叔母と甥
第10話 叔母と甥
左腕に残った最後の糸を、医者が小さな鋏で切った。
消毒液が冷たく滲み、糸が抜けると傷の奥がちくりとした。鬼太郎は右手を膝へ置いたまま、皿へ落ちる黒い糸を見ていた。
「動かすなよ」
「動かしていませんよ」
「これから動かすなと言ったんだ」
鬼太郎は言い返さず、皿の中へ一本ずつ置かれていく糸を見ていた。
ニコラ・ペトロフを倒してから十日が過ぎていた。頬の傷は細い線になり、脇腹も着替えのときに布が擦れる程度になったが、左腕だけは、寝返りを打つたびに自分の不自由さを思い出させた。
その十日間、仕事は受けなかった。買い手が指名の依頼を持ち込んでも、内容だけ聞いて断った。英国へ渡る金は揃っている。今ここで腕を使い物にならなくするのは、依頼人ではなく自分の予定を潰すだけだ。
「肘を曲げてみろ」
最後の糸を抜いた医者が、腕から手を離した。
鬼太郎は左手を胸の前へ上げた。縫い目のあった場所が引きつれる。顔をしかめるほどではなかったが、何もなかった頃と同じようには動かない。
「日常には使っていい。重いものを持つな。銃を支えるのにも、あと一週間は使うな」
「歩くのは構いませんね」
「どこまでだ」
「英国まで」
医者は鋏を皿へ置いた。
「車で行け」
「そのつもりです」
「なら、歩くなんて言うな。傷が腫れたら向こうで医者を探せ。熱が出てもだ。布を巻いて我慢すれば治ると思うなよ」
鬼太郎は言われたことを覚え、袖へ腕を通した。袖口を引く動作にも、まだ右手を使う。
診療所を出ると、曇った空の下で荷馬車が通り過ぎた。車輪の軋む音を聞きながら、鬼太郎は通りの端へ寄った。
休んでいる間も、青い装束の人影は幾度か脳裏を掠めた。敵として刃を交え、別の場面では背中を預けた。その矛盾した記憶だけが鮮やかで、顔と名は抜け落ちたままだ。
今は追いかけない。思い出せないものに足を止めるより、海を渡る方が先だった。
角を曲がると、ペタルの作業場の窓が見えた。英国へ持っていく銃は、そこで点検を受けている。
◆
作業台には、分解された〈シュライク〉が並んでいた。
ペタルは鬼太郎が入ってきても顔を上げず、細い部品へ布を当てていた。椅子を顎で示され、鬼太郎はいつもの場所へ座る。
「曲がっていませんか?」
「銃はな」
ペタルの視線が左袖へ移った。
「今朝、糸が抜けました」
「それで、撃ってもいいと言われたか」
「左手で支えるのは、あと一週間待つようにと」
「右だけならいいとは言われてないんだな」
鬼太郎は答えず、台の上を見た。煤の跡は拭われているが、外側についた細い傷までは消えていなかった。
発電所で手から落とさず持っていた銃だった。あのときは握りを確かめる余裕もなかったが、こうして置かれていると、傷の位置がよく分かる。
「まだ使えますね?」
「そのために見ている」
ペタルは部品を戻し、手元で動きを確かめた。それから銃を布の上へ置き、鬼太郎の方へ押した。
「銃で足場を落としたそうだな」
「支えの留め具を撃ちました。動かないものは狙いやすいですね」
「足場が落ちた先には?」
「人がいました」
「そのための銃じゃない」
「おかげで戻ってこられました」
ペタルは鬼太郎の顔を見たあと、作業台の下から弾薬と予備の弾倉を出した。
鬼太郎は右手で品物を寄せ、頼んだ分が揃っていることを確かめた。代金を置き、〈シュライク〉を取る。握ったときの収まりは変わっていなかった。
「英国へ行けば、ここで直すわけにはいかん。予備の弾倉も、点検したものを持て」
「ええ。ですから、先にお願いしました」
「壊れる話だけじゃない。お前の手は大きくなる」
ペタルは鬼太郎の指先を示した。
