ブラックルームの最高傑作⋯椎名ひより(憑依) 作:あみあみ
「始めても、よろしいでしょうか?」
静寂に満たされた真っ白な部屋に、少女の澄んだ声が小さく響いた。
揺れる白銀の髪。
雪のように透き通る肌。
そして、いかなる感情の色も宿さない、静謐な瞳。
少女は背後に立つ男を振り返ることなく、ただ目の前の作業台の上だけを見つめていた。
「ああ。いつでも構わない。やるべきことは理解しているな?」
「はい。問題ありません」
少女は小さく首を傾げることなく、ただ淡々と頷く。
「ただ、パズルを解くだけでしょう?」
「……ただのパズル、か」
男は苦笑ともため息ともつかない吐息を漏らした。
その呟きに、少女は僅かに首を傾げる。
「何か問題でも?」
「いや……何でもない」
男はそれ以上、言葉を重ねなかった。
少女もまた、深く追及することはない。
彼女にとって、目の前に立つ管理者の感情など重要ではないからだ。
命令されたなら実行する。
質問されたなら答える。
それが、この場所における彼女のすべてだった。
少女は視線を無機質な机へと戻した。
そこに置かれていたのは、奇妙なほど簡素なパズルだった。
白。
ただ、それだけ。
絵柄も、模様も、僅かな色の違いすら存在しない。
数百にも及ぶ白いピースが、無造作に並べられている。
完成させたところで、何らかの絵が浮かび上がるわけでもない。
ただ、真っ白な一枚の板へと還元されるだけだ。
しかし、それは決して容易な課題ではなかった。
宇宙飛行士の適性試験などにも用いられる、極めて高度な空間認識能力と集中力を要求される特殊なパズル。
専門の訓練を積んだ人間ですら、完成までに数時間を要することも珍しくない。
視覚的な手掛かりが一切存在しない以上、常人にとっては精神を削られる苦行に等しい代物だった。
だが――。
少女にとって、その難易度など知ったことではなかった。
迷いなく、一つ目のピースを指先で拾い上げる。
カチリ。
小さな音を立てて、正確な位置へ嵌め込む。
続いて二つ目。
三つ目。
四つ目。
指先に一切の迷いがない。
ピースをじっくりと観察しているようにも見えない。
思考を巡らせている様子すらない。
ただ、最初からそこに嵌まるべき形を知っているかのように、少女の指先は滑らかに動き続けていく。
カチリ。
カチリ。
カチリ。
無音の部屋に響くのは、ピースが噛み合う機械的な音だけ。
淡々と。
正確に。
一切の無駄を削ぎ落とした挙動。
その後ろ姿を見つめながら、施設の管理者である男は無意識のうちに息を止めていた。
(宇宙飛行士の適性試験に使われるような代物だぞ……)
男の視線が、残像を残すかのように動く少女の指先を追う。
(訓練を積んだ人間でさえ数時間を要する。ましてや、これは完全な無地だ。普通なら、全体の構造や外枠を把握するだけでも相当な時間がかかるはずだというのに……)
それなのに。
(それを……一度も手を止めることなく埋めていくのか)
少女の横顔には、焦りも苦悩も浮かんでいない。
達成感に胸を躍らせているわけでもない。
ただ作業をこなしている――ただ、それだけだった。
「……」
男の背筋に、冷たい寒気が走る。
自分たちがこの少女を育ててきた。
膨大な資金。
長い年月。
常識を逸脱した過酷な教育プログラム。
あらゆるリソースを注ぎ込み、人間という種の可能性を限界まで引き出す。
それこそが、この極秘施設――ブラックルームの存在意義だった。
しかし。
目の前の少女を見ていると、そんな言葉すら生ぬるく思えてくる。
これは「可能性を引き出した」のではない。
根底にある基準そのものが、ハナから人間と異なっているのだ。
「……恐ろしいな」
男は誰に聴かせるでもなく呟いた。
だが、少女は反応しない。
ただ、最後のピースを静かに嵌め込む。
カチリ。
静寂が戻る。
「終わりました」
少女は振り返ることなく、淡々と告げた。
開始から、わずか十二分。
「確認をお願いします」
「……ああ」
男は握りしめていたストップウォッチへと視線を落とした。
液晶に刻まれた数字。
――十二分十七秒。
「……課題クリアだ」
「はい」
「次の課題がある。あちらの部屋へ移動しなさい」
「分かりました」
少女は短く頷き、完成した白い板を一瞥することすらなく、部屋の出口へと歩き出す。
