「違います」
ミレイユの声が飛んだ。
舞台中央に立っていたレオンは、手にした台本へ目を落とす。
「どこが?」
「最初からです」
「最初から?」
「はい」
「今、二十行くらい喋ったよね?」
「十七行です」
舞台袖からトキが訂正した。
「そういうところだけ正確だな、お前」
「書いた本人なので」
レオンはため息をついた。
ロッカ村での公演を翌日に控えた昼前。
昨日どうにか完成した継ぎ接ぎの幕を背に、銀の小鳥座はようやく本格的な稽古へ入っていた。
問題は、ガドランが腰を痛めていることだった。
本来なら彼が演じるはずだった王の役が、なぜか護衛兼御者のレオンへ回っている。
白い付け髭はまだ付けていない。
王冠もない。
衣装だけ羽織らされたレオンは、どう見ても機嫌の悪い若い貴族だった。
「もう一回やります」
ミレイユが言う。
「さっきと意味は同じだったろ」
「同じじゃありません」
「『余は民を見捨てぬ』と『私は民を見捨てない』の違いだろ?」
「王様が急に近所のお兄さんみたいになるんです」
「客には分かりやすい」
「そういう問題じゃありません!」
客席の長椅子に寝転がっていたガドランが笑う。
「レオン。諦めろ。あいつは芝居に関してだけは俺より頑固だ」
「団長は芝居以外が適当すぎるんです」
「ほらな」
「褒めてません!」
トキが舞台袖で台本へ何か書き込んでいた。
レオンが目ざとく見つける。
「今、何書いた?」
「『王役、開始十八分で三回目のやり直し』」
「消して」
「後から改善点を確認できます」
「俺の恥を保存する必要ある?」
「資料なので」
「その帳面、燃やした方が一座のためじゃないか」
「予備があります」
「用意がいいな……」
客席の後ろで、笑い声がした。
昨日から集会所の柱の陰にいた少年だった。
今日もほかの子供たちより少し離れたところにいる。
ただ、昨日より一歩だけ中へ入っていた。
レオンと目が合う。
少年は慌てて口を閉じた。
「笑っていいよ」
レオンが言った。
「どうせ明日はもっと笑われる」
「縁起でもないこと言わないでください」
ミレイユが睨む。
「笑わせるのはいいです。でも台詞を忘れて笑われるのは駄目です」
「難しい世界だな、芝居って」
◇
昼休みになっても、少年は帰らなかった。
ほかの子供たちは一度家へ戻ったり、集会所の前で走り回ったりしている。
少年だけが舞台袖近くの柱へ寄りかかり、トキの手元を眺めていた。
トキは気づいていたが、しばらく何も言わなかった。
台本を一枚めくる。
また一枚。
やがて少年の視線があまりに真っ直ぐなので、根負けしたように顔を上げた。
「見たい?」
少年が少し迷ってから頷いた。
トキは隣の木箱を叩く。
「座れば?」
動かない。
「ここなら舞台からもあまり見えないよ」
それを聞いて、ようやく少年が近づいてきた。
木箱の端へ腰を下ろす。
トキが台本を見せた。
細かな文字がびっしり並んでいる。
「全部、これに書いてあるの?」
「一応」
「一応?」
「団長とアレクさんがよく勝手に変えるから」
「変えていいの?」
「よくない」
トキは即答した。
「でも変える」
「怒られない?」
「ミレイユさんに怒られる」
舞台の向こうから、
「アレク! そこ三歩です! 五歩行かない!」
と声が飛ぶ。
少年がそちらを見てから、小さく笑った。
「ね?」
トキも笑う。
少年はまた台本へ目を落とした。
「これ、君が書いたの?」
「全部じゃないよ。元の話があって、僕が旅用に直した」
「すごい」
短い言葉だった。
トキの指がページの端で止まる。
「……そう?」
「僕、こんなに字書けない」
「それは練習すれば書けるよ」
「話も?」
トキは少し考えた。
