ロッカ村へ戻った銀の小鳥座を待っていたのは、休息ではなかった。
「それ、そこじゃありません!」
集会所へ入って早々、ミレイユの声が飛んだ。
橋から戻ってまだ半刻も経っていない。
レオンは舞台袖に置かれた椅子を運びながら振り返る。
「どこ?」
「王様の椅子は中央です!」
「さっき中央に置いたら、アレクが邪魔って言ったんだけど」
「僕は『剣を抜く時に袖が引っかかる』と言ったんだ」
舞台上でアレクが答えた。
「同じじゃない?」
「全然違う」
「じゃあどこ置けばいいの」
ミレイユは舞台中央へ上がり、床板を二歩進んだところで指を差した。
「ここ」
「さっきより三歩しか変わってないよ」
「その三歩が大事なんです!」
レオンは椅子を持ったまま立ち尽くした。
「橋の方が簡単だったな……」
「聞こえてますよ」
「聞こえるように言った」
集会所の隅では、トキが笑いを堪えながら台本を確認している。
その隣にはリオがいた。
妹のミナは母親と一度家へ戻ったが、夕方の公演には必ず来ると言っているらしい。
「レオンさん、怒られてる」
リオが小さく言った。
「いつものこと」
「劇団で一番偉いの、ミレイユさん?」
トキは少し考えた。
「芝居の時だけなら、たぶん」
「団長は?」
「団長です」
「偉くないの?」
「立場としては偉いです」
「立場としては?」
「難しい質問ですね」
「聞こえてるぞ、トキ!」
客席からガドランの声が飛んできた。
腰を痛めているため、今日は長椅子へ座ったまま舞台を見ている。
「ちゃんと尊敬してますよ」
「どこを?」
「……経験?」
「今考えただろ!」
リオが笑った。
橋の前で青ざめていた顔に、ようやく子供らしい色が戻っている。
トキはそれを横目に見たが、何も言わなかった。
◇
予定より一日早い公演が決まったことで、準備は一気に慌ただしくなった。
本来なら今夜まで使って衣装を直し、翌朝に最後の稽古をするはずだった。
それを数時間で終わらせなければならない。
しかも、その数時間のうち半分近くを橋の救助に使った。
「王冠」
舞台袖でイエローが言った。
「直りました」
レオンへ差し出す。
「おお」
午前中の稽古では木桶を被せられていた頭に、今度はちゃんとした王冠が乗った。
もっとも、本物の金属ではない。
薄い木板を組み、金色の布を貼り、遠目にはそれらしく見えるよう作られた舞台道具だ。
「軽いな」
「重いと首が疲れるので」
「さすが」
レオンが被ってみる。
イエローは少し離れて眺め、右へ手を伸ばした。
「動かないで」
「はい」
王冠をわずかに傾ける。
「これで」
そこへアレクが通りかかった。
足を止める。
「少し右じゃないか?」
イエローが振り返る。
「今直しました」
「いや、僕から見ると――」
「直しました」
「……そうか」
アレクは去った。
レオンがその背中を見送る。
「強いな」
「時間がないので」
「俺の髭もある?」
「あります」
白い付け髭を渡される。
レオンの表情が曇った。
「やっぱりこれ必要?」
「必要です」
答えたのはイエローではなく、遠くから聞いていたミレイユだった。
「王様ですから!」
「王様が全員白髭なわけじゃないだろ」
「この王様は白髭です!」
「俺、二十八なんだけど」
「舞台では六十八です」
「四十年増えた」
イエローが付け髭とレオンの顔を交互に見る。
「似合います」
「本当?」
「面白いです」
「似合ってないじゃん」
◇
問題は衣装だけではなかった。
「四十二行」
トキが言った。
「分かってる」
「本当に?」
「さっきから何回聞くの」
「橋に行く前、三回間違えてます」
「橋から帰ってきた人に最初にする話?」
レオンは舞台脇の階段へ座り、台本を膝へ置いていた。
「一幕目は大丈夫。二幕目もほぼ大丈夫。問題は三幕の――」
「『民を守ることこそ』からです」
「そう、それ」
トキが台本を覗き込む。
「そこ、一番大事な場面ですよ」
「知ってる」
「だから変えないでくださいね」
「分かったって」
「昨日もそう言いました」
「お前、意外と根に持つな」
トキが真顔で答える。
「自分で書いたところなので」
レオンが顔を上げた。
「これ、お前が書いたの?」
「元の脚本は昔からあります。でも今の形に直したのは僕です」
「へえ」
レオンはもう一度台本を見る。
「じゃあちゃんと覚えるよ」
トキが瞬きをした。
「急に素直ですね」
「書いた本人が横にいるなら、ちょっと悪い気がしてきた」
「今まで悪いと思ってなかったんです?」
「ミレイユに怒られることしか考えてなかった」
「そっちの方が問題ですよ」
それでもトキの口元は少し緩んでいた。
リオが横から台本を覗く。
「トキが書いたところ、どこ?」
「最後の方」
「教えて」
「本番で見て」
「ケチ」
「先に知ったら面白くないだろ」
そのやり取りを聞きながら、レオンは台本へ目を戻した。
今度は声を出さずに、最後までゆっくり読んだ。
◇
「アレク」
ミレイユが呼ぶ。
「何だい?」
「靴」
「……靴?」
「そのままで出るんですか?」
アレクが足元を見る。
橋で縄を引いた時についた泥が、革靴の側面に乾いて残っている。
「あ」
今気づいたらしい。
普段のアレクなら、泥一つでも布を持って大騒ぎしていた。
今日はそこまで気が回らなかったのだろう。
「替え、あります?」
