銀の小鳥座   作:コマ塩

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第4話 橋の向こう

 

 

 集会所を飛び出した時には、村の道を何人もの大人が同じ方向へ走っていた。

 

「川だ!」

 

「北の橋が落ちた!」

 

 声が前から前へ伝わっていく。

 

 リオは誰より先に走っていた。

 

 小さな背中が、ぬかるんだ道を何度も滑りそうになる。

 

「リオ!」

 

 トキが追う。

 

 その後ろからレオン、ガドランたちも続いた。

 

 さっきまで王様の台詞を覚えていたことなど、もう誰も気にしていなかった。

 

 村の北側を抜ける。

 

 倒れた麦畑を横切る。

 

 川が見えた。

 

 昨日までより、ずっと大きく見えた。

 

 濁った水が橋脚へ何度もぶつかり、そのたびに低い音が響いている。川幅そのものが広がったのではなく、水が岸の近くまで押し寄せていた。

 

 そして、橋の中央がなかった。

 

 床板が数枚、まとめて流されている。

 

 残った部分も斜めに沈み、橋脚の一本は上流側へ傾いていた。

 

「ミナ!」

 

 リオが叫んだ。

 

 向こう岸。

 

 柳の木のそばに、小さな女の子がいた。

 

 六つか七つくらいだろう。

 

 泣きながらこちらを見ている。

 

 その隣には、少し年上の少年がいた。片腕で少女の肩を抱き、もう片方の手で木の幹を掴んでいる。

 

 近くに、白い羊が一頭。

 

「あいつだ……」

 

 リオが息を切らしながら呟いた。

 

「朝、逃げた羊……ミナ、それ追いかけて……」

 

 少女がこちらへ一歩出ようとした。

 

「動くな!」

 

 村の男が叫ぶ。

 

 少女の足が止まった。

 

「そのままいろ! 今そっちへ――」

 

 男が橋へ向かう。

 

 別の男が肩を掴んだ。

 

「馬鹿、見ろ!」

 

「離せ!」

 

「お前まで落ちる!」

 

 橋の残った板が、流れに合わせて小さく揺れていた。

 

 向こう岸までは遠くない。

 

 それが、余計に焦りを煽った。

 

 手を伸ばせば届きそうに見える。

 

 けれど、真ん中には濁流が口を開けている。

 

「何か長い板はないか!」

 

「納屋にある!」

 

「縄は!?」

 

「細いのしか――」

 

 声が重なる。

 

 誰も止まってはいない。

 

 ただ、皆が別々に動こうとしていた。

 

 レオンは橋の手前でしゃがんだ。

 

 流れを見る。

 

 橋を見る。

 

 川上を見る。

 

 それから川下。

 

 しばらく何も言わなかった。

 

 ガドランが隣へ来る。

 

「どうだ」

 

「今のまま渡るのは嫌だな」

 

「行けないか?」

 

「行くだけなら行けるかもしれない」

 

 レオンは傾いた橋脚を見る。

 

「戻れないかもしれないけど」

 

 ガドランが鼻から息を吐いた。

 

「それは困る」

 

「俺も困る」

 

 橋の中央。

 

 流された床板の幅は、人が三歩ほど歩けば越えられる程度だった。

 

 ただし、下は川だ。

 

 残った橋そのものも信用できない。

 

 レオンが立ち上がる。

 

「舞台用の縄、あったよな」

 

 後ろにいたトキが顔を上げた。

 

「太い方?」

 

「そう。あと滑車」

 

 トキが一瞬だけ考える。

 

「背景幕を吊るすやつ?」

 

「使える?」

 

「昨日、城壁吊ってました」

 

「なら人間一人より重い」

 

 トキが頷いた。

 

「取ってきます」

 

 走り出す。

 

「アレク」

 

「いる」

 

 返事が近かった。

 

 レオンが少し驚いて見る。

 

 アレクはもう上着を脱いでいた。

 

「何をすればいい?」

 

「長い板。できれば二枚。厚いやつ」

 

「分かった」

 

「一人で持つなよ」

 

「昨日散々持たされたから分かってる」

 

 アレクも村へ戻っていく。

 

 ガドランが周りの男たちへ声を上げた。

 

「板探せる奴はアレクと行け! 大工はいるか!」

 

