「──んー……! ん、っ……はぁぁっ」
大きく伸びをしてから、深呼吸。肺の中に残っていたものを全部吐き出すみたいにしてから新しい空気を目一杯取り入れると、ずっと張り詰めていた緊張もだんだん解けてきて。それと一緒にどこか気が抜けた感じの声が出る。
ちょっと前まで雨でも降っていたのかな。ほんのり湿った地面の上、
まあ、今更気にしてもしょうがないかもしれないけどね。なんて思いながら視線を少し下に向けてみて、見えた自分の姿に苦笑い。服も靴ももうとっくに泥だらけで、こうして眺めてみると中々ひどい有り様だと思う。それに蒸し暑い中ずっと歩き通しだったせいで、身体もちょっとベタベタして気持ち悪いし。
水場が近くにあればなぁ、とは思うけど。探しに行くわけにもいかないから仕方なく我慢。土地勘がない場所で歩き回って迷子になる、なんてそれこそ笑い話にもならないことだしね。旅を始めたばかりの頃ならそういう失敗もしちゃってたかもしれないけど、流石にもうそんなことには──去年ので懲りたから、ならないよ。うん。
「でもまあ、大丈夫だよね。こんなに広い森なんだし、水場くらいそのうち、きっとどこかで見つけられるはず!」
できれば、水浴びができる場所。流れがあんまり急じゃない浅めの川とか、苔が生えてて透明な水が張っているような池とかを見つけられると嬉しいんだけど。飲んでも大丈夫そうな感じの水が湧いている場所だともっと嬉しい。持ち込んだ水筒の中身も、さすがにちょっと心配になってきてたから。
「なんにしてもお日様が登ってる内に、だね。うん……休憩終わり! 頑張ろう、わたし!」
名残惜しかったけど、そんなふうに声を大きく上げながら立ち上がって、急いで準備を進めちゃうことに。ゆっくり休むのは、また後で。まだ空の高い位置にあるお日様がもっと西の方に場所を移して、辺りが暗くなってから。じゃないときっと、こうしてどこかに腰を落ち着けて休むことすら難しくなっちゃいそうだったし。
「えへへ。それじゃあ──さて、と」
その準備。でもまだ、出発の前にしなくちゃいけないことが一つだけ。だからそう言ってわたしは、背中から降ろして側に置いてあった鞄に手を伸ばして。取り出すのは
真っ赤なトサカにギザギザの牙。びっしり生えた青白い鱗は顔だけじゃなくて身体中に。細く長く、立てば見上げなきゃならないくらいの大きさの身体はヤモリやトカゲみたいな生き物よりはやっぱり魔物、それも
そうしてまだぎょろりと見開かれているその目と、わたしの目があって。
「……どうしよっか、これから」
そんなふうに、ぽつりと。気づいた時にはついこぼしちゃってた言葉。大きく声を上げたりしてなるべく元気に、いつも通りに振る舞おうとしても、さすがに誤魔化しきれなかった気持ちの部分。つまりは、えっと。要するに、本音だったりするわけなんだけど。
……そう、つまり。鬱蒼と生い茂る森の中でただ一人。凶暴な魔物を相手に、死闘を繰り広げて泥だらけになったわたしは。
全然、全くと言っていいくらい見知らぬ場所で、迷子になってる途中だったりして。
◇
「──あ、また見っけ! へぇー、ここにも生えてるんだ。これは嬉しい発見だね!」
赤い滴に、真っ赤なお肉。わたしのすぐ足元で潰れて地面にその色を広げてる、小さなこの木の実の。たぶん、それが落ちてきたのは見上げた先。陽の光を遮るみたいに、好き放題あっちこっちに伸びるあの細い枝から。辺りには鼻をくすぐる甘い香りがあって。よーく見ればまだ枝にくっついている実の方にも齧られたような跡があるみたいだったから、だから自然とそうなったっていうよりは、やっぱりそういうことなのかも。
「んーっ〜! 甘くて果汁たっぷりで、おいしい! けど……なんて名前の木の実なんだろうね、これ」
