魔法少女まどか☆マギカ Magia Primordialis 作:THE1003
春の見滝原市は、柔らかな陽射しと桜の花びらに包まれていた。
通学路を行き交う学生たちの声。新しい制服に身を包んだ生徒たち。窓を開けた教室に吹き込む、温かな春風。
どこにでもある、穏やかな春の一日。
天海しおりは、そんな日常の中にいた。
「……これで全部ね」
放課後の教室。
しおりは返却されたテストを机の上に並べ、答案を一枚ずつ確認していた。
どの答案にも、赤いペンで満点を示す印がつけられている。
しおりは答案を揃え、鞄の中へしまった。
特別に喜ぶ様子はない。
彼女にとって、問題を理解し、正しい答えを導き出すことは、ごく自然なことだった。
難しい問題に出会えば考える。わからないことがあれば調べる。必要な知識は覚える。
そうして努力を重ねることに、苦痛を感じたことはあまりない。
だからといって、自分の成績を他人に誇ろうとも思わなかった。
成績がよいからといって、誰かより偉いわけではない。
できることが違うだけだ。
しおりは、そう考えていた。
「しおりちゃん、テストはどうだったの?」
隣の席から、クラスメイトが聞いてくる。
「うん。問題なかったわ」
「満点って……。すごいね!私、数学の問題で間違えちゃって」
「途中式は合ってたわ、最後に符号をひとつ間違えただけじゃない?」
「えっ、そうなの?」
「あとで一緒に確認する?」
しおりが尋ねると、クラスメイトはぱっと顔を明るくした。
「いいの? ありがとう!」
「どういたしまして」
しおりは穏やかに微笑んだ。
自分にできることが、誰かの役に立つ。
それは、悪くない気分だった。
もっとも、彼女自身は、その感情を特別なものだとは思っていなかった。
困っている人がいれば手を貸す。
できることがあれば引き受ける。
それだけのことだ。
⭐︎
放課後。
クラスメイトと別れたしおりは、駅前の商店街を歩いていた。
夕食の材料を買い、帰宅するつもりだった。
両親は海外へ出張している。
そのため、家事は基本的に自分でこなしていた。
料理も洗濯も掃除も、必要なことはひととおりできる。生活に不自由はない。
ただ、ひとりで過ごす時間が長いせいか、買い物の途中で誰かと話している家族連れを見かけると、ほんの少しだけ足を止めてしまうことがあった。
自分も誰かと暮らしていたら、どんな毎日になるのだろう。
そんなことを考える。
けれど、すぐに思考を切り替えた。
「……今日の夕食は、魚にしましょうか」
独り言を呟き、スーパーへ向かおうとした、そのときだった。
背筋に、冷たいものが走った。
しおりは足を止める。
商店街の喧騒は変わらない。
人々は笑い、買い物袋を提げ、夕食の献立について話している。
何もおかしなところはない。
それなのに。
「……いるわね」
しおりは、人通りの少ない路地へ視線を向けた。
そこから、奇妙な気配が漂っていた。
目には見えない。
けれど、空気の歪みのようなものを感じる。
初めてではなかった。
以前から、ときどき同じ感覚に襲われることがあった。
その気配の先には、決まって人間ではない何かがいる。
なぜわかるのか。
しおり自身にも、説明はできなかった。
ただ、経験から導き出せる結論はひとつだった。
放置すれば、誰かが危険にさらされる。
しおりは周囲を確認した。
通行人が路地へ入り込む様子はない。
ならば、今のうちに対処するべきだろう。
「買い物は、あとね」
彼女は鞄を持ち直し、路地へ向かった。
迷いはなかった。
⭐︎
路地の奥へ進むにつれ、景色が歪み始めた。
壁の輪郭が水面のように揺らぎ、地面の模様が見たこともない文字へ変化していく。
音が遠ざかる。
商店街の人々の声も、車の走行音も、まるで厚い壁の向こう側にあるようだった。
しおりは足を止めた。
「結界……」
その言葉が、自然と口をついて出た。
結界。
魔女。
使い魔。
自分は、それらについて詳しい知識を持っているわけではないはずなのに。
しかし、目の前の現象が何を意味するのか、身体は理解しているようだった。
しおりは左手を持ち上げた。
中指には、緑色の宝石をあしらった指輪が嵌められている。
普段は、少し変わったデザインの指輪にしか見えない。
けれど、この指輪がただの装飾品ではないことを、しおりは知っていた。
「……さて」
彼女は小さく息を吐いた。
「相手が何であれ、放っておくわけにはいかないわね」
指輪が淡い光を放つ。
緑色の光がしおりの全身を包み込んだ。
光が弾ける。
そこに立っていたのは、先ほどまでの制服姿の少女ではなかった。
白いテーラードジャケット。
身体の線に沿った、端正な仕立て。
