板へ足を乗せた瞬間、橋の上から見る川の形が変わった。
岸から見ていた時は、濁った水が速く流れているだけだった。
今は違う。
水面がすぐ下にある。
泡を巻いた茶色い流れが橋脚へぶつかり、向きを変え、また次の濁流へ飲み込まれていく。
レオンは手すり代わりの縄を握った。
一歩。
板が軋む。
止まる。
もう一歩。
後ろから、誰かの息を呑む音が聞こえた気がした。
振り返らない。
最後の一歩で、残っている橋の向こう側へ足が着いた。
そこから先はまだ床板がある。
もっとも、乾いた街道のように信用できるものではない。踏む前に一枚ずつ確かめ、体重を移していく。
「来た……」
向こう岸から、小さな声がした。
ミナだった。
柳の幹を両腕で抱き、涙で顔を濡らしている。
隣にいた少年も、強張っていた肩をわずかに落とした。
レオンが岸へ降りる。
「怪我は?」
少女は首を横へ振った。
少年も同じだった。
「どこも?」
「転んだだけ」
少年が答えた。
膝は泥だらけだったが、血は出ていない。
「じゃあよし」
レオンはミナの前へしゃがんだ。
「先に君から戻る」
少女の顔がさらに歪む。
「やだ……」
「橋が怖い?」
頷く。
「俺も怖い」
ミナが泣くのを忘れたように顔を上げた。
「……大人なのに?」
「大人でも落ちたら嫌だからね」
「レオン!」
向こう岸からミレイユの声が飛んでくる。
「聞こえてますか!」
レオンは片手を上げた。
次に、腰へ巻いていた安全縄を外す。
「これを君につける」
「落ちない?」
「落ちないようにする」
「絶対?」
細い指がレオンの袖を掴んだ。
レオンの手が少し止まる。
対岸では、リオが妹の名前を何度も呼んでいる。
「絶対って言って」
ミナがもう一度言った。
レオンは少女の目を見た。
「俺も一緒にいる」
「……うん」
それで十分だったらしい。
ミナは袖から手を離さなかったが、もう「絶対」とは言わなかった。
安全縄を腰へ回す。
結び目を二度確かめる。
対岸へ向かって手を上げた。
「一人目行く!」
「分かった!」
ガドランの声。
「縄、張るぞ! まだ引くな!」
続いてイエロー。
「少しだけ張ってください。それ以上はそのまま!」
縄が緩やかに張った。
レオンはミナの手を取った。
「行こう」
◇
一歩目は進めた。
二歩目も。
三歩目で、ミナの足が止まった。
橋が小さく揺れたのだ。
「いや……」
指が強く食い込む。
「無理……!」
「じゃあ止まろう」
レオンも足を止めた。
「え?」
「休む」
「でも、早く……」
「急いで落ちる方が困る」
ミナの肩が上下している。
「向こう見られる?」
少女がおそるおそる顔を上げる。
岸ではリオが立っている。
「ミナ!」
「お兄ちゃん……」
「そこにいるから!」
ミレイユもその隣にいた。
「ミナ! こっちだけ見て!」
両手を口元へ添える。
「川は見なくていいから!」
ミナが少し顔を上げた。
レオンは手すりの縄を指差す。
「次の一歩だけ行こう」
「一歩?」
「その次は考えなくていい」
小さな靴が前へ出た。
「そう」
もう一歩。
「今度も一個だけ」
川の音は消えない。
橋も時々揺れる。
それでも、ミナの足は少しずつ前へ進んだ。
欠けた部分まで来る。
板を見た瞬間、また身体が固まった。
レオンは先に片足を乗せた。
「俺の足があるところだけ踏める?」
ミナが頷く。
「じゃあここ」
一歩。
「次、ここ」
一歩。
「あと一個」
最後の一歩で、少女の足が橋の床板へ戻った。
岸から声が上がる。
リオがもう待ちきれず、橋の手前まで走ってきていた。
「ミナ!」
レオンが安全縄を外す。
「行っていいよ」
少女が走った。
途中で何度か足を取られながら、兄の胸へ飛び込む。
「お兄ちゃん……!」
「馬鹿! 羊なんか追いかけるから!」
