ペルソナ4外伝〜堂島菜々子とオカルト研究部〜   作:スウィフト

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二話∶晴宮明

 

 

 

 

 

 

 八十稲羽駅に降りたとき、空はきれいに晴れていた。

 

 改札で一度止められた。

 

 切符を入れる向きが逆だったらしい。ぴんぽんと鳴った扉の前で晴宮明が首をかしげていると、駅員が無言で切符を差し直してくれた。東京でもよく止められた。機械とは、昔からあまり話が合わない。

 

 改札を出たところで立ち止まって見上げた空は、東京よりずっと広くて、雲がゆっくり動いている。

 

 荷物は、ボストンバッグがひとつと紙袋がひとつ。それで全部だった。足りないものはあとで買えばいいし、買わなくてもたぶん困らない。

 

 駅前から乗ったバスの窓の外を、田んぼと古い家と、シャッターを下ろしたままの店が、のんびりした速さで流れていく。商店街の入口で降りて、メモの地図を見ながら歩いた。シャッターに、白い紙が何枚も貼られている。その一枚の前で、明は少しだけ足を止めた。「再開発事業のお知らせ」。紙の端が風に揺れていた。

 

 途中から茶トラの猫が一匹、明のうしろをついてきた。明が止まると猫も止まって、歩き出すとまたついてくる。

 

 商店街の外れにその下宿はあった。

 

 黒ずんだ板壁に瓦屋根の、木造の二階建て。門柱に掛かった墨書きの表札の「八稲荘」の字は、かすれて半分消えかけている。

 

 振り返ると、茶トラの猫は門の前に座りこんでいて、それ以上はついてこなかった。

 

 門の内側で、大きな木が一本枝を広げていた。花はもうほとんど残っていなくて、若い葉が夕方の光を透かしている。

 

 玄関の前に立って、黒縁の眼鏡を指先で押し上げた。

 

 チャイムを押す。

 

 家の奥で音が鳴って、少し間があってから廊下の床が鳴る音が近づいてくる。きし、きし、と、ためらうような足取りだった。

 

 引き戸が開いた。

 

 同じ年くらいの女の子が立っていた。

 

 肩の上で切りそろえた茶色い髪に、紺色のエプロン。背が高くて、明と目の高さがほとんど変わらない。大きな黒い目が、明を見て一度だけ瞬きをした。

 

 左の手首に、男物の腕時計が緩く巻かれている。

 

「……晴宮くん?」

 

「うん。晴宮明」

 

 それから、明は空を見上げた。

 

「今日は、空の機嫌がちゃんといいね」

 

 女の子は、何も言わなかった。言葉の意味をどこにしまえばいいのか、探しているような顔だった。

 

「……うん。そう、だね」

 

 それから、明の手元に手を伸ばしてくる。

 

「荷物、持つよ」

 

「自分で持てるよ」

 

 ボストンバッグを持ち直すと、女の子の手は空中で止まって、そろそろとエプロンの前に戻った。

 

「……どうぞ。上がって」

 

「お邪魔します」

 

 玄関には、男物の古い革靴と女の子の通学用のローファーがきちんと揃えて置かれていた。端のほうで鮮やかなオレンジ色のサンダルが一足、片方だけ裏返しになっていて、その隣にひとつ分ちょうどいい隙間が空いている。

 

 明は、そこに自分のスニーカーを置いた。

 

*

 

 廊下の奥から、老人が出てきた。

 

 背は低い。濃い白い眉の下の目元に、深い皺が刻まれている。紺の作務衣に毛玉の浮いたカーディガンを羽織った老人は、明を頭の先から足の先まで一度だけ眺めてから、手のひらを差し出した。

 

 鍵が一本載っていた。

 

「二階の、奥だ」

 

「ありがとうございます。晴宮明です。お世話になります」

 

「稲崎だ」

 

 それだけ言って、老人は廊下の奥へ戻っていった。

 

 階段の前で女の子が明を振り返った。

 

「案内するね。……わたし、堂島菜々子」

 

「堂島さん」

 

「うん」

 

 上るたびに違う音で鳴る階段の先で、二階の廊下は薄暗くて突き当たりに窓がひとつある。いちばん奥の部屋の前で止まった菜々子が、襖を開けた。

 

 六畳の和室だった。

 

 畳の匂いがする。机がひとつと、空っぽの本棚。少しだけ開いた窓から、さっきの木の枝が手を伸ばせば届きそうなくらい近くに見えた。

 

