雪国のニッペ   作:ネコカリポス

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第1話 冒険者セネカ・ロッソの受難

 

 針葉樹の梢を透かして差し込む朝日が、森の地表にまだら模様の光を落としていた。

 

 風に揺れる枝葉に合わせて、その光は枯れ葉と苔の上をゆっくりと滑り、湿り気を帯びた土壌に淡い陰影を描き出している。

 

 夜の間に降りた露が草木の先端に残り、陽光を受けるたびに小さな輝きを放っていた。腐葉土の匂いと樹脂の香りが混じり合う森の空気は冷たく、肺の奥まで吸い込めば、眠気さえ洗い流してしまいそうな清涼さがある。

 

 枝先では小鳥たちが囀っている。

 

 その鳴き声は、ただ無秩序に響いているわけではない。

 

 縄張りの主張、仲間への呼びかけ、繁殖期の求愛、そして季節の移ろいを知らせる合図。

 

 幾重にも重なる鳴き声は、森に暮らす生き物たちが長い年月をかけて築き上げた、目に見えない秩序の一部だった。

 

 この森では、音そのものが生態系を形作っている。

 

 どの鳥が鳴き、どの虫が応え、どの獣が沈黙するか。

 

 それらは互いの存在を確かめ合うための、複雑な言語にも似ていた。

 

 しかし。

 

 その繊細な音の網は、唐突に引き裂かれた。

 

 

『ブォォォォォォォォッ!!』

 

 

 腹の底を震わせるような咆哮。

 

 続いて響いたのは、幹の折れる破砕音と、大地を踏み砕く鈍重な衝撃だった。

 

 鳥たちは一斉に飛び立った。

 

 木々の間を駆け抜けていた小動物たちも、何かに追われるように姿を消していく。

 

 森の秩序を破壊する存在が、そこにいた。

 

 身の丈三メートルはくだらない、巨大な猪である。

 

 三メートル。

 

 数字だけを聞けば、少々大きな獣を想像するかもしれない。

 

 だが、目の前に存在するそれは、単純な寸法だけで測れる代物ではなかった。

 

 体高が増せば、それに伴って体積は増大する。体積が増せば質量もまた増える。そして質量の増大は、そのまま運動エネルギーの増加へとつながっていく。

 

 仮に同じ速度で走ったとしても、体重百キロの獣と数トンに達する獣では、衝突時に発生する破壊力がまるで異なる。

 

 ましてや、この猪は魔獣である。

 

 通常の生物とは比較にならない筋肉密度と骨格強度を備え、その巨体を驚くべき速度で疾走させることができた。

 

 地面を蹴るたびに土壌が抉れ、踏みしめられた枯れ葉が爆ぜるように舞い上がる。

 

 進路上に立つ若木など、障害物として認識されているかさえ怪しい。

 

 巨体が触れた瞬間、幹は悲鳴を上げるように折れ曲がり、次の瞬間には木片となって周囲へ飛散していた。

 

 赤褐色の毛並みは、鋼線を幾重にも織り込んだような質感を持っている。

 

 一本一本の体毛が異常な硬度を備え、さらにその下には分厚い皮膚と筋肉の層が存在する。

 

 鼻口から噴き出す白濁した息は、冷えた森の空気に触れると濃い霧となり、獣の顔面を一瞬だけ覆い隠した。

 

 その奥で、血走った双眸がぎらぎらと輝いている。

 

 B級魔獣、衝撃猪《インパルスボア》。

 

 冒険者ギルドの定める危険度分類において、単独で熟練の冒険者を殺傷し得る存在として認定された魔獣である。

 

 もし森の中でこの怪物と遭遇したならば、最初に考えるべきことは戦闘ではない。

 

 逃走である。

 

 可能であれば、相手に気づかれる前に距離を取り、風下へ回り込み、気配を殺してやり過ごす。

 

 それが最も生存率の高い選択となる。

 

 少なくとも、普通の人間であれば。

 

 ――しかし。

 

 その怪物と、真正面から対峙する人物がいた。

 

 栗毛の髪を左右で束ねた、ツインテールの女性。

 

 身に纏うのは、緑色の旅装と、その上から装着した色褪せた銀色の軽装鎧。

 

 鎧の継ぎ目には幾筋もの傷が刻まれ、胸当ての表面には、磨いても消えない細かな凹凸が残っている。

 

 それらは決して装飾ではない。

 

 幾度となく刃を受け、爪を弾き、牙を逸らしてきた証だった。

 

 右手には小型の盾。

 

 左手には長剣。

 

 利き腕や戦闘流派によっては珍しく映るその構えも、彼女にとっては長年の実戦によって磨き上げられた自然な姿勢だった。

 

 彼女の名は、セネカ・ロッソ。

 

 二十六歳。

 

 十五歳で冒険者登録をして以来、十一年間にわたって魔獣と危険を相手に生計を立ててきた、歴戦の女冒険者である。

 

 彼女は重心を低く落とし、蹲踞に近い姿勢を取っていた。

 

 膝は柔らかく曲げられ、足裏は地面を確実に捉えている。

 

 肩に余計な力は入っていない。

 

 ただ、目だけは鋭かった。

 

 目の前の巨獣がどの方向へ動くのか。

 

 前脚の筋肉がどの瞬間に収縮するのか。

 

 鼻先がどちらを向き、重心がどこへ移るのか。

 

 その一つ一つを、彼女は見逃すまいとしていた。

 

 そして、その背後には二人の仲間がいる。

 

 一人は、先端に魔石を嵌め込んだ杖を抱える、魔女帽子の女性。

 

 魔道士のルミン。

 

 もう一人は、弓を構えた狩人の男。

 

 マークス。

 

 二人ともセネカと同じ冒険者パーティーに所属しており、数年間にわたって数多くの依頼を共にこなしてきた仲間だった。

 

 誰一人として、目の前の怪物から視線を逸らさない。

 

