剣を下ろすまで
プロローグ 剣を下ろすまで
世界を救った男が、鬼太郎に剣を向けていた。
青い装束は裂け、刃の先から血が落ちる。周囲に広がるのは、砕けた地面と黄金の光。つい先ほどまで、そこには神を名乗るものがいた。
もういない。
二人で、殺したからだ。
「退いていただけませんか」
鬼太郎が尋ねると、男は首を振った。
「何度聞いても同じだ」
「困りましたね。せっかく、ここまで一緒に来たのに」
脇腹から流れる血が、足元へ落ちる。息を吸えば肺が軋み、握った手は思うように閉じない。
向かいの男も、肩を痛めていた。剣を構えるまでの一瞬が、昔より遅い。
それでも鬼太郎は笑ってしまった。
相手が、あまりにもよく知る男だったからだ。
「皆が生きられる世界を選ぶ」
男は言った。
「そのために、ここまで戦った」
「ええ。あなたは最初から、そうでしたね」
「なら、どうして分からない」
「分かっていますよ。あなたは、僕に諦めてほしいのでしょう?」
男の剣先が揺れた。
「お前の望むもののために、また誰かが死ぬ」
「僕が諦めれば、誰も死なずに済むのですか?」
「そういう話じゃない」
「では、なおさら簡単にはお渡しできませんね」
男が踏み込んだ。
鬼太郎は頭を下げ、刃をかわす。続く横薙ぎは読めていた。かつて背を預けたとき、何度も見た動きだ。
だが、身体をずらした先に、もう切っ先があった。
服が裂ける。熱いものが脇腹を走った。
鬼太郎は痛みを無視して間合いへ入る。肩と肩がぶつかり、剣が押し上げられた。
二人は弾かれるように離れた。
男は息を吐いた。鬼太郎は、その音まで覚えている。
この男が前に出れば、自分が背後を埋めた。鬼太郎が攻めれば、相手が退路を作った。そうして神の喉元まで辿り着いたのだ。
今は、その剣が自分の喉を狙っている。
「昔から、こういう方でしたね」
「お前ほどじゃない」
「褒め言葉として受け取っておきます」
帰るなら急ぐべきだった。崩壊は、足元まで迫っている。
それでも、どちらも背を向けない。
鬼太郎は相手の肩を見た。傷が深い。長く戦えば、先に動かなくなるのは向こうかもしれない。
しかし、この男がそんな計算をしないはずがなかった。
最後に何を選ぶのだろう。
自分が知っている剣を、どこまで変えてくるのだろう。
「あなたと戦えるのは、嬉しいですよ」
「俺は嬉しくない」
「そうですか」
鬼太郎は前へ出た。
男の重心が沈む。予想よりも低く、速い。
――ああ、やはり。
鬼太郎は、笑った。
◆
ホッグズ・ヘッドの階下で、何かが倒れた。
怒鳴り声。駆け下りる足音。アルバス・ダンブルドアは扉へ目を向けたが、席を立たなかった。
面接の相手が、目の前で別人の声を出していたからだ。
シビル・トレローニーは、さきほどまで自分の占いの才を熱心に語っていた。ダンブルドアは採用を見送るつもりでいた。
しかし、今、女性の口から響く声には、先ほどまでの抑揚がない。
闇の帝王に抗う子供。
七月の終わりに生まれ、三度彼に抗った両親の子供。
ダンブルドアは身じろぎもせず、言葉を聞き取った。階下の騒ぎは、聞き耳を立てていた者が追い払われた音かもしれない。何をどこまで聞かれたのか、確かめようがなかった。
ようやく声が途切れる。
トレローニーは椅子へ沈み、眼鏡を押し上げた。
「……何のお話をしておりましたかしら」
何も覚えていないらしい。
ダンブルドアは言葉を選びかけた。
その瞬間、女性の身体が再び強張った。
「――神を殺せし魂は、墓場を越える」
老人の手が止まる。
今度の声には、奇妙な静けさがあった。一語ずつが等しい重さで落ちてくる。
「敗れてなお屈せず、選ばれず、従わず、定めの外より還り来る」
予言は、英国の古い魔法の血を引きながら呪文を使えない父と、日の昇る国から来た母について告げた。
その二人の間に生まれる子供。
闇の帝王に抗う子とは、別の子だ。
「一人は闇に選ばれ、一人は神を拒む」
窓が風に鳴る。
「二つの道が交わるとき、魔法の世は、墓場より還りし者の望みを知るであろう」
声が途切れた。
ダンブルドアは、さらに何かが続くのを待った。だが、トレローニーはきょとんとした顔でこちらを見つめている。
「ダンブルドア先生? それで、採用のお話は」
「……うむ。聞いておるよ」
階下の音はもうしなかった。
二つ目の予言を階下の侵入者が聞いた気配はなかった。だが、誰にも聞かれなかったと断言することもできない。
神を殺した魂。
比喩なのか、文字どおりの意味なのか。今のダンブルドアには知る術がなかった。
何より、一つ目の予言には闇の帝王という敵がいた。二つ目には、敵の名がない。
その子供が誰と戦うのかさえ、告げられていない。
ダンブルドアは胸の内に二つの予言をしまい、採用を待つ女性へ向き直った。