第7話 借り物の名前
「名前は」
女は、机に広げた書類から目を上げずに尋ねた。
「墓場鬼太郎です」
「書いて」
紙とペンが差し出される。鬼太郎が名前を書く間も、女は父の書類を灯りへ透かしていた。
「ミラ・ストヤノヴァだ。取り戻した道具の持ち主でもある」
買い手の紹介へ、鬼太郎は頭を下げた。
ミラは次の紙を出した。
生年月日、出生地、父母の名前。鬼太郎が書くたびに、文字と手の動きを見比べる。
「取り戻してくれたことには感謝している」
「仕事でしたから」
「その方が信用できる」
父の書類が机へ戻された。
「これは本物ね。父親は英国生まれ。母親は日本人。お前はブルガリアで暮らしていた。だが、今は保護者がいない」
「ええ」
「このままじゃ止められる。本物に見える紙を持った六歳児が、一人で何か国も越える。それだけで不自然よ」
「誰かに連れていってもらう必要があるのですね」
「それと、本名は使わない」
鬼太郎は紙へ目を落とした。
墓場鬼太郎。キリル・ヴァシレフ。
父と母が呼んだ名前を、捨てるつもりはない。それでも今、何か国も越える六歳の子供が必要なら、別の名前で返事をすればよい。
「名前を変えることに、抵抗はないの?」
「ありませんよ。呼ばれたら返事をするだけでしょう?」
「そんなに簡単なことじゃないのよ」
「名前が変わっても、僕が別の人間になるわけではありませんから」
ミラは少しだけ鬼太郎を見つめ、ペンを置いた。
「では、キリル」
「はい」
鬼太郎が即座に返事をすると、買い手が鼻を鳴らした。
◆
次に入ってきた女は、鬼太郎を見る前に、窓と部屋の隅を見た。
灰色の外套を着て、髪を首の後ろでまとめている。向かいへ座ると、ようやく鬼太郎へ目を向けた。
「もっと化け物じみた顔をしていると思った」
「ご期待に添えませんでしたか」
「目立たない方が助かる」
女は机の上の名前を見た。
「イリーナ・ヴァシレヴァ。書類の上では、私がお前の叔母になる」
「母親ではないのですね」
「そこまで面倒を見る気はない。叔母なら、知らないことがあってもおかしくない」
「なるほど」
「条件を言う。検問では聞かれていないことを喋らない。私の話を訂正しない。勝手に降りない。止まれと言ったら止まる」
鬼太郎がうなずくと、イリーナは続けた。
「銃を出さない。火も使わない」
「必要になったら?」
「必要にさせないのが私の仕事だ」
「それでも必要になれば、考えますよ」
イリーナの目が細くなった。
「私が言うまで待て」
「プリンパもですか?」
「何だ、それは」
「相手の頭を混乱させる魔法です」
イリーナは買い手を見た。買い手は否定しなかった。
「なおさら使うな。混乱した検問官が何をするか、お前には決められるのか?」
「できません」
「警報を鳴らすかもしれない。仲間へ撃つかもしれない。道を閉じるかもしれない」
「ええ。確実に静かにさせることはできません」
「なら、通るために使うな」
鬼太郎は左手を机へ置いた。
製材所の見張りは、思いどおりには動かなかった。目の前の女は、その結果を見ずに同じ危険を指摘している。
「分かりました」
「それから、人前では叔母さんと呼べ」
「今からですか?」
「今からだ」
「承知しました、叔母さん」
イリーナは、何か言いたそうに口を曲げた。
◆
問題になったのは、〈シュライク〉だった。
「身につけたままでは乗せない」
イリーナが上着の下を指す。
「見えていましたか?」
「歩き方で分かる」
鬼太郎は彼女の車の後ろへ回った。
荷物の下に、隠して運ぶ場所があった。イリーナは開けて見せ、ここへ銃を入れると言った。
鬼太郎は中を覗いた。湿ってはいない。だが、上へ荷物を積めば、すぐには取り出せなかった。
「検問を越えたら、返していただけますか?」
「車を止められる場所まで待て」
「途中で車ごと持っていかれれば、僕には取り戻せませんね」
イリーナは鬼太郎を見下ろした。
「銃一挺のために、買い手との仕事を捨てると思うか?」
「思いません。ですが、心配が減るのと、なくなるのは別でしょう?」
「面倒な子供だな」
「今、返品されるのでしたら、銃も一緒にお願いします」
イリーナは短く息を吐いた。
「そこまでの手間は、まだかかっていない」