「その銃は、今の手に合わせてある。合わなくなったのを、構えだけで誤魔化すな。握りを替えるだけで済む場合もある。だが、そのうち銃そのものが小さくなる」
鬼太郎は握りを少し緩め、自分の指を見た。
前世の感覚に今の身体を合わせようとして、腕を痛めたことがあった。今度は、身体が変わる方を待たなければならないらしい。
「そのときは、また作っていただきます」
「海の向こうから戻るのか」
「こちらまで来なければ、手を測れないでしょう?」
「測るだけなら、ほかにも職人はいる」
「同じものを作れるとは限りません」
ペタルは返事をせず、鬼太郎が鞄へ弾薬を入れるのを見ていた。
空の銃をホルスターへ収め、上着を下ろす。左腕を背へ回す動きには少し手間取ったが、今度も手は貸されなかった。
「お世話になりました」
「金はもらった」
「ええ。次も、そのつもりで伺います」
鬼太郎が扉へ向かうと、背後で金属を置く音がした。
「銃だけ送ってくるなよ」
振り返ると、ペタルはもう別の道具を手にしていた。
「お前がどう使っているか、見なければ分からん」
「分かりました」
鬼太郎は扉を開けた。冷たい外気の中へ出ても、しばらくは作業場の油の臭いが服に残っていた。
◆
ペタルの作業場を出ると、鬼太郎はミラを訪ねた。預けていた父の原本書類を受け取り、油紙の封を確かめる。偽造書類とは分けて包み、鞄の底へしまった。
買い手の机に広げられた地図は、前に見たものより大きかった。
鬼太郎が知る街は端に小さく記され、その西へ国と道が続いている。海まで指を動かすと、買い手がその途中を押さえた。
「一人で、この全部を通るわけじゃない」
イリーナが革の封筒から書類を取り出した。途中で車と運び手を替え、来なければ決めた時間だけ待って次へ移るという。
「払い戻しを待つ旅にはしないぞ」
地図を覗く鬼太郎へ、彼女が言った。
「では、先に英国へ行きましょう」
買い手が押さえていた指を退けた。
キリル・ヴァシレフ。紙に書かれたその名を、鬼太郎も指で追った。自分の名とは違う。だが、いま扉を開けるのは、こちらだった。
書類上の叔母は隣に立っている。国内の検問で一度使った関係だったが、今度は本当に国を出るために使う。
「道中で聞かれたことには、知っている分だけ答えろ」
イリーナが言った。
「傷は転んだ。私と親戚を訪ねる。分からない言葉があれば黙って私を見る。それ以上を、お前から足すな」
「料理の話もですか?」
「それは、もう忘れろ」
鬼太郎は口元を緩めたが、イリーナは笑わなかった。書類の一枚を裏返し、印の欠けや紙の端まで調べている。
鬼太郎も残りの金を出した。渡航費を払い終えると、鞄へ戻す紙幣は薄くなった。ニコラとの戦いで得た額の大半が、目の前の紙と、この先の車や人へ変わっていた。
「英国で会う相手には、お前の仕事を書いてある」
買い手が封筒の口を閉じた。
「だが、ここの話を読めば、そのまま信じるとは限らん」
「確かめれば、分かるでしょう」
「向こうが、何を確かめるつもりかは知らんぞ」
「そのときに、お聞きします」
買い手は鬼太郎をしばらく見た。何か言いたげに口を開き、やめた。封筒をイリーナへ渡す。
「ここから先で揉めても、俺の名前で片づくと思うな」
「困りましたね。こちらでも、そう思ったことはありませんよ」
「だったらいい」
鬼太郎は椅子から下りた。初めてここへ来たときは、誘拐犯に運転させていた。今度の運び手には、自分で稼いだ金を払った。
「書類と経路と同行者。約束のものは受け取りました」
「ああ」
「ありがとうございました」
買い手は机の紙を片づけ始めた。鬼太郎も返事を待たず、鞄を持った。
◆
翌朝、イリーナの車は日が昇る前に街を離れた。
