集会所を飛び出した時には、村の道を何人もの大人が同じ方向へ走っていた。
「川だ!」
「北の橋が落ちた!」
声が前から前へ伝わっていく。
リオは誰より先に走っていた。
小さな背中が、ぬかるんだ道を何度も滑りそうになる。
「リオ!」
トキが追う。
その後ろからレオン、ガドランたちも続いた。
さっきまで王様の台詞を覚えていたことなど、もう誰も気にしていなかった。
村の北側を抜ける。
倒れた麦畑を横切る。
川が見えた。
昨日までより、ずっと大きく見えた。
濁った水が橋脚へ何度もぶつかり、そのたびに低い音が響いている。川幅そのものが広がったのではなく、水が岸の近くまで押し寄せていた。
そして、橋の中央がなかった。
床板が数枚、まとめて流されている。
残った部分も斜めに沈み、橋脚の一本は上流側へ傾いていた。
「ミナ!」
リオが叫んだ。
向こう岸。
柳の木のそばに、小さな女の子がいた。
六つか七つくらいだろう。
泣きながらこちらを見ている。
その隣には、少し年上の少年がいた。片腕で少女の肩を抱き、もう片方の手で木の幹を掴んでいる。
近くに、白い羊が一頭。
「あいつだ……」
リオが息を切らしながら呟いた。
「朝、逃げた羊……ミナ、それ追いかけて……」
少女がこちらへ一歩出ようとした。
「動くな!」
村の男が叫ぶ。
少女の足が止まった。
「そのままいろ! 今そっちへ――」
男が橋へ向かう。
別の男が肩を掴んだ。
「馬鹿、見ろ!」
「離せ!」
「お前まで落ちる!」
橋の残った板が、流れに合わせて小さく揺れていた。
向こう岸までは遠くない。
それが、余計に焦りを煽った。
手を伸ばせば届きそうに見える。
けれど、真ん中には濁流が口を開けている。
「何か長い板はないか!」
「納屋にある!」
「縄は!?」
「細いのしか――」
声が重なる。
誰も止まってはいない。
ただ、皆が別々に動こうとしていた。
レオンは橋の手前でしゃがんだ。
流れを見る。
橋を見る。
川上を見る。
それから川下。
しばらく何も言わなかった。
ガドランが隣へ来る。
「どうだ」
「今のまま渡るのは嫌だな」
「行けないか?」
「行くだけなら行けるかもしれない」
レオンは傾いた橋脚を見る。
「戻れないかもしれないけど」
ガドランが鼻から息を吐いた。
「それは困る」
「俺も困る」
橋の中央。
流された床板の幅は、人が三歩ほど歩けば越えられる程度だった。
ただし、下は川だ。
残った橋そのものも信用できない。
レオンが立ち上がる。
「舞台用の縄、あったよな」
後ろにいたトキが顔を上げた。
「太い方?」
「そう。あと滑車」
トキが一瞬だけ考える。
「背景幕を吊るすやつ?」
「使える?」
「昨日、城壁吊ってました」
「なら人間一人より重い」
トキが頷いた。
「取ってきます」
走り出す。
「アレク」
「いる」
返事が近かった。
レオンが少し驚いて見る。
アレクはもう上着を脱いでいた。
「何をすればいい?」
「長い板。できれば二枚。厚いやつ」
「分かった」
「一人で持つなよ」
「昨日散々持たされたから分かってる」
アレクも村へ戻っていく。
ガドランが周りの男たちへ声を上げた。
「板探せる奴はアレクと行け! 大工はいるか!」
「俺だ!」
「橋を見てくれ! 残ってるところまで壊れたら終わりだ!」
声が一つになる。
さっきまでばらばらだった人の動きが、少しずつ揃い始めた。
ミレイユは川岸へ出た。
両手を口元に当てる。
「ミナ!」
少女が顔を上げる。
「そこから動かないで! 迎えに行くから!」
「お兄ちゃん……!」
「リオはこっちにいる!」
ミレイユが振り返る。
「リオ!」
呼ばれた少年が前へ出る。
「ミナ! 俺ここにいるから!」
少女が泣きながら何度も頷いた。
「だから待ってろ! 羊はもういいから!」
その横の少年にもミレイユが声を掛ける。
「君もその木から離れないで! 妹さんを見ててくれる?」
「妹じゃない!」
少年が川の向こうから叫び返した。
「分かった! でもお願い!」
「分かった!」
ミレイユはその場に膝をついた。
リオの肩へ手を置く。
「大丈夫。みんな動いてるから」
リオは答えなかった。
ただ、向こう岸から目を離さなかった。
◇
トキが戻ってきた時には、肩に太い縄を担ぎ、両腕には滑車を抱えていた。
「これ!」
泥へ足を取られ、最後の数歩をよろめく。
レオンが受け取る。
「よく持ってきたな」
「重いです」
「見れば分かる」
「今、褒めるところでは?」
「後で」
「忘れないでくださいよ」
その後ろから、アレクと村人たちが長い板を運んできた。
二枚。
厚さもある。
「これでどうだ!」
アレクの靴はすでに泥だらけだった。
本人はまだ気づいていないらしい。
レオンが板を叩く。
「いける」
イエローは橋の脇を歩いていた。
川へ近づくでもなく、木々を見ている。