「窓、建てつけが悪いから。閉めるときはちょっと持ち上げて」

 

「うん」

 

「お布団は押し入れ。シーツは、新しいの出してあるから」

 

「うん」

 

「お風呂は、一階の台所の奥。晩ごはんは七時だよ」

 

 そこで菜々子は言葉を切った。

 

 唇が何か言いかけて閉じる。視線が明の顔から足元に落ちた。

 

「……あのね」

 

「うん」

 

「……ううん。なんでもない」

 

 その顔を明は見た。言いかけたことはどこへ行ったのだろう、と思った。

 

「晩ごはんは、食べてきたから」

 

 菜々子の目が、ほんのわずかなあいだ明に戻った。

 

「……そう、なんだ」

 

「電車の中で。お腹いっぱいなんだ」

 

「……分かった」

 

 小さく頭を下げて、菜々子は襖を閉めた。廊下の床が遠ざかっていって、階段の途中で一度だけ止まった足音が、また下りていく。

 

 畳の上にボストンバッグを置いた。

 

 中身は少ない。着替えが数日分と、教科書。小さな硯と墨と、筆が何本か。そのうちの一本は軸の途中で折れていて、麻紐で巻いて継いである。それから、和紙に包んだ札の束。

 

 折れた筆だけを取り出して机の上に置いて、それ以外のものはバッグに入れたままにした。

 

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 

 画面には、名前が出ている。

 

 それを見て明は画面を伏せた。震えはしばらく続いて止まり、着信の履歴がひとつ増えた。

 

 出れば、あの人は何か話すことを探さなければならなくなる。それは、あの人の手間をひとつ増やすだけだった。

 

 窓の外で日が沈んでいく。

 

 腹が小さく鳴った。

 

 自分の腹を見下ろして、明は少し不思議そうに首をかしげた。それから窓を閉めようとすると、途中で引っかかった。言われたとおり少し持ち上げると、すっと閉まる。

 

 八時を少し過ぎた頃、玄関の引き戸ががらりと開く音がした。

 

「ただいまー」

 

 よく通る、明るい声だった。階下で菜々子の小さな声が「おかえり」と答えて、何か話している。声の調子だけが、天井越しに届いてくる。

 

 やがて階段をどたどたと上ってくる足音がしたかと思うと、ノックもなしに襖がすっと開いた。

 

「やっほー。東京の人?」

 

 顔を出したのは、少し癖のある明るい栗色の髪の、うしろのところだけ跳ねた男子生徒だった。制服のブレザーを、腕に引っかけている。

 

「オレ、朝日奈月満。隣の隣の部屋。よろしくね」

 

「晴宮明。よろしく」

 

「知ってる。じいちゃんに聞いた。アキラって呼んでいい?」

 

 少し、考えた。

 

「……名前で呼ばれるの、あんまり慣れてない」

 

「じゃ、慣れてよ。オレ、名字で呼ぶの苦手なんだ」

 

 月満は、目を三日月のように細めて笑った。

 

 人懐っこい笑顔だった。ただ、その目がほんの短いあいだ、明の顔ではなく明の肩のあたりの何もない空気に止まった。瞬きをひとつして、それからまた明の顔に戻る。

 

「歓迎会、明日ね。菜々子ちゃんのごはんうまいから。覚悟しといて」

 

 襖が閉まった。廊下を戻っていく足音のあとで、少し離れた部屋の襖が開いて閉まる音がした。

 

 閉まった襖を明はしばらく見ていた。

 

*

 

 翌朝、明は五時に目を覚ました。

 

 いつもの時間だった。家の中はまだ暗い。二度寝はできない体質なので、布団を畳んで着替えて窓を開けた。冷たい空気の向こうで、桃の木の枝が薄青い空に黒く伸びている。

 

 五時半を少し過ぎた頃、階下で小さな音がし始めた。

 

 水を汲む音。ガスの点く音。何かをとんとんと刻む音。

 

 布団の上に座ったまま、明はしばらくそれを聞いていた。誰かが自分より先に起きて、台所で音を立てている朝は、ずいぶん久しぶりだった。

 

 やがて湯の沸く音に、かすかに鼻唄が混じった。どこかで聞いたことのある明るい旋律は、途中でぷつりと途切れた。

 

 六時半に下りていくと、居間のちゃぶ台に朝食が並んでいた。

 

