第2話 親切な案内人
廊下に残った小さな火が、男の外套を焼いていた。
鬼太郎は母のそばから立ち上がり、燃えている男を見た。胸を中心に布が黒く縮れ、先ほどまで武器を握っていた手は、床へ投げ出されている。
その少し先に、細い棒が落ちていた。
鬼太郎は袖で右手を覆い、拾い上げた。木でできているらしい。母へ向けられた先端は焦げていたが、折れてはいなかった。
男の死体へ向けても、何も起きない。男が使ったときには、言葉を唱えていた。
「魔法の杖、でしょうか」
童話の中でしか聞いたことのない言葉だった。だが、何もない場所へ現れる人間も、勝手に回る鍵も、この細い棒から放たれた光も、確かに見ている。
自分も手から炎を出した。
右手を開くと、先ほど力を引き出した感覚が分かった。内側へ意識を向け、火炎の形を与え、掌の先へ送る。仕組みを説明することはできない。それでも、繰り返してきた動作のように、どうすればよいかは分かった。
アギ。
それ以外の言葉は、浮かんでこなかった。
鬼太郎は杖を下ろした。調べたいことはあるが、今はここを出る方が先だった。
逃げた男が仲間を連れてくるかもしれない。父と母を倒した光を使う者が、あの二人だけだと考える理由はなかった。次も一人を燃やせば逃げるとは限らない。
壊れた玄関を見てから、二階へ上がった。
自分の部屋は、起きたときのままだった。
布団の端が少しめくれ、窓から寝台へ日が差している。鬼太郎は棚へ戻した本に手を伸ばした。
父に貸すつもりだった本だ。
残りを読み、食卓で話せばよかった。父がどういう顔で聞くかも、少し楽しみにしていた。
表紙を開く。昨夜読んだところには、何の印も残っていない。それでも、どこまで読んだかは覚えていた。
鬼太郎は頁をめくらず、本を閉じた。
棚から小さな鞄を出し、底へ収める。ほかの本まで入れれば、着替えも食料も持てなくなるだろう。
気に入ったものを全部持っていくには、身体が小さすぎた。
着替えと上着を詰め、両親の寝室へ向かう。引き出しには現金と、家族の書類がまとめられていた。
父の英国での出生記録、母の日本の書類、そして自分のもの。確かめて鞄へ入れた。どれも、あとで家族の足跡をたどる手掛かりになる。
一階へ戻り、水と日持ちする食べ物を用意した。拾った杖は布で包む。鞄を持ち上げると、肩紐が食い込んだ。少し歩いただけで、中の瓶が背中へ当たる。
水を捨てるわけにはいかなかった。服の間へ瓶を挟み直し、もう一度背負う。
台所へ戻ると、母は床に横たわっていた。
その手に触れる。先ほどより冷たい。持ち上げても、自分の頬へ伸びてくることはなかった。
玄関の方には、父がいる。
二人を運ぼうとしたが、鬼太郎の力では母の身体を少しずらすだけで精いっぱいだった。
鬼太郎は父の前へ立って、頭を下げた。
「六年間、お世話になりました」
母にも同じことを告げる。
返事は、やはりなかった。
父に貸すつもりだった本が、鞄の底にある。母の布巾は、食卓の脇へ落ちたままだ。持ち出せるのは本と書類と少しの金だけ。二人の身体は運べなかった。
このまま置けば、家へ入ってくる者が触れる。あの男たちが戻るかもしれない。二人の顔も、最後にどこへ置かれるのかも、自分には選べなくなる。
そんなことは、嫌だった。
けれど、二人を焼いても元には戻らない。墓を作れるわけでもない。残されたものまで失う。
鬼太郎は右手を下ろしたまま、しばらく考えた。
知らない誰かへ渡すよりは、自分で終わらせる。
結局、それが今の鬼太郎にできる選択だった。
母の手を胸の上へ戻す。父の新聞は皿の破片に挟まったまま動かさなかった。
右手へ、熱を集める。
「アギ」
窓辺のカーテンが燃え上がった。
もう一度、別の部屋へ放つ。火は布を伝い、壁へ広がる。これが、怒りでたまたま起きたことではないと確かめられた。
燃え広がるのを見届け、鞄を背負い直す。
この家で父と母が何をしていたか、鬼太郎は覚えている。炎が消えても、自分の中からは消せない。
割れた皿を避け、壊れた玄関を越える。
戸を閉めることは、できなかった。
◆
町へ着くまでに、何度か休まなければならなかった。
足が重くなり、肩へ掛かる鞄の位置を直す。二十四歳で死んだ男の経験が戻っても、六歳の身体が急に強くなったわけではなかった。
