開幕の鐘が鳴った。
客席のざわめきが少しずつ小さくなっていく。
ガドランとイエローが左右から継ぎ接ぎの幕を引いた。
濃紺の布。
白いシーツ。
赤い卓布。
文字を折り込んだ麦袋。
そして右端には、最後までどうにもならなかった巨大な花柄。
それらがゆっくりと左右へ分かれていく。
油灯の明かりの中に、銀の小鳥座の舞台が現れた。
最初に出てきたのはミレイユだった。
『どうか、お聞きください』
それだけで、まだ落ち着かなかった客席が静かになる。
昼間まで村の子供たちを追いかけ回し、団長を怒鳴り、レオンの台詞を一字ずつ直していた女と同じ人物には見えなかった。
背筋を伸ばし、粗末な舞台の中央へ立つ。
『北の砦は落ちました。敵はすでに森を越え、この村へ迫っています』
客席の一番前で、ミナが口を開けたまま見上げている。
隣のリオがその袖を引いた。
「静かに」
「喋ってないよ」
「顔がうるさい」
小声だったが、舞台袖にいたトキには聞こえた。
笑いそうになって口を押さえる。
次の台詞へ視線を落とした。
今のところ、台本通り。
そのことに、少し安心する。
まだ最初の三分だった。
◇
問題が起きたのは五分後だった。
『王よ! どうかご決断を!』
ミレイユが膝をつく。
奥から、王冠を被ったレオンが現れた。
白い付け髭。
重そうな外套。
普段の姿を知っている村の子供たちから、すぐに笑い声が漏れた。
レオンの眉がわずかに動く。
舞台袖からミレイユの視線が刺さる。
笑うな。
止まるな。
台詞を言え。
三つとも目だけで伝えていた。
レオンは玉座へ座った。
『民を見捨てることはできぬ』
大丈夫。
トキが台本の一行目を指で追う。
『城が落ちようとも、余は――』
止まった。
トキの指も止まる。
レオンの目がほんの一瞬だけ泳いだ。
ミレイユの口元は王女の悲痛な表情を保っている。
だが、目だけが急速に険しくなっていった。
『余は……』
客席が静まる。
レオンは一拍置いた。
『逃げるなら、最後だ』
トキが目を閉じた。
違う。
台本にはそんな台詞はない。
ミレイユが顔を上げる。
『……最後、でございますか』
『ああ。民を置いて先に逃げれば、余は二度と王を名乗れん』
ミレイユの瞳が細くなった。
舞台袖にしか分からない程度に。
『ならば王よ』
一歩、前へ出る。
『最初から、逃げる道などございません』
客席の誰かが「おお」と小さく声を上げた。
レオンが頷く。
『そういうことだ』
そのまま次の場面へ入った。
トキは台本を見る。
舞台を見る。
もう一度台本を見る。
「……戻った」
いつの間にか、本来の筋へ戻っている。
横からガドランが覗き込む。
「繋がったな」
「繋がればいいって話じゃないです」
「客は気づいてない」
「僕は気づいてます」
「お前は作者だからな」
「だから嫌なんです」
ガドランが笑いを堪えながら袖を離れた。
◇
第一幕の終盤。
継ぎ接ぎの幕が一度閉じる。
レオンが舞台袖へ戻ってきた。
ミレイユもすぐ後ろから来る。
「レオンさん」
「はい」
「忘れましたね?」
「一行だけ」
「三行です」
「そんなに?」
「そんなにです」
トキが横から答えた。
「でも意味は繋がっただろ?」
「そういう問題じゃありません!」
ミレイユが声を抑えながら怒る。
幕一枚向こうには客がいる。
「自分だけで芝居してるんじゃないんですよ。レオンさんが一つ変えたら、次に受ける人の台詞も変わるんです」
「ごめん」
思ったより素直に謝られ、ミレイユの勢いが少し落ちた。
「……分かればいいです」
「次はちゃんとやる」
「本当に?」
「たぶん」
「今ので全部台無しです!」
「二幕始まるぞ」
ガドランが笑いながら幕を指した。
「ミレイユ、出番」
「あとで続きですからね!」
ミレイユは一瞬で表情を切り替え、再び舞台へ出ていった。
レオンがその後ろ姿を見る。
「すごいな」
「何が?」
トキが訊く。
「今まで怒ってた人と同じに見えない」
「看板女優ですから」
その答えには、少しだけ誇らしさが混じっていた。
◇
第二幕。
アレクの登場だった。
