銀の小鳥座   作:コマ塩

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第6話 公演前

 

 

 ロッカ村へ戻った銀の小鳥座を待っていたのは、休息ではなかった。

 

「それ、そこじゃありません!」

 

 集会所へ入って早々、ミレイユの声が飛んだ。

 

 橋から戻ってまだ半刻も経っていない。

 

 レオンは舞台袖に置かれた椅子を運びながら振り返る。

 

「どこ?」

 

「王様の椅子は中央です!」

 

「さっき中央に置いたら、アレクが邪魔って言ったんだけど」

 

「僕は『剣を抜く時に袖が引っかかる』と言ったんだ」

 

 舞台上でアレクが答えた。

 

「同じじゃない?」

 

「全然違う」

 

「じゃあどこ置けばいいの」

 

 ミレイユは舞台中央へ上がり、床板を二歩進んだところで指を差した。

 

「ここ」

 

「さっきより三歩しか変わってないよ」

 

「その三歩が大事なんです!」

 

 レオンは椅子を持ったまま立ち尽くした。

 

「橋の方が簡単だったな……」

 

「聞こえてますよ」

 

「聞こえるように言った」

 

 集会所の隅では、トキが笑いを堪えながら台本を確認している。

 

 その隣にはリオがいた。

 

 妹のミナは母親と一度家へ戻ったが、夕方の公演には必ず来ると言っているらしい。

 

「レオンさん、怒られてる」

 

 リオが小さく言った。

 

「いつものこと」

 

「劇団で一番偉いの、ミレイユさん?」

 

 トキは少し考えた。

 

「芝居の時だけなら、たぶん」

 

「団長は?」

 

「団長です」

 

「偉くないの?」

 

「立場としては偉いです」

 

「立場としては?」

 

「難しい質問ですね」

 

「聞こえてるぞ、トキ!」

 

 客席からガドランの声が飛んできた。

 

 腰を痛めているため、今日は長椅子へ座ったまま舞台を見ている。

 

「ちゃんと尊敬してますよ」

 

「どこを?」

 

「……経験?」

 

「今考えただろ!」

 

 リオが笑った。

 

 橋の前で青ざめていた顔に、ようやく子供らしい色が戻っている。

 

 トキはそれを横目に見たが、何も言わなかった。

 

     ◇

 

 予定より一日早い公演が決まったことで、準備は一気に慌ただしくなった。

 

 本来なら今夜まで使って衣装を直し、翌朝に最後の稽古をするはずだった。

 

 それを数時間で終わらせなければならない。

 

 しかも、その数時間のうち半分近くを橋の救助に使った。

 

「王冠」

 

 舞台袖でイエローが言った。

 

「直りました」

 

 レオンへ差し出す。

 

「おお」

 

 午前中の稽古では木桶を被せられていた頭に、今度はちゃんとした王冠が乗った。

 

 もっとも、本物の金属ではない。

 

 薄い木板を組み、金色の布を貼り、遠目にはそれらしく見えるよう作られた舞台道具だ。

 

「軽いな」

 

「重いと首が疲れるので」

 

「さすが」

 

 レオンが被ってみる。

 

 イエローは少し離れて眺め、右へ手を伸ばした。

 

「動かないで」

 

「はい」

 

 王冠をわずかに傾ける。

 

「これで」

 

 そこへアレクが通りかかった。

 

 足を止める。

 

「少し右じゃないか?」

 

 イエローが振り返る。

 

「今直しました」

 

「いや、僕から見ると――」

 

「直しました」

 

「……そうか」

 

 アレクは去った。

 

 レオンがその背中を見送る。

 

「強いな」

 

「時間がないので」

 

「俺の髭もある?」

 

「あります」

 

 白い付け髭を渡される。

 

 レオンの表情が曇った。

 

「やっぱりこれ必要?」

 

「必要です」

 

 答えたのはイエローではなく、遠くから聞いていたミレイユだった。

 

「王様ですから!」

 

「王様が全員白髭なわけじゃないだろ」

 

「この王様は白髭です!」

 

「俺、二十八なんだけど」

 

「舞台では六十八です」

 

「四十年増えた」

 

 イエローが付け髭とレオンの顔を交互に見る。

 

「似合います」

 

「本当?」

 

「面白いです」

 

「似合ってないじゃん」

 

     ◇

 

 問題は衣装だけではなかった。

 

「四十二行」

 