 言葉による確認は、もはや必要なかった。

 

 セネカが前に立つ。

 

 マークスが敵の動きを制限する。

 

 ルミンが決定打を放つ。

 

 それぞれの役割は、長年の経験によって身体に染みついている。

 

 同じ危険をくぐり抜け、同じ空の下で野営し、時には互いの背中を預けてきた者たちの間にだけ成立する、無言の合意だった。

 

 

 

『ブォォォォォォォォッ!!』

 

 

 

 衝撃猪が咆哮した。

 

 巨大な前脚が地面を抉る。

 

 土と枯れ葉が後方へ弾け飛び、その巨体が一気に加速した。

 

 狙いは正面のセネカ。

 

 数トンの質量を持つ肉塊が、彼女めがけて一直線に突撃してくる。

 

 

 

「――っふ! はぁっ!!」

 

 

 

 セネカは慌てなかった。

 

 相手の突進を視認した瞬間に動けば、巨獣はその動きに合わせて軌道を修正してくる。

 

 だから、待つ。

 

 もう一歩。

 

 さらに半歩。

 

 猪の巨体が、回避不能に思える距離まで迫った、その瞬間。

 

 セネカは右足で地面を蹴った。

 

 身体が横へ滑る。

 

 突進の軌道から、紙一重で外れる。

 

 直後、彼女のすぐ脇を赤褐色の巨体が通過した。

 

 風圧が髪を乱し、頬を叩く。

 

 普通ならば、その勢いに怯んでしまうところだろう。

 

 だが、セネカは違った。

 

 回避のために移動した身体を、そのまま反撃の動作へとつなげる。

 

 腰を捻り、肩を回し、左手の長剣を突き出した。

 

 狙うは、突進によってがら空きになった横腹。

 

 巨獣の防御が最も薄くなる瞬間を狙った、熟練者らしい一撃だった。

 

 

 ――ガギィィィッ!!

 

「……っう! チィ!」

 

 

 

 しかし、刃は通らなかった。

 

 硬い金属同士を打ち合わせたような音が響き、長剣の切っ先が弾き返される。

 

 腕に伝わった衝撃は、想定を大きく上回っていた。

 

 手首から肘にかけて痺れが走り、指先の感覚が一瞬だけ鈍る。

 

 セネカは思わず舌打ちした。

 

 剣の刃先には、薄い傷が刻まれている。

 

 衝撃猪の毛皮は、単に分厚いだけではない。

 

 一本一本の体毛が衝撃を分散させ、その下にある強靱な筋肉が刃の侵入を阻む。

 

 まるで、生まれながらに全身甲冑を纏っているようなものだった。

 

 

 

「セネカっ!」

 

「大丈夫か!」

 

 

 

 後方から、ルミンとマークスの声が飛ぶ。

 

 二人の声に焦燥はなかった。

 

 もちろん、仲間を心配していないわけではない。

 

 ただ、セネカがこの程度で崩れるような冒険者ではないと、二人とも知っていた。

 

 だからこそ、それは恐慌ではなく、状況を確認するための呼びかけだった。

 

 セネカは素早く後退し、衝撃猪との距離を確保する。

 

 大きく息を吐き、痺れの残る左手を軽く振った。

 

 

 

「心配ない!」

 

 

 

 短く返す。

 

 そして、忌々しげに巨獣を睨みつけた。

 

 

 

「でもやっぱ堅いわコイツ! 弱点の眉間以外、私の攻撃通んないわよコレ!」

 

「……【衝撃猪(インパルスボア)】。これがB級モンスターか。天然物の全身甲冑とは畏れ入るよ」

 

 

 

 マークスは苦笑した。

 

 その額には、薄く汗が滲んでいる。

 

 敵の脅威は、事前に収集した情報から理解していた。

 

 しかし、知識として知っていることと、実物を目の当たりにすることは違う。

 

 あれほどの巨体。

 

 あれほどの突進速度。

 

 そして、セネカの剣さえ弾く防御力。

 

 真正面から力比べを挑めば、三人まとめて肉塊に変えられてしまうだろう。

 

 だが、問題はない。

 

 彼らは無策でここへ来たわけではなかった。

 

 

 

「でも情報通りなら、魔法が効きやすい。ルミン! 準備はOK!?」

 

「準備万端! いつでも行けるわ!」

 

 

 

 ルミンは杖を握り直した。

 

 その先端に嵌め込まれた魔石が、淡い赤色の光を帯び始める。

 

 周囲の魔力が杖へと集まり、魔法陣の輪郭が空中に浮かび上がった。

 

 炎属性の攻撃魔法。

 

 衝撃猪の分厚い毛皮は物理攻撃に対して絶大な防御力を誇るが、魔法による熱量の侵入までは完全に防ぐことができない。

 

 今回の討伐計画は、その弱点を突くことを前提に組み立てられていた。

 

 

 

「おーし……んじゃマークス!」

 

「あぁ! ボアの動きを止める!」

 

 

 

 しかし、魔獣もただの獣ではない。

 

 ルミンが魔力を集中させた、その瞬間だった。

 

 衝撃猪の鼻先が動いた。

 

 巨体の進行方向が、わずかに変化する。

 

 赤黒い双眸が、後方のルミンを捉えた。

 

 魔力の流れ。

 

 大気の温度変化。

 

 あるいは、獣特有の鋭敏な感覚が、危険な気配を察知したのかもしれない。

 

 いずれにせよ、衝撃猪は理解した。

 

 あの杖を持つ人間は危険だ。

 

 ならば、攻撃される前に潰せばよい。

 

 その判断は、極めて原始的でありながら、合理的でもあった。

 

 巨獣が身体の軸を傾ける。

 

 狙いは、ルミン。

 

 セネカを無視して、後衛へと突進しようとする。

 

 

 

「させるか! 喰らえ!」

 

 

 

 マークスが弓を引き絞った。

 

 弦が鳴る。

 

 放たれた矢は、一直線に衝撃猪へと飛翔した。

 

 しかし。

 

 ――カキィン!