この辺りに住む小さな動物たちが、きっといつもご飯にしている木の実。人が食べられるかはわからなかったけど、とりあえず毒はなさそうだって思ったからこうして見つける度にさっきから口にしてみたり。食べられるってわかってからは、後でお腹が空いた時用にって鞄に詰めたりもしているわけなんだけど。でもその木の実。それを枝いっぱいにつけているこの植物も、わたしが今まで一度も見たことないもの。その茎も葉っぱの形も、図鑑で見たことも誰かに聞いたこともないような、本当に全然知らないものだったから。
「──おーい。わたしの声、聞こえてる? 聞こえてるなら、答えてくれると嬉しいかなーって」
だから
「うぅ……やっぱり駄目みたい。なんでかなぁ。ちゃんと喋ってはくれてるみたいなのに」
何も知らない人が見たら、きっと不思議に。……ううん、すっごく変な目で見られちゃうようなことではあるんだろうけど。
でも、わたし──わたしやソフィー先生みたいな錬金術士にとっては、こういう植物とか鉱石とか。錬金術で使う素材に話しかけるのなんていつも通りの、それこそ日常の一部と言ってもいいようなことで。
素材の声。材料の想い。言い方は色々あってもそれは要するに、人間以外の何かが思ったり、考えたり。生き物じゃないもの。鉱石や石ころ、小瓶に詰めた砂の粒にだって宿る気持ちの、上澄みみたいなもの。
いつもならこうやって話しかけたりしなくても、周りの音に混じって勝手に聞こえてくるそれは、でも、なぜかここに来てから。この森にある素材からはそれが全然聞こえてこない。覚えている限り、ここに足を踏み入れてからはずっとそうだったと思う。
正確には、全く聞こえてない……ってわけじゃないのかもしれないけど。ざわざわと耳元で何かが囁くような、語り掛けてくるようなこの感覚がそう。でもちゃんと音として聞こえているはずのそれを上手く意味のある言葉として
「うぅー……けど、やっぱりなんか落ち着かないなぁ」
大体は、錬金術の勉強や修行をする中で目覚めたりする力みたい。でもわたしのこれは生まれつきのもの。石拾いの才能なんて言われてた、わたしもそういうふうに思ってた力は、本当は。その時はまだ、それが声だなんて思わなかったけど──でも。
記憶を振り返ってみると、うん。確かにそう、ずっとだった。あの大きな扉で閉ざされた
「うん、やめよ。暗くなりそうなこと考えるのはなし! 今考えるなら、もっと他のこと!」
そんなふうに。ちょっと無理やりな感じに。大きく声を張り上げて、わたしはわたしにそう言い聞かせる。空元気だとしても今はそうしなくちゃ。そう、だって──
「ここがどこかも、まだわからないもんね」
迷子になっているんだから自分の居場所がわからないのは……確かにそう、当たり前なんだけど。でもわたしが言っているのは、そういうことじゃなかった。
あそこに、つい今朝まで。さっきまで。
◇
寝床。眠る場所。夜が来るたび、眠らなくちゃいけない生き物が日が落ちた後の時間を迎えるために、それは絶対必要な場所。
「──暗くなる前に、せめてそのくらいはどうにかしないと、ね! むぅぅ……! よい、しょーっと!」
灰色の岩肌が覗く崖の、その途中。飛び出す岩に足をかけながら、叫ぶようにそう口にするのはわたし。蔦を掴んで、そしてわたしが一生懸命手を伸ばす先には真っ白な花びらを開かせる小さなお花があって。今こうしている間も漂ってくるその香りは、ここからでも鼻につくくらいに強い。つまりそれだけ生命力も強いってことだから。
「ぅぅ、んぅぅぅ……! あと、もう……ちょっとぉ……!」
スカイフリーカー──さっき歩きながらわたしが今すぐ必要になりそうな道具を思い浮かべていた時、真っ先にそれを作ることは考えたけど。肝心要の材料、そのレシピで一番大事な質のいいグラビ石の調達が難しそうだったから、そっちは後まわし。それこそ今朝みたいに、それに乗ってお空を移動できればきっとこんなふうに危ない崖登りをする必要もなかったんだろうけど。その便利な道具を遠いどこかに置いてきちゃった今は、やっぱりそれは無理なお話。
「よし、採れた! ──って、ひゃあっ!?」
