「足りない」
翌朝。
ロッカ村の集会所で、ミレイユが言った。
舞台の上には、銀の小鳥座が普段から持ち歩いている濃紺の幕が吊られている。
昨日、港町を出た直後に忘れたことへ気づき、わざわざ馬車を引き返して取りに戻った幕である。
取りに戻った。
確かに持ってきた。
なのに。
舞台の右端が、きれいに三分の一ほど露出していた。
ミレイユは幕を見る。
舞台を見る。
もう一度、幕を見る。
「足りない」
「二回言ったな」
客席側で腕を組んでいたガドランが頷く。
「見れば分かる」
「分かるなら何とかしてください」
「いやあ、昔の舞台ってのは広いな」
「感心してる場合じゃありません!」
ミレイユが幕の端を掴んで引っ張る。
当然ながら布は伸びない。
「昨日わざわざ取りに戻ったんですよ!? あの泥道を!」
「持ってこいって言ったの、お前だろ」
「持ってきても幅が足りないなんて思わないでしょう!」
舞台下で寸法を書き留めていたトキが顔を上げた。
「正確には二歩と半分足りません」
「そういう情報は今いりません」
「記録としては必要です」
「何の記録!?」
「銀の小鳥座がロッカ村で直面した問題について」
筆が動く。
ガドランが覗き込んだ。
「また俺の悪口書いてないだろうな」
「まだです」
「まだ?」
舞台奥では、レオンが昨日剥がした床板の代わりを張っていた。
釘を一本打ち込み、幕を見上げる。
「端を見せたままやれば?」
「場面転換が全部見えます」
「暗くするとか」
「昼公演です」
「客に目を閉じてもらう」
木槌の音が止まった。
ミレイユが無言でこちらを見ている。
「……冗談」
「レオンさん、時々団長側に行きますよね」
「心外だな」
「俺もだ」
ガドランが言った。
「なんで団長が傷つくんですか」
その横を、帳簿を持ったイエローが通った。
「布を買う場合、今月の食費から出します」
一同が黙った。
「借りよう」
ガドランが言った。
「借りましょう」
ミレイユも即答した。
レオンが頷く。
「それがいい」
アレクだけが首を傾げる。
「多少食事が質素になっても、舞台の美しさを――」
全員が見る。
「……借りるのがいいと思う」
◇
こうして銀の小鳥座は、朝から村中を歩き回ることになった。
必要なのは、幕の足りない部分を埋められるだけの大きな布。
できれば厚手。
できれば無地。
できれば色も今の幕に近い。
ミレイユが出した条件だった。
最初に村長の家から借りられたのは、白いシーツが二枚。
「白かあ……」
ミレイユが広げる。
綺麗ではある。
ただし濃紺の幕とはまったく合わない。
「夜空と雲と思えば」
トキが言った。
「舞台の端だけ急に雲が出るの?」
「天候は変わります」
「劇の途中で?」
「物語にもよります」
「今回は変わりません」
次に教会から、使わなくなった灰色の布を一枚。
粉屋からは、厚手の麦袋を六枚。
レオンが一枚広げる。
中央に大きな文字で、
『バルト粉麦商会』
と書かれていた。
「広告になるな」
「なりません」
ミレイユが即座に裏返した。
裏には、
『上等小麦』
と書いてあった。
「両面か」
「なんで!?」
粉屋の主人が胸を張る。
「うちの袋はどこから見ても店が分かるんだ」
「すごいですね」
トキが感心する。
「今はいらない感心です!」
結局、麦袋は文字の部分だけ内側へ折り込み、縫い合わせることになった。
次は酒場。
赤い卓布が二枚。
ガドランが受け取る。
「これなら使えるな」
「染みがあります」
イエローが指差す。
「酒場の布だからな」
「洗えば?」
レオンが言う。
酒場の主人が首を横に振った。
「三年前から取れない」
「何をこぼしたんです?」
