第1話 明日もいると言った
第1話 明日もいると言った
父が「明日もいる」と言った朝、門の前には見覚えのない靴跡が二人分残っていた。
もっとも、それに気づいたのは食事のあとだった。
ブルガリアの町外れ。古い柵に囲まれた家で、六歳の墓場鬼太郎は目を覚ました。階段を上る足音がして、母が扉の向こうから呼ぶ。
「鬼太郎、朝ですよ」
「起きています。すぐに行きますね」
「はい。顔を洗っていらっしゃい」
鏡の前に立ち、跳ねた前髪を濡らした。濃い青色の一房は、指を離すとすぐ元へ戻る。
「……諦めましょうか」
棚へ本を戻して、一階へ下りた。
台所からは焼いたパンの匂い。父は新聞を開いている。食卓には、三人分の皿があった。
「おはようございます」
「おはよう、鬼太郎」
父が紙面から顔を上げた。母は鬼太郎を見て、笑いをこらえるように口元を押さえた。
「お母さん。健康状態を髪で判断するのは、おすすめしません」
「だって、今朝も元気に跳ねているもの」
母が指を伸ばす。鬼太郎は少しだけ顎を引き、それでも頭を動かさなかった。
触れられるのは、あまり好きではない。
けれど母の手は、勝手に何かを取り上げたりしない。父も同じだった。本を借りるときには尋ね、返すと約束する。鬼太郎が貸したくないと言えば、それ以上は触らない。
だから、この二人が自分に触れるのは構わなかった。
「昨夜の本は、どこまで読んだ?」
父が尋ねた。
「まだ途中です。読み終わったら、お貸ししましょうか」
「ぜひ。どんな話かも教えてくれ」
「返していただけるなら」
「もちろん」
父は笑った。母が卵の皿を寄せる。
「本の話は、食べてからよ」
鬼太郎は素直にパンをちぎった。
食卓での会話は、いつものように些細なことだった。父が裏の柵を直すと言い、母は以前修理を任せた椅子がまだ物置にあると指摘する。
「あれは最初から壊れていたんだ」
「座れた椅子を、座れない椅子にしたでしょう?」
父が助けを求めるように鬼太郎を見た。
「まだ物置にありますよ。座れないままで」
「……味方がいないな」
母が笑い、父もつられて笑った。
鬼太郎はこの時間が好きだった。明日も同じ三つの席が埋まり、名を呼べば返事がある。そのことを疑ったことがない。
「どうした?」
「二人とも、今日もここにいると思っただけです」
「昨日もいたし、明日もいるさ」
「それなら結構です」
父は新聞を持ち上げた。
しかし、ページをめくる代わりに窓を見る。
鬼太郎が卵を食べ終わるまでに、二度。三度目には、母まで同じ方を見た。
「誰か来るのですか?」
「いや。誰も来ないよ」
父の指が、新聞の端を強くつまんでいた。
食器を運びながら、鬼太郎も外を見る。
門の前の柔らかな土に、靴跡が二組。道から近づき、門のところで止まり、引き返している。
「昨日、お客さんが?」
母の持っていた布巾が止まった。
「いいえ……どうして?」
「門の前に、二人分の足跡があります」
父は新聞を畳んだ。
「鬼太郎。今日は外へ出ないように」
「柵を直すのでは?」
「また今度にする」
「分かりました」
理由を説明しないのは、今は話せないからだろう。二人が何かを隠していることは分かった。なぜ隠すのかは、まだ分からなかった。
鬼太郎は門へ目を戻した。
黒い外套を着た男が立っていた。
道を進むでもなく、こちらを向いている。フードの陰で顔は見えなかった。その隣に、もう一人が現れた。
歩いてきたのではない。何もなかった場所に、突然、人間が立った。
「お父さん」
呼ぶより早く、父が窓辺へ駆け寄った。男たちを見た瞬間、その顔から血の気が引く。
「カーテンを閉めろ」
母が窓を覆った。朝日が遮られ、台所が薄暗くなる。
「お母さんと二階へ行きなさい」
「なぜです?」
「あとで話す。早く」
玄関の扉が、三度叩かれた。
父の肩が震えた。母は鬼太郎を引き寄せ、自分の背後へ隠そうとする。
「おはようございます。少々、お尋ねしたいことがあるのですが」
扉の向こうから、礼儀正しい声がした。