 トキが言った。

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「さっきから何回聞くの」

 

「橋に行く前、三回間違えてます」

 

「橋から帰ってきた人に最初にする話?」

 

 レオンは舞台脇の階段へ座り、台本を膝へ置いていた。

 

「一幕目は大丈夫。二幕目もほぼ大丈夫。問題は三幕の――」

 

「『民を守ることこそ』からです」

 

「そう、それ」

 

 トキが台本を覗き込む。

 

「そこ、一番大事な場面ですよ」

 

「知ってる」

 

「だから変えないでくださいね」

 

「分かったって」

 

「昨日もそう言いました」

 

「お前、意外と根に持つな」

 

 トキが真顔で答える。

 

「自分で書いたところなので」

 

 レオンが顔を上げた。

 

「これ、お前が書いたの?」

 

「元の脚本は昔からあります。でも今の形に直したのは僕です」

 

「へえ」

 

 レオンはもう一度台本を見る。

 

「じゃあちゃんと覚えるよ」

 

 トキが瞬きをした。

 

「急に素直ですね」

 

「書いた本人が横にいるなら、ちょっと悪い気がしてきた」

 

「今まで悪いと思ってなかったんです?」

 

「ミレイユに怒られることしか考えてなかった」

 

「そっちの方が問題ですよ」

 

 それでもトキの口元は少し緩んでいた。

 

 リオが横から台本を覗く。

 

「トキが書いたところ、どこ?」

 

「最後の方」

 

「教えて」

 

「本番で見て」

 

「ケチ」

 

「先に知ったら面白くないだろ」

 

 そのやり取りを聞きながら、レオンは台本へ目を戻した。

 

 今度は声を出さずに、最後までゆっくり読んだ。

 

     ◇

 

「アレク」

 

 ミレイユが呼ぶ。

 

「何だい?」

 

「靴」

 

「……靴?」

 

「そのままで出るんですか?」

 

 アレクが足元を見る。

 

 橋で縄を引いた時についた泥が、革靴の側面に乾いて残っている。

 

「あ」

 

 今気づいたらしい。

 

 普段のアレクなら、泥一つでも布を持って大騒ぎしていた。

 

 今日はそこまで気が回らなかったのだろう。

 

「替え、あります?」

 

「ある」

 

「じゃあ替えてください」

 

 アレクは泥のついた靴をしばらく見ていた。

 

「……いや」

 

「え?」

 

「これでいい」

 

 ミレイユが珍しそうな顔をする。

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「汚れてますよ?」

 

「分かってる」

 

 アレクはしゃがみ、靴紐だけ締め直した。

 

「今日くらいはね」

 

 それ以上は説明しなかった。

 

 ミレイユも何も言わない。

 

 少し離れたところで見ていたレオンが、

 

「昼、格好よかったよ」

 

 と言った。

 

 アレクの手が止まった。

 

 ゆっくり顔を上げる。

 

「……今、何て?」

 

「なし」

 

「待ってくれ」

 

「その反応でなしになった」

 

「もう一度言ってくれ。今度はもっと自然に受け止める」

 

「嫌だよ」

 

「頼む。一度だけ」

 

「舞台始まるぞ」

 

「それまででいい!」

 

 レオンは逃げた。

 

 アレクが追う。

 

「レオン! 僕は褒め言葉を聞き逃したまま舞台には立てない!」

 

「さっき立つ気満々だっただろ!」

 

 それを見て、ミレイユが額へ手を当てる。

 

「本番前ですよ……」

 

     ◇

 

 夕方が近づくにつれ、集会所の外が騒がしくなってきた。

 

 村人たちが集まり始めている。

 

 明日は朝から橋の補修を始めるため、男たちも今夜なら見られる。

 

 倒れた畑を片付けていた者も来た。

 

 昼間、川岸にいた顔がいくつもある。

 

 子供たちはもっと早かった。

 

「まだ入っちゃ駄目!」

 

 ミレイユが三度目の追い払いに向かう。

 

 舞台裏が一瞬静かになった。

 

 イエローは借り物の花柄部分を最後に確認し、ほつれた糸を一本切った。

 

 その横。

 

 古い木箱が目に入る。

 

 そこには、昔の《銀の小鳥座》の公演紙をしまった木箱が置かれていた。

 

 イエローは少し考え、舞台奥の高い棚へ移した。

 

「何してる?」

 

 ガドランが来た。

 

「客が増えそうなので。踏まれると困ります」

 