 

 矢は、あっさりと弾かれた。

 

 硬質化した体毛に阻まれ、切っ先は皮膚に届くことさえない。

 

 衝撃猪は、その攻撃を無視した。

 

 当然だ。

 

 セネカの長剣さえ通さない防御力を持つ巨獣にとって、通常の矢など脅威にもならない。

 

 だが。

 

 それこそが、マークスの狙いだった。

 

 弾かれた矢が、地面へ落ちる。

 

 その矢羽根には、小さな鈴のようなものが括りつけられていた。

 

 魔力を蓄積した、特殊な発音装置。

 

 マークスは静かに口を開いた。

 

 

 

「【耳鳴り矢】」

 

 ――キィィィィィィィィィィィィィィィィィィン!!

 

『!!?!?』

 

 

 

 甲高い音が、森を切り裂いた。

 

 それは、ただ耳障りなだけの音ではない。

 

 特定の周波数帯に魔力を乗せ、聴覚と平衡感覚を同時に攪乱する特殊な音響攻撃だった。

 

 鋭敏な聴覚を持つ獣にとって、その効果は絶大である。

 

 衝撃猪の身体が、大きく揺らいだ。

 

 突然の異音に驚き、反射的に進行方向を変えようとする。

 

 しかし、数トンの巨体は、急停止に向いていない。

 

 前方へ進もうとする慣性。

 

 横方向へ逃れようとする筋力。

 

 そして、音響攻撃によって乱された平衡感覚。

 

 三つの要素が、致命的な形で噛み合った。

 

 巨獣の前脚がもつれる。

 

 重心が崩れる。

 

 次の瞬間。

 

 ――ズドォォォォォン!!

 

 衝撃猪は、盛大に横転した。

 

 巨体が地面へ叩きつけられ、枯れ葉と土砂が舞い上がる。

 

 その隙を、ルミンは逃さなかった。

 

 杖を掲げる。

 

 魔石の輝きが、一気に増した。

 

 

 

「炎の王の加護ぞあれ、【ヴォル・フレイム】!!」

 

 

 

 瞬間。

 

 杖の先端から、猛烈な火炎が噴き出した。

 

 赤々と燃え盛る炎が一直線に伸び、横転した衝撃猪の巨体を包み込む。

 

 

 

『ヴゥヴォォォォォォォォ!?!?』

 

 

 

 獣の絶叫が響いた。

 

 分厚い毛皮が熱を受け、表面から焦げ始める。

 

 炎は体毛の隙間を縫うように広がり、熱が皮膚の奥へと浸透していった。

 

 魔法によって生み出された火炎は、単なる燃焼現象ではない。

 

 術者が魔力を供給し続ける限り、その熱量は維持され、対象を焼き続ける。

 

 ルミンは杖を握る手に力を込めた。

 

 魔力の流出量を増加させる。

 

 炎の勢いが、さらに強まった。

 

 衝撃猪は必死にもがいた。

 

 だが、先ほどの音響攻撃によって平衡感覚を乱されているため、まともに立ち上がることができない。

 

 巨体を起こそうとしては倒れ、逃げようとしては地面を掻く。

 

 そのたびに炎が毛皮を舐め、熱が肉体を蝕んでいく。

 

 数十秒。

 

 戦闘の最中にあって、それは決して短い時間ではなかった。

 

 ルミンの額に汗が浮かぶ。

 

 魔力を大量に消費する攻撃魔法を維持することは、決して容易ではない。

 

 しかし、彼女は杖を下ろさなかった。

 

 中途半端な攻撃では、衝撃猪に立ち直る機会を与えてしまう。

 

 それだけは避けなければならなかった。

 

 やがて。

 

 巨獣の悲鳴が、徐々に弱まっていった。

 

 激しく暴れていた四肢の動きが鈍くなり、最後には、かすかな痙攣だけが残る。

 

 ルミンが魔法を解除した。

 

 炎が消える。

 

 焦げた体毛の臭いが、森に充満していた。

 

 先ほどまで威風堂々と暴れ回っていた魔獣は、見る影もなく黒焦げになっていた。

 

 それでも、まだ息はある。

 

 セネカは剣を握り直した。

 

 ゆっくりと、衝撃猪へ歩み寄る。

 

 相手は、もはや満足に身体を動かすことさえできない。

 

 しかし、油断はしなかった。

 

 手負いの獣が、最後の力を振り絞って反撃してくることなど、珍しくもないからだ。

 

 彼女は巨獣の頭部へ回り込んだ。

 

 そして、唯一の明確な弱点である眉間へ、剣先を向ける。

 

 

 

『……ヴ……ヴォ……』

 

 

 

 衝撃猪が、かすかな声を漏らした。

 

 セネカは、その姿を静かに見下ろした。

 

 魔獣だから殺す。

 

 危険だから討伐する。

 

 それは冒険者にとって、ごく当たり前の仕事だった。

 

 しかし、目の前の獣もまた、生きようとしていたことに変わりはない。

 

 だからといって、剣を収める理由にはならなかった。

 

 人間も魔獣も、同じ世界で生きている。

 

 そして、時には互いの命を奪わなければ、生き延びることができない。

 

 それが、この世界の現実だった。

 

 

 

「――悪いわね。これも生存競争よ」

 

 ――ズグッ。

 

 

 

 長剣が、衝撃猪の眉間へ深々と突き刺さった。

 

 巨体が、最後に一度だけ震える。

 

 そして、完全に動きを止めた。

 

 セネカは剣を引き抜き、短く息を吐いた。

 

 終わった。

 

 B級魔獣、衝撃猪《インパルスボア》。

 

 討伐完了。

 

 森には、再び静寂が訪れていた。

 

 ただし、戦闘の爪痕は深い。

 

 折れた木々。

 

 抉れた地面。

 