鬼太郎は弾を抜き、銃を包んだ。収めた場所と、荷物を戻すところまで見る。
父の書類は、銃とも偽の書類とも分けて隠すことになった。
「そこまでして持っていくのか」
買い手に尋ねられ、鬼太郎は紙をまとめた。
「英国で父について調べるのでしたら、必要でしょう」
父の原本はミラへ預けた。国内での予行には持ち込まず、正式な国境越えのときに改めて隠す場所を確かめる。
「今日の移動では、元の書類は持たない。まず国内の検問を一つ通る」
イリーナが告げた。
「予行演習ですか」
「国境で失敗されるより安い」
鬼太郎は助手席へ乗った。
腰に、いつもの重さがなかった。
◆
「名前は?」
「キリル・ヴァシレフ」
車が動き出すと、イリーナの質問が続いた。
年齢、父母の名前、目的地。なぜ叔母と一緒なのか、父はどこにいるのか。
鬼太郎は決められた答えを返した。
「覚えるのは得意らしいな」
「それほど難しくありませんよ」
「正確すぎる」
鬼太郎はイリーナを見た。
「間違えた方がよいのですか?」
「聞かれた瞬間に同じ調子で答え続ける子供は、不自然だ。少し考えろ。私を見てもいい」
「答えを知っているのに?」
「お前が知っていることと、向こうがどう思うかは違う」
鬼太郎は膝の鞄へ手を置いた。中には着替えと食料、本が一冊。それから、ミラが用意した国内移動のための書類があった。
「叔母さんは、僕がどのような子供に見えればよいのです?」
「怖がっているか、退屈しているかだ。周りを観察して、相手の手ばかり見るな」
「そちらの方が、難しそうですね」
「難しくてもやれ」
鬼太郎は窓へ顔を向けた。道を覚えるつもりで見ていたが、検問でもそれを続けてはいけないらしい。
やがて、横棒の下りた道が見えた。
詰所のそばに制服の男が二人いる。前の車が止められ、後ろを開けさせられていた。
「見るな」
イリーナが小声で言った。
鬼太郎は鞄へ視線を落とした。
止まった車の運転席へ、一人が近づく。イリーナは窓を開け、求められた書類を渡した。
男は紙をめくり、助手席を見た。
「その子は?」
「甥です」
「名前は」
鬼太郎は、すぐには答えなかった。
イリーナを一度見上げ、それから制服の男へ目を向ける。
「キリル・ヴァシレフです」
「歳は?」
「六歳です」
「どこへ行く?」
「叔母さんの知り合いの家です」
男の目が、鬼太郎の鞄へ動いた。
「いつまでいるんだ」
「僕は聞いていません」
「二週間ほどです」
イリーナが迷わず答える。検問官は書類をもう一度見た。
「叔母さんの料理で、一番好きなのは?」
鬼太郎はイリーナを見た。
食べたことがない。料理の名をでっち上げても、彼女が知らなければそこで終わる。
「好きなものはありません」
「ないのか?」
「叔母さんは、料理が下手ですから」
頭へ、軽く手が落ちた。
「余計なことを言うんじゃないよ」
イリーナだった。叩かれた場所は痛くなかった。だが、その手が降りるまで、鬼太郎は彼女を見上げていた。
制服の男が笑った。
「甥には好かれていないらしいな」
「口ばかり達者で。兄も手を焼いています」
「痛いですよ、叔母さん」
「だったら、少し黙っていな」
即興だった。けれど、二人の息は合っていたらしい。
男は書類を返した。
「後ろを見せろ」
横棒は、まだ上がらなかった。
イリーナが車を降りる。後ろの扉が開き、木箱を動かす音がする。
〈シュライク〉は、荷物の下にある。
鬼太郎は左手を膝の上で開いた。
誰かを混乱させることはできる。だが、相手が警報を鳴らすか、仲間へ撃つか、イリーナを拘束するかは選べない。
鬼太郎は、その手を閉じた。
後ろで女の低い声がした。
硬貨の触れ合う音。荷を戻す音。
鬼太郎は、振り向きたいのをこらえた。
扉が閉じる。
イリーナが戻ってきたとき、横棒が上がった。
鬼太郎は動き出した車の窓へ顔を向けた。
検問所の建物が見えなくなるまで、その左手をもう一度開こうとはしなかった。
◆
イリーナはすぐには止まらず、分かれ道を二つ通り過ぎてから脇へ入った。
銃の包みを返され、鬼太郎は中を確かめた。傷はなく、弾薬もそろっている。
腰へ戻すと、ようやく重みが落ち着いた。
「手を出さなかったな」
イリーナが荷物を戻しながら言った。
「あなたが、まだ話をしていましたから」
「次も待て。私が降りたからといって、追ってくるなよ」
