ペルソナ4外伝〜堂島菜々子とオカルト研究部〜 作:スウィフト
一話∶堂島菜々子
朝の五時半。八稲荘の台所は、まだ夜のにおいがする。
やかんに水を入れて火にかけると、青い火がぽっとつく。
お湯がわくまでの音が、わたしは好き。はじめはなにも聞こえないのに、しばらくすると底のほうで小さな泡がささやきはじめて、それがだんだん大きくなって最後にやかんの口が細く鳴く。
冷蔵庫から出した卵を三つボウルに割って、菜箸で白身を切るように混ぜる。お砂糖はちょっとだけ。お醤油を、一滴。
左の手首で、腕時計が小さく揺れた。
お父さんの時計。わたしの手首には大きくて、ベルトのいちばん端の穴でもまだゆるい。文字盤のガラスには、細い傷が一本ななめに入っている。
針は、十時十二分のまま動かない。
二年前から、ずっと。
窓の外は、まだ青黒い。庭の古い桃の木が、影だけになって立っている。この下宿が建つ前からあそこにあったんだって。春になるとうすい色の花が咲くのに、今年の花はもうほとんど散っちゃった。
わたしの部屋の押し入れには、あの木と同じ桃の木の木刀がしまってある。中学の剣道部で県大会に出たとき、お父さんがくれたもの。
「桃の木はな、魔除けになるんだと」
お父さんは、照れくさそうにそう言った。刑事なのに、そういう言い伝えの話がけっこう好きだった。
その大会を、お父さんは仕事で見に来られなかった。わたしは「だいじょうぶだよ」って言った。
木刀は、もう二年、握っていない。
*
お父さんが帰ってこなかった夜のことは、あんまり思い出さないようにしている。
思い出さないようにしてるってことを、こうして毎朝確かめている。
あの日のお父さんは、「今夜は早く帰る」って言って家を出た。
約束を、よく破る人だった。事件があったら、そっちに行っちゃう。小さいころからそれをちゃんと知ってたから、その日も晩ごはんを二人分作って、お父さんの分にラップをかけて居間で待っていた。
テレビをつけて、消して、またつけた。
玄関のチャイムが鳴ったのは、夜中の一時をすぎてからだった。
お父さんなら、チャイムは鳴らさない。鍵、持ってるから。
ドアの向こうに立っていたのは、お父さんの職場の人たちだった。なにを言われたのかは、よく覚えていない。覚えてるのは、その人たちの靴が雨で黒く濡れていたことだけ。
新聞には、「謎の変死」って書いてあった。
テレビもしばらくは同じ言葉を使ってたのに、そのうちだれも使わなくなった。
腕時計はそのあとで、止まった時間のままわたしのところに戻ってきた。
時計屋さんに持っていけば、きっと動く。電池を替えるだけかもしれない。
でも、針が動いたら、お父さんのいた時間がどんどん遠くに流れていっちゃう気がする。止めておけば、お父さんはまだ「今日」にいる。
子どもっぽいって、分かってる。分かってて、わたしは今朝も、ゆるいベルトを手首に巻いた。
*
お母さんのことは、ほとんど覚えていない。わたしが五つのとき、車にはねられて死んだ。ひき逃げだった。それからずっと、うちはお父さんとわたしの二人だった。
だから、お父さんがいなくなって、わたしはひとりになった。
ひとりになったわたしを引き取ってくれたのは、稲崎光之助(いなざき こうのすけ)さんだった。
お父さんの恩師なんだって。なんの恩師なのかはくわしく知らないけど、お父さんが若かったころに稲崎さんのところによく出入りしてたらしい。
お葬式のあと、稲崎さんはわたしの前に立って短く言った。
「部屋が空いてる」
それだけだった。
八稲荘は、商店街のはずれにある古い木造の二階建ての下宿で、廊下を歩くと、どこを踏んでも床がきしきし鳴る。部屋は六つあって、住んでいるのは稲崎さんとわたしと、もうひとり。