「俺だ!」

 

「橋を見てくれ! 残ってるところまで壊れたら終わりだ!」

 

 声が一つになる。

 

 さっきまでばらばらだった人の動きが、少しずつ揃い始めた。

 

 ミレイユは川岸へ出た。

 

 両手を口元に当てる。

 

「ミナ!」

 

 少女が顔を上げる。

 

「そこから動かないで! 迎えに行くから!」

 

「お兄ちゃん……!」

 

「リオはこっちにいる!」

 

 ミレイユが振り返る。

 

「リオ!」

 

 呼ばれた少年が前へ出る。

 

「ミナ! 俺ここにいるから!」

 

 少女が泣きながら何度も頷いた。

 

「だから待ってろ! 羊はもういいから!」

 

 その横の少年にもミレイユが声を掛ける。

 

「君もその木から離れないで! 妹さんを見ててくれる?」

 

「妹じゃない!」

 

 少年が川の向こうから叫び返した。

 

「分かった! でもお願い!」

 

「分かった!」

 

 ミレイユはその場に膝をついた。

 

 リオの肩へ手を置く。

 

「大丈夫。みんな動いてるから」

 

 リオは答えなかった。

 

 ただ、向こう岸から目を離さなかった。

 

     ◇

 

 トキが戻ってきた時には、肩に太い縄を担ぎ、両腕には滑車を抱えていた。

 

「これ!」

 

 泥へ足を取られ、最後の数歩をよろめく。

 

 レオンが受け取る。

 

「よく持ってきたな」

 

「重いです」

 

「見れば分かる」

 

「今、褒めるところでは?」

 

「後で」

 

「忘れないでくださいよ」

 

 その後ろから、アレクと村人たちが長い板を運んできた。

 

 二枚。

 

 厚さもある。

 

「これでどうだ!」

 

 アレクの靴はすでに泥だらけだった。

 

 本人はまだ気づいていないらしい。

 

 レオンが板を叩く。

 

「いける」

 

 イエローは橋の脇を歩いていた。

 

 川へ近づくでもなく、木々を見ている。

 

 やがて一本の太い木の前で止まった。

 

 幹へ手を当てる。

 

「ここ」

 

 ガドランが振り返った。

 

「何が?」

 

「縄を取るなら、この木がいいです」

 

 橋脚を指す。

 

「あっちは動いてます」

 

 確かに、川の中に残った橋脚は水を受けるたびにわずかに震えていた。

 

「こっちは?」

 

 レオンが木へ近づく。

 

「根は?」

 

「少なくとも橋よりはましです」

 

 イエローは太縄を受け取った。

 

 木へ回す。

 

 両手が動く。

 

 一度輪を作り、縄を返し、締める。

 

 もう一度。

 

 最後に強く引いた。

 

 見ていた村の男が首を傾げた。

 

「ずいぶん慣れてるな」

 

「舞台で使います」

 

 イエローは結び目から目を離さない。

 

「幕や背景が落ちると困るので」

 

 レオンがしゃがみ、結び目を両手で引いた。

 

 動かない。

 

「これなら大丈夫そうだな」

 

「そうですね」

 

 イエローが次の縄を取る。

 

「ただし、落ちないでください」

 

「縄がもったいない?」

 

 レオンが訊いた。

 

「高いので」

 

「やっぱり」

 

「それ以外もあります」

 

 次の結び目を作り始める。

 

 レオンは少しだけ彼女の手元を見た。

 

 何か言いかけたが、やめた。

 

     ◇

 

 板を橋の欠けた部分へ渡した。

 

 一本目。

 

 村の大工が這うようにして橋の手前まで進み、残った床板へ端を固定する。

 

 もう一本を隣へ。

 

 二本あれば、少なくとも足を置く幅はできる。

 

「もっと右!」

 

「そこ!」

 

「止めろ!」

 

 声を掛けながら位置を合わせる。

 

 次に、胸ほどの高さへ縄を張った。

 

 手すりの代わり。

 

 もう一本の太縄を滑車へ通し、レオンの腰へ繋ぐ。

 

 川岸側には村人を並べる。

 

「これ、引けばいいんだな?」

 

 一人が訊く。

 

「勝手に引かないでください」

 

