チュンチュン……ピチチ……。
小鳥たちの囀りが、朝の静けさに溶け込んでいた。
窓の外には、穏やかな青空が広がっている。
昨夜の喧騒など最初から存在しなかったかのように、町はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。
石畳の通りには、早くも荷車を引く商人の姿が見られ、遠くからは市場の開店準備をする人々の声が聞こえてくる。
焼きたてのパンの香りが風に乗って漂い、どこかの家では朝食の支度でもしているのだろう、煙突から細い煙が立ち上っていた。
実に平和な朝である。
少なくとも、町の住人たちにとっては。
「……ん。んん……」
その平和な朝とは裏腹に、一人の女性が苦悶の声を漏らしていた。
柔らかな寝台の上。
薄手の毛布に包まれた栗毛の女性が、眉間に深い皺を刻みながら寝返りを打つ。
セネカ・ロッソ。
二十六歳。
冒険者歴十一年を誇るB級冒険者である。
昨日は、仲間たちと共にB級魔獣である衝撃猪《インパルスボア》を討伐した。
長年の冒険者生活において、一つの大きな節目となる偉業だった。
そして、その記念すべき日の夜。
彼女は、長年苦楽を共にしてきた仲間二人から、突然の引退宣言を受けた。
理由は結婚。
しかも二人は、セネカとパーティーを組む以前から交際していたという。
おまけに、結婚後の生活設計まで完璧に整えていた。
結果として、セネカは一夜にして仲間を二人失った。
いや、厳密には失ったわけではない。
二人は生きている。
しかも、非常に幸せそうだった。
それが余計に腹立たしい。
そんな複雑な事情を抱えた彼女は、昨夜、馴染みのバー『酔いどれ』で盛大に酒を飲んだ。
そして現在。
その代償を、全身で支払っている最中だった。
「……んぁ~?……どこ?……宿?」
セネカは薄く目を開けた。
視界に映るのは、見慣れた木製の天井。
梁の一部に小さな傷があり、その脇には、以前から気になっていた蜘蛛の巣が残っている。
どうやら、普段から利用している宿屋の一室らしい。
窓から差し込む朝日が、容赦なく顔面を照らしていた。
眩しい。
実に眩しい。
というか、痛い。
光が目に入るたびに、頭の奥で何かが脈打つような感覚がある。
セネカは顔をしかめ、片手で目元を覆った。
「……ぁあ。そっか。昨日ママんとこで飲んで……あ~」
徐々に記憶が戻ってくる。
酒場での祝杯。
マークスとルミンの結婚報告。
突然のパーティー解散。
その後の絶叫。
酔っ払いを殴り飛ばしたこと。
酒場から飛び出したこと。
そして、バー『酔いどれ』。
マーリャの顔。
何杯目かも分からない酒。
そこまでは覚えている。
だが、それ以降が曖昧だった。
まるで、途中から記憶を切り取られてしまったかのように、昨夜の出来事が途切れている。
何かがあったような気もする。
誰かと話したような気もする。
しかし、思い出そうとすると、頭の奥に鈍い痛みが走った。
「――っ! てぇ~、二日酔いかぁ。あ~クソ……」
セネカは額を押さえた。
頭蓋骨の内側から、鈍器で何度も叩かれているような痛み。
口の中は乾ききっており、喉には嫌な渇きが残っている。
胃のあたりも、何とも言えない不快感に満たされていた。
典型的な二日酔いである。
十一年も冒険者を続けていれば、酒の席など珍しくない。
ましてやセネカは、かなりの酒好きだった。
自分の酒量についても、それなりに把握しているつもりである。
だが、昨夜は明らかに飲みすぎた。
理由は言うまでもない。
マークスとルミンである。
あの幸せいっぱいの新婚予定夫婦である。
思い出しただけで、頭痛とは別の痛みが胸の奥を刺激した。
もっとも、今さら二人を責めるつもりはなかった。
結婚はめでたいことだ。
引退だって、本人たちが決めたことなら仕方がない。
ただ。
