翌朝のロッカ村は、まだ朝靄が残るうちから騒がしかった。
北の橋では、槌の音が続いている。
川岸へ板を運ぶ男たち。荷車を押す若者。畑へ向かう女たち。昨日まで泥の中に倒れていた麦は、そのまま地面に伏したままだった。
何も元通りにはなっていない。
それでも、人はもう動き始めていた。
「だから、こんなに要りませんって!」
村の入口では、ミレイユがそれとは別の問題に直面していた。
馬車の荷台へ、次々と食べ物が運び込まれている。
パン。
じゃがいも。
干し肉。
卵。
林檎。
「遠慮するな。昨日の芝居代だ」
酒場の主人が干し肉の包みを押し込む。
「でも、村だって大変でしょう?」
「大変だからって礼をしちゃいけないのか?」
「そういう意味じゃ……」
「受け取っておきましょう」
後ろからイエローが言った。
すでに帳簿を開いている。
「断っても、たぶん置いていきます」
「そうだけど……」
「じゃがいも二袋。パン十二個。卵――」
レオンが横から覗く。
「数えるんだ」
「数えます」
「公演料?」
「そうしておきます」
ガドランが腕を組む。
「返さなくていいぞ」
イエローは筆を止めない。
「次に来た時の参考にはなります」
「次来る前提なんだな」
「団長が来ると言ったので」
「俺、そんなはっきり言ったか?」
「言ってません」
「じゃあ何で」
「子供たちが来ると思っています」
イエローはそこでようやく顔を上げた。
「団長より、あの子たちの方がしつこそうなので」
「それは否定できんな」
◇
少し離れた場所では、アレクが子供たちに囲まれていた。
「剣やって!」
「昨日やっただろう」
「もう一回!」
「花のところから出てきたやつ!」
アレクの笑顔が一瞬止まる。
「そこは覚えなくていい」
「花の騎士!」
「その呼び方もやめてくれ」
「花騎士!」
「増やすな!」
トキが横で笑いながら帳面を開く。
アレクがすぐ気づいた。
「書くな」
「もう書きました」
「早い!」
そのトキの袖を、リオが引いた。
「これ」
一枚の紙を差し出す。
「何?」
「昨日の」
開いてみる。
少し歪んだ文字。
『王様がおもしろかった』
『騎士が長かった』
『お姫様が強かった』
その下には絵がある。
白い髭の王。
剣を構えた騎士。
ドレス姿の姫。
そして、なぜか他の三人より二倍ほど大きく描かれたガドラン。
「団長」
トキが呼ぶ。
「何だ?」
「これ」
ガドランが紙を覗き込む。
「おお、俺じゃねえか」
「大きいですね」
「存在感があるからな」
リオが小さく言った。
「身体」
数秒の沈黙。
トキが顔を背ける。
「笑うな!」
「僕じゃないです」
「お前も笑ってるだろ!」
リオはとうとう声を出して笑った。
トキは紙を丁寧に折る。
「これ、もらっていい?」
「うん」
「ありがとう」
帳面ではなく、自分の鞄の奥へしまった。
「そこに入れるんだ」
「なくしたくないから」
リオは少しだけ嬉しそうにした。
「また来る?」
トキが返事をする前に、ガドランが横から言う。
「そのうちな」
「いつ?」
「そのうち」
「来年?」
「予定が合えば」
「絶対?」
「お前ら兄妹、絶対って言葉好きだな」
ガドランが困ったように頭を掻く。
「……努力する」
「弱い」
ミレイユが横から言った。
周りで笑いが起きた。
◇
出発の時刻になる。
ミナもセトも見送りに来ていた。
「王様!」
御者台に座ったレオンが振り返る。
「もう王様じゃないよ」
「昨日は王様だった!」
「昨日だけね」
「またやって!」
レオンが嫌そうな顔をするより先に、荷台からミレイユの声が飛んだ。
「評判よかったですからね」
「次もやる前提なの?」
「必要なら」