トキが訊く。
主人はしばらく考えた。
「覚えてない」
ガドランが卓布を広げる。
「歴史だな」
「汚れです」
イエローが畳んだ。
◇
最後に訪ねたのは、一座が泊まっている宿だった。
「大きな布?」
女将が腕を組む。
「それなら一つあるよ」
奥へ消える。
しばらくして、両腕いっぱいに抱えた布を持って戻ってきた。
「昔、娘の部屋に使ってたんだけどね」
広げた。
沈黙した。
赤。
黄。
青。
そして紫。
人の顔ほどもある巨大な花が、布一面に咲き乱れている。
その場にいたミレイユ、アレク、トキの三人が同時に見上げた。
「大きさは」
ミレイユが言う。
「完璧ですね」
トキが答える。
アレクは何も言わない。
女将が嬉しそうに布を撫でた。
「綺麗でしょう?」
「……ええ」
アレクが答えた。
笑顔だった。
「非常に華やかです」
「あら、分かる?」
「もちろんです」
「じゃあ使ってちょうだい。返すのはいつでもいいから」
「ありがとうございます」
女将が奥へ戻る。
扉が閉まった。
アレクの笑顔が消えた。
「これは駄目だ」
「さっき綺麗って言ったでしょう」
ミレイユが言う。
「借りる相手へ『恐ろしいですね』とは言えないだろう」
「恐ろしいんですか?」
「花にも限度がある」
トキが布を持ち上げる。
「アレクさんの登場位置、ちょうどここですよ」
騎士役の彼が最初に現れる位置。
そこに巨大な黄色い花が咲いていた。
アレクは長いこと黙っていた。
「変更できない?」
「できません」
「僕が少し左から出るとか」
「そこは柱です」
「柱を動かす?」
「舞台より自分を優先しないでください」
「では台詞を変えよう」
アレクが花柄を指す。
「『この美しき花々に誓って、我が国を――』」
「変えません」
「まだ最後まで言ってないよ」
「その先も必要ありません」
◇
昼には、集めた布が舞台いっぱいに広げられた。
濃紺の旅幕。
白いシーツ。
灰色の古布。
赤い卓布。
麦袋。
花柄。
ミレイユは腕を組み、難しい顔でそれらを眺めていた。
「ひどいですね」
トキが率直に言った。
「分かってます」
「色が全部違います」
「分かってます!」
「一周回って芸術では?」
「回らないでください」
イエローが布の間へ座った。
針箱を開く。
「とりあえず、濃い色を下にまとめます」
赤い布を置き、灰色を重ねる。
白は裏地。
麦袋は文字が見えないよう折り込む。
「花柄は?」
ミレイユが訊く。
「どうしても残ります」
「ですよね……」
「諦めましょう」
イエローが針へ糸を通した。
迷いなく縫い始める。
ミレイユも隣へ座った。
「私もやります」
二人の手が動く。
数分後。
ミレイユが横を見る。
「……速くない?」
「何がです?」
「縫うの」
イエローの手元では、すでに長い縫い目が出来上がっていた。
幅の違う布を重ね、強く引かれても裂けにくいよう何度か糸を返している。
「慣れているので」
「衣装だけじゃなくて、こういう厚い布も?」
「はい」
「昔から?」
針先が布を抜ける。
ほんの一瞬だけ、次の針が入るまでの間が長かった。
「昔からです」
「へえ」
ミレイユは特に気にした様子もなく、自分の布へ戻った。
少しして、黄色い布切れを拾う。
「そういえばイエローって、黄色好きなんですか?」
「別に」
「名前なのに?」
「名前と好みは関係ないでしょう」
「それはそうですけど」
少し離れたところで聞いていたガドランが口を挟んだ。
「俺はずっと黄色が好きだからイエローなのかと思ってた」
「初めて聞きました」
イエローが言う。
「え?」
「団長がそう思っていたことを」
「お前、自分の名前の由来とか話さねえだろ」