指先がやっとその花に触れて、喜ぶ気持ちのまま声を上げるわたし。でもその途端に足を引っかけてた場所が崩れて危うくそのまま崖下まで落ちちゃいそうに。しっかり蔦を握ってたからどうにか姿勢を持ち直せたけど、今はもうかなり遠いところにある地面が視界の端に見えてひやっとする。少なくとも、普通に飛び降りたりはできない場所まで登ってきちゃってるわけだし。
「うわぁ……危ない危ない。この高さだと、落ちたらさすがに口の中切っちゃうくらいじゃすまないもんね……」
それは最初の最初、わたしがこの森に
「はぁ……。けど、そうだよね。地面があんなに湿ってたくらいだもん。雨が降った後なら岩場だって滑りやすくなってるし、気をつけないと……」
そのおかげ──かどうかはわからないけど、何事もなくまた足を森の地面につけることができて、ほっと一安心。目当てにしていたお花も取ってこれたし、少し無理をしてみた甲斐はあったよね。
「でも、とりあえずこれで──」
手にしたお花と、鞄から取り出したそれを眺めて一人頷くわたし。どっちもこの森で見つけて採取した素材。でも、見た目からわかる以上のことは全然、それにどういう名前がついているのかってことさえわからないような植物だったけど。
「うん! たぶんだけど、いい感じかな」
片方はなるべく手を加えずにそのまま。もう片方は繋ぎというか、その補強に。何より大事なのはとにかく丈夫なこと。量と長さは、やっぱりちょっと足りなくても、でも。
「これと、さっき拾ったこれがあれば……っと。えへへ、引っ掛ける場所あるかなー?」
あちこちで木に巻き付いていたものを千切って集められるだけ集めてきた蔦と、今崖の上から採ってきたお花。そして最後にもう一つ。森を歩き回ってる途中で見つけた、ちょこんと二つだけ生えた葉っぱの間からネバネバした液体を滴らせる草。触れると指がくっついちゃうからそれは布で包んで今は鞄に入れてあるけど、これで三つ。たぶん、わたしが必要だと思う材料は全部揃ってた。
作ろうとしてるのはハンモックで、集めてたのはその材料。木に引っ掛けて通すロープの代わりはなんでもよかったし。この辺りに生えてる植物はどれも繊維がしっかりしてるから、錬金術で──釜がないから、ちゃんとした道具として作るわけにはいかなかったけど。だけど持ってきた触媒を使って、調合の前の下準備。凝縮と分解の過程を通してこの全部を繋げて馴染ませばそういう、とりあえず体重をかけても千切れたりしないだけの何かにはなってくれると思う。
「木登りも久しぶりだから気をつけないとねー。また落っこちちゃうかもだし……準備は大事!」
もちろん木に昇ってそれを結ぶのは自分でやらなくちゃだから、そこは大変かもだけど。それでも高いところに休める場所を作っちゃえば、眠ってる間、さっきみたいに地上にいる魔物に襲われる心配はしなくてよくなるから。ロープの編み方はリア姉から教わって、ハンモックの作り方だって本で読んだからちゃんと知ってる。こういう森の中だと怖い虫も、虫除けに使えそうなものがいくつか鞄に入ってるし、平気。昔よりずっと旅慣れたわたしだから、こんなよくわからない場所でも。たとえ
(でも、だから安心──なんて、言えないよね)
森の中はやっぱりいろんな音がする。だってそれはそう。どこのどんな森でも、そこでたくさんの生き物が生きて暮らしてるっていうのは同じはずだから。ざわざわざわざわ、耳の奥をくすぐるような葉擦れの音に虫の声。そこに混じって甲高い鳥の鳴き声なんかも。でもさすがに、さっき木に留まっているところを見かけたそれは狩って捌いて今日のご飯にしようとは思えないような見た目をしていたから、その声はただわたしを不安にさせてくるばっかり。
ギャアギャアと、今もどこかから聞こえてくる別の鳥の声も──一番騒がしく聞こえるそれはまるで遠く離れたそのどこかで何か異変に気がついて、警戒しているような、
「って、違う……これ、結構近い場所かも」
……リア姉ほどじゃないけど、わたしだって今はもうちゃんと狩人。だから今耳に届くそれが、生い茂る草木に遮られてそういうふうに響いているっていうこと。鳥の声に近いけれど、違う。鳥じゃない、別の獣のものだってことも、わかる。