せめて、もう少し早く教えてほしかった。
そうすれば、心の準備くらいはできたのに。
セネカは深々とため息をついた。
「……ママが運んでくれたのかなぁ。今度お礼言わないと」
昨夜の記憶は曖昧だが、こうして宿の寝台で目を覚ました以上、誰かが運んでくれたのだろう。
おそらくマーリャだ。
あの人は口こそ悪いが、何だかんだで面倒見がよい。
酔いつぶれた自分を放置するような人間ではない。
今度、菓子折りの一つでも持っていこう。
そんなことを考えながら、セネカは身体を起こそうとした。
そのときだった。
「――ん?」
違和感。
何かがおかしい。
具体的に言えば、寝台である。
自分が動いていないにもかかわらず、寝台の一部が微かに揺れている。
いや。
揺れているというより。
何かが、動いている。
セネカは眉をひそめた。
寝台の上には、彼女が被っている毛布とは別に、もう一つ小さな膨らみがあった。
それが、規則正しく上下している。
呼吸。
そう。
まるで、誰かがそこで眠っているかのように。
いやいや。
待て待て。
そんなはずはない。
この部屋は、自分が一人で使っている宿屋の一室だ。
誰かと相部屋になった覚えなどない。
そもそも、昨日の夜は一人だった。
……はずだ。
セネカの額に、冷や汗が浮かんだ。
酔った頭が、嫌な可能性を次々と提示し始める。
まさか。
いや、そんな。
いくら何でも。
自分は、そこまで酔っていたのだろうか。
恐る恐る、毛布へ視線を向ける。
「すぴー……すよー……」
寝息が聞こえた。
間違いない。
誰かいる。
しかも、実に気持ちよさそうに眠っている。
セネカは震える手を伸ばし、毛布の端をつまんだ。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
それをめくる。
そして。
見た。
自分の寝台で、すやすやと眠る一人の少年を。
あどけない寝顔。
無防備な寝姿。
小さな身体を丸め、実に幸せそうな表情で眠っている。
その姿を認識した瞬間。
セネカの思考は、完全に停止した。
一秒。
二秒。
三秒。
そして。
「――ヴォっ!? うぉおあぁあァアアアアアアアアアアアアアアアア!!??」
絶叫。
それは、もはや悲鳴というより咆哮だった。
昨日戦った衝撃猪《インパルスボア》の咆哮にも、決して引けを取らない。
いや、音量だけならたぶん勝っていたかもしれない。
窓枠が震えた。
廊下を歩いていた宿の従業員が飛び上がった。
隣室では、朝食前の二度寝を楽しんでいた宿泊客が寝台から転げ落ちた。
階下の食堂では、スープを飲もうとしていた商人が盛大にむせた。
宿中に響く大絶叫。
平和な朝は、こうして無惨にも破壊された。
◇
「――ふぉっ!? ん~……?」
セネカの絶叫を至近距離で浴びた少年が、ようやく目を覚ました。
それまで鼻先で膨らんでいた、実に見事な鼻提灯が――。
パチン。
小気味よい音を立てて破裂する。
少年は眠たげに目を擦った。
突然の絶叫に驚いて目を覚ましたらしいが、その反応は驚くほど穏やかだった。
普通、耳元であれほどの大声を出されれば、多少なりとも混乱するものである。
だが、少年は違った。
目を擦り。
小さく欠伸をし。
そして、ぼんやりと周囲を見回した。
一方。
セネカは、寝台の端まで後退していた。
背中が壁にぶつかっている。
逃げ場はない。
いや、別に襲われているわけではないのだが、今の彼女にはそんな冷静な判断などできなかった。
「……なっ! なっななな!?」
指を突きつける。
声が裏返る。
目は限界まで見開かれ、口は魚のように開閉を繰り返していた。
冒険者歴十一年。
B級魔獣とも渡り合った歴戦の女剣士。
そんな彼女が、今や一人の少年を前に完全な恐慌状態に陥っている。
何とも情けない光景だった。
しかし、本人にとっては一大事である。