道端で水を飲んでいると、通りかかった女に声をかけられた。
「坊や、一人なの?」
「父が少し遅れています。先に行くよう言われました」
「どこまで?」
「すぐそこです。ありがとうございます」
鬼太郎は頭を下げ、歩き出した。女はまだ何か言いたそうだったが、追ってはこなかった。
父が死んだと答えれば、なぜ一人でいるのかと尋ねられる。家まで戻ることにもなりかねない。
そんな説明をするより、父を待つ子供だと思ってもらう方が楽だった。
町へ着くと、鬼太郎は新聞を買い、図書館へ入った。
「お父さんを待っているの?」
受付の女へうなずくと、閲覧室へ通された。高い棚の前で立ち止まっていると、踏み台を持ってきてくれる。
「落ちないでね」
「ありがとうございます。気をつけます」
六歳の手では届かない棚がある。大人の助けを借りれば届くが、そのたびに余計な質問が増える。
知らない大人に本当の事情を話せば、家へ連れ戻されるかもしれない。今は、できるだけ目立たずに調べたかった。
新聞の日付と、思い出した記憶の年を比べる。次に歴史書を開き、地図と年表を確かめた。
知っている地名はある。だが、起きたはずの事件が載っていない。自分の記憶にある世界と、同じではないらしい。
杖から緑の光を放つ者たちについても、何も見つからなかった。
鬼太郎は鞄の布包みへ目を落とす。
そこには、あの男が落とした杖がある。
魔法を使う者がいないのではない。ここに並んだ本の作者が、その存在を知らないのだろう。
父は知っていた。
扉の向こうの男を見たとき、父は「戦争は終わった」と言った。相手の武器が何なのか、尋ねもしなかった。
鬼太郎は父の出生記録を取り出した。
英国生まれ。
その国に、答えを知る人間がいるかもしれない。
地図を開き、ブルガリアから西へ指を滑らせる。
海の向こうに島があった。
交通案内を開くと、旅券や保護者の問題に行き当たった。切符を買うだけでは、一人で何か国も越えられない。
警察を頼り、父の血縁者を探してもらうことも考えた。だが、見つかるまでどこへ置かれるのか分からない。逃げた男が捜しているかもしれないのに、自分から居場所を知らせるのも気に入らなかった。
「正しい手順というものは、不便ですね」
近くの席の男が顔を上げた。鬼太郎は本へ視線を戻す。
正規の道が使えないなら、ほかを探せばよい。
追われる人間や、表へ出せない荷物を運ぶ者はいるはずだった。問題は、その相手へどうたどり着くかだ。
時計を見ると、正午をかなり過ぎていた。
腹が鳴った。母が用意した朝食から、何も食べていない。
鬼太郎は本を戻し、受付へ礼を言って外へ出た。
◆
広場の端でパンを食べていると、一人の男が近づいてきた。
灰色の上着を着た、四十歳ほどの男だった。先ほど一度、鬼太郎の前を通っている。店先の商品を見るふりをしながら、何度もこちらへ目を向けていた。
「坊や、一人か?」
「父を待っています」
「どこへ行ったんだ?」
「用事があるそうです」
男は隣へ腰を下ろした。広場にはほかにも空いた長椅子があるのに、肩が触れそうなところへ座る。
「ずいぶん大きな荷物だな。旅行か?」
「ええ」
「父親はいつ戻る?」
「聞いていません」
男は鬼太郎の顔より、鞄と周囲をよく見ていた。父親を捜しているようでいて、どんな顔かは尋ねない。
「腹が減ってるんじゃないか。うちに来れば、温かいものを食わせてやれる」
鬼太郎は手に持ったパンを見た。
「知らない方についていってはいけないと教わっています」
「俺はこの辺りの子供をみんな知ってる。父親が戻ったら、こっちへ来るよう伝えてやればいい」
「僕のことも、ご存じなのですか?」
男の笑みが一瞬止まった。
「よく見かけるってことだ」
「そうですか」
名前も知らないのに、よく見かけるらしい。
鬼太郎は残ったパンを包んだ。この男が、親切で声をかけているのではないことは分かった。
一人でいる子供と、その荷物が目当てなのだろう。金を奪うだけでなく、子供まで連れていくなら、渡す相手もいるかもしれない。
この小さな町から、別の場所へ。
「食事だけですか?」
