第16話 二本の杖
「プロテゴ」
ウォードの杖先に、薄く円い膜が広がった。
鬼太郎が右前腕を狙って撃った弾丸は、膜の表面で硬い音を立て、床へ跳ねた。
ただの壁ではない。杖の向きと短い言葉に合わせ、弾の通る場所へだけ防ぎが現れた。
ウォードの口元が緩んだ。
「それがお前の武器か」
「一つは、そうですね」
鬼太郎は銃口を戻した。銃弾を防ぐ手段があるなら、同じ場所を狙い続ける理由はない。発動までの一瞬、杖と声に注意を向けておく。
鬼太郎は銃口を向けたまま、男の横へ回り込もうとした。見えない壁が、そこまで続いているかは分からない。
右へ足を動かしたとき、壁際の棚が鳴った。
古い道具と木箱を載せたまま、床を削って滑ってくる。鬼太郎は横へ走ったが、棚の角が右肩を掠めた。
身体が半歩分、外へ押し出される。
そちらへ、ウォードの杖が向いていた。
何かに胸を殴られた。
両足が床から離れ、背中が別の棚へぶつかる。息を吐く間もなく肺が空になり、鬼太郎は膝をついた。
銃は離さなかった。
右手を上げようとすると、今度は重い机が動いた。横倒しになり、ウォードとの間を塞ぐ。
鬼太郎は息を吸い直した。胸も背中も痛み、最初に銃を弾かれた手までじんと痺れている。
弾を防げる男が、次の弾を待たず身を隠した。防御にも限界があるのか。そうでも、残弾を使って試す理由はない。
机の端から杖先が出た。
鬼太郎は転がった木箱へ身を寄せた。直後、箱が砕け、木片が頬を擦る。
一発撃ち返したが、弾は机の天板へ入っただけだった。
「子供が持つような物じゃない」
机の向こうから声がした。
「あなたの杖にも、よく似たことができるようですが」
「これは我々の道具だ」
「でしたら、この銃も僕の道具ですよ」
答えながら、鬼太郎は低く構え直した。机の右端に、靴先が見える。そこへ狙いを移そうとしたとき、足首が締まった。
床の縄が動いていた。
両脚を巻き、腰へ這い上がる。鬼太郎が立つ前に強く引かれ、背中から床へ倒された。
右腕が身体へ押しつけられた。
〈シュライク〉を持つ手が動かない。左腕も縄の内側へ巻き込まれる。
ウォードが机から出てきた。
「炎を出す前に、両手を縛ればいい」
鬼太郎は左の指を動かした。
縄と袖の間に、指一本ぶんの隙間がある。腕は上がらない。掌を開けても、その場で炎を出せば袖と手首まで焼ける。
相手が決めた「両手を縛る」が、このまま自分の終わりになるのは気に入らなかった。
「アギ」
小さな炎を、縄の触れる場所へ灯した。
袖が焦げる。手首へ焼ける痛みが走ったが、先に縄が黒くなり、張っていた力が緩んだ。
鬼太郎は左手を引き抜いた。
ウォードの足が止まる。
その間に、残る縄へ炎を移した。熱が身体へ来る前に横へ転がり、抜けた右肘で床を押す。
ウォードは追ってこなかった。
部屋の中央へ下がって足を揃え、杖を身体へ引き寄せた。さっき現れたときも、男は何もない場所へ突然立っていた。
逃げるつもりだった。
鬼太郎の頭には、さっきのプリンパの鈍さが残っている。もう一度通るとは限らず、失敗すれば今度こそ消えられる。
鬼太郎は左手を上げた。もう一度プリンパを使える余裕があるとは限らない。
狙ったのは男ではなく、右側へ転がった布と床だった。
「アギ」
転がっていた布と床板に火がついた。
ウォードがそちらを向く。左には、最初に燃やした作業台がある。火の熱を避け、男は正面へ飛び出した。
鬼太郎は逃げ道が一つになったところで、右脚へ銃口を合わせた。
一発。
右脚を撃たれ、ウォードが膝をつく。それでも、杖を手放さなかった。息を吸い、こちらへ向ける。
鬼太郎は続けて撃った。
右前腕が跳ね、杖が落ちる。