怒っているはずなのに、リオも泣いていた。
ミナは何度も謝りながら兄の服を握っている。
少し遅れて母親らしい女性が駆け寄り、二人まとめて抱きしめた。
レオンはその様子を一度だけ見た。
そして踵を返す。
「もう一人」
ミレイユが何か言いかけた。
レオンはもう橋を戻り始めていた。
◇
少年は、さっきより少し落ち着いていた。
「名前は?」
「セト」
「セト。歩ける?」
「歩ける」
「怖い?」
少年は一度口を閉じた。
向こう岸を見る。
大人たちがこちらを見ている。
少し迷ってから、
「……怖い」
と答えた。
「よし」
「よし?」
「ちゃんと言えたから」
安全縄を腰へ回す。
「怖いのに怖くないふりされる方が困る」
セトは黙って結び目を見ていた。
「俺の服掴んでいい。もう片方で縄を持つ」
「子供みたいじゃん」
「子供だろ?」
「十一だよ」
「俺から見たら十分」
少し不満そうな顔をしたが、結局レオンの上着を掴んだ。
「行くぞ」
「うん」
今度は進みが早かった。
セトは橋を見ず、レオンの背中と手すりだけを見ている。
一歩。
また一歩。
板の手前まで来る。
「ここからゆっくり」
「分かった」
レオンが板へ乗る。
セトも続く。
ちょうど二人が中央へ差しかかった時だった。
「レオン!」
ガドランの声が変わった。
レオンが顔を上げる。
上流。
濁った水の中に黒いものが見えた。
太い流木。
枝を何本も残したまま、回転しながら流れてくる。
「止まれ!」
レオンがセトを引き寄せる。
次の瞬間。
流木が橋脚へぶつかった。
腹の底まで響くような音。
橋が跳ねた。
「っ!」
足元の板が横へずれる。
セトの右足が空を踏んだ。
「セト!」
レオンが腕を掴む。
その勢いで自分の身体も橋の外へ傾いた。
手すりの縄が掌を滑る。
視界の大半を濁流が占めた。
安全縄が張った。
◇
「引け!」
村人たちが一斉に縄を握る。
「待って!」
イエローの声が飛んだ。
「一気に引かないで!」
何人かの手が止まる。
アレクも縄を掴んでいた。
「でも二人とも――」
「今強く引いたら橋にぶつかります!」
イエローは滑車の横へ膝をついた。
縄の向きを見る。
「レオンさん!」
「聞こえてる!」
レオンは片腕で橋桁を掴んでいた。
もう片方の手でセトの腕を離さない。
少年の身体の半分は橋の外へ出ている。
「離さないで!」
「そのつもり!」
「少し張ります!」
「頼む!」
イエローが手を上げる。
「ゆっくり!」
縄が動いた。
滑車が軋む。
レオンの腰が少し持ち上がる。
「そこ!」
止まる。
「アレクさん、もう少し右へ!」
「こうか!」
「はい!」
アレクは足場を変えた。
磨いていた靴が泥へ沈む。
昨日までなら真っ先に見ていたはずの足元へ、一度も視線を落とさない。
「ミレイユさん、後ろ!」
「分かった!」
ミレイユが縄へ加わる。
トキも隣へ入った。
「僕も!」
「手を内側に巻かないで!」
「はい!」
ガドランは全体を見ながら声を飛ばす。
「急ぐな! イエローの合図だけ聞け!」
レオンは橋桁へ肘を掛けた。
「セト」
返事がない。
「セト!」
「……いる!」
「足、動かせる?」
「分かんない!」
「じゃあ俺が上げる。縄は離すな」
レオンが身体を捻る。
腕に力を込める。
セトの肩を板の高さまで持ち上げる。
その瞬間。
「今!」
イエローの声。
縄が少しだけ引かれた。
レオンの身体が橋側へ寄る。
セトの膝が板へ乗った。
「もう少し!」
ガドランが叫ぶ。
「ゆっくり!」
イエローが続く。
一度。
止まる。
もう一度。
セトの足が完全に板へ戻った。
レオンも手すりを掴み直す。
「立てる?」
少年は荒い息をしながら頷いた。
「……立てる」
「じゃあ行こう」
「まだ行くの?」
「ここで暮らす?」
セトが一瞬だけ呆れた顔をした。
「嫌だ」