朝日奈月満(あさひな つきみつ)くん。わたしと同じ、二年生。
町の病院に入院してる妹さんのところに通いやすいからって、去年の春からここに住んでいる。毎日学校の帰りに面会に行くから、帰ってくるのはいつも夜の八時すぎ。
朝日奈くんは、よくしゃべって、よく笑う。稲崎さんのことを「じいちゃん」って呼んでも、稲崎さんはなにも言わない。
稲崎さんは、無口な人。一日にしゃべる言葉はたぶん片手で数えられるくらいで、怒ったところも笑ったところもまだ見たことがない。
だから、わたしは、できることをする。
朝ごはんを作る。洗濯物を干す。廊下を拭く。玄関の靴をそろえる。だれにも頼まれてないし、稲崎さんは一回も「やれ」なんて言わなかった。
それでも、手が止まると落ち着かない。
台所に立ってるあいだは、ここにいていいんだって思える。
*
わたしには、ときどき、見えないはずのものが見える。
たとえば、通学路のバス停。古いベンチの日当たりのいいほうの端っこに、灰色のジャンパーを着たおじいさんがひざの上に両手をそろえて、いつも座っている。
バスが来ても、乗らない。だれも、おじいさんのとなりには座らない。
おじいさんの体は、ちょっとだけ、向こう側が透けている。
十年前、わたしは一回、死にかけたことがあるらしい。
らしい、っていうのは、ほとんど覚えてないから。小学校に上がったばっかりのころ、病院のベッドでいっぱい管につながれてた、って聞いた。お父さんは、そのころのことをあんまり話したがらなかった。
見えるようになったのは、それからだ。
最初はこわかったけど、今はこわくない。霊はたいてい、なにもしないでそこにいて、なにかを待ってる。毎朝バス停の前を通るとき、わたしはおじいさんに小さく頭を下げる。おじいさんが気づいてるのかどうかは、分からない。
ほかの人は、見える。知らないおじいさんなら、毎朝見える。
でも、どれだけ探しても、お父さんだけは見えない。
お葬式の夜も、四十九日の朝も、一周忌の帰り道も。お父さんが通ってた警察署の前をわざと遠回りして歩いた日も、お父さんが好きだった川沿いの土手にひとりで座ってた夕方も。
どこにも、いなかった。
――お父さん、どこにいるの。
声に出したことは、一回もない。
*
十年前のことで、ひとつだけ、ぼんやり残ってるものがある。
夢なのか、ほんとうにあったことなのか、自分でも分からない。
霧が出ていた。前もうしろも真っ白な知らない場所に、わたしはひとりで立っていた。古いテレビの砂嵐みたいな音が、ずっと耳の奥で鳴っていた。
それから、だれかが来た。
何人かいた気がするのに、顔は思い出せない。ただ、いちばん前にいた人の背中だけを覚えている。静かな背中だった。その背中の前に大きな影みたいなものが立ち上がって、霧を裂いた。
こわくなかった。助けに来てくれたんだって、なぜか分かった。
あの背中は、お兄ちゃんだったのかもしれない。
十年前の春から一年だけ、うちには従兄のお兄ちゃんが住んでいた。都会から来た、口数の少ない人。わたしが何か言うとちょっと考えてからちゃんと答えてくれて、何も言わないときは黙ってとなりにいてくれた。
お兄ちゃんが都会に帰る日、わたしは駅で泣かなかった。泣いたら、困らせると思ったから。
あれが、たぶん、わたしの初恋だった。
あの影の呼び名を、わたしはどこかで聞いたはず。のどのところまで来て、いつもそこで止まる。
思い出そうとすると、手首の時計がちょっとだけ重くなる。
*
やかんが、細く鳴きはじめた。
火を止めて、急須に入れたお茶の葉にお湯を注ぐ。卵焼き器に油をひいて卵を流し入れると、じゅっと音がして甘いにおいが台所に広がった。
