「主役がいない」
開演十五分前。
舞台袖でそう告げたミレイユの声は、不思議なくらい静かだった。
だからこそ、近くにいた者は全員、一度手を止めた。
衣装を畳んでいたトキが顔を上げる。
「誰がです?」
「アレク」
「ああ」
「『ああ』じゃない」
「でもアレクさんですよ」
「だから困ってるの!」
そこでようやく声が大きくなった。
港町エルデンの中央広場。
年に一度の春市を目当てに商人や旅人が集まり、通りには露店が並び、焼いた魚と香辛料の匂いが風に混じっている。
広場の一角に組まれた木造の舞台には、銀色の小鳥を描いた古い看板が掲げられていた。
旅劇団《銀の小鳥座》。
その日の演目は『白銀王子と海竜の宝』。
そして現在、白銀王子役が行方不明だった。
「イエロー。アレク見てない?」
ミレイユが振り返る。
床に座ったイエローは、破れた衣装へ針を通していた。
「見ました」
「いつ?」
「十分くらい前です」
「どこへ行ったの?」
「女性に呼ばれて、向こうへ」
針先で広場の端を指す。
そのまま縫い物へ戻った。
ミレイユは数秒、何も言わなかった。
「……止めて」
「本人が嬉しそうだったので」
「そういう問題じゃないでしょう!」
舞台の向こうから、客のざわめきが聞こえている。
子供が幕の下から覗こうとして、母親に引っ張り戻された。
あと十五分。
「団長!」
「聞こえてる」
ガドランは舞台袖の箱に腰掛け、酒瓶の栓を抜こうとしていた。
ミレイユの視線を受けて手を止める。
「……これは本番前の景気づけだ」
「飲むなとはまだ言ってません」
「そうか?」
「アレクを探してください」
「そのうち戻るだろ」
「戻らなかったら?」
「別の奴を出す」
「主役ですよ?」
「台詞覚えてる奴がいれば何とかなる」
ミレイユの顔から表情が消えた。
「団長」
「はい」
「探してきてください」
「はい」
ガドランが酒瓶を置いた。
横で見ていたトキが、小さな帳面を開く。
「団長がミレイユさんに負けるまで、約四十秒」
「何を記録してるんだ」
「後世の資料です」
「捨てろ」
「嫌です」
ガドランはトキの帳面を取り上げようとしたが、少年は慣れた手つきで背中へ隠した。
「将来、銀の小鳥座が歴史的な劇団になった時に必要になります」
「だったらもっと格好いいところを書け」
「昨日、宿代を値切って追い出されかけたところとか?」
「それは消せ」
「事実なので」
「事実だから何でも残していいと思うなよ!」
言い合う二人の横を、レオンが太い縄を肩に担いで通り過ぎた。
「まだアレク戻ってない?」
「お前も探してくれ」
ガドランが言う。
「俺は舞台の補修」
「舞台と主役、どっちが大事だ」
「今は舞台」
「即答すんな」
レオンは舞台奥へ向かいながら、足元に転がっていた木槌を拾った。
この劇団での肩書きは護衛兼御者。
実際には馬の世話もするし、舞台も直すし、荷物も運ぶ。
本人も最近は、自分が何係なのかよく分かっていなかった。
「レオンさん」
トキが声を掛ける。
「何?」
「もしアレクさんが帰ってこなかったら、王子できます?」
「嫌だよ」
「台詞は覚えてます?」
「なんで覚えてる前提なんだ」
「いつも舞台袖にいるので」
「だからって覚えないだろ普通」
トキは帳面へ何か書いた。
「今、何書いた?」
「『レオン、王子役を拒否』」
「消して」
「まだ物語になる可能性があります」
「ならない」
◇
「戻った!」
十分後。
舞台裏へ駆け込んできたアレクを見て、最初に声を上げたのはガドランだった。
金髪の青年は息を切らしていた。
その後ろ。
広場の人波を掻き分けながら、屈強な男が二人走ってくる。
「……何したの?」
ミレイユが訊いた。
アレクは胸に手を当てる。
「誤解だ」
「何が」
「僕はただ、一人の女性が困っていたから話を聞いただけだよ」
「後ろの人は?」
「その女性の兄たちらしい」
「何を誤解されたの?」
「僕にも分からない」
「絶対分かってるでしょう」
「今はそんなことより開演時間だ」