鬼太郎は後部座席で、空になった鞄の底を確かめていた。父の書類は座席の下へ、銃と弾薬は別の隠し場所へ収められている。衣服の間に包んだ細い棒だけが、手元に残っていた。
「もう触るな。何も入ってない」
鏡の中からイリーナに見られ、鬼太郎は鞄を閉じた。
「確認しているだけですよ」
「この先で毎回やれば、鞄の外に何か隠したと教えるようなものだ」
鬼太郎は手を離した。窓へ顔を向けると、見慣れた通りはもうなかった。低い家がまばらになり、畑の向こうへ薄い明かりが広がっている。
昼を過ぎて着いた国境には、車の列ができていた。
制服姿の男が書類を受け取り、別の男が荷台へ上がる。前の車では、布袋が地面へ下ろされていた。係官がその中へ手を入れ、底まで探っている。
鬼太郎は自分の足元を見た。ここから座席の下へ手を入れても、すぐには留め具を外せない。銃は、さらに遠い。
「叔母さん」
「何だ」
「調べる方が、多いですね」
「今日はそういう日だ」
イリーナは前を見たまま答えた。
「昨日なら少なかったのですか?」
「昨日ここを通った者に聞け」
車が一台分進んだ。鬼太郎は膝の上へ両手を置いた。
順番が来ると、イリーナは窓を開けた。書類を渡し、係官の質問へ答える。男は紙と彼女の顔を見比べ、それから後部座席を覗いた。
名前と年齢には、練習したとおりに答えた。親戚を訪ねると話すと、係官の目が頬の傷で止まる。
「それは、どうした」
「走っていて転びました」
男はイリーナにも尋ねた。鬼太郎は続きを聞きながら、膝の上の手を動かさずにいた。
やがて二人とも車を降ろされた。別の係官が鞄を開き、衣服を外へ出す。包んだ棒が現れたとき、鬼太郎は男の手を見た。
「これは?」
「この子が拾ったんです」
イリーナが答えた。
「捨てろと言っても、持っていくと聞かなくて」
係官が布から引き出す。陽光の下に出されると、古い木の棒にしか見えなかった。
「なぜ、こんなものを持っている」
「気に入っています」
鬼太郎が答えると、男は棒の両端を持った。
左手の指が、膝の横で少し開いた。
係官が両端へ力をかけたら、取り返すには間に合わない。両親を襲った者の道具だ。同じものは買えない。
だが炎を見せれば、逃げ道を探すより先に銃を構えた男たちが集まるだろう。
肩へイリーナの手が置かれた。
鬼太郎は動かなかった。係官の指が木の表面を擦る。曲がるか確かめようとしたらしいが、男は力を入れきる前にやめた。
「荷物を戻せ」
棒が衣服の上へ放られた。
鬼太郎はすぐには拾わず、イリーナの手が肩から離れるのを待った。それから服を畳み、棒を包み直した。
車内の確認も終わった。書類へ印が押され、遮断棒が上がる。
イリーナは車を進めた。検問所が鏡の端から消えるまで、二人とも何も言わなかった。
「あれを折られたら、どうした」
しばらく走ってから尋ねられた。
「困りますね」
「困っただけで済ませろ。一本の棒のために、あそこから歩いて逃げるつもりか」
鬼太郎は鞄を見た。
炎なら、あの男の手を止められたかもしれない。だが、門の向こうに何人の見張りがいるかも分からない。一本の杖を守っても、英国への道は失う。
「折られないと、分かっていたのですか?」
「知らん。お前が先に動いたら、折られるどころじゃ済まないと思った」
鬼太郎はイリーナの横顔へ目を向けた。
「よい判断でしたね」
「自分で止まれれば、もっとよかった」
車は西へ進んだ。窓の外で標識の文字が変わっても、鞄の中の棒は、まだ同じ布に包まれていた。
◆
ユーゴスラビアの町で一夜を過ごし、二日目の昼には車を替えた。
次は木箱を積んだ車だった。そのあとには羊毛を運ぶ幌付きの貨物自動車にも乗った。イリーナは乗り換えるたびに書類と武器を別々に移し、鬼太郎は彼女が終えるまで荷物の脇で待った。