 ご飯。味噌汁。焼いた鮭。卵焼き。漬物。

 

 

 茶碗は、四つあった。

 

 

 稲崎はもう座って、新聞を読んでいた。台所から味噌汁の椀を運んできた菜々子が、明を見てほんの少し動きを止める。

 

「……おはよう」

 

「おはよう」

 

 立ったまま、明はちゃぶ台の上の四つの茶碗を見下ろしていた。

 

 ひとつは、稲崎の前にある大ぶりの茶碗。ひとつは、菜々子の席の小さな花柄の茶碗。ひとつは、伏せたまま置かれた黄色い大きめの茶碗で、その座布団の主はまだ下りてきていない。

 

「朝日奈くん、朝弱いから」

 

 明の視線に気づいた菜々子が、短く言った。

 

 もうひとつは、空いている座布団の前に置かれていた。白地に、藍色の細い線が一本だけ入っている。

 

「座れ」

 

 新聞から目を上げずに稲崎が言った。

 

 明は、座った。

 

「いただきます」

 

 小さな声で言って箸を取った。

 

*

 

 結局、月満は二人が家を出るまで下りてこなかった。階段の上から、「先行ってー」というくぐもった声だけが降ってきた。

 

 学校までは、菜々子と並んで歩いた。

 

 並んで、といっても、二人のあいだには人ひとり分の距離がある。前を向いたままの菜々子はほとんど何も話さなかったし、明も話さなかった。鞄を肩にかけ、両手をうしろで組んでのんびり歩く。

 

 商店街を抜けたところにあるバス停の、ペンキの剥げた古いベンチには、誰も座っていない。

 

 そこで、菜々子がほんの少しだけ足を緩めた。ベンチの端の日当たりのいいほうの、何もない場所を見ている。

 

 眼鏡の奥で明はその横顔を見た。

 

 菜々子は、すぐにまた歩き出した。

 

「わたし、二組だから」

 

 門柱に「八十神高等学校」と彫られた古い石の板がはめこまれた校門をくぐったところで、菜々子が言った。

 

「僕は、三組だって聞いた」

 

「……じゃあ、ここで」

 

 小さく頭を下げて、菜々子は昇降口のほうへ歩いていった。紺のブレザーの襟元から、灰色のフードが出ている。

 

*

 

「はいはい、静かにー。今日からこのクラスに転校生が来るぞ」

 

 担任の教師は、花村と名乗った。

 

 明るい茶色の髪に緩めたネクタイ。三十には届いていなさそうな若い教師で、口調は軽いのに、教室を見渡す目は一人ひとりの顔をちゃんと拾っている。

 

「ほら、晴宮。自己紹介」

 

 教壇の横に立った。

 

 三十人ほどの目が一斉にこちらを向いていて、教室のあちこちで、ひそひそ声がさざ波のように立っている。

 

「東京から来ました」

 

 さざ波が少し引いた。

 

「好きな食べ物は、卵かけご飯です。嫌いな食べ物は、卵かけご飯です。この町の空は広いと思いました。よろしくお願いします」

 

 明は、頭を下げた。

 

 教室が静かになった。誰も何を返せばいいのか分からない、という静けさだった。

 

「……どっちだよ」

 

 前のほうの席で誰かが小声で言った。

 

「……晴宮。名前」

 

 花村も小声で言った。

 

「あ」

 

 明は、顔を上げた。

 

「晴宮明です」

 

 どこかで誰かが吹き出したのをきっかけに、教室じゅうに笑い声が広がった。

 

「晴宮は、変わったやつだな」

 

 苦笑しながら、花村が明の肩を軽く叩いた。

 

「ま、そういうのもアリだっての。席は窓際のいちばん後ろな」

 

*

 

 休み時間になると、明の机のまわりに人が集まってきた。

 

「晴宮ってさ、もしかしてテレビに出てる霊能者の晴宮さんと、関係ある?」

 

「ああ。あの人、よく映るよね」

 

「え、じゃあ、親戚?」

 

「母親だよ」

 

 どよめきが起きた。

 

「すげえ。じゃあ、家でもお祓いとかしてんの? お母さんと仲いい?」

 

 窓の外を見ると、空の高いところを雲がひとつ流れていた。

 

「今日は、雲がゆっくりだね」

 

「……え? あ、うん。そうだな?」

 

 首をかしげた男子の隣で、女子が小声で言った。

 