たぶん、だけど。仲間に何かを伝えるために上げる声。群れで生きる獣。それが、こんな鳴き声を上げる意味は──
「……」
──静かに黙って、背負ってた鞄を地面にそっと下ろす。壊れちゃった部分はさっき簡単に応急処置をしてあるから、今はどうにか繋がってる留め具に指をかけてかぶせを外して、中に手を入れて。指先に触れる固い何か、ぎゅっと握れば手に馴染む感触に、これは落とさなくてよかった、って安心しながら。わたしが取り出すのは、ここしばらくの間ですっかり、ずっと使ってきた杖に代わって相棒と言えるくらいには使い慣れたわたしの武器。周りに注意を向ける視線は今だって変わらずに。もう片方の手で矢筒から取り出したものをそこに番えれば、リア姉と同じ。獲物を仕留めるための道具と武器。弓と矢を握る、狩人なわたしがここにいて。
「焦っちゃ駄目、焦っちゃ駄目……。今はまだ、番えるだけ。いつでも射てるようにして──」
握りの部分にライズリムの上半分、下半分。丁寧に油紙に包まれた弦。矢筒は腰のポーチから。組み立てに時間なんてかけてられない。バラバラのまま鞄に収まっていた全部はほとんど吸い付くように、重ねればすぐ音を立てて嵌って弓の形になる。そうなるように作ったものだから。だから今、こうしてそれはわたしの手の中にあってくれた。
指に馴染む木目と金属の感触。腕を引けばいつでも撃てる。大丈夫、いつでも戦える。自慢の相棒から感じる頼もしさは、けど。どうしてだろう。今も胸の中で膨らむばっかりのこの不安をかき消すには、まだ全然足りないみたい。
(どこ? どっちから来るつもりなんだろう? たぶん、鳴き声がする方からだと思うけ、ど──っ!?)
がさ、と。揺れる茂み。擦れる葉音は、突然に。そしてたぶん、その時わたしの頭にあった、その嫌な想像の通りに。
振り向いて、顔を向けて。わたしはそのまま、構えた弓を──
「──っ!?」
──向けない。指の先も、摘んだ矢から離さない。ただ
受け身も取れないまま倒れた身体は、そうしてそのまま地面をごろごろと。あまり格好よくはない回避。でも結果的に、それはわたしの身を助けてくれたみたいだった。その証拠に、顔だけ傾けてゆっくりと向けた視線の先。ついさっきまでわたしが立っていた場所には、お日様を背に真っ直ぐ長く伸びる影が一つ。ううん、一匹分。逆光。今のこの時間、お空の天辺から降る光が隠すその姿は翳ってまだよく見えないけど。きっと大きな身体を持つ何かがその足で地面を抉って、力強くそこに爪を突き立ててるのがわかった。だって土が飛び散る音はもうとっくに耳の奥を打ってぐわんぐわんと、そんな足元が揺れる感覚すら、わたしの身体には残ってたから。
『──KRYU、RYUU!!』
「や、やっぱり、さっきの魔物──っ、きゃあ!?」
まだ視界だって眩しさに眩んだまま。それでもやっぱりその魔物は、その影はわたしのことを待ってなんてくれないから。瞬きする間に聞こえる音。鳴き声。短く威嚇してからの飛びかかり。一歩下がって距離を取って、どうにかそれは避けられた──けど、伸ばされた爪が肌を少し掠めてく。
「ちょ、ちょっと待って──待って……っ、てばっ!」
一つ、二つ。鈍い色。光を受けても全然それを返さない平べったいその形は、きっと黒ずんだ色をしてたと思う。残像を残して目の前から消えてくかぎ爪。でも目の前。黄色く縦に細められた瞳は、まだまっすぐわたしを見据えてる。まだ終わってない。だから。その後すぐ、間を置かずに身体ごと回転させながら振るってきたその尻尾を、屈んで避けて。
でも、たったそれだけ。きっとすごく短いその間に、片手。そしてお膝も。どっちも同じように仲良く地面とこんにちはして、もう後がなくなっちゃう。弓で反撃したくても、これじゃ矢を番えることすらできないし、爆弾を鞄から取り出す──のも、もちろん無理。
「──ひっ!?」