「話は……どうだろう」
少年が顔を上げる。
「僕もまだ練習中だから」
「劇団なのに?」
「劇団だからって、みんな完成してるわけじゃないよ」
少年は舞台を見る。
ちょうどアレクが大きく剣を振り、ミレイユに「大きすぎます!」と止められていた。
客席ではガドランが腰を押さえたまま何か口を出し、イエローに「座っていてください」と戻されている。
「……本当だ」
「そこは否定してほしかったな」
少年がまた笑った。
「名前、聞いていい?」
「リオ」
「僕はトキ」
「知ってる」
「え?」
「みんな呼んでるから」
「じゃあ僕だけ知らなかったのか」
トキは少し損した顔をした。
「リオは芝居好き?」
頷く。
「前に見たのは?」
首を傾げる。
「覚えてない」
「そんなに前?」
「じいちゃんが、昔は祭りになると旅の人が来たって言ってた。でも僕が小さい時から、あんまり来ない」
トキは舞台裏へ一度目を向けた。
昨日、イエローが見つけた古い公演紙。
昔の《銀の小鳥座》がこの村で芝居をした証拠。
「じゃあ明日は久しぶりだ」
「うん」
「前で見れば?」
リオの肩が少しだけ縮んだ。
「人が多いの、苦手?」
返事はなかった。
トキはそれ以上聞かない。
「舞台袖でも少し見えるよ」
「ここ?」
「ここ」
「いていい?」
「邪魔しなければ」
「しない」
「アレクさんより静かなら大丈夫」
「聞こえてるよ」
舞台上からアレクの声がした。
「地獄耳ですね」
◇
午後は剣劇の稽古になった。
「そこはもっと大きく受けて」
ミレイユが客席側から声を飛ばす。
アレクが模造剣を肩へ担ぐ。
「僕としては、もっと速い方が美しいと思うんだけど」
「速すぎると後ろの人に何してるか見えません」
「美しさとは一瞬だからこそ――」
「聞いてください」
「聞いてるよ」
「従ってください」
レオンは舞台の端で王の台本を読んでいた。
アレクがこちらを見る。
「レオン」
「嫌な予感」
「一本付き合ってくれないか?」
「俺、王様の台詞覚えないと肉抜かれるんだけど」
「少しくらい身体を動かした方が頭に入る」
「それ本当?」
「今考えた」
「やらない」
ミレイユが模造剣を一本投げた。
レオンが反射的に掴む。
「五分だけお願いします」
「ミレイユまで?」
「相手がいた方が動きを決めやすいので」
「終わったら台詞減らして」
「それとこれは別です」
レオンは諦めて舞台中央へ出た。
アレクが嬉しそうに剣を構える。
「本気で来ていい?」
「木の剣でも痛いから嫌だよ」
「では舞台用に」
一歩。
アレクが踏み込む。
剣が横へ走った。
レオンの腕が動く。
軽い音が一つ。
次の瞬間。
アレクの剣先は舞台の外を向き、レオンの剣が彼の手首の少し上で止まっていた。
集会所が静かになった。
「……あれ?」
最初に言ったのはトキだった。
アレクは自分の剣を見る。
次にレオンを見る。
「今、何をした?」
「受けた」
「受けてない」
「受けたよ」
「僕の剣を横へ流して、手首を取っただろう」
「そういう受け方」
「舞台ではやらない受け方だ」
レオンは剣を下ろした。
「だから駄目なんだよ」
ミレイユが舞台へ上がる。
「今の、客席から全然分かりませんでした」
「ほら」
「ほら、じゃありません。もっと大きく!」
レオンが今度こそ困った顔をする。
「当てないように大きく振る方が難しいんだけど」
「それをするのが剣劇です」
アレクはまだレオンを見ていた。
「君、剣を習っていた?」
「昔ちょっと」
「ちょっと?」
「ちょっと」
トキの手が自然に帳面へ伸びる。
レオンが先に指差した。
「書かなくていい」
「まだ何も」
「顔で分かる」
「ミレイユさんみたいなこと言いますね」