舞台袖で姿勢を整える。
銀色の騎士服。
腰には模造剣。
そして泥の残った革靴。
「アレクさん」
トキが声を掛ける。
「何だい?」
「花」
アレクが前を見る。
登場位置には、巨大な黄色い花が咲いている。
「……もう言わないでくれ」
幕が開く。
アレクが歩み出た。
客席の子供たちが一斉に花柄を見た。
そして、騎士を見る。
何人かが笑った。
アレクの眉がほんのわずかに動いた。
だが次の瞬間には、剣へ手を掛けている。
『ここより先は王国領だ』
静かな声。
さっきまでの笑いが止まる。
『一歩でも踏み込むなら、このアレクシ――』
舞台袖でトキの目が見開いた。
「まさか」
『――アレクが相手をしよう』
トキが胸を撫で下ろした。
「短くした……」
隣にいたイエローが呟く。
「成長しましたね」
「名前だけで成長判定される人も珍しいですね」
舞台では殺陣が始まった。
一合。
二合。
三合。
稽古より大きな動き。
剣が合わさるたび、乾いた音が集会所へ響く。
五合。
本来はここで終わる。
六合。
トキの顔が曇った。
「嫌な予感がする」
七合。
「アレクさん」
八合。
「アレクさん!」
舞台上のアレクは完全に乗っていた。
剣を大きく振る。
客席が沸く。
九合目に入ろうとしたところで、ミレイユが舞台へ出た。
『騎士殿!』
アレクの剣が止まる。
『何をしているのです!』
『見れば分かるだろう。敵を――』
『いつまで遊んでいるつもりです!』
客席から笑いが起きる。
アレクの目が一瞬だけ舞台袖を見る。
トキは首を横に振った。
助けない。
『これは遊びでは――』
『敵があなたの見栄えのいい剣舞が終わるまで待ってくれるとでも!?』
今度は大きな笑い。
ガドランが舞台袖で腹を押さえた。
「いいぞ」
「良くないです」
トキは台本を閉じかける。
「まだ閉じるな」
「もう意味あります?」
「一応持っとけ」
舞台上のアレクは一瞬だけ唇を噛み、それから役の表情へ戻った。
『……仰る通りだ』
剣を納める。
『急ごう』
拍手が起きた。
舞台袖へ戻った瞬間、アレクはミレイユを見た。
「見栄えのいい剣舞とは何だい」
「褒めてるじゃないですか」
「その前後が問題だろう」
「予定より四回多かったです」
「客が喜んでいた」
「団長と同じこと言わないでください」
「それは少し傷つくな」
「俺も傷ついたぞ」
ガドランが横から口を挟む。
「どうして団長まで!」
◇
三幕目に入る頃には、舞台と客席の境目が少し曖昧になっていた。
子供たちは笑うところを覚え、大人たちも役者の失敗を楽しみ始めている。
少しくらい舞台道具が軋んでも、誰も気にしない。
花柄の幕にも、もう笑う者はいなかった。
あるいは見慣れただけかもしれない。
そこで、台本にない男が舞台へ出た。
『待てい!』
トキが勢いよく顔を上げる。
「団長!?」
ガドランだった。
腰には古い剣。
肩にはどこから持ってきたのか、赤い布を掛けている。
レオンも舞台上で固まった。
『……誰だ』
役として聞いたのか、本気で聞いたのか分からない。
ガドランは胸を張った。
『この国に仕えし、老将軍よ!』
舞台袖でトキが台本をめくる。
当然いない。
「老将軍なんて役、ありません!」
小声で叫ぶ。
ガドランは聞こえないふりをした。
『若者だけに、この国の未来を背負わせるわけにはいかん!』
客席が静かになる。
レオンはガドランを見る。
ほんの少し間を置いた。
『……将軍。そなた、腰は大丈夫なのか』
客席の何人かが吹き出した。
ガドランの顔が引きつる。
『無論だ』
ミレイユも舞台へ出る。
『では将軍。その場で一度、膝をお曲げください』
『なぜだ』
『ご無事か確かめます』
『その必要はない!』
客席が爆笑した。
ガドランはレオンを睨む。
レオンは白髭の下で笑っている。
完全に仕返しだった。
トキはとうとう台本を閉じた。
隣にいたリオが訊く。
「もう見ないの?」
「見ても意味ない」
「怒ってる?」
「少し」
「でも、みんな笑ってるよ」
トキが客席を見る。
村長が笑っている。
橋で縄を引いた男たちも。