赤、赤い。真っ赤だった。ぐわっと広がるその景色。大きく開いてくその輪郭。顔を撫でるこの周りの空気と違う暖かさは、やっぱりわたしのすぐ目の前から感じるもの。せめて目を離さないようにって、ずっと前を向いたままだったせい。けど、だから、その白。視界の中にずらっと並ぶその形。開いたお口の中にある鋸みたいなギザギザの歯の並びまでばっちり目に入って、喉の奥から変な声が出ちゃう。
避け──駄目。今はまだ動けない。動けなかった、から。たぶん、支えにしていた腕から力を抜いて。そのままごろんと真横に倒れていったんだと思う。もちろんそれは自分で、自分から、でも。そのことに気づいたのは迫る尻尾をわたしの身体が
(この魔物、やっぱり速い!? ──だけじゃなくて、すっごい強い、かも……っ)
今度は自分で身体を動かして、しつこくわたしを狙ってくる爪を回避。だけど結構ギリギリ。今ので髪、何本か持ってかれちゃった気がする。目の前ではらりと舞う灰色がたぶんきっとその証拠。
わたしの錬金術。作った道具はちゃんとわたしを守ってくれているはずだけど……でも、だからずっと安心、なんてことは絶対ないし。避けられなくなる時は絶対来る。わかってた。だんだん大きくなってく不安はそのせいで。息苦しさと一緒にそのずんと胸を重くする気持ちを抱いたまま動かした足はもつれてほら、やっぱり。ぎゅいんと迫ってくる青色が真っ直ぐ、立ち止まったわたしを。今、この時、思いっきり打ち据えて。
「ぁぅ、っ!?」
痛く、ない。ううん……違う。痛いって感じる暇さえなかったのかも。重い音。鈍い音。それがぶつかった時、衝撃はあったと思う。だから冗談みたいにこうして吹き飛んで。地面をごろごろ、今度は自分の意思でも道具の力でもない理由でそうなってるわたしがいて、けど。痛いのは全部、だからその後。土の味と一緒に、わたしはそれを感じることになっちゃった。
「ぁ……っ、ぅぅ……!?」
声を上げる。悶えながらそうするわたしの後に続くみたいに、上がる悲鳴がもう一つ。身体が訴えてくる痛みの声。立ち上がろうと地面についた腕が、ズキンって。ちらりと見れば真っ赤に染まってた。折れてはいないけど、ちゃんと怪我って言っていいくらいの傷。
さっきは避けた尻尾の一撃。怖がってなかったわけじゃないけど、錬金術に……便利な道具に守られてるっていう安心は、やっぱり少しあったのかも。小さい魔物の攻撃ならどうにか無傷にしてくれる
『──』
油断、してたのかな。してたと思う、きっと。近づいてくる気配を感じながら思ってた。道具に武器。それを持ってるのはわたしだけじゃない。相手は危険な魔物。その爪もその牙も狩りの道具で、他の生き物の命を奪うために強く立派に育ってきた武器。
もし今切り裂かれたら、噛みつかれたら、それで
「やだ……。それは、怖い……けど」
ぶるり、と。身体に震えが走るのがわかった。そんな光景が簡単に想像できたから。
久しぶりに感じる、命の危険。普段当たり前の、生きているっていう状態が脅かされる感覚。
錬金術が上達する中で忘れてた。旅を続けるうちにわたしは少しずつ強く、少しずつ魔物と戦えるようになってたはずだから。でも結局わたし自身は、きっとそこまで戦いが上手くなったわけじゃない。
だってこういう時、やっぱりわたしはリア姉みたいには戦えない。アングリフさんみたいには動けない。もちろん最近は身体も鍛えてるし、魔物退治だってたくさん頑張って。でも、そうやって回数を重ねたって。それはたぶん、こういう状況に慣れた"だけ"でしかないってことだから。
「でも……っ! 大丈夫! わたしだって──」
うん、だとしても。やっぱり落ちこむのは後。口は自然と動いて、言葉だってそんなふうに。ちゃんと残ってるみたい。今度こそって、そう思う気持ちも。だから後ろ。逃げるためにじゃなくて。そのまま少しだけそっちに片足を引いて、ずっと握ったままだったそれをもう一度弦に。腕は今もズキズキと激しい痛みを訴えてくるけど、番えた矢を引くくらいなら……大丈夫、平気。まだ、なんとかなりそう。
『KRU、RUSHYAA!!』
そして──とりあえず、それさえできれば十分!