やがて一本の太い木の前で止まった。
幹へ手を当てる。
「ここ」
ガドランが振り返った。
「何が?」
「縄を取るなら、この木がいいです」
橋脚を指す。
「あっちは動いてます」
確かに、川の中に残った橋脚は水を受けるたびにわずかに震えていた。
「こっちは?」
レオンが木へ近づく。
「根は?」
「少なくとも橋よりはましです」
イエローは太縄を受け取った。
木へ回す。
両手が動く。
一度輪を作り、縄を返し、締める。
もう一度。
最後に強く引いた。
見ていた村の男が首を傾げた。
「ずいぶん慣れてるな」
「舞台で使います」
イエローは結び目から目を離さない。
「幕や背景が落ちると困るので」
レオンがしゃがみ、結び目を両手で引いた。
動かない。
「これなら大丈夫そうだな」
「そうですね」
イエローが次の縄を取る。
「ただし、落ちないでください」
「縄がもったいない?」
レオンが訊いた。
「高いので」
「やっぱり」
「それ以外もあります」
次の結び目を作り始める。
レオンは少しだけ彼女の手元を見た。
何か言いかけたが、やめた。
◇
板を橋の欠けた部分へ渡した。
一本目。
村の大工が這うようにして橋の手前まで進み、残った床板へ端を固定する。
もう一本を隣へ。
二本あれば、少なくとも足を置く幅はできる。
「もっと右!」
「そこ!」
「止めろ!」
声を掛けながら位置を合わせる。
次に、胸ほどの高さへ縄を張った。
手すりの代わり。
もう一本の太縄を滑車へ通し、レオンの腰へ繋ぐ。
川岸側には村人を並べる。
「これ、引けばいいんだな?」
一人が訊く。
「勝手に引かないでください」
イエローが答えた。
男が少し驚いて見る。
「もし落ちても、一気に引かないで。身体が橋や板に当たります。私が言った時だけ」
「……分かった」
ガドランが声を張る。
「聞こえたな! 縄はイエローの合図だ! 誰か一人でも勝手に引いたら全員止めるぞ!」
村人たちが頷く。
トキは滑車の位置を確かめていた。
「普段、こんな使い方しませんよね」
「当然だろ」
ガドランが言う。
「俺たち劇団ですよね?」
「今日は橋屋だ」
「明日は?」
「劇団」
「忙しいなあ……」
◇
準備が終わった。
それまで誰も口にしなかった言葉が、急に現実になる。
誰が渡るのか。
レオンが外套を脱いだ。
ガドランへ渡す。
続いて腰の剣を外した。
「持ってて」
ガドランが受け取る。
ほんの少し重さを確かめるように持ち直したが、何も言わなかった。
ミレイユが近づいてくる。
「レオンさん」
「うん」
「……行くんですか」
「そのために作ったからね」
「他の人じゃ」
そこで言葉が止まる。
村の男たちを見る。
誰も逃げてはいない。
けれど、橋の状態を見れば、簡単に「自分が」と言える状況でもなかった。
レオンは安全縄を腰へ回した。
「最初に見たの俺だし」
「それ、理由になります?」
「じゃあ、比較的身軽」
「アレクの方が軽そうです」
「僕?」
離れた場所からアレクが振り返る。
「聞こえてたんですか」
「自分の名前には敏感なんだ」
「今は来なくていい」
レオンが言う。
「縄の方頼む」
「……分かった」
アレクは素直に戻った。
ミレイユはまだレオンを見ている。
「危なくないですか」
「危ないよ」
返事が早かった。
ミレイユの眉が寄る。
「普通、大丈夫って言いません?」
「大丈夫じゃないから慎重に行く」
レオンは結び目を引いて確かめた。
「そっちの方がいいだろ」
ミレイユは口を開きかけた。
やがて閉じる。
「……戻ったら稽古です」
「今言う?」
「四十二行、まだ三回間違えてます」
「数えてたのか」
「当然です」
レオンが笑った。
「分かった」
リオが近くまで来ていた。
「レオンさん」
「ん?」
「ミナ……」
その先が出てこない。
レオンはリオの頭へ手を置いた。
「待ってて」
それだけ言った。
◇
橋の前に立つ。
川の音が、さっきより近い。
岸から見ている時には三歩にしか見えなかった欠けた部分が、ここからだと妙に広く感じた。
レオンは手すりの縄を握る。
一歩。
床板が軋む。
止まる。
後ろから声はしなかった。
二歩目。
橋脚へ水がぶつかる。
足元がわずかに揺れる。
三歩。
レオンは一度、上流を見た。
流木はない。
前へ向き直る。
欠けた部分へ渡した板まで、あと少し。
向こう岸で、ミナが泣いている。
「お兄ちゃん……」
「そこにいて!」
リオの声が背中から飛んだ。
少女が木の幹を抱く。
レオンは板の手前まで来た。
靴の先で一度踏む。
板が沈む。
だが、外れない。
もう一度体重を掛ける。
「レオン!」
ガドランの声が届く。
振り返らない。
片手だけ上げた。
聞こえている。
そのまま、板へ片足を乗せる。
濁った水がすぐ下を走っていた。
レオンは息を一つ吐いた。
そして、橋の向こうへ向かって次の一歩を踏み出した。