 焼け焦げた草木。

 

 そして、横たわる巨大な魔獣の亡骸。

 

 自然の秩序が元に戻るまでには、しばらく時間が必要だろう。

 

 それでも、遠くの枝先からは、早くも小鳥の囀りが聞こえ始めていた。

 

 生き物たちは、再び自分たちの日常を取り戻そうとしている。

 

 セネカは、その声を聞きながら剣を鞘へ収めた。

 

 

 

「……よし」

 

 

 

 口元が、わずかに緩む。

 

 今回の討伐は、彼女たちにとって大きな意味を持っていた。

 

 B級冒険者として認定されてから、しばらくの時間が経つ。

 

 しかし、実際にB級魔獣を討伐した経験は、これまでなかった。

 

 等級だけが先行している。

 

 そんな状態に、セネカは少なからず不満を抱いていたのだ。

 

 だが、今日でそれも終わりだった。

 

 名実ともに、B級冒険者。

 

 胸を張ってそう名乗れるだけの実績を、ついに手に入れたのである。

 

 そして何より。

 

 報酬が、非常に美味しい。

 

 セネカは満面の笑みを浮かべた。

 

 今夜の酒は、さぞかし美味いことだろう。

 

 

     ◇

 

 

 町の酒場には、夜の訪れとともに賑わいが満ちていた。

 

 天井から吊るされた魔導灯が、琥珀色の光を店内へ落としている。

 

 木製の長机には、泡立つ麦酒のジョッキと、香ばしく焼かれた肉料理が並んでいた。

 

 冒険者たちの笑い声。

 

 酔客の歌声。

 

 皿と杯が触れ合う音。

 

 それらが混ざり合い、酒場特有の騒々しい空気を作り出している。

 

 昼間の森とは、まるで別世界だった。

 

 そして、その喧騒の中心にいるのは、当然ながら三人の冒険者である。

 

 

 

「「「乾杯っ!!」」」

 

 

 

 ジョッキが勢いよく打ち鳴らされた。

 

 琥珀色の酒が揺れ、泡が縁から溢れ落ちる。

 

 セネカは、そんなことなど気にも留めず、ジョッキを口元へ運んだ。

 

 

 

「ング……ングっ……! ――ぷっふぁっ! あーっ! 仕事終わりの一杯の美ん味いことっ!」

 

 

 

 豪快に飲み干したジョッキを、机へ叩きつけるように置く。

 

 頬はすでに赤く染まり、口元には満足げな笑みが浮かんでいた。

 

 昼間、あれほど危険な魔獣と戦っていた人物と同一だとは、にわかには信じがたい姿である。

 

 向かいに座るルミンは、苦笑しながら自分の杯を傾けた。

 

 

 

「今日は一段とすごい飲みっぷりね」

 

 

「そらそうよ。Bクラス冒険者になって暫く経つけど、やっとB級モンスターを討伐したのよ? これでやっと名実共にB級の仲間入り! 報酬ガッポリ! そして何よりビールが美味いっ!!」

 

 

「最後のは関係あるのか……?」

 

 

 

 マークスが呆れたように呟く。

 

 しかし、セネカは気にしない。

 

 むしろ、何を当たり前のことを聞いているのかとでも言いたげに、胸を張った。

 

 

 

「こーゆーのはふいんきよ、ふいんき!」

 

「雰囲気な」

 

「あなたもう出来上がってきてるの……?」

 

 

 

 ルミンの声には、早くも心配が滲んでいた。

 

 だが、セネカは上機嫌だった。

 

 何しろ、今日は記念すべき日なのである。

 

 長年の努力が、ようやく一つの形になった。

 

 危険な依頼をこなし、怪我を負い、時には命からがら逃げ延びながら積み重ねてきた経験が、今日という成果へと結びついたのだ。

 

 その喜びを、誰よりも信頼する仲間たちと分かち合える。

 

 これ以上の酒の肴が、他にあるだろうか。

 

 セネカはそう思っていた。

 

 だからこそ。

 

 次にマークスが口を開いたときも、彼女は何の疑いも抱かなかった。

 

 

 

「――なぁセネカ、水を差すようで悪いんだけど、どうしても伝えなきゃいけないことがあるんだ」

 

「んぁ? なーによ改まって――っ! もしかしてこくh」

 

「いや、君相手にそれは無い」

 

「あ゛ぁ?」

 

 

 

 セネカの眉間に皺が寄る。

 

 告白かもしれないという冗談を、最後まで言わせてもらえなかった。

 

 それどころか、相手は即座に可能性を否定してきたのである。

 

 失礼にもほどがある。

 

 確かに自分は酒好きだ。

 

 口も悪い。

 

 金にうるさいし、時々仲間の食べ物を勝手にいただくこともある。

 

 しかし、それと女性としての魅力は別問題ではないだろうか。

 

 そんな抗議が喉元まで出かかった。

 

 だが。

 

 マークスの表情は、いつになく真剣だった。

 

 隣に座るルミンも、同じ顔をしている。

 

 その様子に、セネカの酔った頭が少しずつ冷静さを取り戻していった。

 

 

 

「真面目な話なのセネカ。どうかちゃんと聞いてちょうだい」

 

「なっ、なによルミンまで……。はぁ……、分かったわよ。マークス続けて」

 

「ああ、ありがとう。そして済まない」

 

 

 

 マークスは、一度だけ深く息を吸った。

 

 何か重大な決意を告げようとしている。

 

 セネカにも、それは分かった。

 

 だから、黙って続きを待った。

 

 そして。

 

 

 

「実は……、僕たち二人とも冒険者を引退しようと思うんだ」

 

 

 

「――は?」

 

 

 

 理解が追いつかなかった。

 

 引退。

 

 それは、冒険者という職業から退くことを意味する。

 

 当然、今のパーティーも解散することになる。

 

 マークスとルミンが、いなくなる。

 

 三人で続けてきた冒険が、終わる。

 