「……待て」
「はい?」
男の声に、少女は足を止めた。
「自分が今、何をしたのか分かっているのか?」
少女は僅かに首を傾げた。
「パズルを完成させました」
「……それだけか?」
「それ以外に、何か意味があるのですか?」
男は答えることができなかった。
少女にとっては、本当にそれだけなのだ。
自分がどれほど異常な数値を叩き出したのか。
それがどれほど常識から逸脱しているのか。
そんなことを解釈する必要すら、彼女の思考回路には存在しない。
彼女の中にあるのは、絶対的な二つの基準だけ。
『できること』と『できないこと』。
できることなら、やる。
できないことなら、やらない。
それ以上でも、それ以下でもない。
成し遂げたからといって喜ぶ理由もなければ、称賛されたからといって誇る理由もない。
そのような余計な感情を育む教育など、この場所には存在しなかったのだ。
「記録は……十二分十七秒、か」
少女が去り、重厚な扉が閉まった後。
男は改めてストップウォッチの画面を眺めた。
「ホワイトルームの最高傑作が、かつて一時間以上を費やしたと聞くが……」
男の口から、乾いた笑いが漏れる。
「これでは、比較することすら滑稽だな」
男の脳裏に浮かぶのは、ライバルであり敵対組織でもある施設――ホワイトルーム。
人工的に「天才」を生み出すという狂気じんだ理念のもと、人間を徹底的に管理し、教育し、鍛え上げる場所。
その中でも、とりわけ異彩を放つ存在がいるという。
――綾小路清隆。
ホワイトルームが生み出した、史上最高傑作。
万能。
あらゆる分野において極めて高い能力を発揮し、どんな環境にも完璧に適応する。
だからこそ、彼らはそれを「究極の完成形」として誇っていた。
「だが……」
男は、少女が消えていった扉をじっと見つめた。
「こちらも、他人のことは言えないか」
ホワイトルームが『万能の天才』を求め続けるのなら。
ブラックルームが目指したものは、その対極だった。
『特化の極致』。
あらゆる分野に手を伸ばす必要などない。
たった一つでいい。
一つの才能を、一つの能力を、一つの領域を。
どこまでも、どこまでも、どこまでも――。
人間の精神と身体が耐え得る絶対の限界まで研ぎ澄ます。
それこそが、ブラックルームの教育理念だった。
「……だが」
男は自嘲気味に息を吐く。
「アレを『天才』と呼んでいいものかは分からんな」
天才。その言葉には、努力や覚悟、そして人間らしい感情の軌跡がどこかに伴うものだ。
しかし、あの少女にはそれがない。
「どちらかと言えば……」
誰もいなくなった白い部屋で、男はぽつりと呟いた。
「ただの……『怪物』だろうな」
ブラックルームの最高傑作。
あらゆる知識を瞬時に吸収し。
あらゆる技術を寸分違わず模倣し。
一度見た構造を完璧に理解し。
一度理解したものを、さらに最短ルートへと最適化する。
圧倒的な記憶力。
異常な空間認識能力。
卓越した論理的思考。
そして何より――それらを裏付ける、常人には到底理解できない異常な脳内処理能力。
誰もが遥か高みから見下ろされる。
誰一人として、同じ地平に立つことすら許されない。
その少女の名は――。
椎名ひより。
◆
「ここが……高度育成高等学校ですか」
春の柔らかな風が、吹き抜けていく。
私は、巨大な校門の前で静かに足を止めた。
見上げれば、吸い込まれそうなほど澄み渡る青空。
その下に凛と聳え立つ、重厚な門扉。
その向こうには、広大で美しいキャンパスが広がっている。
「……なるほど」
思わず、小さな吐息とともに言葉が漏れた。
胸の奥底で、かすかな揺らぎのようなものが生まれる。
ここが――。
私がこれから三年間を過ごすことになる場所。
高度育成高等学校。
そして。
かつて『誰か』が愛読していた物語の舞台。
『ようこそ実力至上主義の教室へ』。
通称――『よう実』。
それが、私の前世に存在していたライトノベルのタイトルだった。
もっとも。
「前世」という言葉を使うこと自体、今の私にはどこか他人事のように感じられる。
なにせ、当時の記憶はほとんど残っていないのだから。
断片的な視界の映像。
ノイズのような曖昧な感情。
そして、自分がかつて「本」という媒体を読んでいたという事実。