飛び掛かってきた魔物に向けて。もうわたしは、弓を構えてそっちを向いてたから、ただこの手に握る相棒に意識を集中。手のひらから伝わるその形、頭の中でだけ描く矢の軌道。狙いはそのまま。柔らかな羽根が離れていって、そうしてふっと指先から、その感触が消えた後は。まだ触れていた場所に残るそれを、身体から離れてないものを操るみたいに。
思いっきり飛び出した矢は、ぎゅんと。ぐるんと。そうすれば、
『──RYU、Ryu、u!?』
一つ、二つ、三つ。もう一つ。全部で四本。魔物に向かっていく最中に、
「そしてもひとーつ! これで最後だよ!」
これで最後。そうなってくれるようにって思いながら番えた矢は真っ直ぐ、今度は軌跡を残して。それが続く先を貫いて、弾ける光。チカチカとまだ視界に残るその光は爆弾みたいに、ううん。
その証拠に、もう聞こえない。ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ。騒ぐ海鳥みたいなその鳴き声。わたしの目の前には声もなく倒れて、地面に倒れ込む魔物の身体があって。
──どさりと。その時になってようやく、そんな音がしたから、
「はぁぁぁぁ……! 怖かったぁ……」
終わったんだって実感。倒したんだって理解。わっと押し寄せてきた色々は少し遅れて頭の中で形になって、そしてその途端に、出てきたため息。堪えてたものが一気に解き放たれたみたいに、ながくながーくそれを吐いて。ちょっと反省ムードなわたしは、そのまま素直な気持ちを言葉にしてみる。
「まさかいきなり突撃してくるなんて思わなかったし……。さっきは、だって」
一息ついてから、改めて。じっと見つめる魔物の姿。やっぱりそれは見覚えがない、竜みたいな姿。
鳥みたいな魔物──って、そう思ってた。最初に襲われて倒した魔物。
「うーん……? でも、こんなに強い魔物があちこちにいるような森なら、安心して休むってわけにはいかないよね……やっぱり」
あと、危険も。それも教えてくれたからはっと気づいて、声を上げるわたしが今ここに。気づいたのはたぶん、わりと今さらなこと。安全な場所、その作り方。そうだよね。狼とか四本脚の、低い位置に身体がある魔物ばっかりじゃない。翼のある魔物だっている森だもんね。じゃあ、ハンモックじゃ駄目かも。なるべく高い位置に寝床を作れば大丈夫って思ったけど、でもこの魔物だってそう。翼はなくても二つ、二本、細い足。今も身体から生えたそれですっごい高さまで跳んでたし。生い茂った葉っぱのカーテン、夜が下ろすその暗い帳だって、完璧にわたしの姿を隠してくれるとは限らないから。
「見たことない魔物なのになぁ……残念。でも、見ている時間もないかもだし」
そして、そう、採取。やっつけたこの子の解体作業。今からわたしが狩人として、そのお仕事をするような時間はもっとない。きっとじゃなくてそれは絶対。早くいろいろどうにかしないとだもん。寝床もそうだけど、この場所のこと。どこか。それはわからなくても、せめて周りの、自分がいる場所の側が"どう"なってるのかくらいは知っておかないと。雨が降れば増水する川とか湖とか近くにあるかもだし。森の中、街から外れたお外の世界は魔物以外にも危険がいっぱい──それはもう誰に言われなくたってわたしがよーく知ってること。だからせめてもう少し歩いてみて……でも暗くなったら、きっとそれもできないから。時間が経てば経つほど、自分が安全に明日を迎えられるかどんどん怪しくなってきちゃう。
