銀の小鳥座   作:コマ塩

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第5話 一歩ずつ

 

 

 板へ足を乗せた瞬間、橋の上から見る川の形が変わった。

 

 岸から見ていた時は、濁った水が速く流れているだけだった。

 

 今は違う。

 

 水面がすぐ下にある。

 

 泡を巻いた茶色い流れが橋脚へぶつかり、向きを変え、また次の濁流へ飲み込まれていく。

 

 レオンは手すり代わりの縄を握った。

 

 一歩。

 

 板が軋む。

 

 止まる。

 

 もう一歩。

 

 後ろから、誰かの息を呑む音が聞こえた気がした。

 

 振り返らない。

 

 最後の一歩で、残っている橋の向こう側へ足が着いた。

 

 そこから先はまだ床板がある。

 

 もっとも、乾いた街道のように信用できるものではない。踏む前に一枚ずつ確かめ、体重を移していく。

 

「来た……」

 

 向こう岸から、小さな声がした。

 

 ミナだった。

 

 柳の幹を両腕で抱き、涙で顔を濡らしている。

 

 隣にいた少年も、強張っていた肩をわずかに落とした。

 

 レオンが岸へ降りる。

 

「怪我は?」

 

 少女は首を横へ振った。

 

 少年も同じだった。

 

「どこも?」

 

「転んだだけ」

 

 少年が答えた。

 

 膝は泥だらけだったが、血は出ていない。

 

「じゃあよし」

 

 レオンはミナの前へしゃがんだ。

 

「先に君から戻る」

 

 少女の顔がさらに歪む。

 

「やだ……」

 

「橋が怖い?」

 

 頷く。

 

「俺も怖い」

 

 ミナが泣くのを忘れたように顔を上げた。

 

「……大人なのに?」

 

「大人でも落ちたら嫌だからね」

 

「レオン!」

 

 向こう岸からミレイユの声が飛んでくる。

 

「聞こえてますか!」

 

 レオンは片手を上げた。

 

 次に、腰へ巻いていた安全縄を外す。

 

「これを君につける」

 

「落ちない?」

 

「落ちないようにする」

 

「絶対?」

 

 細い指がレオンの袖を掴んだ。

 

 レオンの手が少し止まる。

 

 対岸では、リオが妹の名前を何度も呼んでいる。

 

「絶対って言って」

 

 ミナがもう一度言った。

 

 レオンは少女の目を見た。

 

「俺も一緒にいる」

 

「……うん」

 

 それで十分だったらしい。

 

 ミナは袖から手を離さなかったが、もう「絶対」とは言わなかった。

 

 安全縄を腰へ回す。

 

 結び目を二度確かめる。

 

 対岸へ向かって手を上げた。

 

「一人目行く!」

 

「分かった!」

 

 ガドランの声。

 

「縄、張るぞ! まだ引くな!」

 

 続いてイエロー。

 

「少しだけ張ってください。それ以上はそのまま!」

 

 縄が緩やかに張った。

 

 レオンはミナの手を取った。

 

「行こう」

 

     ◇

 

 一歩目は進めた。

 

 二歩目も。

 

 三歩目で、ミナの足が止まった。

 

 橋が小さく揺れたのだ。

 

「いや……」

 

 指が強く食い込む。

 

「無理……!」

 

「じゃあ止まろう」

 

 レオンも足を止めた。

 

「え?」

 

「休む」

 

「でも、早く……」

 

「急いで落ちる方が困る」

 

 ミナの肩が上下している。

 

「向こう見られる?」

 

 少女がおそるおそる顔を上げる。

 

 岸ではリオが立っている。

 

「ミナ!」

 

「お兄ちゃん……」

 

「そこにいるから!」

 

 ミレイユもその隣にいた。

 

「ミナ! こっちだけ見て!」

 

 両手を口元へ添える。

 

「川は見なくていいから!」

 

 ミナが少し顔を上げた。

 

 レオンは手すりの縄を指差す。

 

「次の一歩だけ行こう」

 

「一歩?」

 

「その次は考えなくていい」

 

 小さな靴が前へ出た。

 

「そう」

 

 もう一歩。

 

「今度も一個だけ」

 

 川の音は消えない。

 

 橋も時々揺れる。

 

 それでも、ミナの足は少しずつ前へ進んだ。

 

 欠けた部分まで来る。

 

 板を見た瞬間、また身体が固まった。

 

 レオンは先に片足を乗せた。

 

「俺の足があるところだけ踏める?」

 

 ミナが頷く。

 

「じゃあここ」

 

 一歩。

 

「次、ここ」

 

 一歩。

 

「あと一個」

 

 最後の一歩で、少女の足が橋の床板へ戻った。

 

 岸から声が上がる。

 

 リオがもう待ちきれず、橋の手前まで走ってきていた。

 

「ミナ!」

 

 レオンが安全縄を外す。

 

「行っていいよ」

 

 少女が走った。

 

 途中で何度か足を取られながら、兄の胸へ飛び込む。

 

「お兄ちゃん……!」

 

「馬鹿! 羊なんか追いかけるから!」

 