 言葉の意味は理解できた。

 

 しかし、それを自分たちの現実として受け入れることができなかった。

 

 セネカの頭の中が、真っ白になった。

 

 つい先ほどまで心地よく身体を巡っていた酒の熱が、急速に冷めていく。

 

 まるで、頭から冷水を浴びせられたようだった。

 

 

 

「――え? はっ? なんで……」

 

「済まないっ! 悪いとは思っているんだっ! でも」

 

「チョッチョトちょっと待って!!」

 

「……あ、ああ」

 

 

 

 セネカは両手を突き出した。

 

 待ってほしい。

 

 とにかく、待ってほしい。

 

 突然すぎる。

 

 今日、ようやくB級魔獣を討伐したばかりではないか。

 

 これからもっと難しい依頼に挑戦して、三人で名を上げていくのではなかったのか。

 

 そんな未来を、彼女は当然のように思い描いていた。

 

 

 

「なんでそんな急に……、理由はっ!? 何があってそんな――」

 

「ちょっとセネカ」

 

「今日の分け前少なかった!? それとも、何処か怪我でも――」

 

「セネカ落ち着いて」

 

「もしかしてマークスの魔法矢間違えて踏ん付けてへし折った事まだ怒ってんの!?」

 

「だからセネ――」

 

「それともルミンのとっといたプリン勝手に食べたこと怒っ――」

 

「犯人お前かよっ!!」

 

「やっべバレたっ!」

 

 

 

 ルミンが思わず声を荒らげた。

 

 マークスも目を見開いている。

 

 どうやら、プリンの件は本当に知らなかったらしい。

 

 セネカは内心で舌打ちした。

 

 しまった。

 

 余計なことを口走ってしまった。

 

 あのプリンは、確かに美味しかった。

 

 だからこそ、食べたことを黙っていたのに。

 

 だが、今はそれどころではない。

 

 仲間が引退するというのだ。

 

 プリン一つで済む問題ではなかった。

 

 

 

「安心してくれセネカ。君に落ち度はない。――いや、矢とプリンに関しては完全に君の落ち度だがそこは関係無い」

 

「じゃあ、なんでなのよ……。今まで三人で上手くやってきたのに、急すぎよ!」

 

 

 

 セネカの声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。

 

 十一年間の冒険者生活。

 

 そのすべてを、今の仲間と過ごしてきたわけではない。

 

 しかし、ルミンとマークスが加わってからの数年間は、彼女にとって特別な時間だった。

 

 危険な依頼でも、背中を預けられる相手がいる。

 

 自分が失敗しても、誰かが補ってくれる。

 

 そして、仕事が終われば三人で酒を飲み、くだらない話をして笑い合う。

 

 そんな日々が、これからも続くと思っていた。

 

 いや。

 

 続いてほしいと、願っていたのだ。

 

 

 

「それは――」

 

「……それは?」

 

 

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 そして。

 

 まるで、ずっとこの瞬間を待ち望んでいたかのように、満面の笑みを浮かべた。

 

 

 

「「――僕たち(私たち)結婚しまぁす!!」」

 

 

 

「……へぁ?」

 

 

 セネカの口から、間の抜けた声が漏れた。

 

 結婚。

 

 けっこん。

 

 ケッコン。

 

 頭の中で、言葉が何度も反響する。

 

 それは、めでたいことだ。

 

 もちろん、分かっている。

 

 仲間が幸せになるのなら、祝福すべきだろう。

 

 だが。

 

 何だろう。

 

 この、胸の奥から湧き上がってくる、どうしようもない置いてけぼり感は。

 

 

 

「実は、あなたとパーティー組む以前からマークスとは付き合ってたのよ」

 

「僕の方から告白してね『狩人として獲物《君のハート》を射止めたい』って――」

 

「やぁだぁ、もうマークスってばぁ! 恥ずかしいじゃない!」

 

「あはは、ごめんごめん。あの時の君が可愛かったものだからつい、ね。――もちろん今の君もね」

 

「マークス……」

 

 

 

 二人の視線が絡み合う。

 

 互いを見つめる瞳には、隠そうともしない愛情が浮かんでいた。

 

 ルミンは頬を赤らめ、マークスは優しく微笑む。

 

 周囲の喧騒が、二人の耳には届いていないようだった。

 

 セネカは、そんな光景を無言で眺めていた。

 

 私は今、何を見せられているのだろう。

 

 メロドラマだろうか。

 

 いや、違う。

 

 これは現実だ。

 

 現実だからこそ、余計に腹立たしい。

 

 というか、何だ。

 

 その告白文句は。

 

 狩人として君のハートを射止めたい?

 

 よくそんな台詞を真顔で言えたものだ。

 

 そして、それで本当に射止められてしまうルミンもルミンである。

 

 恋愛とは、実に不可解な現象だった。

 

 

 

「……あーうん。とりあえず、おめでとう。けど、なんでそれで引退に繋がんのよ? 結婚したって冒険者は続けられるじゃない!」

 

 

 

 セネカは、どうにか理性を取り戻した。

 

 そうだ。

 

 結婚すること自体は問題ではない。

 

 むしろ、めでたい。

 

 問題なのは、なぜそれが冒険者の引退に直結するのかということだ。

 

 夫婦で冒険者を続けている者など、珍しくもない。

 

 実際、冒険者ギルドには、夫婦でパーティーを組んでいる者たちも存在する。

 

 だから、結婚したからといって、必ずしも引退する必要はないはずだった。

 

 

 

「それはそうだけど、そもそも僕たちが冒険者をやっているのは、結婚資金を貯める為だったんだよ」

 

「その資金が衝撃猪《インパルスボア》の討伐報酬で貯まったから、私たちはこれ以上冒険者続ける理由が無いの」

 

「――いや、でも、その後の生活だってあるじゃない!? どうやって暮らして行く気よ!」

 

 

 

 セネカは食い下がった。

 