「ああ」

 

 ガドランも箱を見る。

 

 それから、舞台脇の古い柱へ目を移した。

 

 少し傾いている。

 

「昔も曲がってたな、これ」

 

「昔も?」

 

「ここでやった時」

 

 イエローが柱を見る。

 

「直さなかったんですか?」

 

「直そうとした奴はいた」

 

 ガドランは柱を軽く叩いた。

 

「大道具の男がな。公演直前になって『気になる』って言い出して、槌持ってきた」

 

「団長みたいですね」

 

「俺はそこまで細かくねえ」

 

「それは知っています」

 

「そういう意味じゃない」

 

 イエローの口元がほんの少し動いた。

 

「その人、直したんですか?」

 

「女房に止められた」

 

「どうして?」

 

 ガドランは記憶を探すように天井を見た。

 

「確か……『客は柱を見に来るんじゃありません』だったかな」

 

 イエローも柱から舞台へ視線を移す。

 

 継ぎ接ぎの幕。

 

 巨大な花柄。

 

 何度も補修された床。

 

「正しいですね」

 

「だろ?」

 

「でも、その人は気になったんでしょうね」

 

「そういう奴だった」

 

 ガドランの手が柱から離れる。

 

 しばらくそこに残っていた埃だけが、指の跡を作っていた。

 

 イエローは箱を棚の奥へ押し込む。

 

「昔の人たちも、今日みたいだったんですか?」

 

「今日?」

 

「本番前なのに問題ばかり」

 

 ガドランが笑った。

 

「もっと酷かった」

 

「それは安心していいんですか?」

 

「知らん」

 

 客席側からミレイユの声がした。

 

「団長! そろそろお願いします!」

 

「おう!」

 

 ガドランは返事をして、舞台の方へ歩き出した。

 

 二歩進んだところで止まる。

 

「イエロー」

 

「はい?」

 

「あの箱、次に来た時も残ってるといいな」

 

 イエローは棚を見る。

 

「残しますよ」

 

「そうか」

 

 それだけ言って、ガドランは行った。

 

     ◇

 

 開演まで、あと少し。

 

 舞台袖に全員が揃う。

 

 ミレイユは衣装の襟を直し、トキは台本と小道具の位置を確かめる。

 

 アレクは泥のついた靴のまま剣を腰へ差していた。

 

 レオンは王冠を被り、白髭を付けている。

 

 ガドランが見た瞬間、吹き出した。

 

「似合うじゃねえか」

 

「笑いながら言うな」

 

「威厳あるぞ」

 

「ないだろ」

 

「四十年後はこんな感じかもな」

 

「絶対嫌だ」

 

 イエローが投げ銭箱を置く。

 

「今日はお金を持っていない人も多いので、入口には置きません」

 

 ガドランが頷く。

 

「終わってからでいい」

 

「食べ物でも?」

 

「腐ってなきゃな」

 

「記録しておきます」

 

 トキが帳面へ手を伸ばした。

 

「お前は何でも記録するな」

 

「大事ですから」

 

 外から子供の声。

 

「まだー?」

 

 別の声も続く。

 

「早く始めて!」

 

 ミレイユが幕の隙間から客席を覗いた。

 

 長椅子はほとんど埋まっていた。

 

 座れない子供たちは前の床へ集まっている。

 

 最前列にはリオとミナ。

 

 その少し横にセトもいた。

 

 昼間、川の向こうで震えていた三人が並んでいる。

 

「……いっぱいですね」

 

 ミレイユが小さく言った。

 

 ガドランが隣から覗く。

 

「そうだな」

 

「準備、全然足りてませんけど」

 

「いつものことだ」

 

「いつもで済ませないでください」

 

「客は待ってるぞ」

 

 ミレイユは客席を見る。

 

 それから舞台袖へ振り返った。

 

「皆さん」

 

 全員の目が集まる。

 

 一瞬だけ、いつもの騒がしさが消えた。

 

「始めましょう」

 

 ガドランが継ぎ接ぎの幕へ手を掛けた。

 

 イエローが反対側を持つ。

 

 花柄の大きな花が、二人の間で揺れている。

 

 客席のざわめきが、幕一枚向こうまで届いていた。

 

 舞台は間に合った。

 

 役者もいる。

 

 王様の四十二行も、たぶん大丈夫。

 

 少なくとも、今さら確かめる時間はない。

 

 開幕の鐘が鳴った。

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