1話 客はいる
ロッカ村へ続く街道は、三日続いた雨ですっかり機嫌を損ねていた。
車輪が轍にはまるたび、馬車は大きく傾き、荷台の奥から箱や鍋が滑る音がする。朝には右後輪が半分ほど泥へ沈み、一座総出で押す羽目になった。
「せーので行くぞ! せーので!」
ガドランの声だけが妙に元気だった。
「団長も押してください!」
荷台の後ろで泥まみれになっていたミレイユが叫ぶ。
「全員が押したら、誰が全体を見て指示するんだ!」
「誰も頼んでません!」
「指揮官ってのはな、時には心を鬼にして――」
「寝てたでしょう、さっき!」
荷台の屋根の下で腕を組んでいたガドランが、一瞬だけ黙った。
「目を閉じて考えてた」
「いびきかいてました!」
トキが馬車の横で帳面を開いた。
「『団長、戦力外』と」
「お前は何でそんな時まで書いてんだ!」
「記録なので」
「いいから押せ!」
「僕は押してます」
そう言いながら片手で筆を動かしている。
「押してねえじゃねえか!」
結局、泥から馬車を引き上げるまでに半刻近くかかった。
レオンは御者台へ戻ると、泥の跳ねた袖を軽く払った。
「次に沈んだら、荷物半分捨てよう」
荷台の奥から、イエローの声が飛んでくる。
「何を捨てます?」
「重いもの」
「団長ですね」
「待て」
即答だった。
「俺は荷物じゃねえ」
「重量としては有力です」
「お前、最近俺に対して遠慮なくなってない?」
イエローは返事をしなかった。
帳簿をめくる音だけがする。
アレクは泥のついた靴を見下ろしながら、深く息を吐いた。
「この道は僕の美しさに敵意がある」
「道にも選ぶ権利あると思うよ」
レオンが手綱を軽く引いた。
「何だい、その言い方は」
「気にしないで」
「気になるから聞いてるんだけど」
そんなやり取りをしながら、馬車はようやく坂を越えた。
その先に、小さな村の屋根が見える。
石造りの教会。
その周りに低い家々。
煙突から細い煙が上がっている。
「見えた!」
ミレイユが荷台から顔を出した。
「ロッカ村?」
トキが帳面を閉じる。
「たぶんな」
ガドランが答えた。
「たぶん?」
「道が一本しかねえから」
「それ、確認したとは言いませんよね」
「着けば分かる」
「団長って大体それで生きてますよね」
村まで、あと少し。
そう思ったところで、馬車が止まった。
「今度は何です?」
ミレイユの声には、もう嫌な予感が混じっている。
レオンは手綱を緩めたまま、前を見ていた。
一頭の豚が、道の真ん中で眠っている。
大きい。
丸い。
そして動く気配がまったくない。
「……豚」
トキが呟いた。
「見れば分かる」
「どうします?」
レオンは少し考えた。
「待つ」
「起きるまで?」
「馬車の方が大きい。そのうち向こうが気まずくなる」
トキが帳面を開いた。
「今の、書いた?」
「『交渉において重要なのは、相手にこちらの優位を認識させることである』」
「まともだな」
「その下に『ただし豚には通用しなかった』と」
「まだ分からないだろ」
「もう三分経ってます」
豚は寝返りを打った。
レオンが黙る。
「……交渉は難航してる」
「始まってないでしょう」
そこへミレイユが御者台の横から顔を出した。
「何してるんですか?」
「見れば分かるだろ」
「だから退かしてください」
「話し合ってる」
「寝てますよ」
アレクも後ろから現れた。
道の中央の豚をしばらく眺める。
「いい豚だ」
ミレイユが振り向いた。
「何がです?」
「迷いがない。自分がどこで寝るべきかを完全に理解している。丸みもいい」
「そんなに気に入ったなら抱えて退かしてください」
アレクは静かに首を振った。
「僕の腰は舞台のためにある」
「昨日、酒樽を運ぶ時も同じこと言いましたよね?」
「守るべきものは何度でも守る」
「便利ですね、その信念」
荷台の中からイエローが言った。
「豚を傷つけたら弁償です」