 冒険者を引退したとしても、生きていくには金が必要だ。

 

 住む場所。

 

 食費。

 

 衣服。

 

 生活道具。

 

 そして、将来の備え。

 

 結婚資金が貯まったからといって、それで人生のすべてが解決するわけではない。

 

 そう。

 

 まだ、引退しない理由はあるはずだ。

 

 セネカは、そんな一縷の望みを抱いていた。

 

 しかし。

 

 

 

「それについても問題ない。僕は元々狩人だし、既に農家として暮らしていく為の準備が整ってる。土地に関しても、もう既に下見も終えて仮契約済みなんだ。後は資金を十分に貯めるだけだったんだよ」

 

 

「私も元々は農家の出だし、この時の為に農業用の魔法も身に着けてきたのよ? それに、私が薬草や山菜の知識が豊富なのは貴方も知ってるでしょう?」

 

 

 

「チクショウ! つけいる隙が全くねえ!」

 

 

 

 セネカは頭を抱えた。

 

 理屈が正しすぎる。

 

 準備が周到すぎる。

 

 そして何より、二人の計画に一切の無駄がない。

 

 冒険者として危険な依頼をこなし、報酬を貯め、必要な技能を身につけ、将来の生活基盤を整える。

 

 そのすべてが、結婚という目標へ向けて組み立てられていたのだ。

 

 考えてみれば、思い当たる節はいくらでもあった。

 

 マークスは、依頼のない日でも森へ出かけていた。

 

 狩りの腕を鈍らせないためだと言っていたが、今にして思えば、将来の生活に必要な技能を維持するためだったのだろう。

 

 ルミンも同じだ。

 

 薬草の知識や保存食の作り方、農業に応用できる魔法などを熱心に学んでいた。

 

 セネカは、それを単なる趣味だと思っていた。

 

 だが、違った。

 

 すべては将来のためだったのだ。

 

 対して、自分はどうだろう。

 

 冒険者になった理由。

 

 それは、憧れだった。

 

 いつか、あの人のようになりたい。

 

 『冒険者ルタ』。

 

 絵本にも書かれている英雄。

 

 かつて憧れた存在の背中を追い、己の夢を目指した少女は、いつしか二十六歳になっていた。

 

 冒険者としての経験は積んだ。

 

 腕も磨いた。

 

 それなりの名声も得た。

 

 だが、その先に何があるのかと問われれば、明確な答えを持っていなかった。

 

 冒険者として生きること。

 

 いつしか、それ自体が目的になっていたのだ。

 

 マークスとルミンは違う。

 

 彼らにとって、冒険者とは目的を達成するための手段だった。

 

 そして今、その目的を果たした。

 

 ならば、次の人生へ進むのは当然のことなのだろう。

 

 理屈では理解できる。

 

 理解できるのだが。

 

 それでも。

 

 納得できるかどうかは、まったく別の問題だった。

 

 

 

「土地は北東部の谷間。水源は地下水脈を活用する簡易灌漑で賄える。魔獣対策としての柵も、防具を再利用して作れる。リスクヘッジは十分検討済みだ」

 

 

「それホントに結婚報告かっ!? 事業計画のプレゼンじゃねえかっ!」

 

 

 

 セネカの突っ込みが、酒場に響いた。

 

 だが、マークスは真剣そのものだった。

 

 彼にとって、これは人生を左右する重大な計画なのである。

 

 曖昧な希望だけで家族を養うつもりはない。

 

 収入源。

 

 土地。

 

 水。

 

 食料。

 

 魔獣への対策。

 

 それらを一つずつ検討し、実現可能な形へ落とし込んでいた。

 

 冒険者としての慎重さが、そのまま生活設計にも表れている。

 

 

 

「魔法陣による土壌改良、害虫忌避の芳香植物の栽培、保存食の仕込み法……全てルミンが研究を重ねてきた。これで後は正式に夫婦になるだけなんだよ」

 

 

「じょ、冗談じゃない……」

 

 

 

 セネカは、力なく呟いた。

 

 もう、何も言えなかった。

 

 二人の未来は、すでに決まっている。

 

 そこには確かな希望があり、現実的な計画があり、何より互いを支え合う相手がいる。

 

 その幸福を、否定することなどできるはずがなかった。

 

 むしろ、祝福してやりたい。

 

 心から、おめでとうと言ってやりたい。

 

 しかし。

 

 そうすると、自分は一人になる。

 

 その事実が、どうしようもなく寂しかった。

 

 

 

「というわけで僕たちは明日にでも新居に移るからセネカ、君をソロにするのは心苦しいが頑張ってくれ! ああ、せめてここの御代は持たせてくれ。それくらいはさせて欲しい」

 

「結婚式には絶対招待するから! あ、ブーケはちゃんとセネカに向けて投げ――」

 

 

「――いらんわぁっ!!」

 

 

「もう素直じゃあないんだから。それじゃあね! あんたもいい人見つけなさいよ!」

 

 

 

 そう言い残し、二人は席を立った。

 

 マークスは最後まで申し訳なさそうな表情をしていたが、ルミンに手を引かれると、どこか照れくさそうに笑った。

 

 セネカは、その後ろ姿を見送った。

 

 何か言うべきだったのかもしれない。

 

 もっと気の利いた祝福の言葉を。

 

 長年の感謝を。

 

 あるいは、これまでの思い出を。

 

 しかし、喉元まで出かかった言葉は、結局どれも形にならなかった。

 

 そうして。

 

 二人は、本当に帰ってしまった。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 セネカは、空になったジョッキを見つめた。

 

 さっきまで三人で囲んでいた机。

 

 そこには、まだ食べかけの料理が残っている。

 

 ルミンの使っていた杯。

 

 マークスが座っていた椅子。

 

 つい先ほどまで、当たり前のように存在していた二人の気配。

 

 それらが、急に遠いものになったような気がした。

 

 そういう問題じゃねぇよっ!