男は呻きながら、左手を伸ばした。
鬼太郎は立ち上がった。胸の奥が痛み、深く息を吸えない。右手も銃を打たれた衝撃で痺れているが、まだ歩ける。
ここで近づくのは危険だった。それでも杖が男の手元へ戻れば、こちらは同じ防御をもう一度突破しなければならない。
杖の手前を靴で押さえ、男の手が届かない方へ滑らせる。
「動かないでください」
銃口を胸へ向けると、ウォードの左手が止まった。
まだ身体が回りかけていた。
「消えるための動きですか? 続けるなら、撃ちます」
ウォードは鬼太郎を見上げた。
「生きたあなたを渡す方が、報酬は高いのです。ですが、死んでいてもいただけます」
鬼太郎は笑わずに続けた。
「どちらになるか、ここで決めますか?」
男は左手を床へ置いた。
◆
鬼太郎はウォードを腹這いにさせた。銃を向けたまま左手で杖を拾い、上着の内側へしまう。
男に両手を背へ回させ、鞄から出した予備の縄で順に縛った。右手で銃を構えたまま、縄の端を靴で踏んで固定し、焼けた左手で結び目を作る。指を動かすたび痛みが走る。男が身じろぐと銃口を寄せ、動きを止めさせてから続けた。
両手と両脚が縛られてから、銃を収めた。右脚と前腕には服を裂いて布を巻く。止血中も男の左手が見える位置を離れなかった。
「撃った相手を、助けるのか」
「先ほどお話ししましたよ。生きている方が、高いのです」
鬼太郎は布を結び直した。自分の左手首もひりついているが、まだこちらを先に冷やす暇はなかった。
作業台と床に、火が広がり始めていた。
壁際へ置いた砂を運び、火へ被せる。厚い布を重ねて押さえると、煙が上がった。
少し運んではウォードを見る。縛ってあるから、もう逃げないとは言えなかった。
男は縛られた腕を胸へ寄せ、床へ横たわっている。
やがて火が収まり、鬼太郎は窓を僅かに開けた。冷たい空気を吸うと、ようやく喉に溜まった煙の臭いが薄くなる。
ウォードの外套を調べた。
深い内ポケットから黒い帳簿が出た。別の場所には、小粒の宝石を詰めた革袋がある。
「持ち歩いていたのですか」
「ベケットの連中が、部屋へ来ることは分かっていた」
鬼太郎は帳簿を少しだけ開いた。取引の記録らしい数字と名前が並ぶ。袋にも宝石がある。依頼品が揃っているかは、ここで数えても自分には分からなかった。
数と価値を確かめるのは、契約どおり依頼人の仕事だ。
品物を鞄へしまい、倒れていた椅子を起こした。
銃を抜いてから、ウォードの脚の縄を緩める。左脚で身体を支え、自分で椅子へ移るよう命じた。男が座ると、両手を背へ回させる。
銃を収め、手を縛り直した。脚も椅子へ留める。
痛む右手に力を込めると、握りが少し遅れた。鬼太郎は結び目を確かめ直してから、男の正面へ回った。
「次は、僕の質問です」
◆
奪った杖を見せると、ウォードはそれを目で追った。
「これは、魔法を使う道具なのですね?」
「魔法を集中させ、狙い、形にするものだ」
「杖がなければ使えませんか?」
「使える者もいる。だが、難しい」
鬼太郎は杖を手元へ戻した。
自分は手を上げてアギを出せる。ウォードも、杖がなければ全く何もできないとは限らない。だが、銃より先にこの杖を取り戻そうとしていたのは事実だった。
「消える力には?」
ウォードは答えなかった。
鬼太郎は銃を抜き、巻いた布で覆われた右脚へ向けた。
「お話しいただく間は、撃ちません。できれば、ゆっくりお願いします」
男は口元を歪めた。
「姿くらましだ。杖があった方が、集中しやすい」
「今は?」
「こんな傷で、杖もなしにやれば、身体の一部を置いていくかもしれん」
鬼太郎は撃った右腕と脚を見た。「危険だ」とは言うが、「できない」とは言わない。