 イエローが答えた。

 

 男が少し驚いて見る。

 

「もし落ちても、一気に引かないで。身体が橋や板に当たります。私が言った時だけ」

 

「……分かった」

 

 ガドランが声を張る。

 

「聞こえたな! 縄はイエローの合図だ! 誰か一人でも勝手に引いたら全員止めるぞ!」

 

 村人たちが頷く。

 

 トキは滑車の位置を確かめていた。

 

「普段、こんな使い方しませんよね」

 

「当然だろ」

 

 ガドランが言う。

 

「俺たち劇団ですよね?」

 

「今日は橋屋だ」

 

「明日は?」

 

「劇団」

 

「忙しいなあ……」

 

     ◇

 

 準備が終わった。

 

 それまで誰も口にしなかった言葉が、急に現実になる。

 

 誰が渡るのか。

 

 レオンが外套を脱いだ。

 

 ガドランへ渡す。

 

 続いて腰の剣を外した。

 

「持ってて」

 

 ガドランが受け取る。

 

 ほんの少し重さを確かめるように持ち直したが、何も言わなかった。

 

 ミレイユが近づいてくる。

 

「レオンさん」

 

「うん」

 

「……行くんですか」

 

「そのために作ったからね」

 

「他の人じゃ」

 

 そこで言葉が止まる。

 

 村の男たちを見る。

 

 誰も逃げてはいない。

 

 けれど、橋の状態を見れば、簡単に「自分が」と言える状況でもなかった。

 

 レオンは安全縄を腰へ回した。

 

「最初に見たの俺だし」

 

「それ、理由になります?」

 

「じゃあ、比較的身軽」

 

「アレクの方が軽そうです」

 

「僕?」

 

 離れた場所からアレクが振り返る。

 

「聞こえてたんですか」

 

「自分の名前には敏感なんだ」

 

「今は来なくていい」

 

 レオンが言う。

 

「縄の方頼む」

 

「……分かった」

 

 アレクは素直に戻った。

 

 ミレイユはまだレオンを見ている。

 

「危なくないですか」

 

「危ないよ」

 

 返事が早かった。

 

 ミレイユの眉が寄る。

 

「普通、大丈夫って言いません?」

 

「大丈夫じゃないから慎重に行く」

 

 レオンは結び目を引いて確かめた。

 

「そっちの方がいいだろ」

 

 ミレイユは口を開きかけた。

 

 やがて閉じる。

 

「……戻ったら稽古です」

 

「今言う?」

 

「四十二行、まだ三回間違えてます」

 

「数えてたのか」

 

「当然です」

 

 レオンが笑った。

 

「分かった」

 

 リオが近くまで来ていた。

 

「レオンさん」

 

「ん?」

 

「ミナ……」

 

 その先が出てこない。

 

 レオンはリオの頭へ手を置いた。

 

「待ってて」

 

 それだけ言った。

 

     ◇

 

 橋の前に立つ。

 

 川の音が、さっきより近い。

 

 岸から見ている時には三歩にしか見えなかった欠けた部分が、ここからだと妙に広く感じた。

 

 レオンは手すりの縄を握る。

 

 一歩。

 

 床板が軋む。

 

 止まる。

 

 後ろから声はしなかった。

 

 二歩目。

 

 橋脚へ水がぶつかる。

 

 足元がわずかに揺れる。

 

 三歩。

 

 レオンは一度、上流を見た。

 

 流木はない。

 

 前へ向き直る。

 

 欠けた部分へ渡した板まで、あと少し。

 

 向こう岸で、ミナが泣いている。

 

「お兄ちゃん……」

 

「そこにいて!」

 

 リオの声が背中から飛んだ。

 

 少女が木の幹を抱く。

 

 レオンは板の手前まで来た。

 

 靴の先で一度踏む。

 

 板が沈む。

 

 だが、外れない。

 

 もう一度体重を掛ける。

 

「レオン!」

 

 ガドランの声が届く。

 

 振り返らない。

 

 片手だけ上げた。

 

 聞こえている。

 

 そのまま、板へ片足を乗せる。

 

 濁った水がすぐ下を走っていた。

 

 レオンは息を一つ吐いた。

 

 そして、橋の向こうへ向かって次の一歩を踏み出した。

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