 怒っているはずなのに、リオも泣いていた。

 

 ミナは何度も謝りながら兄の服を握っている。

 

 少し遅れて母親らしい女性が駆け寄り、二人まとめて抱きしめた。

 

 レオンはその様子を一度だけ見た。

 

 そして踵を返す。

 

「もう一人」

 

 ミレイユが何か言いかけた。

 

 レオンはもう橋を戻り始めていた。

 

     ◇

 

 少年は、さっきより少し落ち着いていた。

 

「名前は?」

 

「セト」

 

「セト。歩ける?」

 

「歩ける」

 

「怖い?」

 

 少年は一度口を閉じた。

 

 向こう岸を見る。

 

 大人たちがこちらを見ている。

 

 少し迷ってから、

 

「……怖い」

 

 と答えた。

 

「よし」

 

「よし?」

 

「ちゃんと言えたから」

 

 安全縄を腰へ回す。

 

「怖いのに怖くないふりされる方が困る」

 

 セトは黙って結び目を見ていた。

 

「俺の服掴んでいい。もう片方で縄を持つ」

 

「子供みたいじゃん」

 

「子供だろ?」

 

「十一だよ」

 

「俺から見たら十分」

 

 少し不満そうな顔をしたが、結局レオンの上着を掴んだ。

 

「行くぞ」

 

「うん」

 

 今度は進みが早かった。

 

 セトは橋を見ず、レオンの背中と手すりだけを見ている。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 板の手前まで来る。

 

「ここからゆっくり」

 

「分かった」

 

 レオンが板へ乗る。

 

 セトも続く。

 

 ちょうど二人が中央へ差しかかった時だった。

 

「レオン!」

 

 ガドランの声が変わった。

 

 レオンが顔を上げる。

 

 上流。

 

 濁った水の中に黒いものが見えた。

 

 太い流木。

 

 枝を何本も残したまま、回転しながら流れてくる。

 

「止まれ!」

 

 レオンがセトを引き寄せる。

 

 次の瞬間。

 

 流木が橋脚へぶつかった。

 

 腹の底まで響くような音。

 

 橋が跳ねた。

 

「っ!」

 

 足元の板が横へずれる。

 

 セトの右足が空を踏んだ。

 

「セト!」

 

 レオンが腕を掴む。

 

 その勢いで自分の身体も橋の外へ傾いた。

 

 手すりの縄が掌を滑る。

 

 視界の大半を濁流が占めた。

 

 安全縄が張った。

 

     ◇

 

「引け!」

 

 村人たちが一斉に縄を握る。

 

「待って!」

 

 イエローの声が飛んだ。

 

「一気に引かないで!」

 

 何人かの手が止まる。

 

 アレクも縄を掴んでいた。

 

「でも二人とも――」

 

「今強く引いたら橋にぶつかります!」

 

 イエローは滑車の横へ膝をついた。

 

 縄の向きを見る。

 

「レオンさん!」

 

「聞こえてる!」

 

 レオンは片腕で橋桁を掴んでいた。

 

 もう片方の手でセトの腕を離さない。

 

 少年の身体の半分は橋の外へ出ている。

 

「離さないで!」

 

「そのつもり!」

 

「少し張ります!」

 

「頼む!」

 

 イエローが手を上げる。

 

「ゆっくり!」

 

 縄が動いた。

 

 滑車が軋む。

 

 レオンの腰が少し持ち上がる。

 

「そこ!」

 

 止まる。

 

「アレクさん、もう少し右へ!」

 

「こうか!」

 

「はい!」

 

 アレクは足場を変えた。

 

 磨いていた靴が泥へ沈む。

 

 昨日までなら真っ先に見ていたはずの足元へ、一度も視線を落とさない。

 

「ミレイユさん、後ろ!」

 

「分かった!」

 

 ミレイユが縄へ加わる。

 

 トキも隣へ入った。

 

「僕も!」

 

「手を内側に巻かないで!」

 

「はい!」

 

 ガドランは全体を見ながら声を飛ばす。

 

「急ぐな! イエローの合図だけ聞け!」

 

 レオンは橋桁へ肘を掛けた。

 

「セト」

 

 返事がない。

 

「セト!」

 

「……いる!」

 

「足、動かせる?」

 

「分かんない!」

 

「じゃあ俺が上げる。縄は離すな」

 

 レオンが身体を捻る。

 

 腕に力を込める。

 

 セトの肩を板の高さまで持ち上げる。

 

 その瞬間。

 

「今!」

 

 イエローの声。

 

 縄が少しだけ引かれた。

 

 レオンの身体が橋側へ寄る。

 

 セトの膝が板へ乗った。

 

「もう少し!」

 

 ガドランが叫ぶ。

 

「ゆっくり!」

 

 イエローが続く。

 

 一度。

 

 止まる。

 

 もう一度。

 

 セトの足が完全に板へ戻った。

 

 レオンも手すりを掴み直す。

 

「立てる?」

 

 少年は荒い息をしながら頷いた。

 

「……立てる」

 

「じゃあ行こう」

 