この男には、武器を奪っても残る逃げ道がある。その可能性を忘れず、銃口を下げなかった。
「あなたのように杖を使う方は、ほかにもいるのですか?」
ウォードはしばらく鬼太郎の顔を見た。
「本当に、何も知らないのか」
「そのたびに驚かれては、先へ進みませんね」
「大勢いる。昔から、マグルに隠れて暮らしている」
聞き慣れない単語に、鬼太郎は話を止めた。
マグルとは、魔法を使えない人間のことだという。ベケットや買い手、ウォードを追っていた男たちも、そちらに含まれる。
「僕は、そちらではないのですか?」
「杖なしで火を出しておいて、何を言う」
鬼太郎はその返事を聞いた。ウォードは炎を魔法と呼んだ。しかしアギが、あの円い防護や姿を消す術と同じ仕組みなのかは、まだ分からない。
こちらから違うと説明するつもりもなかった。
ウォードの言葉が速くなったので、もう一度ゆっくり話すよう頼んだ。
英国には、魔法使いの社会がある。
魔法省という組織が決まりを作り、破った者を捕らえる。普通の人間には存在を知られないようにしており、街の中にも、マグルには見つけにくい店や通りがあるのだという。
「ベケットさんたちは、あなたのことを知りませんでしたね」
「知っていても、私に近づいたと思うか?」
鬼太郎は腕を吊った男を思い出した。
相手の力を知らずに手を伸ばし、壁へ飛ばされた。
「では、その方たちには見つからない店へ、あなたは行ける」
「そうだ」
「場所を教えてください」
ウォードの視線が止まった。
「ロンドンに、漏れ鍋という店がある。その奥から、ダイアゴン横丁へ入れる」
鬼太郎は紙と鉛筆を出す前に、男の縄を確かめ直した。右腕と右脚は撃たれているが、傷だけを当てにして目を離すわけにはいかない。互いの手の届かない位置へ椅子を引き、銃をすぐ抜けるところへ収めてから紙を広げる。
「道順をお願いします」
「住所を知っても、マグルには店が見えない」
「僕は、魔法使いなのでしょう?」
ウォードは口を閉じた。
鬼太郎は鉛筆の先を紙へ当て、待った。やがて男が道を説明し始めたので、聞き取った名前と曲がる場所を書き留めていく。
店の奥には壁があり、決まった煉瓦を杖で叩くと入口が開くという。
鬼太郎は煉瓦を四角で描き、場所を指して聞き直した。説明の言葉だけで分かったつもりにはなれなかった。
ウォードは一度目を閉じ、違う、と訂正した。
「そこじゃない。下から数えて……」
図が出来上がると、鬼太郎は自分で説明し直した。男がうなずくまで、紙を畳まなかった。
「子供は、どこで魔法を覚えるのです?」
「親から教わる者もいる。英国なら、十一歳でホグワーツへ行く者が多い」
「学校ですか?」
「そうだ。お前くらいの年で、あれほど意識して使う子供は普通じゃない。どこかの家が隠して育てたのか?」
「それは、あなたが知る必要のないことです」
鬼太郎は学校の名を書いた。父が生まれた国に、杖を持つ者の街と、その使い方を学ぶ場所があった。
「十一歳まで、待たなければ学べないのですか?」
「学校へ入る年だと言った。親から教わることもあると、聞いていなかったのか」
「教える方がいない場合は?」
ウォードは鬼太郎の顔を見た。問い返そうとしたらしいが、口を閉じ直す。
「本はある。読めるならな」
鬼太郎は「ホグワーツ」の隣に、十一歳、と書き足した。辞書にはまだ何枚も紙が挟まっている。それでも、読めるようになるまで本を買わずに待つ必要はなかった。
両親を襲った者たちの名は、まだ分からない。ホグワーツという学校へ行くとしても、何年も先になる。
その前に、店を見つけて本を開けばよい。
鬼太郎は図を鞄へ入れた。