その下には、深みのあるグリーンのインナーが覗いている。
腰には白いタイトスカート。脚を覆うのは黒いタイツ。そして、足元には黒いヒール。
華美な装飾を必要以上に重ねることなく、全体のシルエットをすっきりとまとめた衣装だった。
白の清潔感と、黒の引き締まった印象。
そこへ、グリーンが鮮やかな個性を添えている。
しおりは右手を軽く握った。
手の甲に、葉を思わせる緑色の宝石が形作られる。
同時に、光の粒子が集まり、一本の剣を形作った。
自身の背丈に迫るほどのもの、
白と黒の装飾を施された、細身の剣だった。
しおりは柄を握り、軽く振って感触を確かめた。
剣の重さも、身体の動きも、いつもどおりだった。
彼女は剣を両手で構え、結界の奥へ視線を向けた。
「出てきなさい。そこにいるのは、わかっているのよ」
応えるように、影が動いた。
壁の隙間から、黒いものが這い出してくる。
人間の形に似ているが、腕は不自然に長く、頭部には顔らしきものがない。
身体から伸びた糸が、壁や地面に絡みついていた。
使い魔。
しおりは、目の前の存在をそう認識した。
使い魔が跳躍する。
しおりは半歩、前へ出た。
敵の動きを見極め、最小限の動作で身体を傾ける。
黒い腕が空を切った。
直後、しおりの剣が閃く。
白い刃が影の胴体を断ち切り、使い魔は黒い粒子となって消えた。
続けて二体目が襲いかかる。
しおりは剣を引き、敵の攻撃を受け流す。
そのまま身体を回転させ、返す刃で相手を斬り伏せた。
三体目は背後から迫ってきた。
だが、しおりは振り返るより先に、その気配を察知していた。
右足を軸に身体を捻り、剣の柄で敵の攻撃を逸らす。
踏み込み。
一閃。
影が崩れ落ちる。
最後の一体は、仲間が倒されたことを理解したのか、逃げようとした。
「逃がさない!」
しおりは地面を蹴った。
白いスーツの裾が翻る。
長い剣が空を走り、逃げる使い魔を正確に捉えた。
敵の姿が消えた瞬間、結界の景色が揺らぎ始めた。
歪んでいた壁が元の姿を取り戻し、遠ざかっていた街の音が戻ってくる。
やがて、路地には静けさだけが残った。
しおりは剣を下ろした。
周囲を見回し、人影も被害もないことを確認する。
「……よし」
小さく頷いた。
自分の判断は正しかった。
誰も巻き込まれずに済んだ。
その結果に、しおりは満足していた。
そのとき。
「少し、いいかしら」
背後から、少女の声がした。
しおりはすぐに振り返った。
路地の入口に、ひとりの少女が立っていた。
長い金髪を左右で結び、落ち着いた表情を浮かべている。
年齢は、しおりよりひとつ上くらいだろうか。
彼女の身を包む衣装もまた、魔法少女のものだった。
少女は、しおりの剣を見つめてから、顔へ視線を戻した。
「あなた、新人さん?」
「……あなたも、魔法少女なんですか?」
「ええ、巴マミ。見滝原市の魔法少女よ」
巴マミ。
その名前を聞いた瞬間、しおりの胸に不思議な感覚が広がった。
初めて聞く名前のはずなのに。
ずっと前から知っていたような、不思議な感覚だった。
しおりは剣を消し、姿勢を正した。
「天海しおりです。よろしくお願いします、巴先輩」
「まあ。礼儀正しいのね」
「初対面の方には、きちんと挨拶をするべきですから」
マミは、くすりと笑った。
「それもそうね、改めてよろしくね」
しおりは少しだけ首を傾げた。
「ところで、先ほどの戦いを見ていたのですか?」
「ええ。あなたが使い魔を倒すところをね。剣の扱いに慣れているみたいだけれど、魔法少女になったばかりなの?」
「……それが、よくわからないんです」
しおりは正直に答えた。
「自分がいつから魔法少女だったのか、はっきりと思い出せなくて。でも、戦い方は身体が覚えているみたいです」
「記憶が曖昧なの?」
「はい。もっとも、わからないことがあるからといって、何もできないわけではありませんから」
しおりは、わずかに胸を張った。
その言い方には、ほんの少し自信が滲んでいた。
自分に何ができるのか。
それを知りたい。
知れば、もっとよい結果を出せる。
しおりは、そう信じていた。
マミは驚いたように目を瞬かせたあと、柔らかく微笑んだ。
「なるほどね、ずいぶん前向きなのね」
「できることを増やすのは、悪いことではありませんから」
「ふふ。確かにそうね」
マミは一歩、しおりへ近づいた。
「それなら、私が教えてあげる。魔女や使い魔のこと、ソウルジェムの扱い方、それから戦うときに気をつけるべきことも」
「本当ですか?」
「ええ、もちろん。」
「では、よろしくお願いします。巴先輩」
しおりは、はっきりと答えた。
その返答に、マミは安心したように微笑んだ。
「ええ。こちらこそ、よろしくね。天海さん」
その日、ふたりは連絡先を交換した。