オーストリア、西ドイツ、フランス。地図で聞いた国の名前を、実際に通り過ぎていく。
途中の倉庫で、運転手が契約にない金を要求した。
鬼太郎は男の声より先に、荷物を積んだ車の鍵を見た。ここで揉めれば、銃だけでなく父の書類まで、どこへ運ばれるか分からない。
「子供がいるとは聞いていない」
「書類には二人とある」
イリーナが答えても、男は車の扉を開けなかった。
「女と荷物だ。子供は別に払え」
鬼太郎は、男の背後にある車を見た。銃も父の書類も、まだ前の車に隠されている。ここで別の運び手を待てば、その分だけ到着が遅れる。
男はイリーナが黙るのを、迷っていると受け取ったらしい。
「払わなければ、ここまでだ」
「車は、使えそうですが」
鬼太郎が言うと、男は初めてこちらを見た。
「お前に聞いていない」
「運転手がいなくなるだけでしょう?」
男の右手が上着へ寄った。鬼太郎はその手と顔を見ていた。今の距離なら、炎は届く。
「その手を下ろせ」
イリーナが半歩前へ出た。
「あんたには向こうで受け取る金がある。私には運ぶ荷物がある。決めたとおりにすれば、どちらも困らない」
「このガキを黙らせろ」
「乗せれば、後ろへ座らせる」
男は鬼太郎を睨んだあと、後部座席の扉を開けた。
乗り換えが終わり、倉庫が見えなくなっても、運転手は何度も鏡を見た。鬼太郎がその視線を返すと、すぐ前へ向き直る。
イリーナからは、話を増やすなとだけ言われた。
鬼太郎は窓へ顔を向けた。あの運転手を黙らせる方法はいくつかある。だが、次の運び手がどこで待つかはイリーナしか知らない。男を屈服させても、道が開くとは限らなかった。
国境では、キリルという名前に答えた。質問が続けばイリーナを見る。繰り返すうちに、知らない男から名を尋ねられても、口にする前の間が短くなった。
旅の六日目、車窓の向こうへ灰色の水面が現れた。
ル・アーヴルへ着いたのだと、イリーナが教えた。
◆
海へ出た船は、岸にある建物より大きかった。
鬼太郎は甲板で、濡れた手すりから少し離れて立っていた。風が上着へ入り、左腕の傷が僅かに疼く。
船内には車があり、隠した品も一緒に運ばれている。ここまで来れば、道を間違えたと言って別の通りへ曲がることはできなかった。
遠ざかる港の灯を見ていると、背後で扉が開いた。
「落ちるなよ」
イリーナが隣へ来た。
「泳げても、この海では助からん」
「落ちる予定はありませんよ」
「転ぶ予定もなかったことになっている」
鬼太郎は頬の傷へ触れかけ、手を下ろした。
「よく覚えていましたね」
「甥のことだからな」
その言い方が少し面白く、鬼太郎は彼女を見た。イリーナは海ではなく、甲板に出ているほかの客を見ていた。
「向こうで聞かれたら、親戚を訪ねる。港はポーツマスだ。英語は父親に習ったと言えばいい」
「簡単な会話と、少しの読み書きです」
「分からなければ、私を見ろ。分かったふりはするな」
「英国へ着けば、あなたの仕事も終わりですか?」
「紹介先へ渡すまでだ。それから先は、自分でやれ」
鬼太郎は港へ目を戻した。街の灯が小さくなり、見分けられた建物も、もう黒い塊になっている。
ペタルの作業場は、この海の向こうではない。買い手の事務所も、家の焼け跡も、今は見えない陸のずっと先だった。
持ってきた本と家族の書類、細い棒。それから、ここで稼いだ金と銃。自分で抱えられるものは、それほど多くなかった。
イリーナが扉へ歩き始めた。
「戻るぞ、キリル」
鬼太郎は、その名前で振り返った。
紙の上の甥は、まだ一人で国境を越えられない。だが、英国の紹介先へ届けられれば、彼女が演じる叔母とも別れる。
それまでは、彼女の歩幅に合わせよう。
「はい、叔母さん」
イリーナは返事をせず、扉を押さえて待っていた。