「泊まっていってもいい。明日、一緒に父親を捜してやる」
「それは、ご親切に」
鞄を背負って立つと、男もすぐに腰を上げた。
広場を離れ、細い路地へ入る。男は母親や親戚の居場所ばかり尋ね、食べたいものは一度も聞かなかった。鬼太郎も、男が安心する程度に答えた。
人通りが減り、店が倉庫へ変わる。町へ来るまでに疲れた脚には、歩く距離が少し長かった。
「まだ先ですか?」
「もうすぐだ」
男は一つの車庫の前で止まり、金属の扉を開けた。
「入れ。食い物は中だ」
油と埃の臭いがした。奥には古い車があり、壁際には木箱と工具が積まれている。
鬼太郎は中へ入った。
扉が閉まり、鍵の回る音がする。
「鞄を置け」
振り返ると、男はもう笑っていなかった。
「食事はどちらに?」
「黙って置け」
「父を捜してくださる話も、なくなったのですか?」
「そんな父親はいないんだろう」
男が肩紐へ手を伸ばした。鬼太郎は半歩下がったが、大人の腕はそれより長かった。
左腕をつかまれる。振りほどこうとしても動かない。
「離していただけますか」
「大人しくしろ。痛い目に遭いたくなければな」
腕が引き上げられ、背中が壁へぶつかった。両足が床から離れる。鬼太郎は息を詰まらせた。
力だけでは、大人一人にも勝てなかった。
男は鞄を外そうとしている。中には金も書類も、父に貸すはずだった本もある。
鬼太郎は右手を上げた。
男を燃やせば、聞きたいことが聞けなくなる。
頬のすぐ横、その背後の木箱へ手を向ける。内側の力を引き出し、炎を形にした。
「アギ」
火球が男の顔をかすめ、木箱へ直撃した。
乾いた木が割れ、破片へ炎が広がる。男の手が離れた。鬼太郎は床へ降り、壁に片手をついて息を吸った。
男は、赤く燃える木箱を見ていた。
「な……何だ、お前!」
振り返った顔へ、鬼太郎は右手を向けた。
男は工具箱につまずき、尻餅をついた。立ち上がるまでに何度も足が滑る。それでも扉へ走った。
鬼太郎は先に、扉脇のぼろ布を狙った。
「アギ」
出口のそばで火が上がる。
男は扉の手前で止まり、振り返った。壁へ背中を押しつけ、両手をかざす。
「来るな! 頼む、来るな!」
鬼太郎はすぐには近づかなかった。
木箱の炎が、隣の布へ燃え移りかけている。男が逃げられなくても、自分まで出られなくなっては困る。
壁際に砂の入った容器を見つけた。持ち上げるには重く、床を引いて運ぶ。少しずつ傾け、燃えている木と布へかけた。
男は動かなかった。砂を運ぶ鬼太郎と、弱まっていく火を交互に見ている。
最後の炎を消してから、鬼太郎は容器を置いた。腕が重い。息を整える間、男へ背は向けなかった。
「では、お話をしましょう」
「悪魔だ……」
「食事に招いてくださったのは、あなたですよ」
男は首を振るばかりだった。
鬼太郎は、つかまれた左腕をさすった。そこには男の指の跡が、はっきり残っている。
「僕を、どなたへ売るつもりだったのですか?」
「違う。俺は――」
鬼太郎が右手を上げる。男は肩を竦めた。
「待て! 話す! 何でも話す!」
「何でも、は結構です。行き先だけ教えてください」
話は何度も戻った。男は自分が頼まれただけだと言い、名前も知らない買い手が大きな街にいると教えた。
扱うのは子供だけではない。盗品、偽造書類、人に見せられない荷物。国を越える運び屋ともつながっているという。
「英国へ行けますか?」
「知らねえよ! 俺はその先まで聞かされない!」
「そうでしょうね。あなたに全部話すほど、買い手も不用心ではないでしょうから」
男は反論せず、鬼太郎の右手を見ていた。
少なくとも、この男より目的地に近い相手がいる。
「ありがとうございます。十分です」
男は扉へ視線を向けた。
「もういいだろ。帰らせてくれ」
「ええ。帰りたいところですが……」
鬼太郎は車庫の奥を見た。古い車が一台ある。
町へ来ただけで脚が疲れた。大きな街まで歩けば、何日かかるか分からない。顔も知らない相手を捜すより、その相手を知る男に案内させた方が早い。
「まず、買い手のところまでお願いできますか?」
「場所は教えた! 自分で行け!」
鬼太郎は微笑んだ。
「僕は六歳ですよ」
男の視線が、焦げた木箱へ移る。
「一人で遠くまで出歩くのは、危ないでしょう?」