せっかく倒したのに──そんな気持ちは、やっぱりあったけど。少しだけ。あんまり牙とか鱗とか、自分が命を奪った生き物のそれを無駄にするのはもったいないって。それに、後処理。このままだと血の匂いで他の魔物まで寄ってきちゃうかも。だからそれだけ。あと、それと。やっぱりもう少し観察してみたいなぁ、なんて。好奇心、そんな気持ちもだから気づけばわいてきちゃってた。でも、だってだってって自分に言い訳。そうしながら考えてみるわたしはまた一歩、前に。さっきはいきなりだったし、戸惑うばかりだったから倒した後すぐその場を後にしちゃったし。そう、今みたいに。思い出して、気づくこと。いっぱいあった。そういえば、鳥というより……あの身体に、びっしり生えた鱗は蛇みたいだったかも?とか……
いけないって。そう思う。でも、もう少し。駄目って思う気持ち以上にそう思って、だからうん、また一歩。踏み出すわたしは、だから。
一歩──また、一歩。進む、わたしの。
そのつもりで前に出した足が、止まってたこと。なんだろうって、考えてみる。理由。どうして。なんでって、
「え」
目の前を通り過ぎた、通り過ぎていく形は音を立てて、でも、それが教えてくれたから。答え。ぴりぴり、違う。ズキズキ──痛み。今、それが生まれて。遅れて触れてみる。頬。ぼうっとした頭で、ぬるりと何かがくっついてた。指先、手のひら。頭は違った。くっついてたのは疑問。どうしてって気持ち。薄く皮膚が裂かれたこと。聞いてみる、だから。青い縞々、黒い爪。そして黄色い。閉じて、今は縦に開かれてる、その瞳に。
「な、なんで……? 嘘、だって今──ぁ」
視線と、そして。震える声で、たぶん、そうしてた。もちろんその子は答えくれない。声はあったけど。唸って、ぐるる。低く鳴き声を上げて。尻尾を前、たった今わたしの方に振ったその反動で身体を起こしたからなのか、距離を離したまま。後ろに下がって、こっちを見てた。
わたしも、後ろ。一歩、今度は後退る。見て、考えて。そうしながら、きっと。矢はちゃんと突き刺さってるし、体を覆うその青い鱗もところどころが黒く焦げてる。なのにボロボロなその魔物は、自分に傷をつけた相手を威嚇するようにぐるぐる、また鳴いて。それに続く声は、ぎゃあぎゃあと。そう、周りから。全く同じ声がする。
後ろから、前から、ずっと。してたはず。思い出す。最初の、違う。さっきこの魔物が襲ってきた時だって。それはわたしの周り、全部から。
「やだ……」
聞こえてた声は、今また元の形に戻ってく。ざわめく森の声に混ざって大合唱。一つじゃない、一匹じゃなかった。最初から一緒、連なったもの。言葉に似た声の形。群れの仲間にそれを伝えるためのメロディ。つまりは、そう。きっと、そういうこと。
──どすん、と。そうして、影。それはわたしのすぐ側に。足は止まってた。前にも、後ろにも。やってきた影はきっと今その首を伸ばして。だから感じる。頭の後ろ。生暖かい風。したくもない歌詞の答え合わせ。いやーな試験の結果は振り返ればほらやっぱり、すぐそこに。
『──Ruu』
見上げる。駄目だったから。そうしないと覗けない。
「ひっ──」
ぐいっと近づけてくる。牙と、その怖いお顔を前に。尻もちをついちゃうわたしがいたの。格好悪い。やっぱり、でも、そう思うけど。
『ru──KRYU、SHAAAAAA!!』
目の前には大きく開いた口があって。悲鳴だって上げてたと思う。たぶん。けど、わからない。声。届かなかったから。わたしのそれは、たった今、吠えた魔物。その声に、掻き消されちゃって。