「俺、護衛なんだけど」
「昨日も言ってましたね」
「覚えてるなら尊重して」
ミナが笑う。
セトも少し離れたところで口元を緩めていた。
レオンは二人へ手を上げる。
「元気で」
「そっちも」
セトに返され、レオンが少しだけ目を丸くした。
「十一歳に心配された」
「昨日落ちかけてたから」
「それはそうだな」
馬が歩き出す。
古い看板が揺れる。
御者台の脇では、港町でもらった不格好な木彫りの鳥が、小さく風を受けていた。
今日はその隣に野花の束が増えている。
「また来てね!」
ミナが叫ぶ。
「絶対!」
リオも続く。
ガドランが荷台から手を振る。
「努力するって言っただろ!」
「絶対ー!」
「人の話聞け!」
笑い声が遠ざかっていった。
◇
村が見えなくなってから、しばらくは静かだった。
アレクは荷台の壁にもたれ、目を閉じている。
ミレイユは衣装のほつれを確かめていた。
イエローは帳簿。
トキはさっきもらった紙をもう一度取り出している。
レオンだけが御者台で前を見ていた。
昼前。
街道の先に、一人の男が立っていた。
旅装姿。
汚れてもいないし、豪華でもない。
商人にも見える。
どこかの家の使いにも見える。
馬車が近づくと、男は道の端へ寄った。
「レオンさん」
手綱が引かれる。
「俺?」
「はい」
男は懐から白い封書を出した。
何の印もない。
「預かりものです」
レオンはすぐに手を出さなかった。
「誰から?」
男は軽く頭を下げる。
「申し訳ありません」
「言えない?」
返事はない。
レオンはしばらく男を見た。
やがて手を伸ばす。
「分かった」
封書を受け取る。
男はもう一度頭を下げ、そのまま来た道を戻っていった。
トキが御者台から身を乗り出す。
「誰です?」
「知らない」
「知らない人から受け取るんですか?」
「もう受け取った」
「そういうことじゃありません」
トキは去っていく男を目で追う。
「追います?」
「やめとけ」
ガドランの声だった。
荷台の入口に立っている。
男が道の向こうへ消えるまで、その背中を見ていた。
トキがすぐに振り返る。
「団長」
「何だ?」
「知ってます?」
「何を」
「今の人」
「知らん」
「じゃあ、手紙のことは?」
ガドランは少しだけ考える。
「腹減ったな」
「今、完全に話変えましたよね?」
「次の町までどれくらいだ?」
「昼過ぎです」
「じゃあ飯はそこで」
「団長」
「何だ」
「誤魔化すの下手ですね」
「若いうちはそう見えるんだよ」
「どういう意味です?」
「知らん」
トキは不満そうだったが、それ以上は追わなかった。
◇
レオンは馬車を走らせながら、片手で封を切った。
中には紙が一枚。
短い。
目を通す。
折り直す。
隣からトキが覗く。
「見えません」
「見せてないからね」
「何て?」
「内緒」
「珍しい」
「そう?」
「いつもなら『いろいろ』で終わらせるのに」
レオンが少し笑った。
「成長した」
「悪い方向に」
後ろからガドランの声が飛ぶ。
「面倒そうか?」
レオンの指が一瞬止まる。
「……たぶん」
「そうか」
それだけだった。
トキがレオンを見る。
次にガドランを見る。
そして静かに帳面を開く。
「何書いてる?」
「『団長とレオン、何か隠している可能性あり』」
「消して」
「可能性です」
「余計悪い」
◇
その夜。
一座は次の町へ入る前に、街道脇で野営することになった。
焚き火の上では、ロッカ村でもらったじゃがいもが煮えている。
「香草は?」
鍋を覗いたアレクが訊く。
「ありません」
イエローが答える。
「塩は?」
「あります」
「少し多めに」
「一人分ずつです」
「食事まで会計されるの?」