菜箸で端を持ち上げて、くるりと返す。もう一回、卵を流す。返す。
気がつくと、鼻唄を歌っていた。
ジュネスの、あの曲。エブリデイ、ヤングライフ。小さいころ、お父さんに手を引かれて何回も聞いた。行く約束をして行けなかった日のほうが、ずっと多かったけど。
わたしは、口を閉じる。
廊下の床が、きし、と鳴った。
稲崎さんだ。紺の作務衣に、毛玉の浮いたカーディガン。白い眉の下の目がちらっと台所を見て、また前を向いた。
「おはよう、稲崎さん」
「ああ」
そのまま、稲崎さんは玄関のほうへ歩いていく。毎朝、新聞を取りに行くの。
入れかわりに、階段のほうからどたどたと足音が下りてきた。
「おはよー、菜々子ちゃん。うわ、いいにおい」
朝日奈くんだった。明るい栗色の髪が今日もうしろのところだけはねていて、制服のシャツのボタンを上から二つまだ留めていない。
まな板の上の卵焼きを、朝日奈くんがひょいと一切れつまんだ。
「あ」
「味見、味見。……ん、うまい。今日も百点」
「……つまみ食いは、だめだよ」
「だから、味見だって」
目を三日月みたいに細くして笑った朝日奈くんは、冷蔵庫から出した牛乳をパックのまま飲もうとして、わたしの顔を見てちゃんとコップに注いだ。
玄関から戻ってきた稲崎さんが、台所の入口で足を止める。
「今日、一人来る」
卵焼き器を返す手が、止まった。
「……下宿の人?」
「東京から。男の子だ。お前たちと、同じ学年になる」
「え、マジで?」
朝日奈くんが、コップを持ったまま身を乗り出した。
「男子? やった。男、オレだけで肩身せまかったんだよね。どんなやつ? 名前は?」
「晴宮」
「ハルノミヤ。……なんか、どっかで聞いたことあるような」
稲崎さんは、それ以上なにも言わなかった。新聞を脇に抱えて自分の部屋へ戻っていって、床の鳴る音が遠ざかる。
「東京かあ。オレ、今日も病院寄るから、帰り遅いんだよな。歓迎会、明日でもいい?」
「……歓迎会、するの?」
「するでしょ、そりゃ」
当たり前みたいに言って、朝日奈くんは牛乳を飲みほした。
焼き上がった卵焼きをまな板の上に移して、包丁を入れる。切り口から、白い湯気が立つ。
それから、食器棚の前に立った。
稲崎さんの湯呑み。稲崎さんのお茶碗。わたしのお茶碗。朝日奈くんの、大きめのお茶碗。
棚の奥に手を伸ばして、お客さん用のお茶碗をひとつ取り出す。白地に藍色の細い線が一本だけ入ったそのお茶碗に、うっすら積もったほこりをふきんでていねいに拭いた。
四つ、並べてみる。
空いてた部屋が、ひとつ埋まる。
玄関の靴箱にも、場所を空けておかなきゃ。お布団も干しておいたほうがいいし、二階の奥の部屋は窓の建てつけが悪い。好き嫌いは、あるかな。アレルギーは。
聞かなきゃいけないことを指を折って数えながら、わたしは手首の時計をそっと押さえた。
「……だいじょうぶ」
「ん? なんか言った?」
「ううん。なんでもない」
朝日奈くんは、少しだけわたしの顔を見ていた。それから「そっか」って言って、ちゃぶ台のほうへお箸を並べにいった。
*
朝ごはんは、いつも居間のちゃぶ台で食べる。
ごはんと、豆腐とわかめのお味噌汁。卵焼き。きのうの残りの、ひじきの煮物。稲崎さんが新聞をたたんで脇に置き、両手を合わせてからお箸を取るので、わたしも同じようにする。朝日奈くんは、「いただきまーす」ってちょっと大きな声で言う。
しゃべるのは、だいたい朝日奈くん。妹さんの病院の売店の、新しいパンの話。きのうの数学の小テストの話。稲崎さんは、聞いてるのか聞いてないのか分からない顔でお味噌汁を飲んでいる。
壁の古い柱時計が、こち、こち、と鳴っている。
柱時計は、ちゃんと動いている。