アレクは爽やかに笑った。
「着替えるよ」
「逃げた!」
ミレイユが追いかける。
衣装用の幕へ入る直前、アレクが振り返った。
「心配しなくてもいい。アレクシス・フォン・ローゼンクランツ=ヴァルデンブルクは、舞台に穴を開けたりしない」
トキが首を傾げる。
「毎回思うんですけど、その名前、本当に全部必要なんです?」
「全部僕だ」
「アレクでいいじゃないですか」
「よくない」
「俺もアレクでいいと思う」
レオンが言う。
「君まで?」
「長いから」
「名前は効率で決めるものじゃない」
そこでイエローが口を挟んだ。
「衣装代の帳簿にはアレクで書いてます」
アレクが固まった。
「……いつから?」
「最初から」
「僕の正式な名前が帳簿上存在していない?」
「欄に入りません」
「それは欄を大きくすれば――」
「紙がもったいないです」
アレクはしばらく何も言わなかった。
「僕より紙を優先する劇団なんだね、ここは」
「紙は高いので」
「強いなあ、イエロー」
◇
開演五分前。
主役は戻った。
衣装も着た。
ミレイユの機嫌も、まだ悪いが舞台へ出られる程度には戻った。
そして今度は城壁が落ちた。
正確には、落ちかけた。
「レオン!」
縄が切れる。
舞台奥に吊っていた木製の背景が、ゆっくり傾いた。
レオンが下へ入り、支柱を両手で受け止める。
「誰だ、これ結んだの!」
「団長です!」
トキが即答する。
「今それ言う必要あるか!?」
ガドランが叫ぶ。
「記録なので」
「後にしろ!」
支柱が軋む。
レオンの靴が床を滑った。
「重い!」
「そのまま」
横からイエローが来た。
普段と変わらない顔で、腰の小さな鋏を抜く。
「何する?」
「絡んでます」
古い縄を切る。
新しい縄を投げる。
支柱へ回す。
レオンが見ている前で、指が二度、三度と縄の間を抜けた。
締める。
「離していいです」
「本当に?」
「はい」
「落ちたら俺が死ぬけど」
「その時は困ります」
「もうちょっと心配して」
少しずつ手を離す。
木枠は止まった。
レオンは上を見る。
次に結び目。
もう一度見る。
「……早いな」
「舞台で使いますから」
「その結び方?」
「似たようなものです」
イエローはそれだけ答えて、床に落ちた布を拾った。
レオンはしばらく縄を見ていたが、
「レオン!」
ミレイユの声に振り返る。
「今度は何?」
「王冠がありません!」
「俺に言われても」
「さっき運んでたでしょう!」
「あれ王冠だったの?」
「何だと思ってたんですか!」
「金色の変な器」
「王冠です!」
◇
鐘が鳴った。
幕が開く。
芝居が始まった。
最初の十分は順調だった。
アレクは舞台へ出れば文句なく華があった。
ミレイユは声もよく通る。
ガドランは台本にない言葉を三つ足したが、いつものことなのでトキもまだ我慢した。
二十分目。
海賊役が一人、腹を壊した。
「一人足りない」
トキが言う。
レオンは舞台袖で腕を組んだ。
「一人くらい減らしても分からないだろ」
「次の場面で王子を囲む役です」
「二人で囲めば?」
「三人で囲む台本です」
「台本って意外と融通利かないな」
「書いた人に言ってください」
「お前だろ」
「だから言ってます」
舞台ではガドラン演じる海賊王が笑っていた。
『ふはははは! この海は今日から俺のものだ!』
アレクが剣を抜く。
『貴様の悪事もここまでだ!』
そこで本来、三人の海賊が飛び出す。
二人しか出ない。
一人分、綺麗に空いていた。
ガドランが舞台袖を見る。
レオンと目が合う。
ガドランが顎を動かした。
行け。
レオンは首を横に振った。
嫌だ。
もう一度顎が動く。
行け。
レオンも口だけ動かす。
絶対嫌だ。
トキが後ろから背中を押した。
「ちょっと待て!」
舞台へ出た。
客席の視線が集まる。
レオンは止まった。
海賊役の衣装すら着ていない。
いつもの黒い上着。
剣も腰にある。
アレクが一瞬だけ目を丸くした。
ミレイユは王女役のまま笑っている。
ただし目が、
――何か言え。
と訴えていた。