玄関脇の曇りガラスに、人影が二つ映っている。一人が腕を上げ、細い棒のようなものを扉へ向けた。
鍵が、ひとりでに回り始めた。
父が取っ手を押さえた。
「裏口へ行け!」
母の手が鬼太郎の肩をつかむ。その瞬間、扉が内側へ弾けた。
父の身体が食卓へ叩きつけられ、皿が砕けた。母が息をのむ。壊れた玄関から、外套の男たちが入ってきた。
「こんなところで、随分と慎ましく暮らしていたものだ」
先頭の男が、倒れた父を見下ろした。
父は食卓に手をつき、立ち上がった。
「戦争は終わった。あの人も消えた。もう、私たちを追う理由はない」
「追う?」
二人の男が顔を見合わせ、一人が笑った。
「自分が追われるほど大した人間だと思っているのか?」
父の顔が強張る。
「鬼太郎、行くわよ」
母に引かれても、鬼太郎は父から目を離せなかった。男たちの前へ立ち、両腕を広げている。その手には、何もなかった。
「妻と子供は関係ない」
「それを決めるのは、お前ではない」
細い棒が父の胸へ向いた。
「走れ!」
「アバダ・ケダブラ」
緑の光が、父を捉えた。
父は声を上げずに倒れた。床へ打ちつけた頭も、投げ出された手も、それきり動かなかった。
「お父さん?」
開いた目は、鬼太郎を見ていなかった。
食卓から落ちた手が、床に横たわっている。鬼太郎は、その指が動くのを待った。立ち上がれなくても、こちらを向くくらいはできるはずだった。
先ほど扉ごと飛ばされたときには、立った。今は身体に傷も見えない。それなのに、息を吸う音すらしなかった。
「見ないで!」
母の腕が頭を抱え込み、父の姿が隠れた。そのまま台所を抜け、裏口へ引かれていく。
六歳の足では母についていけず、何度も床を踏み損ねた。背後では、ゆっくりと靴音が続いていた。
母が裏口の取っ手を回した。
洗濯物を抱えた母のために、鬼太郎も何度となく開けてきた扉だった。なのに、取っ手を回してもびくともしない。
「開くわけがないだろう」
廊下の向こうに、もう一人の男がいた。父を倒した男とは違う。その手にも、同じ棒が握られている。
母が膝をつき、鬼太郎の頬へ触れた。
「合図したら、二階へ逃げなさい。窓から出るの」
「高すぎます」
「大丈夫。あなたなら――」
「相談は終わったか?」
男が近づく。母は鬼太郎を背へ押しやり、両手を広げた。
「この子には何もありません。まだ六歳よ」
「だからどうした」
棒の先が、母の胸へ定められた。
鬼太郎は母の服をつかんだ。
父にも、あれが向けられた。緑の光を受けて倒れ、呼んでも答えなかった。
母をここから離さなければならない。だが、服を引いても、母は男の前から動かなかった。
「やめてください」
鬼太郎は母の脇から、男を見上げた。
「お母さんは、僕のものです。壊さないでいただけますか?」
男の眉が動いた。
「気味の悪い子供だ」
「聞こえませんでしたか?」
「聞こえたとも」
男が笑う。
「断る」
再び、緑の光が走った。
母の身体が鬼太郎へ倒れかかった。
支えようとした腕が折れるように曲がり、二人で床へ落ちる。頬に母の髪がかかった。今朝も近くで嗅いだ、石鹸の匂いがした。
「お母さん」
鬼太郎は身体の下から這い出し、母の顔を覗いた。
目は開いている。
けれど、鬼太郎を見ていなかった。
手を取る。指を開いて自分の頬へ当ててみる。今朝と同じ温かさなのに、髪へ伸びてこない。
その手を離すと、床へ落ちた。
鬼太郎は落ちきる前に受け止めた。
もう一度、頬へ当てた。
動かない。
父も、こうなった。さっきまで返事をしていた二人が、もう何も答えない。
母を背負って逃げることも、腕を引いて立たせることもできない。六歳の身体では、重さを変えられなかった。
今朝、この手は確かに自分の髪に触れた。父は明日もいると言った。
男たちが来なければ、きっとそうだった。
――奪われた。
頭の奥で、知らない銃声が響いた。
赤黒い空が見えた。崩れた建物の間を、何かが走っている。人ではない。咆哮が響き、血と鉄の臭いが鼻の奥へ満ちた。