アレクは何か言いたそうだったが、結局剣を構え直した。
「なら今度は、舞台の剣を教えてくれ」
「俺が教わる側じゃない?」
「さっきのを見た後で言われても説得力がないよ」
客席の端。
リオが目を輝かせていた。
◇
何度か合わせるうちに、レオンも舞台上の剣の振り方を覚え始めた。
大きく。
相手の身体より外へ。
音はしっかり鳴らす。
客から見える角度を取る。
「なるほど」
剣を合わせながら、レオンが呟く。
「実際の剣とは逆だな」
アレクの動きが一瞬止まった。
「何が?」
「実際なら、こんな大振りしたら隙だらけだろ」
「……レオン」
「ん?」
アレクが口を開く。
だがその時、ガドランが客席から声を飛ばした。
「そこ、もっと派手に転べ!」
「誰がです?」
「アレク」
「なぜ僕が!」
「お前なら格好よく転べる!」
「褒めてるようで全然嬉しくないんだけど!」
話はそこで途切れた。
レオンも気にした様子はなく、模造剣を肩へ乗せる。
ミレイユは手を叩いた。
「はい、もう一回。今度は最後まで行きます!」
「まだやるの?」
「五分って言いましたけど、良くなってきたので」
「約束は?」
「芝居は生き物です」
ガドランが大きく笑った。
「いいこと言うじゃねえか!」
「団長の悪い影響受けてる……」
◇
日が傾き始めた頃。
衣装を使わない簡単な通し稽古をすることになった。
明日の客になる子供たちには帰るよう言ったが、結局何人かは入口から覗いている。
リオは約束通り舞台袖にいた。
トキの隣。
「そこなら出ないから大丈夫」
リオが頷く。
舞台ではレオンが王役として椅子に座った。
王冠代わりに、なぜか裏返した木桶を頭へ乗せられている。
「これ必要?」
「位置確認だけなので」
ミレイユが答える。
「王冠まだ直してるんです」
「だったら何もなくていいだろ」
「何かあった方が王様らしいです」
「桶だよ?」
舞台袖でリオが笑いを堪えている。
レオンはそれを見る。
「笑ってるな?」
リオが首を横へ振る。
「いや、笑ってた」
「稽古中ですよ!」
ミレイユが台本で舞台を叩く。
「最初から!」
「また?」
「レオンさんが止めたからでしょう!」
トキが小声でリオに言う。
「たぶん今日中に終わらない」
「いつもこうなの?」
「だいたい」
「楽しそう」
トキが舞台を見る。
ミレイユは本気で怒っている。
レオンは桶を被っている。
アレクは花柄の幕から出る位置について、まだ最後まで納得していない。
ガドランは腰を痛めているくせに、勝手に演出へ口を出している。
イエローは舞台袖で破れた衣装を縫いながら、時折帳簿へ数字を書いていた。
「……まあ」
トキは小さく笑った。
「退屈はしない」
その時だった。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
皆の動きが少し止まる。
二度。
ガドランが顔を上げた。
三度。
外を走っていた子供たちの声が消える。
間を置いて、さらに三度。
ガドランが椅子から立った。
腰へ手をやることさえ忘れている。
「何です?」
ミレイユが訊く。
「祭りの鐘じゃねえ」
集会所の外を、村の男が走っていった。
その後ろから別の男。
「川だ!」
声が聞こえた。
「橋が落ちたぞ!」
客席の子供たちが一斉に扉へ向かう。
リオの顔色が変わった。
立ち上がる。
「どうした?」
トキが訊く。
「妹……」
「え?」
「朝、羊が逃げたって。川の向こうの方に行ったって――」
最後まで言わなかった。
リオが駆け出す。
「リオ!」
トキも追う。
舞台上では、レオンがすでに木桶を投げ捨てていた。
「団長」
「ああ」
ガドランが短く答える。
今度は誰も、芝居の話をしなかった。