「ある」
「じゃあ替えてください」
アレクは泥のついた靴をしばらく見ていた。
「……いや」
「え?」
「これでいい」
ミレイユが珍しそうな顔をする。
「本当に?」
「ああ」
「汚れてますよ?」
「分かってる」
アレクはしゃがみ、靴紐だけ締め直した。
「今日くらいはね」
それ以上は説明しなかった。
ミレイユも何も言わない。
少し離れたところで見ていたレオンが、
「昼、格好よかったよ」
と言った。
アレクの手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……今、何て?」
「なし」
「待ってくれ」
「その反応でなしになった」
「もう一度言ってくれ。今度はもっと自然に受け止める」
「嫌だよ」
「頼む。一度だけ」
「舞台始まるぞ」
「それまででいい!」
レオンは逃げた。
アレクが追う。
「レオン! 僕は褒め言葉を聞き逃したまま舞台には立てない!」
「さっき立つ気満々だっただろ!」
それを見て、ミレイユが額へ手を当てる。
「本番前ですよ……」
◇
夕方が近づくにつれ、集会所の外が騒がしくなってきた。
村人たちが集まり始めている。
明日は朝から橋の補修を始めるため、男たちも今夜なら見られる。
倒れた畑を片付けていた者も来た。
昼間、川岸にいた顔がいくつもある。
子供たちはもっと早かった。
「まだ入っちゃ駄目!」
ミレイユが三度目の追い払いに向かう。
舞台裏が一瞬静かになった。
イエローは借り物の花柄部分を最後に確認し、ほつれた糸を一本切った。
その横。
古い木箱が目に入る。
そこには、昔の《銀の小鳥座》の公演紙をしまった木箱が置かれていた。
イエローは少し考え、舞台奥の高い棚へ移した。
「何してる?」
ガドランが来た。
「客が増えそうなので。踏まれると困ります」
「ああ」
ガドランも箱を見る。
それから、舞台脇の古い柱へ目を移した。
少し傾いている。
「昔も曲がってたな、これ」
「昔も?」
「ここでやった時」
イエローが柱を見る。
「直さなかったんですか?」
「直そうとした奴はいた」
ガドランは柱を軽く叩いた。
「大道具の男がな。公演直前になって『気になる』って言い出して、槌持ってきた」
「団長みたいですね」
「俺はそこまで細かくねえ」
「それは知っています」
「そういう意味じゃない」
イエローの口元がほんの少し動いた。
「その人、直したんですか?」
「女房に止められた」
「どうして?」
ガドランは記憶を探すように天井を見た。
「確か……『客は柱を見に来るんじゃありません』だったかな」
イエローも柱から舞台へ視線を移す。
継ぎ接ぎの幕。
巨大な花柄。
何度も補修された床。
「正しいですね」
「だろ?」
「でも、その人は気になったんでしょうね」
「そういう奴だった」
ガドランの手が柱から離れる。
しばらくそこに残っていた埃だけが、指の跡を作っていた。
イエローは箱を棚の奥へ押し込む。
「昔の人たちも、今日みたいだったんですか?」
「今日?」
「本番前なのに問題ばかり」
ガドランが笑った。
「もっと酷かった」
「それは安心していいんですか?」
「知らん」
客席側からミレイユの声がした。
「団長! そろそろお願いします!」
「おう!」
ガドランは返事をして、舞台の方へ歩き出した。
二歩進んだところで止まる。
「イエロー」
「はい?」
「あの箱、次に来た時も残ってるといいな」
イエローは棚を見る。
「残しますよ」
「そうか」
それだけ言って、ガドランは行った。
◇
開演まで、あと少し。
舞台袖に全員が揃う。
ミレイユは衣装の襟を直し、トキは台本と小道具の位置を確かめる。
アレクは泥のついた靴のまま剣を腰へ差していた。
レオンは王冠を被り、白髭を付けている。
ガドランが見た瞬間、吹き出した。
「似合うじゃねえか」
「笑いながら言うな」
「威厳あるぞ」
「ないだろ」
「四十年後はこんな感じかもな」
「絶対嫌だ」
イエローが投げ銭箱を置く。
「今日はお金を持っていない人も多いので、入口には置きません」
ガドランが頷く。
「終わってからでいい」
「食べ物でも?」
「腐ってなきゃな」
「記録しておきます」
トキが帳面へ手を伸ばした。
「お前は何でも記録するな」
「大事ですから」
外から子供の声。
「まだー?」
別の声も続く。
「早く始めて!」
ミレイユが幕の隙間から客席を覗いた。
長椅子はほとんど埋まっていた。
座れない子供たちは前の床へ集まっている。
最前列にはリオとミナ。
その少し横にセトもいた。
昼間、川の向こうで震えていた三人が並んでいる。
「……いっぱいですね」
ミレイユが小さく言った。
ガドランが隣から覗く。
「そうだな」
「準備、全然足りてませんけど」
「いつものことだ」
「いつもで済ませないでください」
「客は待ってるぞ」
ミレイユは客席を見る。
それから舞台袖へ振り返った。
「皆さん」
全員の目が集まる。
一瞬だけ、いつもの騒がしさが消えた。
「始めましょう」
ガドランが継ぎ接ぎの幕へ手を掛けた。
イエローが反対側を持つ。
花柄の大きな花が、二人の間で揺れている。
客席のざわめきが、幕一枚向こうまで届いていた。
舞台は間に合った。
役者もいる。
王様の四十二行も、たぶん大丈夫。
少なくとも、今さら確かめる時間はない。
開幕の鐘が鳴った。