そして、しおりは初めて、自分と同じ魔法少女という存在に出会ったのだった。
⭐︎
夕方。
巴マミの自宅で、しおりはマミと向かい合っていた。
テーブルの上には、紅茶とケーキが並んでいる。
「……おいしいですね」
ひと口食べたしおりは、素直に感想を口にした。
「気に入ってくれた?」
「はい。紅茶も香りがよいですし、ケーキの甘さもちょうどいいです」
「ふふ、ありがとう天海さん。」
「いえ、そんな」
しおりはもうひと口、ケーキを食べた。
普段、こうしたものを食べることは少ない。
けれど、誰かと向かい合って食べるケーキには、家でひとりで食べるものとは違う味わいがあった。
「天海さんは、普段どんな生活をしているの?」
「学校へ行って、帰宅したら家事をして、時間があれば本を読んでいます。勉強も、苦手ではありません」
「苦手ではない、どころじゃなさそうね」
「……どうしてですか?」
「先生があなたのことを褒めていたでしょう?テストの結果がとてもいいって」
しおりは、わずかに困ったような顔をした。
「見ていたんですね」
「えっと、見ていたわけではなくて早乙女先生の声が少し」
なるほど、早乙女先生に悪気があったわけではないけどまさか通りすぎざまの巴先輩にまで聞かれるとは。
「ありがとうございます。でも、勉強ができることと、魔法少女として優れていることは別でしょう?」
しおりは紅茶のカップを置いた。
「学校の成績がよくても、戦いで判断を誤れば意味がありません。魔法少女については、巴先輩から学ばせてください」
その言葉に、マミは少し目を見開いた。
自分の能力を過信しているわけではない。
むしろ、自分が得意なことと、まだ知らないことをきちんと区別している。
年下なのに、しっかりした子だ。
「……しおりちゃんは、しっかりしているのね」
「自分でも、そう思います」
あまりにも素直な返事だった。
マミは一瞬きょとんとし、それから笑い出した。
「あははっ! 自分で言っちゃうのね!」
「事実ですから」
「ふふふ。そうね。自分の得意なことを認めるのは、悪いことではないわ」
「はい。ですが、できないこともあります。知らないことも、まだまだありますし」
しおりは、窓の外へ目を向けた。
「だから、知りたいんです。自分が何者なのかも。魔法少女のことも」
最後の言葉だけは、少し小さかった。
マミは、その横顔を見つめた。
しおりは落ち着いている。
頭の回転も速い。
自分のことを冷静に評価する力もある。
それなのに、自分自身について語るときだけ、どこか遠くを見ているような表情になる。
まるで、自分の過去を探しているかのように。
「……焦らなくてもいいと思うわ」
マミは静かに言った。
「わからないことは、これから少しずつ知っていけばいいのよ。私だって、最初から何もかも理解していたわけではないもの」
「巴先輩も、ですか?」
「もちろん」
マミは微笑んだ。
「それに、ひとりで悩むより、誰かに相談したほうがいいこともあるわ」
しおりは、しばらく考え込んでいた。
やがて、頷いた。
「……なら、これからは相談させてください」
「ええ。いつでもどうぞ」
マミは、嬉しそうに答えた。
ふたりの間に、穏やかな時間が流れる。
それは、魔女と戦う時間とは違う。
ただ話をして、同じ時間を過ごす。
しおりは、その時間を心地よいと感じていた。
⭐︎
帰宅したしおりは、夕食を済ませると机に向かった。
ノートを開き、今日教わったことを整理していく。
魔法少女。
魔女。
使い魔。
ソウルジェム。
結界。
そして、巴マミ。
しおりは、最後に書いた名前を見つめた。
「……巴先輩」
今日一日で、いろいろなことがあった。
魔法少女としての知識を得た。
自分以外にも同じ存在がいると知った。
そして、一緒に学び、戦い方を教えてくれる人ができた。
しおりは、ペンを置いた。
自分は、ひとりで何でもできる。
家事も、勉強も、ある程度の戦闘も。
それは間違いない。
けれど、
誰かと話す。
誰かに教えてもらう。
誰かと一緒に食事をする。
そんな時間にも、自分ひとりでは得られない価値がある。
しおりは、そう考え始めていた。
窓の外では、夜が静かに更けていく。
机の上に置いた左手の中指で、緑色の宝石がかすかに光を反射した。
しおりは、それを見つめた。
なぜ自分が魔法少女なのか。
どうして戦い方を知っているのか。
まだ、答えは見つからない。
けれど。
「……まあ、いずれわかるでしょう」
しおりは、少しだけ自信ありげに微笑んだ。
「わからないことだらけでも、私が信じるもののために生きる、このあり方を貫き続ける。」
そう言って、彼女はノートを閉じた。
春の夜は、静かに続いていた。
歯車