「じゃあ行くしかない」
小さく笑った。
震えてはいたが、足は動いた。
◇
それからは、誰も急がなかった。
一歩。
止まる。
一歩。
後ろから縄がついてくる。
岸が近づく。
残り三歩。
二歩。
一歩。
村の男たちが腕を伸ばした。
セトが引き上げられる。
次にレオン。
両足が土へ着いた瞬間、誰かが大きく息を吐いた。
それが合図になったように、周囲から声が戻る。
「セト!」
「無事か!」
「怪我は!」
母親らしい女性が少年を抱きしめる。
セトは最初こそ照れたように身体を固くしたが、すぐにその背へ腕を回した。
レオンは人の輪から二、三歩離れた。
そのまま草の上へ仰向けになる。
空が見えた。
雨雲はもうほとんど残っていない。
青い。
「……疲れた」
横からガドランが覗き込む。
「生きてるか?」
「たぶん」
「どっか痛い?」
両手を動かす。
脚も。
「ない」
「なら上出来だ」
ガドランは腰へ手を当てた。
「こっちは見てるだけで腰が悪化した」
「それ昨日の踊りだろ」
「精神的なものもある」
その向こう。
イエローは使った縄を確かめている。
擦れたところを指で追い、帳簿へ何か書いた。
レオンが顔だけそちらへ向ける。
「何書いてるの?」
「縄一本、要点検」
「今?」
「忘れるので」
「真面目だなあ」
「会計なので」
「それ、便利な言葉になってない?」
返事はなかった。
◇
「レオンさん」
ミレイユが立っていた。
レオンは空を見たまま片手を上げる。
「はい」
「怪我は?」
「ガドランにも聞かれた。ない」
「本当に?」
「たぶん擦り傷くらい」
ミレイユはしばらく見下ろしていた。
「じゃあ」
「うん」
「公演できますね」
レオンがゆっくり顔を向けた。
「……今日の公演、休んでもいい?」
「駄目です」
迷いがなかった。
「せめて一秒くらい考えて」
「明日の予定だった公演を、村の人が今日の夕方からでも見たいと言っています」
「なんで前倒しになってるの?」
「明日は橋の修理で男手が出るそうなので」
「俺、今その橋から落ちかけたんだけど」
「怪我はないんですよね?」
「ないけど」
「では王様役できます」
「理屈が強い」
トキが横へ来た。
「四十二行あります」
「忘れてた」
「僕は覚えてます」
「嫌な記憶力だな」
「それと」
トキが帳面を開く。
「さっきの救助、記録しておきました」
レオンが勢いよく起き上がった。
「いつ書いた!?」
「終わってからです」
「何て?」
「『レオン、橋から落ちかける』」
「そこだけ読むと格好悪いな!」
「その前にちゃんと救助も書いてます」
「ならいいけど……」
少し離れたところで、ミナが笑った。
兄のリオも笑う。
セトまで、母親に抱かれながら口元を緩めていた。
レオンは言い返すのをやめた。
立ち上がる。
服についた草を払う。
「分かったよ」
ミレイユが少しだけ眉を上げた。
「何がです?」
「王様やる」
「最初からその予定です」
「今の流れならちょっと感謝してもいいだろ」
「台詞を全部覚えていたら考えます」
「厳しいな」
村へ戻る人々の列が動き始める。
壊れた橋はそのまま残っている。
流された板も戻らない。
倒れた麦畑だって、明日の朝になれば元通りになるわけではない。
それでも、さっきまで泣いていた子供たちは歩いていた。
ミナは兄と手を繋ぎ、何度も後ろを振り返る。
「レオンさん!」
「何?」
「王様やるの?」
「やるらしい」
「見に行く!」
「そこは橋渡った時より嬉しそうだな」
少女が笑った。
レオンも小さく笑い、銀の小鳥座の仲間たちと一緒に村へ戻った。
今夜は芝居がある。
舞台はまだ継ぎ接ぎ。
幕の端には巨大な花が咲いている。
王様役は護衛で、台詞は四十二行。
どう考えても完璧な公演にはならない。
けれど少なくとも、客だけは増えたようだった。