鬼太郎は留め具をかけ、彼女を見上げた。
「では、置いていかれないようにお願いします」
イリーナは荷台を閉めた。
「国境までは連れていけそうだ」
「合格ですか?」
「最初の二つまで。その先は別の運び屋へ渡す」
「次の方が、僕を売ることは?」
「ある。買い手の選ぶ相手なら低いが、ゼロじゃない」
「でしたら、売ろうとした方には後悔していただきます」
「今みたいに銃を隠したままでか?」
「隠しているのと、なくなったのは違いますよ」
イリーナは今度こそ、短く笑った。
「可愛げがない」
「必要ですか?」
「検問ではな」
◆
事務所へ戻ると、ミラが用意した記録を渡した。鬼太郎が読み終えるのを待って、紙を裏返す。
「叔母の誕生日は?」
「書かれていませんでした」
「それでいい。知らないことまで作らないように」
「料理が下手だという話は作ったぞ」
イリーナが横から言った。
「今からお上手になっていただいても、間に合いますよ」
「作るのは私の料理じゃなく、お前の書類だ」
買い手が別の紙へ書いていた数字も、鬼太郎の前へ置かれる。
書類、同行者、次の運び屋、途中で使う金。
合計を見て、鬼太郎は首を傾けた。
「まだ足りませんね」
「分かっていたことだ」
英国へ入る最後の経路には、まだ決まっていない部分もある。そこへ支払う金も残さなければならなかった。
鬼太郎は手元の額と見比べた。これまでと同じ仕事を何度も続ければ、いつかは埋まるだろう。
だが、その間も寝床と食事には金がかかる。
「短期間で稼げるお仕事は?」
買い手が一枚の写真を出した。
「二人が戻っていない仕事ならある」
示された報酬は、今までより一桁多かった。
鬼太郎は数字を見たあと、写真へ目を移した。短く刈った髪と口髭の男だった。
「ニコラ・ペトロフ。元兵士だ」
◆
ミラとイリーナが席を外したあと、買い手は詳しく話した。
ニコラは酒場の揉め事で、依頼人の息子を殺した。先に銃を出したのは息子の方らしいが、父親には関係がない。
送られた追手のうち、一人は脚を撃たれて帰された。
「ほかの方は?」
「そのときは二人死んだ」
「一人を逃がしたのではなく、帰したのですね」
「そう聞いている」
鬼太郎は写真から目を上げた。生きたまま残した者へ、伝える言葉まで与えている。撃てるから撃ち続ける、という相手ではなさそうだった。
「山へ入れば帰さない。そう伝えろと言われたらしい」
「警告はしてくださるのですね」
「親切でやっているんじゃない」
「来る人数を減らしたいのでしょう。それでも、何も言わずに待っている方よりは分かりやすいですよ」
隠れ場所は、西の山にある古い水力発電所。
長い銃と拳銃を持ち、偵察や狙撃、罠にも慣れている。あとから入った元兵士と、山で人を追う仕事をしていた者が、二人とも戻っていない。
「一緒に入ったのですか?」
「そうだ」
鬼太郎は写真を持ち上げた。
銃を持つ相手から品物を取り戻す仕事とは違う。今度は、追ってくる者を倒す準備を整えた男へ近づかなければならない。
「生け捕りは?」
「必要ない。本人の死を確かめられればいい」
「回収する品もありませんね」
「ない。現地の連絡役に死体を見せろ。右肩に古い銃創がある。記録も渡す」
鬼太郎は報酬をもう一度見た。
不足している金の、大半を埋められる。
その額だけでなく、戻らなかった二人の話が気に掛かった。どこまで進み、何を見落として死んだのだろう。
写真の男は、そこを知っている。
「仲間は?」
「確認されていない」
「発電所にいるという話は、確かめられていますか?」
「顔を見て戻った者がいる。近くの村で食料を買い、山へ入っている」
鬼太郎は、聞いたことを写真の裏へ書き留めた。先に入った二人が知っていた範囲も、買い手から聞けるだけ聞いた。
報酬が大きくても、相手について何も知らないまま山へ入るつもりはなかった。
「お受けします」
買い手は鬼太郎の顔を見た。
「火を出せて、銃を持っていても、向こうから見えない場所があるとは限らんぞ」
「ええ。次は、こちらをよく見ている方のようですね」
鬼太郎は穏やかに答え、写真を受け取った。
机の端には、キリル・ヴァシレフのための書類が重なっている。
その金を稼ぎに行くのは、墓場鬼太郎だった。