 

 セネカは心の中で怒号を上げた。

 

 結婚式に招待するとか。

 

 ブーケを投げるとか。

 

 いい人を見つけろとか。

 

 そんなことを言っているのではない。

 

 自分が言いたかったのは、もっと単純なことだった。

 

 まだ、一緒に冒険していたかった。

 

 ただ、それだけだった。

 

 

 

「う、嘘でしょ……。あいつらホントにあたしを一人にしやがった……。あ、あはは、あはははは……」

 

 

 

 乾いた笑いが漏れる。

 

 そして。

 

 

 

「――うぉアァあァあぁァアぁあァ!! 明日からどうすりゃいいのよ、こんなのぉっ!! 私一人だとB級どころかC級も怪しいんだけどぉ!?」

 

 

 

 ついに、絶叫した。

 

 周囲の客たちが、一斉に振り返る。

 

 無理もない。

 

 先ほどまで上機嫌で酒を飲んでいた女冒険者が、突然、頭を抱えて叫び始めたのだから。

 

 しかも、その内容が切実すぎる。

 

 セネカはB級冒険者である。

 

 だが、それは彼女一人の実力を意味するものではなかった。

 

 前衛のセネカ。

 

 後衛のマークス。

 

 魔法火力を担当するルミン。

 

 三人の連携があってこそ、B級魔獣を討伐できたのだ。

 

 セネカ自身の剣技は決して低くない。

 

 しかし、魔法による支援も、遠距離からの援護も失った状態で、同じ依頼をこなせるかと問われれば、答えは否だった。

 

 それどころか、相手によってはC級魔獣でさえ苦戦する可能性がある。

 

 冒険者の等級と、単独戦闘能力は必ずしも一致しない。

 

 そんなことは、十一年も冒険者を続けていれば嫌というほど理解している。

 

 だからこそ、絶望的だった。

 

 

 

「――ぉオイオイオイ! ヒック、せねかよぉ! さっきからゥルセえぞぉ!? ヒック、ゥう。そんなに独りがィヤならよぉ、おれがいっしょにぃ寝てやっ――」

 

 

「――やっかましいわぁ!!!」

 

 

「ブゲばろぁ!!」

 

 

 

 絡んできた酔っ払いの顔面に、セネカの拳が炸裂した。

 

 男の身体が奇妙な叫び声と共に椅子ごと後方へ吹き飛び、派手な音を立てて床へ転がる。

 

 完全な八つ当たりだった。

 

 もっとも、酒臭い息を吹きかけながら下品な誘い文句を口にした男にも、多少の落ち度はあっただろう。

 

 少なくとも、セネカはそう判断した。

 

 そして、拳を振り抜いた姿勢のまま、天井へ向かって吠えた。

 

 

 

「――チクショウがぁ! 諦めるかぁ! あたしは絶対にA級冒険者になってやんだ! ソロがどうした! 成り上がってやるうぅぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 

 それは、ほとんど自分自身へ向けた宣言だった。

 

 仲間がいなくなった。

 

 明日からは一人だ。

 

 それでも、冒険者を辞めるつもりはない。

 

 十五歳の頃に抱いた夢を、まだ諦めるわけにはいかなかった。

 

 かつて憧れた存在に。

 

 あの遠い背中を追いかけることが、今も彼女を冒険者として立たせている。

 

 だから、進むしかない。

 

 たとえ一人になったとしても。

 

 たとえ、これまでよりも困難な道が待っていたとしても。

 

 自分は、まだ終われない。

 

 セネカはそう決意した。

 

 そして、勢いよく酒場の出口へ向かって走り出した。

 

 

 

「――セネカさんっ!? あの、御代は!? どちらに!?」

 

 

 

 店員が慌てて呼び止める。

 

 セネカは振り返りもせず、片手を上げた。

 

 

 

「マークスが払ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「いや、あんたその後も普通に注文して、ちょっとぉ!? 食い逃げぇ!!?」

 

 

 

 店員の悲鳴が、夜の酒場に響き渡った。

 

 なお、翌日になってからセネカがこの件を思い出し、激しく後悔することになるのは、また別の話である。

 

     ◇

 

 夜は、すっかり更けていた。

 

 町の大通りを行き交う人々もまばらになり、昼間の活気は静かな夜気へと姿を変えている。

 

 石畳には、街灯の淡い光が落ちていた。

 

 遠くからは、酔客の笑い声が聞こえてくる。

 

 そんな町の一角に、一軒の小さなバーがあった。

 

 店の名は『酔いどれ』。

 

 古びた木製の看板が軒先に吊るされ、扉の上には小さな鐘が取り付けられている。

 

 決して大きな店ではない。

 

 華やかな装飾があるわけでもなく、高級な酒がずらりと並んでいるわけでもない。

 

 しかし、常連客にとっては居心地のよい場所だった。

 

 磨き込まれた木製のカウンター。

 

 柔らかな橙色の照明。

 

 酒瓶の並ぶ棚。

 

 そして、客の話を聞くことに慣れた店主。

 

 そのすべてが、長い年月をかけて独特の温かさを生み出していた。

 

 もっとも。

 

 今夜に限っては、その穏やかな空気も少々乱されていた。

 

 

 

「――でごどがあっだのよぉぉぉぉ……!」

 

 

 

 カウンターに突っ伏したセネカが、涙声で訴えていた。

 

 片手には酒の入ったグラス。

 

 もう片方の手は、力なくカウンターの上に投げ出されている。

 

 頬は真っ赤。

 

 目元は潤み、呂律も怪しい。

 

 完全に出来上がっていた。

 

 しかも、すでに相当な量を飲んでいる。

 

 酒場で仲間と別れた後、どうやら真っ直ぐ帰宅する気にはなれなかったらしい。

 

 気づけば、馴染みのバーへ足を運んでいた。

 

 そこで酒を注文し、今日あった出来事を最初から最後まで語り始めたのだ。

 