そこで、自分は生きていた。
隣にいた者が倒れ、食料を奪われ、眠る場所を追われる。手放したくないと願っても、それだけでは何一つ残らない。
奪われたくなければ、奪う者より強くなるしかなかった。
鬼太郎は母の肩から手を離した。
戦い、逃げ、生き延びた記憶が流れ込む。二十四歳で死んだはずの自分がいた。だが、誰に殺されたのか、その顔を思い出そうとすると、血と鉄の臭いだけが残った。
母の手の感触は、まだ頬にある。知らない街で生きた記憶も、今朝までの六年も、どちらも自分のものだった。
なぜ二つあるのかを考えるより先に、男が立っている位置を見た。母を挟んで、数歩先。こちらへ向けた棒から、あの光が放たれる。
床に倒れたままでは、避けることもできない。
「おい。次はお前だ」
男の声で、廊下が戻ってきた。
鬼太郎は立ち上がった。父と母を倒した武器が、今度は自分へ向いている。
恐怖はあった。身体は小さく、逃げ道も塞がれている。
それでも、相手の手が動くのを待つ気にはならなかった。
鬼太郎は右手を上げた。
胸の奥にある力を、つかんだ。何をするのか考える前に、力は熱を帯び、伸ばした手の先へ集まっていた。
「アギ」
赤い火球が、男の胸へ直撃した。
外套が弾けるように燃え上がった。男は悲鳴を上げて廊下へ倒れ、両手で炎を叩いた。
「消せ! 消してくれ!」
燃える身体が床を転がる。母へ近づきかけたところで、鬼太郎は母の服を引いた。動かせたのは、わずかだった。
男は鬼太郎へ手を伸ばしたが、届かなかった。叫び声が掠れ、やがて動かなくなった。
鬼太郎は、その顔を見ていた。
母に武器を向けたとき、男は笑っていた。鬼太郎の言葉を聞き、意味も分かったうえで断った。その男が、今は自分を焼く火から逃げようとしていた。
火を消す方法は知らない。知っていたとしても、助けたいとは思わなかった。
焼けた臭いが廊下へ広がる。
鬼太郎は右手を見た。皮膚は焼けていない。掌を開き、指を曲げる。
「……アギ」
その響きを知っていた。
何度も、この手から炎を放ったことがある。誰へ向けたのかは思い出せなくても、赤い火球が飛ぶ光景には、確かな覚えがあった。
玄関の方で、靴音が止まった。
父を倒した男が、廊下の入口に立っていた。焼けた仲間と、鬼太郎の右手を交互に見ている。
「何をした……?」
先ほどまでの笑みは消えていた。
鬼太郎は、その男へ掌を向けた。
「さあ。僕にも、よく分かりません」
もう一度、炎を出せるだろうか。
力をつかんだ感覚は残っている。だが、同じようにできる保証はなかった。手の先には、まだ何も生まれていない。
「ですが、あなたにも試してみれば、何か思い出せるかもしれませんね」
男の喉が動いた。
一歩、後ろへ下がる。倒れた仲間を一度だけ見ると、棒を持ち上げた。
鬼太郎は身構えた。
乾いた破裂音がして、男の姿が消えた。
鬼太郎は手を下ろさず、廊下の入口を見ていた。外で走る音はしない。玄関の向こうへ出た様子もなかった。
突然現れ、突然消えた。
追う方法は知らない。男の名前も、父を見つけた理由も分からなかった。
しばらく待ってから、鬼太郎は右手を下ろした。
壊れた食卓のそばへ歩く。父の目を閉じ、廊下へ戻って母の目も閉じた。
朝の光が、破れた玄関から差し込んでいた。床に散った皿の欠片が、その光を返している。
鬼太郎は母の隣へ膝をついた。
「明日もいると、おっしゃったでしょう」
返事はない。
父が嘘をついたのではない。約束を守れなくなるまで、二人を追い詰めた者がいる。
鬼太郎は、小さな手を開いた。
母を支えられなかった手だ。なのに、同じ手から放った炎は大人の男を倒した。
「……なるほど。力がなければ、こうなるのですね」
もう一人は逃げた。
どこへ消えたのかも、どんな仲間がいるのかも知らない。彼らが帰ってきたとき、炎が間に合う保証もない。
鬼太郎は母の手をそっと床へ戻した。
今度は、落とさなかった。
次に誰かが自分のものへ手を伸ばすなら、その手が届く前に止めなければならない。