レオンが振り返る。
「誰も傷つけるなんて言ってないよ」
「言う前に止めています」
「信用されてないな」
「信用しています」
イエローがようやく顔を上げた。
「レオンさんなら、邪魔なものを見た時、どう動かせば一番早いか考えると思っています」
「……微妙だな、その信用」
そこで荷台の奥から大きないびきが止まった。
「着いたか!」
ガドランが起き上がる。
「まだです」
トキが答える。
「なんだ。じゃあ起こすな」
「誰も起こしてません」
事情を聞いたガドランは、しばらく豚を見たあと、腕をまくった。
「仕方ねえな」
馬車を降りる。
「団長、持ち上げるんですか?」
ミレイユが訊く。
「違う。こういう時は言葉だ。旅をしてるとな、言葉の通じねえ相手とも付き合わなきゃならん」
「相手、豚ですよ」
「生き物には心がある」
ガドランは豚の前へ立った。
腰へ手を当てる。
「おい」
反応はない。
「聞こえてるか? 俺たちは旅劇団《銀の小鳥座》だ。明日からこの村で芝居を――」
豚の耳が一度だけ動いた。
「そうだ。分かるか。俺たちは遠路はるばる――」
五分後。
ガドランはまだ喋っていた。
十分後。
豚は寝ていた。
十五分後。
近くの畑から戻ってきた老婆が、馬車の前で足を止めた。
「あら。ポチ」
「知ってるんですか?」
ミレイユが訊く。
「うちのだよ」
老婆は豚の尻を二度叩いた。
「ポチ、邪魔だよ」
豚は立った。
道の端へ歩いた。
五秒だった。
馬車の上でトキの筆が走る。
「団長、二十二分。老婆、五秒」
「それ絶対残すなよ!」
◇
ロッカ村へ入ると、最初に一座を見つけたのは子供たちだった。
「劇団だ!」
誰かが声を上げた。
路地から一人。
雑貨屋の前から二人。
教会の脇から三人。
気づけば馬車の後ろを、小さな列がついてきていた。
銀の小鳥が描かれた古い看板を指差し、何をやるのか、いつ始まるのかと勝手に喋っている。
「人気者だな」
レオンが言う。
「当然だろう」
アレクが髪を整えた。
「君じゃなくて馬車見てる」
「照れているだけだ」
「便利だね、その解釈」
ミレイユは子供たちへ手を振っていた。
「明日ですよー! 今日はまだ準備ですからね!」
「何やるの?」
「剣のやつ!」
「お姫様出る?」
「僕、竜がいい!」
「全部は無理です!」
笑いながら答えていたミレイユの声が、少しだけ弱くなった。
道の向こう。
村外れに広がる畑。
その一角だけ、麦が泥の中へ倒れている。
収穫前だったのだろう。
折れた穂が地面へ貼りつき、水の跡が深く残っている。
子供たちも、そこへは近づかなかった。
◇
村長の家で事情を聞いた。
「収穫祭は、中止になりました」
村長は帽子を両手で持っていた。
「今年は元々、出来があまり良くなくて……そこへ先日の雨です。北側の畑がかなりやられました」
ガドランは黙って聞いている。
レオンは窓の外を見た。
さっきまで馬車を追いかけていた子供たちが、向かいの家の陰からこちらを覗いている。
一番小さい子だけ、柱に隠れきれていなかった。
「せっかく遠くから来ていただいたのに、申し訳ありません」
村長が頭を下げる。
「旅費だけでも、何とか村で――」
「いや」
ガドランが遮った。
「それは畑に使え」
村長が顔を上げる。
「ですが」
「屋根のある場所はあるか?」
「……屋根?」
「芝居する場所だよ」
村長の表情が止まる。
「公演をなさるんですか?」
「そのつもりで来たからな」
「ですが、こちらからお支払いできるものが」
ガドランは窓の外へ目をやった。
子供たちが慌てて隠れる。
やっぱり一人だけ、半分見えている。
「客はいる」
村長も振り返った。
「金を持ってる奴だけが客なら、旅劇団なんてやってられねえよ」
ガドランは椅子へ深く座り直した。
「寝る場所と飯。それから馬の餌。それでいい」
隣で帳簿が開いた。