 相手をしているのは、この店のママであるマーリャだった。

 

 艶やかな雰囲気を纏う女性で、年齢を感じさせない落ち着いた美貌を持っている。

 

 酒場の店主という仕事柄、様々な人間を見てきた。

 

 失恋した者。

 

 仕事に失敗した者。

 

 借金を抱えた者。

 

 人生に絶望した者。

 

 そして、酔った勢いで自分の武勇伝を延々と語り続ける者。

 

 マーリャは、そのほとんどを相手にしてきた。

 

 だからこそ、今夜のセネカについても、必要以上に驚くことはなかった。

 

 ただ、少々呆れてはいたが。

 

 

 

「……とりあえず、アンタ明日ちゃんと金払いに行きなよ? あと飲み過ぎ。もういい加減帰って寝なさいな」

 

 

 

 マーリャは、カウンターの上に置かれた空のグラスを片づけながら言った。

 

 セネカは不満そうに顔を上げた。

 

 

 

「ぬぁによぉ! ママまでぁたしをないがしろにするってぇのぉ!?」

 

「もうベロンベロンじゃないかい」

 

 

 

 マーリャはため息をついた。

 

 長年の付き合いである。

 

 セネカが根っからの悪人ではないことも、酒が入ると途端に面倒くさくなることも、よく知っていた。

 

 そして何より、彼女が仲間を大切にしていたことも。

 

 だから、今夜の騒ぎをただの酔っ払いの愚痴として片づけるつもりはなかった。

 

 数年間、命を預け合ってきた仲間が突然いなくなる。

 

 それは、本人が思っている以上に大きな喪失なのだろう。

 

 冒険者という仕事は、常に死と隣り合わせである。

 

 今日まで隣で笑っていた仲間が、明日には帰らぬ人となることも珍しくない。

 

 だからこそ、冒険者たちは仲間との絆を大切にする。

 

 それが時に、家族以上の関係になることさえある。

 

 今回、ルミンとマークスは死んだわけではない。

 

 むしろ、幸せな未来へ向かって歩き始めたのだ。

 

 それは祝福すべきことだった。

 

 しかし、残される側の寂しさが、それによって消えるわけではない。

 

 マーリャは、セネカの前に水の入ったグラスを置いた。

 

 

 

「ほら、これ飲みな」

 

「……おさけぇ?」

 

「水だよ」

 

「えぇぇぇ……」

 

「文句言わない」

 

 

 

 セネカは、渋々グラスを手に取った。

 

 そして、一口飲む。

 

 冷たい水が、酒で熱を持った喉を通り抜けていった。

 

 ほんの少しだけ、頭が冷える。

 

 しかし、胸の奥にある寂しさは、そう簡単には消えてくれなかった。

 

 

 

「……ママぁ」

 

「なんだい?」

 

「あたし……これから、どうしたらいいのかしらぁ……」

 

 

 

 その声は、先ほどまでの騒々しさとは違っていた。

 

 弱々しく、どこか幼い。

 

 マーリャは手を止めた。

 

 セネカは、グラスの中の水面を見つめている。

 

 

 

「……あいつら、幸せそうだったのよぉ」

 

「そうかい」

 

「すっごく、幸せそうだったの……」

 

「うん」

 

「だから……おめでとうって、言いたかったんだけどぉ……」

 

 

 

 セネカの指が、グラスを握りしめた。

 

 

 

「……なんか、言えなかったのよねぇ……」

 

 

 

 マーリャは、すぐには答えなかった。

 

 ただ、静かに話を聞いていた。

 

 店内には、穏やかな音楽が流れている。

 

 壁際の時計が、規則正しく時を刻んでいた。

 

 セネカは、しばらく黙り込んだ。

 

 やがて。

 

 

 

「……あたしも、いつか……」

 

 

 

 何かを言いかける。

 

 しかし、その言葉は最後まで続かなかった。

 

 自分も幸せになりたい。

 

 そう言おうとしたのかもしれない。

 

 あるいは、もう一度、誰かと冒険したい。

 

 そう願ったのかもしれない。

 

 けれど、今のセネカには、自分が本当に何を望んでいるのかさえ、よく分からなかった。

 

 ただ一つ、確かなことがある。

 

 このまま一人でいるのは、嫌だった。

 

 マーリャは、そんな彼女を見つめながら、小さく息を吐いた。

 

 

 

「……まったく、しょうがない子だねぇ」

 

 

 

 その声には、呆れと同じくらいの優しさが含まれていた。

 

 そして。

 

 

 ――チリン。

 

 

 店の扉に取り付けられた鐘が、小さく鳴った。

 

 マーリャが顔を上げる。

 

 入口の扉が、ゆっくりと開いていた。

 

 夜の冷たい空気が、店内へ流れ込んでくる。

 

 外套の裾を揺らすほどの、かすかな風。

 

 その向こうには、夜の町が広がっていた。

 

 セネカも、ぼんやりと顔を上げた。

 

 新しい客だろうか。

 

 こんな時間に。

 

 そんなことを、酔った頭で考える。

 

 そして。

 

 

 

「あのぉ、すみませぇん」

 

 

 

 小さな声が、店内に響いた。

 

 それは、どこか間延びした、幼い声だった。

 

 酒場の喧騒にも、夜の冷たい空気にも、まるで似つかわしくない声。

 

 しかし、不思議と耳に残る響きを持っていた。

 

 マーリャは、入口へ視線を向けた。

 

 セネカもまた、椅子に座ったまま、ゆっくりと振り返る。

 

 そして二人は、そこに立つ小さな来訪者を目にすることになる。

 

 その出会いが、どのような意味を持つのか。

 

 今はまだ、誰も知らない。

 

 ただ。

 

 長い一日を終え、人生の岐路に立たされた一人の冒険者の前に。

 

 新しい物語の扉が、静かに開かれようとしていた。

 

 

第一話 了

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