卵焼きを一切れ食べた稲崎さんが、ほんの少しお箸を止めて、それからもう一切れ食べた。
なにも言わない。でも、お皿はいつもきれいになる。
食器を洗ってから、自分の部屋で制服に着替える。ブレザーの下にうすいグレーのパーカーを着て、フードを襟元から出す。校則ではたぶんだめなんだと思うけど、先生になにか言われたことはまだない。フードがあると、首のうしろがちょっとだけ落ち着く。
鏡の前で、肩の上で切りそろえた髪を手ぐしで整える。
朝日奈くんは、「日直だから」って先に出ていった。
学校までは、歩いて二十分。
朝の七時半でも、商店街は半分くらいシャッターが閉まっていて、閉まったままもう開かないお店もある。シャッターに貼られた同じ形の白い紙には、「再開発事業のお知らせ」の下に小さく会社の名前が書いてある。
二年前から、この町には土地を買いに来る人たちが増えた。スーツを着て黒い車に乗った人たちが、古い家の玄関を回っている。
商店街を抜けると、遠くに背の高いビルが見える。稲羽スカイステートビル。この町でいちばん新しくていちばん高いその建物のガラスの壁が、朝日を受けて白く光っている。
あのビルを建てたのはお父さんの遠い親戚なんだって。顔は、ほとんど覚えていない。
バス停の前で、わたしはいつもみたいに頭を下げた。
おじいさんは、春のうすい日差しの中で、ベンチの端に座ってひざの上に両手をそろえていた。
*
学校では、あんまりだれともしゃべらない。話しかけられたら答えて、休み時間は窓際の席で頬杖をついて校庭を眺めて、それで一日が終わる。
放課後はまっすぐ八稲荘に帰って、二階の奥の部屋の窓を開けた。
ちょっと日に焼けた畳の、六畳の和室。窓はやっぱり建てつけが悪くて途中で引っかかって、両手で持ち上げるようにしてやっと開く。
窓の向こうに、桃の木が見えた。
この部屋からだと、枝の先が手を伸ばせば届きそうなくらい近い。散り残った花びらが一枚、窓枠に落ちていた。
それを指でつまんで、少し迷ってから、窓の外に戻した。
押し入れからお布団を出して、物干しにかける。畳を掃いて、雑巾で拭く。日がかたむいてからお布団を取りこんで押し入れにしまい、新しいシーツを上に載せておく。
部屋の中を、見回す。
机がひとつと、空っぽの本棚。ほかには、なにもない。掃除を終えた部屋には、畳と、さっきまで干していたお布団のおひさまのにおいだけが残っている。
ここに、知らない人の毎日が入ってくる。
*
夕方。
台所で、晩ごはんの支度を始めた。
なにを作ればいいのか、ちょっと迷った。東京の男の子がなにを食べるのか、わたしは知らない。ハンバーグとかパスタとか、そういうのかな。冷蔵庫を開けて、閉めて、また開けた。
結局、いつもと同じものにした。鶏肉と里芋の煮物。ほうれん草のおひたし。大根のお味噌汁。
お鍋の中で、煮汁が小さく泡を立てる。落とし蓋の下からのぼってくるお醤油と生姜のにおいは、お父さんが好きだった味。稲崎さんもたぶんきらいじゃないと思う。なにも言わないけど、お鍋はいつも空っぽになるから。朝日奈くんの分は、ラップをかけてとっておく。
お米は、いつもより一合多くといだ。白くにごったとぎ汁が透き通るまで何回も水を替えているうちに、窓の外がだんだん橙色になっていく。
炊飯器のスイッチを入れてエプロンのひもを結び直したところで、玄関のチャイムが鳴った。
体が、動かなくなった。
チャイムの音は、今でもあんまり得意じゃない。
息をひとつ吐いて、エプロンのすそで手を拭いた。それから、きしむ床を踏んで玄関へ向かった。
『ペルソナ4リバイバル』の発売に向けて執筆しました。
全120話構成で、完結済みです。
最初はゆったり投稿。
1月くらいから毎日投稿を始めていきます。