当てることだった。
ワイバーンに関する新聞や雑誌が俺の房に集まった。
だからイリスの子供がレースを席巻するところも、子供同士で争ってさらにレベルを高めていくところも、俺は牢屋にいながら知ることが出来た。
*** *** ***
(ワイバーンレース史上最大のスキャンダルを経ても、イリスの人気は衰えなかった)
(飛空艇に追いやられ斜陽と言われた時期は、過去になった)
(レース内容の高度化、売り上げ規模の拡大、レース場の外での関連商品の販売数、何もかもが、イリス誕生前とは比べものにならなかった)
(ワイバーンレースはイリスの子供たちと、イリスの面影を追う人間達によって興隆を極めた。今なお極め続けている)
(女王イリスの時代である)
*** *** ***
イリス自身は、レースに出ることはなかった。
ただ、恐ろしく広い、俺達のトレーニングセンターよりもさらに広い繁殖センターの運動エリアを、ほぼ自由に飛び回ることを許されていた。
そうやって飛び回ってるところは、たびたび公開された。
人数限定の見学参加チケットの奪い合いは相変わらずだったが、俺にはもう関係ない話だ。
イリスは何年経っても変わらなかった。引退しようが子供を産もうが。
母親らしいことをしているとも聞くし、子供と一緒に悪戯をしているとも聞く。
少なくても、あれだけレースっていうレースを征服したイリスの子供達も、母親に追いつける子はいなかった。
彼らが大人になっても、放牧でイリスと一緒になって飛ぶとき、母親に置いてかれて啼いているのがニュースになってたな。何やってんだあいつ、って、流石に思ったね。
いつまで経っても、イリスは変わらなかった。
変わらなかったよ。
……だから、今でもよく、夢に出るんだ。
あの、虹色の眼を。
それを、見て笑ってる、ホセの顔を。
夢の中で、イリスは飛んでいく。俺達の頭上を通り越して。
ホセは笑ってついていく。歩いていく。
俺は、行かない。行けない。ホセは歩いて、イリスは飛ぶ。
俺は、行けない。
叫んで、起きる。
そんな夢を、見るんだ。この牢屋で。俺は。ずっと。
いつまでも いつまでも……
ずっと……
*** *** ***
*** *** ***
(無数の人間が目撃した)
(大陸横断レースの、空前絶後の記録と暴風に混乱するゴール会場に
虹がかかるのを)
(……その虹の下を、1頭のワイバーンが飛び抜けていったのを)
(そのワイバーンの名は、イリス)
(伝説である)
(終)