自分の寝台に、見知らぬ少年がいる。
しかも、昨日の記憶がない。
これは非常にまずい。
何がまずいのか、具体的には説明できない。
だが、とにかくまずい。
社会的に。
倫理的に。
そして、場合によっては法的にも。
セネカの頭の中では、最悪の想像が猛烈な勢いで膨らみ始めていた。
そんな彼女の心境など知る由もなく、少年はのんびりと欠伸をした。
「ふぁあ~……おはようごさいますぅ」
実に穏やかな挨拶だった。
まるで、毎朝顔を合わせる家族に声をかけるかのような自然さである。
そのあまりにも場違いな態度に、セネカの混乱はさらに深まった。
「何よっ!? アンタわぁああアアアアアア!!??」
再び絶叫。
少年は、きょとんとした顔で首を傾げた。
「……? ……!」
何かを考えるように瞬きをする。
そして、ようやく思い当たったらしい。
ぱっと表情を明るくした。
寝台の上で姿勢を正すと、両手を膝の上に置き、ぺこりと頭を下げる。
「はじめましてぇ。ニッペともうしますぅ」
丁寧だった。
実に礼儀正しい。
挨拶の仕方だけを見れば、育ちのよささえ感じさせる。
しかし。
「いやそうじゃねぇよ!!」
セネカの突っ込みが炸裂した。
名前を聞いているのではない。
いや、名前も重要ではある。
だが、今もっとも知りたいのは、なぜ見知らぬ少年が自分の寝台で眠っていたのかという一点だった。
にもかかわらず、少年はまるで状況を理解していない。
むしろ、挨拶を返してもらえなかったことを不思議に思っているようだった。
セネカは頭を抱えた。
頭痛がひどい。
二日酔いのせいなのか。
それとも、目の前の少年のせいなのか。
もはや判断がつかなかった。
そんな彼女を見つめながら、少年――ニッペは、再び小さく首を傾げた。
「きのうのこと、おぼえていませんかぁ?」
「……ハァ? 昨日……? ――ぅづっ!」
昨日。
その言葉を聞いた瞬間、セネカの頭に鋭い痛みが走った。
こめかみを押さえる。
記憶の奥底で、何かが引っかかった。
昨夜。
バー『酔いどれ』。
マーリャ。
酒。
そして。
扉の鐘。
――チリン。
あの音。
(――そうだ)
確か、誰かが店に入ってきた。
小さな声。
間延びした口調。
そして。
(私は昨日、こいつと――)
目の前にいる、この少年。
セネカの脳裏に、昨夜の光景が少しずつ蘇り始めた。
◇
――昨夜。
バー『酔いどれ』にて。
夜も更け、客足がすっかり落ち着いた店内。
磨き込まれたカウンターの上には、いくつもの空になったグラスが並んでいた。
そのほとんどは、一人の客が飲み干したものである。
言うまでもなく、セネカだ。
彼女はすでに相当な量の酒を飲んでおり、頬は真っ赤に染まっていた。
視線は定まらず、口元には締まりがない。
それでも、まだ酒を注文しようとしているのだから、マーリャとしては頭が痛い。
何度も帰るよう促しているのだが、セネカは一向に席を立とうとしなかった。
むしろ、酔いが回るほどに愚痴の内容が堂々巡りになっている。
仲間が結婚した。
引退する。
自分は一人になった。
どうすればいい。
そして最初に戻る。
その繰り返しである。
マーリャが何度目か分からないため息をついた、そのときだった。
――チリン。
入口の鐘が鳴った。
夜の冷たい空気が、扉の隙間から流れ込む。
そして。
「あのぉ、すみませぇん」
聞き慣れない声が響いた。
小さく、柔らかく、どこか眠たげな声。
店の雰囲気には、あまりにも似つかわしくない。
マーリャは顔を上げた。
セネカもまた、カウンターに頬を押しつけたまま、ゆっくりと視線を動かした。
「……んぁァ? ……だれぇ? がきぃ?」
セネカの第一声は、実に失礼なものだった。
しかし、そう言いたくなる気持ちも分からなくはない。
入口に立っていたのは、小柄な少年だったからだ。