「なんか、うちのじいちゃんと話してるみたい」

 

「マジで!? じゃあ晴宮も、幽霊とか見えんの?」

 

「見えないよ」

 

「見えないのかよ!」

 

「でも、この眼鏡をかけると見える」

 

 集まった生徒たちが、一斉に明の黒縁の眼鏡を見た。

 

「……それ、ただの眼鏡じゃないの?」

 

「ただの眼鏡だよ。でも、見える」

 

 生徒たちは、顔を見合わせた。からかっていいのか怖がっていいのか、決めかねている顔だった。

 

 そのとき、廊下を二人連れの女子生徒が通りかかった。

 

 明の目がそのうちの一人に止まる。

 

 髪をひとつに結んだ小柄な生徒で、友達と話しながらときどき左の肩を手で揉んでいる。

 

 その肩の上に、灰色のものが乗っていた。

 

 背中を丸めた老人の形をしたそれは、膝の上で両手を揃えるようにして座りこんでいて、少しだけ向こう側が透けていた。

 

 椅子に座ったまま、明は廊下に向かって言った。

 

「その肩の人、疲れてるよ」

 

 女子生徒が足を止めた。

 

 振り返って明を見て、それから何もない自分の肩を見る。

 

「……は?」

 

「ずいぶん長く座ってた人みたい。あんまり歩き慣れてないね」

 

 女子生徒の顔から、血の気が引いた。友達の腕を掴んで早足で去っていく廊下の向こうから、「なにあれ、こわっ」という声が聞こえた。

 

 明の机のまわりが、しんと静まりかえった。

 

「……晴宮。今の、なに」

 

「肩の人だよ」

 

 誰もそれ以上は聞かなかった。

 

*

 

 夕方に八稲荘に帰ると、台所から出汁の匂いがしていた。

 

 夕飯は、七時だった。

 

 居間のちゃぶ台の大皿に、温め直したらしい鶏肉と里芋と人参とこんにゃくの煮物が湯気を立てている。菜の花のおひたしと、豆腐とねぎの味噌汁。

 

 月満はまだ帰っていなくて、その席にはラップをかけた皿と伏せた黄色い茶碗が置かれていた。藍色の線の茶碗は、朝と同じ場所にある。

 

 しゃもじを持って炊飯器の前に膝をついた菜々子が、稲崎の茶碗にご飯をよそって自分の茶碗によそう。

 

 それから、藍色の線の茶碗を手に取った。

 

 ふたを開けた炊飯器から、白い湯気がふわりと立ちのぼる。しゃもじでこんもりとよそったご飯を、菜々子は両手で明の前に置いた。

 

 明は、茶碗を手に取った。

 

 手のひらに熱が伝わってくる。陶器の厚みごしに、炊き立ての米の熱がじんわりと指の腹に染みてくる。

 

 茶碗を持ったまま、しばらく動かなかった。誰かがよそってくれたご飯の熱を手のひらで受けとめるのが、どれくらいぶりなのか、すぐには思い出せない。

 

「……これ、温かいね」

 

 しゃもじを持ったまま、菜々子が止まった。

 

 箸を持つ手を止めて稲崎が明を見た。

 

「……炊きたて、だから」

 

 それだけ言って、菜々子は炊飯器のふたを閉めた。

 

「いただきます」

 

 小さく言ってご飯を口に運ぶ。

 

 箸で簡単に割れた煮物の里芋は、芯まで味が染みていた。

 

 稲崎も菜々子も黙って食べていて、壁の柱時計がこち、こち、と鳴る音だけが、三人の箸の音のあいだに挟まっている。

 

 

 明は、ご飯を一粒も残さなかった。

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 手を合わせて茶碗を重ねようとすると、菜々子の手が先に伸びてきた。明の茶碗を取って自分の茶碗に重ね、稲崎の茶碗も重ねてそのまま台所へ運んでいく。

 

 水の流れる音がした。

 

 ちゃぶ台の前に座ったまま、明は空になった自分の席を見ていた。

 

 しばらくして戻ってきた菜々子の手には、小さなメモ用紙の束とボールペンがあった。それを、さっきまで茶碗があった明の席にそっと置く。

 

 何も言わなかった。

 

 そのまま、菜々子は台所へ戻っていった。

 

 明は、メモ用紙を見下ろした。

 

 

 白い紙が、一枚目から、まっさらだった。

 

 

 

 

 

 

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