イエローだった。
「今月二回目です」
「何が?」
「無償公演」
「数えてるのか」
「会計なので」
ガドランが眉を上げる。
「反対?」
「反対すればやめます?」
「やめない」
「では、次の町で団長の酒代を減らします」
「なんでそうなる!」
レオンが横で頷く。
「健康にもいい」
「お前まで乗るな!」
窓の外から、笑い声が漏れた。
ガドランがそちらを見る。
見つかった子供たちが一斉に逃げていく。
村長はしばらく一座を見回していた。
やがて、ゆっくり帽子を被り直す。
「……古い集会所があります」
「舞台は?」
「あります。ただ、かなり使っていません」
「屋根は?」
「まだ」
ガドランが立ち上がった。
「十分だ」
◇
十分ではなかった。
「……これを?」
集会所の入口で、ミレイユの声が落ちた。
扉を開ける。
埃が舞う。
長椅子の下から鼠が走り、割れた窓の隙間では蜘蛛の巣が揺れていた。
舞台板はところどころ浮き、奥の壁には雨染みがある。
幕はない。
ガドランが腕を組んだ。
「味があるな」
「壊れてるって言うんです」
ミレイユは舞台へ上がった。
床を一歩踏む。
沈む。
顔を上げる。
「レオンさん」
「うん」
「ここ、直せます?」
レオンも舞台へ上がった。
しゃがむ。
板を叩く。
「何枚か張り替えれば」
「アレク」
「嫌な予感がするね」
「椅子運んでください」
「やっぱり」
「トキ。舞台の奥行き測って。二幕の立ち位置、全部変えます」
「全部?」
「この広さじゃ無理です」
「今日寝られるかな」
「寝る前にやれば大丈夫」
「それ寝られないやつです」
皆が動き始める。
イエローは一人、舞台裏の物置へ入った。
古い箱。
壊れた燭台。
虫食いの布。
積まれた木片。
足元へ何かが落ちた。
紙だった。
黄ばんでいる。
角が欠けている。
拾い上げ、表面の埃を指で払った。
そこには、見慣れた鳥の絵があった。
今、馬車に掲げているものより線は古い。
けれど、翼の形は同じだった。
『旅劇団 銀の小鳥座』
その下に、多くの名前が並んでいる。
今の一座より、ずっと多い。
「団長」
声を掛ける。
ガドランが舞台板を抱えたまま振り返った。
「ん?」
イエローは紙を持ち上げた。
ガドランの足が止まる。
すぐには近づいてこなかった。
板を床へ下ろす。
それから、ゆっくり歩いてくる。
紙を見る。
何人もの名前。
演目。
日付。
場所。
ロッカ村。
ガドランは指先で紙の端に触れた。
「……まだ残ってたか」
物置の外では、レオンが板を剥がす音がする。
ミレイユが何かを指示している。
アレクが重い椅子に文句を言い、トキがそれを帳面へ書き留めている。
ガドランはしばらく昔の紙を眺めていた。
「知ってるんですか?」
イエローが訊いた。
「ああ」
「昔の?」
「昔のだ」
それだけ答えた。
紙の上には、《銀の小鳥座》という同じ名前。
けれど、その下に並んでいるのは、知らない名前ばかりだった。
イエローは何も聞かなかった。
ガドランも何も話さなかった。
舞台の方から、ミレイユの声が飛んでくる。
「団長! そっち終わったなら手伝ってください!」
ガドランが顔を上げる。
「今行く!」
紙をイエローへ返す。
「捨てるなよ」
「捨てません」
「頼む」
ガドランは舞台へ戻っていった。
イエローはもう一度、紙を見た。
古い《銀の小鳥座》。
その向こうでは、今の《銀の小鳥座》が、明日の舞台を作っている。
長椅子を落とした音がした。
「アレク!」
「これは床が悪い!」
「椅子を持ったまま喋らないで!」
イエローは小さく息を吐いた。
近くにあった比較的ましな箱を一つ引き寄せる。
底の埃を払った。
黄ばんだ紙を折らずにしまい、静かに蓋を閉じた。
明日の舞台は、まだ影も形もなかった。
それでも村の外では、子供たちの声がしていた。
どうやら、もう客だけは揃っているらしい。