残っているのは、それくらいだ。
かつて『私』だった誰かの人格も、価値観も、記憶も。
ブラックルームで過ごした過酷で長い時間の中で、現在の「私」という存在に侵食され、綺麗に磨り潰されてしまった。
今となっては、かつての自分がどんな人間だったのかすら思い出す術はない。
ただ。
この世界が、あの物語の枠組みの中に存在していることだけは理解できる。
「……そういえば」
私は軽く首を傾げた。
「私は、この物語の登場人物だったのでしょうか?」
意識の奥底へとアクセスしてみる。
主人公の名は。
ヒロインたちの顔打ちは。
これからどんな事件が起きるのか。
そもそも、「椎名ひより」という存在が原作の中でどんな役割を担っていたのか。
――思い出せない。
正確に言えば、深く探れば途切れ途切れの断片は浮かんでくる。
けれど、それをわざわざ掘り起こす必要性を感じなかった。
「まあ……どうでもいいことですね」
抱えていた一冊の文庫本を、腕の中で少しだけ持ち直す。
私にとって重要なのは、原作の筋書きがどうであるかではない。
これから始まる、私自身の三年間。
ただそれだけだ。
ブラックルームで過ごした年月は、あまりにも無色透明だった。
命令されれば従う。
与えられた課題を淡々と処理する。
求められた結果を寸分狂わず差し出す。
それが私にとっての日常であり、世界のすべてだった。
だからこそ。
この学校では――。
「自由に過ごしてみたいですね」
誰かに指示されることもなく。
何かを強制されることもなく。
自分自身の意思で一日の過ごし方を決め、自分の歩幅で歩く。
本を読み、穏やかな陽射しを浴びるような、ごく普通の高校生活。
それを、一度でいいから経験してみたかった。
「……三年間」
静かに呟く。
「せっかく与えられた自由なのですから、思う存分楽しむとしましょう」
原作の知識があるかどうかも、些細な問題だ。
そもそも、私が物語の筋書きに干渉する必要などどこにもない。
主人公が誰と戦おうと。
クラス同士がどんな策謀を巡らせようと。
私には何の関係もないのだから。
私はただ、自分の平穏と自由を守ればいい。
ただし――。
「もしも」
そこで、私は僅かに目を細めた。
「私の穏やかな自由を脅かす方が現れるのであれば……」
春風が強く吹き抜け、白銀の髪がさらりと揺れる。
「そのときは、排除するだけです」
その声は、驚くほど穏やかだった。
まるで「明日の天気の予測」でも口にするかのように。
そこには殺意も、憎悪も、怒りすら存在しない。
感情が欠落しているからこそ、その言葉は静かな絶対性を帯びて響いた。
「……そういえば」
ふと、思考の片隅から一つの記憶が浮上する。
「ホワイトルームの最高傑作も、この学校に在籍しているはずでしたね」
確か、名前は――。
「綾小路清隆」
唇に乗せてみる。
けれど、それ以上の情景は広がらない。
彼がどんな容姿をしていて、どれほどの能力を秘め、原作で何を成し遂げたのか。
その大半は、深い暗闇の底へと沈んだままだ。
「まあ、いいでしょう」
私は特に強い興味を抱くこともなく、視線を正面へと戻した。
「できれば、関わりたくはありませんね」
物語の主人公というのは、往々にして本人にその気がなくてもトラブルを引き寄せる磁石のような存在だ。
そのような特異点に関わってしまえば、せっかく手に入れた平穏な高校生活が台無しになってしまう。
深く、静かに息を吐き出す。
そして。
高度育成高等学校の敷地の中へ、迷いのない一歩を踏み出した。
「さて……」
春の陽光が、白銀の髪を柔らかく照らし出す。
「私の三年間は、一体どんな物語になるのでしょうね」
それが期待なのか、好奇心なのか。
自分でもよく分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
この日。
ブラックルームが生み出した史上最悪の怪物――椎名ひよりは。
初めて、自分自身の意志で歩み始めたのだということ。
そして彼女はまだ知らない。
この学園には、自分と同じように。
人間という枠組みを遥かに突き抜けた怪物が、もう一人潜んでいることを。
――綾小路清隆。
万能の天才と、極致の怪物。
交わるはずのなかった二つの異物が出会うまで、そう長い時間は必要なかった。