「まだ行くの?」

 

「ここで暮らす?」

 

 セトが一瞬だけ呆れた顔をした。

 

「嫌だ」

 

「じゃあ行くしかない」

 

 小さく笑った。

 

 震えてはいたが、足は動いた。

 

     ◇

 

 それからは、誰も急がなかった。

 

 一歩。

 

 止まる。

 

 一歩。

 

 後ろから縄がついてくる。

 

 岸が近づく。

 

 残り三歩。

 

 二歩。

 

 一歩。

 

 村の男たちが腕を伸ばした。

 

 セトが引き上げられる。

 

 次にレオン。

 

 両足が土へ着いた瞬間、誰かが大きく息を吐いた。

 

 それが合図になったように、周囲から声が戻る。

 

「セト!」

 

「無事か!」

 

「怪我は!」

 

 母親らしい女性が少年を抱きしめる。

 

 セトは最初こそ照れたように身体を固くしたが、すぐにその背へ腕を回した。

 

 レオンは人の輪から二、三歩離れた。

 

 そのまま草の上へ仰向けになる。

 

 空が見えた。

 

 雨雲はもうほとんど残っていない。

 

 青い。

 

「……疲れた」

 

 横からガドランが覗き込む。

 

「生きてるか?」

 

「たぶん」

 

「どっか痛い?」

 

 両手を動かす。

 

 脚も。

 

「ない」

 

「なら上出来だ」

 

 ガドランは腰へ手を当てた。

 

「こっちは見てるだけで腰が悪化した」

 

「それ昨日の踊りだろ」

 

「精神的なものもある」

 

 その向こう。

 

 イエローは使った縄を確かめている。

 

 擦れたところを指で追い、帳簿へ何か書いた。

 

 レオンが顔だけそちらへ向ける。

 

「何書いてるの?」

 

「縄一本、要点検」

 

「今?」

 

「忘れるので」

 

「真面目だなあ」

 

「会計なので」

 

「それ、便利な言葉になってない?」

 

 返事はなかった。

 

     ◇

 

「レオンさん」

 

 ミレイユが立っていた。

 

 レオンは空を見たまま片手を上げる。

 

「はい」

 

「怪我は?」

 

「ガドランにも聞かれた。ない」

 

「本当に?」

 

「たぶん擦り傷くらい」

 

 ミレイユはしばらく見下ろしていた。

 

「じゃあ」

 

「うん」

 

「公演できますね」

 

 レオンがゆっくり顔を向けた。

 

「……今日の公演、休んでもいい?」

 

「駄目です」

 

 迷いがなかった。

 

「せめて一秒くらい考えて」

 

「明日の予定だった公演を、村の人が今日の夕方からでも見たいと言っています」

 

「なんで前倒しになってるの?」

 

「明日は橋の修理で男手が出るそうなので」

 

「俺、今その橋から落ちかけたんだけど」

 

「怪我はないんですよね?」

 

「ないけど」

 

「では王様役できます」

 

「理屈が強い」

 

 トキが横へ来た。

 

「四十二行あります」

 

「忘れてた」

 

「僕は覚えてます」

 

「嫌な記憶力だな」

 

「それと」

 

 トキが帳面を開く。

 

「さっきの救助、記録しておきました」

 

 レオンが勢いよく起き上がった。

 

「いつ書いた!?」

 

「終わってからです」

 

「何て?」

 

「『レオン、橋から落ちかける』」

 

「そこだけ読むと格好悪いな!」

 

「その前にちゃんと救助も書いてます」

 

「ならいいけど……」

 

 少し離れたところで、ミナが笑った。

 

 兄のリオも笑う。

 

 セトまで、母親に抱かれながら口元を緩めていた。

 

 レオンは言い返すのをやめた。

 

 立ち上がる。

 

 服についた草を払う。

 

「分かったよ」

 

 ミレイユが少しだけ眉を上げた。

 

「何がです?」

 

「王様やる」

 

「最初からその予定です」

 

「今の流れならちょっと感謝してもいいだろ」

 

「台詞を全部覚えていたら考えます」

 

「厳しいな」

 

 村へ戻る人々の列が動き始める。

 

 壊れた橋はそのまま残っている。

 

 流された板も戻らない。

 

 倒れた麦畑だって、明日の朝になれば元通りになるわけではない。

 

 それでも、さっきまで泣いていた子供たちは歩いていた。

 

 ミナは兄と手を繋ぎ、何度も後ろを振り返る。

 

「レオンさん!」

 

「何?」

 

「王様やるの?」

 

「やるらしい」

 

「見に行く!」

 

「そこは橋渡った時より嬉しそうだな」

 

 少女が笑った。

 

 レオンも小さく笑い、銀の小鳥座の仲間たちと一緒に村へ戻った。

 

 今夜は芝居がある。

 

 舞台はまだ継ぎ接ぎ。

 

 幕の端には巨大な花が咲いている。

 

 王様役は護衛で、台詞は四十二行。

 

 どう考えても完璧な公演にはならない。

 

 けれど少なくとも、客だけは増えたようだった。

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