「聞かれてませんから」
「じゃあ今聞く。なんでイエローなんだ?」
針が一度止まった。
イエローはガドランを見る。
「秘密です」
また縫い始めた。
ガドランが少し目を丸くする。
「秘密なんてあったのか、お前」
「人を何だと思ってるんです?」
「会計」
「それは合っています」
◇
舞台の反対側では、レオンが床板の修理を終えようとしていた。
最後の板を合わせる。
少し大きい。
ノコギリを取ろうとすると、トキが横から覗き込んだ。
「何してるんです?」
「見れば分かるだろ」
「舞台の修理」
「分かってるじゃないか」
「でもレオンさんって、こういうの普通にできますよね」
「普通にって?」
「馬車の車輪も直せるし、馬の蹄も見られるし、怪我した人の手当てもできるし」
レオンは板の端へ線を引く。
「長く旅してれば覚えるよ」
「僕も半年旅してます」
「あと十年くらい頑張れ」
「長い」
トキは帳面を開いた。
「昔は何してたんです?」
ノコギリを持つ手が動く。
「いろいろ」
「それ、答えになってません」
「答えたくないからね」
トキが顔を上げた。
レオンは特に笑ってもいなければ、不機嫌でもなかった。
ただ板を切っている。
「……そうですか」
トキは帳面を閉じた。
「書かないの?」
「答えがないので」
「偉い」
「でも『答えたくない』とは書けます」
「やっぱり消して」
◇
夕方。
ようやく新しい幕が吊り上がった。
集会所へ集まっていた村の子供たちが、入口から一斉に覗き込む。
「おおー」
歓声が上がった。
銀の小鳥座の面々も、客席側へ並んで見上げる。
濃紺。
赤。
灰色。
少しだけ白。
端には麦袋。
そして右側には、どうやっても隠せなかった巨大な花柄。
レオンが腕を組む。
「思ったより悪くない」
「本当ですか?」
ミレイユが訊く。
「遠くからなら」
「この集会所、遠くないですよ」
ガドランが顎へ手を当てた。
「暗くすれば」
「昼公演です」
「客に芝居を見てもらえば」
ミレイユがガドランを見る。
何か言おうとして、やめた。
「……まあ、それはそうですね」
イエローが最後の縫い目を確認する。
「破れなければ十分です」
「会計らしい感想だ」
アレクは自分の登場位置を見ていた。
巨大な黄色い花。
「僕だけ納得してない」
「明日には慣れますよ」
トキが言う。
「僕が?」
「客が」
「それ何の慰めにもなってないよね?」
子供たちが笑う。
その輪から少し離れた柱の陰に、一人だけ少年が立っていた。
他の子供たちが中へ入ってきても、そこから動かない。
トキが気づく。
目が合った。
少年は慌てて顔を引っ込めた。
トキは少しだけ首を傾げたが、呼び止めなかった。
舞台へ視線を戻す。
昨日までは埃と壊れた板しかなかった場所に、不格好ではあるが幕が下がっている。
その向こうには大道具。
舞台袖には衣装。
客席には、明日を待てない子供たち。
「形になってきましたね」
トキが言った。
ミレイユが幕を見上げる。
「まだです」
「まだ?」
「舞台ができただけです」
客席を見た。
「芝居はこれから」
その言葉を聞いて、ガドランが笑った。
「じゃあ今日は飯にするか」
「どうしてそうなるんです?」
「腹減った」
「稽古します!」
「明日でいいだろ」
「本番が明日なんです!」
また言い合いが始まる。
子供たちが笑う。
アレクは花柄についてまだ文句を言っている。
イエローは借りた布の一覧を帳簿へ書き込んでいる。
レオンは工具を片付けながら、壊れた床を最後に一度踏んで確かめた。
舞台は、どうにかできた。
かなり不格好ではあったけれど。
銀の小鳥座の舞台としては、そのくらいがちょうどいいのかもしれなかった。