「旅なので」
ミレイユは縫い物。
トキは記録。
レオンは少し離れたところで剣の手入れをしていた。
ガドランだけが馬車の奥へ入り、しばらくして古い紙筒を抱えて戻ってきた。
「何です?」
トキがすぐ近づく。
「地図」
「それは見れば分かります」
「最近の若い奴は質問が雑だな」
「団長に言われたくないです」
地面へ広げる。
ずいぶん古い地図だった。
紙の端は擦れ、折り目はいくつも白くなっている。
各地に、小さな銀色の丸が打たれていた。
「これ」
トキの顔が近づく。
「公演した場所?」
「ああ」
「今までの?」
「昔のだ」
ミレイユの手が止まる。
イエローも帳簿から顔を上げた。
地図の中には、さっきまでいたロッカ村の名もあった。
トキの指がその印から西へ進む。
町。
村。
港。
さらに西。
けれど、途中で銀色の丸がなくなる。
「ここから先は?」
ミレイユが訊く。
「ない」
「行かなかったんですか?」
ガドランは少し間を置いた。
「行けなかった」
焚き火が小さく弾けた。
それだけで、誰もすぐには聞き返さなかった。
トキの指が地図の端まで進む。
大陸の西。
海へ突き出した土地に、一つだけ赤い丸があった。
その横に、古びた文字。
「……『最後の舞台』」
トキが読み上げる。
アレクが眉を上げた。
「誰が書いたんだい?」
「昔の団長」
「何があるんです?」
ミレイユが訊く。
「知らん」
「知らないんですか?」
「俺も行ってねえ」
ガドランは赤い丸を見た。
「ただ、あの人はそこへ行きたがってた」
「どうして?」
「それも、詳しくは聞いてない」
トキが少し首を傾げる。
「じゃあ団長は、そこへ行きたいんですか?」
「ああ」
返事は早かった。
ガドランは銀色の丸が途切れた場所を指で押さえる。
そこから先。
何も印のない土地をゆっくりなぞっていく。
最後に、赤い丸へ辿り着く。
「こいつの続きをやる」
誰も口を挟まなかった。
「昔の連中が行けなかったところまで、今の銀の小鳥座で行く」
ガドランは赤い丸を指で軽く叩いた。
「そんで、そこで芝居をする」
トキが地図を見たまま訊く。
「客がいなかったら?」
「探す」
「一人も?」
「一人くらいいるだろ」
「いなかったら?」
ガドランが考える。
「お前が客やれ」
「僕、劇団員ですよ」
「じゃあレオン」
「俺も劇団員だろ」
「最近は役者でもある」
「勝手に増やすなって」
少しだけ笑いが戻った。
トキが帳面を開く。
「書いておきます」
「何を?」
「目的」
「忘れねえよ」
トキは幕の話をしようとして、口を閉じた。
代わりに地図へ目を落とす。
「……一応です」
「好きにしろ」
イエローが赤い丸を見る。
「遠いんですか?」
「真っ直ぐ行けば半年くらい」
「真っ直ぐなら?」
レオンが訊いた。
ガドランは不思議そうな顔をする。
「寄り道するだろ」
「なんで当然みたいに」
「旅劇団だぞ」
レオンは少し考えた。
「それもそうか」
◇
夜が深くなった。
皆が眠った後も、焚き火だけが小さく残っていた。
レオンは一人、火のそばへ座っている。
昼間の封書を取り出す。
中の紙を開く。
しばらく読む。
火へ近づける。
端へ橙色の光が映る。
あと少し近づければ燃える。
その手が止まった。
結局、レオンは紙を折った。
懐へ戻す。
顔を上げる。
馬車の横では、銀の小鳥を描いた古い看板が夜風に揺れていた。
そのすぐ下で、木彫りの鳥も一緒に揺れている。
馬車の中には古い地図。
西の果てには、赤い丸。
まだ誰も見ていない舞台。
レオンは少しだけ火へ薪を足した。
明日になれば、また馬車は進む。
次の町へ。
その次へ。
そしていつか。
最後の舞台へ。