レオンはガドランを見る。
「……親分」
本来なら『船長、ご命令を』だった。
舞台袖でトキが頭を抱えた。
ガドランは一拍も空けない。
『なんだ!』
「どうします?」
『何がだ!』
「この人たち」
客席のあちこちで笑いが起きる。
ガドランが胸を張った。
『決まっている! 海賊らしく正々堂々と――逃げるぞ!』
「親分、それ海賊らしいんですか?」
笑いが大きくなった。
『生き残った奴が海賊だ!』
アレクが剣を構える。
『逃がすと思うか!』
「親分、追ってきます」
『お前が止めろ!』
「俺、今来たばっかりなんですけど」
広場が沸いた。
ミレイユが笑顔のままレオンの横を通り過ぎる。
小さな声。
「あとで話があります」
「俺、被害者じゃない?」
「台詞を変えました」
「台詞知らなかったんだよ」
「もっと悪いです」
そのまま王女へ戻り、
『海賊たち! 覚悟なさい!』
と声を張る。
レオンも仕方なく剣を抜いた。
客席から大きな拍手。
舞台袖でトキは台本を閉じた。
「もう好きにしてください」
◇
終演した頃には、空が橙色になっていた。
投げ銭箱には硬貨だけでなく、果物やパン、干した魚まで入っている。
トキが魚を摘まんだ。
「これ、会計ではどう扱うんです?」
「夕食です」
イエローが答える。
「帳簿には?」
「魚一匹」
「そのままなんですね」
「魚なので」
少し離れた場所では、レオンが海賊から元の服へ戻っていた。
「二度と出ないからな」
ミレイユが衣装を回収する。
「今日一番笑われてましたよ」
「褒めてる?」
「役者としてなら」
「俺、護衛なんだけど」
「今日は役者でした」
「勝手に増やすなよ、仕事」
そこへ、小さな男の子が来た。
広場の端でずっと見ていた子だった。
手には、小さな木彫りの鳥。
「これ」
ガドランが屈む。
「どうした?」
「お金、ないから」
少年は木彫りを差し出した。
羽の大きさが左右で違う。
嘴も曲がっている。
ガドランは受け取った。
「お前が作った?」
頷く。
「昨日も見てた」
「昨日?」
「準備してるとこ」
少年は舞台を見る。
「今日も後ろから見てた。お金なかったから」
ガドランは掌の鳥をしばらく眺めた。
「じゃあ、これで払ったことにする」
少年が顔を上げる。
「いいの?」
「いいも悪いも、もう見ただろ」
「うん」
「なら客だ」
ガドランが笑う。
「次は隠れてないで前に座れ」
少年は鳥を見て、それからガドランを見る。
最後に何度も頷いて、走っていった。
しばらく誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのはイエローだった。
「団長」
「なんだ」
「それ、投げ銭箱には入れないでください」
「なんで?」
「換金できません」
ガドランが顔をしかめる。
「今ちょっといい場面だっただろ」
「会計なので」
ガドランは笑い、木彫りの鳥を自分の懐へ入れた。
◇
翌朝。
馬車が港町エルデンを出た。
御者台の横には、小さな木彫りの鳥が括りつけられている。
風を受けるたび、少し大きすぎる片羽が揺れた。
トキが帳面を開く。
「次はロッカ村」
ガドランが荷台から答える。
「収穫祭だ」
「大きい村?」
「小さい」
「報酬は?」
イエローが訊いた。
ガドランが少し黙る。
「……着いてから」
帳簿が静かに閉じられた。
「嫌な予感がします」
「旅ってのは、予定通りじゃない方が面白いんだよ」
「会計は予定通りの方が助かります」
ミレイユが衣装箱から顔を出す。
「それより今度は忘れ物ありませんよね?」
「ない」
ガドランが胸を張る。
トキが荷物を見る。
「舞台幕ありませんよ」
沈黙。
ガドランがゆっくり振り返った。
「……取りに戻る?」
「戻ります!」
ミレイユの声が街道へ響く。
レオンはため息をつき、馬の向きを変えた。
銀色の小鳥を描いた古い看板。
その隣で揺れる、不格好な木彫りの鳥。
旅劇団《銀の小鳥座》は今日も、予定通りには進まない。
それでも、次の町にはきっと客がいる。