ウォードがその手元を見ていた。
「聞いたのなら、逃がせ」
「質問をすることと、お渡しすることは、別のお約束です」
「ベケットは、私をどうすると思う」
「あなたを連れてくれば、報酬が出ます」
鬼太郎は立ち上がり、右脚の布を確かめた。血は滲んでいたが、さっきより増えてはいない。
「お話には感謝します。僕には、報酬より価値がありました」
ウォードは何か言いかけたが、鬼太郎が杖を上着へ収めると、黙って顔を背けた。
◆
夜更け、外で車が停まった。
鬼太郎は窓から来た男を確かめ、扉を開けた。買い手の部下は、縛られたウォードと焦げた床を見たが、すぐには中へ入らなかった。
「生きているのか」
「ええ。品物もあります」
「どうやって捕まえた」
「逃げる道具を取り上げました」
男は上着の下へ目を向けたが、それ以上尋ねず、ウォードを車へ運ぶのを手伝った。
ベケットの前では、黒い帳簿が最初から最後まで調べられた。
革袋の宝石も机へ並べられ、一つずつ数えられる。鬼太郎は椅子へ座り、左手首を身体へつけないよう離していた。
「全部ある」
ベケットは最後の石を袋へ戻し、ウォードを見た。
男は答えず、床を見ている。
「その棒は?」
ベケットに尋ねられ、鬼太郎は上着へ手を当てた。
「僕がいただくと、先に決めたものです」
「そうだったな」
品物に欠けはなく、ウォードも生きていた。満額の支払いから買い手の五分の一が分けられ、残りを鬼太郎が受け取る。
確かめて鞄へ入れると、ベケットはもう、こちらを見ていなかった。
鬼太郎はウォードの横を通って部屋を出た。背後で扉が閉まる前に、ベケットが椅子を引く音がした。
◆
個室へ戻り、鬼太郎は焦げた左袖を切った。
手首には、焦げた袖の一部が貼りついていた。そこは残して周りを切り、水で冷やした。右肩と背中、脇腹にも痣が浮かんでいた。
机へ手を置こうとして、右の指が止まる。
最初の一撃で銃を落とした手だった。男の杖を知りたくて近づいたのに、先に自分の武器を奪われた。
鬼太郎は指をゆっくり曲げ、今夜の手入れを最低限で終えた。
翌日から、射撃は休んだ。ウォードが口にした魔法の言葉を、むやみに真似ることもしなかった。杖を握って動けば同じことが起こると、確かめたわけではない。
傷を治す力は知らない。火傷を冷やし、休むほかになかった。机へ向かうときも、痛む方へ身体を捻らないよう椅子を寄せる。
その間に、ロンドンへの道を調べた。
買い手に荷を運ぶ車のことを尋ね、地図を手に入れる。漏れ鍋へ直接連れていってもらうつもりはない。教わった場所が本当に見えるのか、そこからは自分で歩いて確かめたかった。
英国へ渡って、間もなく半年になる。
鬼太郎は床板を外し、最初の杖を取り出した。
机へ置き、その隣にウォードの杖を並べる。
長さも形も違っていた。どちらも、使い方を知らなければ、ただ手に持つしかない木の棒に見える。
片方は、両親を襲った者の手にあった。もう片方は、銃を跳ね返し、目の前で棚を動かした。
同じ「杖」でも、まだ分からないことばかりだ。
鬼太郎は煉瓦の図を広げた。線を描き直したところへ、訂正した数が小さく書き込んである。
壁なら、これまでにも何度も見た。だが、開け方を知らなければ、その前を通り過ぎてしまう。
細い杖の正体を尋ねるために、国を出た。
今度は、その杖を持って入口を開けにいく。
鬼太郎は二本を別々の布へ戻した。使い方が分からない道具は、今はむやみに振らない。
「では次は、隠れている側へ伺いましょうか」
ロンドンの印へ指を置くと、窓の外を車が走り抜けた。その音は、行ったことのない街へ続いている。
第2章「杖の持ち主」完