ミナは兄の肩へ寄りかかり、声を上げて笑っている。
セトも、母親の横で口元を押さえていた。
トキは閉じた台本を見る。
「……まあ」
膝の上へ置いた。
「最後だけ戻ってくれればいい」
◇
そして最後の場面。
笑い声は静かになっていた。
敵は去り、荒れた国に王たちが残る。
舞台の上にはレオン、ミレイユ、アレク。
ガドランはさすがに袖へ戻されている。
レオンが玉座の前へ立った。
今度は台本を間違えなかった。
『城は壊れた』
声が集会所へ広がる。
『畑も焼けた。道も途絶えた。失ったものは、数えればきりがない』
客席の空気が少し変わった。
ロッカ村の誰もが、倒れた麦畑を知っている。
壊れた橋も。
『明日になればすべて元通りになる、と言えればよいのだがな』
レオンはそこで一度言葉を切った。
トキが舞台袖で台本を握る。
ここから。
自分が書き直した部分。
『残念ながら、余にはそんな魔法は使えぬ』
客席の端から、小さな笑い。
『だから、一つずつ戻すしかないのだろう』
レオンの声は大きくなかった。
『屋根が壊れたなら直す。道が途切れたなら繋ぐ。腹が減ったなら飯を作る。泣いている者がいれば――まあ、泣き止むまで隣に座っていればよい』
ミレイユが王を見る。
これは台本通り。
『それで、本当に国は戻るのでしょうか』
『知らぬ』
王はあっさり答える。
客席から、かすかな笑いが漏れる。
『だが、誰かが始めねば何も戻らぬ』
最前列。
リオがじっと舞台を見ていた。
『今日より少しだけ良い明日を作ろう。それでも駄目なら、その次の日もだ』
レオンが王冠を外した。
『我らにできるのは、そのくらいであろう』
静かになった。
油灯の火が揺れる。
ほんの一瞬。
誰も動かなかった。
それからミナが拍手をした。
小さな手の音。
リオが続く。
セト。
次に村長。
橋を直す男たち。
音が増えていく。
集会所いっぱいに広がった。
トキは台本へ目を落とした。
その行を指でなぞる。
「トキ」
隣のリオが言う。
「ん?」
「ここ、トキが書いたところ?」
トキは舞台を見たまま頷いた。
「うん」
「よかった」
それだけだった。
トキは返事をしなかった。
台本を閉じる手だけが、さっきより少し丁寧だった。
◇
幕が下りる。
役者たちが袖へ戻った。
「終わった……」
レオンが王冠を外す。
ミレイユがすぐ近づいた。
「三行」
「覚えてたの?」
「当然です」
「最後は完璧だっただろ」
「最後は」
「じゃあ今日はそれで」
「次は駄目です」
「次も出るの?」
「必要なら」
「俺、護衛なんだけど」
「今日も役者でした」
アレクが剣を腰から外す。
「僕の殺陣は?」
「四回多い」
「内容は?」
「四回多いです」
「それしか言わないね?」
ガドランが笑いながらやってくる。
「良かったじゃねえか」
トキが彼を見る。
「団長」
「ん?」
「老将軍って何です?」
「良かっただろ」
「台本にありません」
「客は笑ってた」
「僕、その言葉嫌いになりそうです」
イエローが幕をまとめながら言う。
「それより団長」
「何だ?」
「腰」
ガドランの笑顔が固まる。
「……ちょっと痛い」
「でしょうね」
「最後まで持ったからいいだろ」
「今夜は酒なしです」
「なんで!?」
「腰を痛めた人に飲ませられません」
「芝居は成功したんだぞ!」
「関係ありません」
舞台袖に、いつもの騒がしさが戻る。
その向こうでは、まだ拍手が続いていた。
継ぎ接ぎの幕の隙間から客席が見える。
豪華な劇場でもない。
立派な舞台でもない。
明日になれば、この村の人々はまた倒れた畑へ向かい、男たちは壊れた橋を直しに行く。
何かが解決したわけではなかった。
それでも今夜だけは、誰も畑を見ていなかった。
誰も橋を見ていなかった。
舞台の上を見て、笑っていた。
ガドランが幕の隙間から客席を覗く。
しばらくそのまま立っていた。
「団長?」
イエローが呼ぶ。
「いや」
ガドランは幕から手を離した。
「いい客だったな」
「はい」
それだけだった。
外では、雨上がりの夜空に星が出始めていた。