少なくとも、外見だけを見れば、成人しているようには到底思えない。
幼い顔立ち。
小さな身体。
そして、あまりにも無防備な雰囲気。
冒険者や荒くれ者が出入りする夜の酒場には、どう考えても不釣り合いだった。
マーリャは眉をひそめた。
「……ちょ、ちょいと。何だい、坊や? ここは坊やの来るにゃまだ早い場所だよ?」
声音には、警戒と困惑が混じっていた。
この店は、酒を提供する場所である。
当然、子供が気軽に立ち寄るような店ではない。
ましてや、こんな夜更けに一人で現れるなど、普通では考えられなかった。
それに……。
(……この子。妙な格好をしてるね)
大きめのリュックに、厚手の服、手袋、ニット帽、マフラー、そして長靴。
まるで、これから雪山にでも登ろうという格好である。
秋口の冷え込みがあるとはいえ、町中でそこまで着込む必要はない。
迷子だろうか。
それとも、何か事情があるのだろうか。
マーリャは少年の背後へ目を向けた。
しかし、保護者らしき人物の姿はない。
少年は、そんな店主の困惑など気にした様子もなく、にこやかに微笑んだ。
「はじめましてぇ。うちは雪国から来ましたぁ。ニッペともうしますぅ」
ぺこり。
少年は丁寧に頭を下げた。
その仕草は、実に自然だった。
初対面の相手には挨拶をする。
名を名乗る。
そして、礼をする。
ごく当たり前の作法を、何の気負いもなく行っている。
マーリャは少しだけ面食らった。
こんな時間に酒場へ現れたことは非常識だが、本人の態度は驚くほど礼儀正しい。
少なくとも、悪戯目的で入り込んできた子供には見えなかった。
「……あ、ああ。コイツはどうもご丁寧に」
思わず、こちらも丁寧に返してしまう。
それほどまでに、少年の挨拶には妙な説得力があった。
ニッペ。
雪国から来たという少年。
その名を聞いても、マーリャには特に心当たりがなかった。
しかし、雪国という言葉には少々引っかかるものがある。
この町から雪国までは、決して近い距離ではない。
道中には危険な地域もあり、旅慣れた大人でさえ十分な準備を必要とする。
そんな場所から、この小さな少年が一人でやって来たというのだろうか。
疑問は尽きなかった。
そして、その疑問をさらに大きくする発言が、少年の口から飛び出した。
「じつはですね? うちは、冒険者になりに雪国からきたんですぅ」
「――んえっ!?」
セネカが、間の抜けた声を上げた。
それまでカウンターに突っ伏していた彼女が、勢いよく顔を持ち上げる。
もっとも、酔いのせいで視線は相変わらず定まっていなかったが。
一方、マーリャは完全に目を丸くしていた。
「ぼ、冒険者ぁ!? アンタちょいと正気かい!?」
冒険者。
その言葉が持つ意味を、マーリャはよく知っていた。
華やかな英雄譚。
未知の土地への旅。
魔獣との戦い。
財宝の発見。
世間一般では、そうした夢や希望に満ちた職業として語られることも多い。
しかし、現実は違う。
冒険者とは、危険を金に換える職業である。
魔獣に襲われれば死ぬ。
道を間違えれば遭難する。
毒草を口にすれば命を落とし、悪天候に見舞われれば野垂れ死ぬこともある。
そんな仕事を、この小さな少年が目指しているというのだ。
マーリャが驚くのも当然だった。
「アンタの年だとまだ登録だって出来やしないだろう!?」
冒険者ギルドには、登録に際して年齢に関する規定が存在する。
誰でも無条件に冒険者になれるわけではない。
危険な仕事を請け負う以上、最低限の責任能力と判断力が求められるからだ。
少なくとも、目の前の少年がその条件を満たしているようには見えなかった。
だが。
ニッペは、少しも慌てなかった。
むしろ、そんな反応をされることに慣れているかのように、にこにこと笑っている。
「ご心配なくぅ。こう見えてちゃんとオトナなんですよ?」
「そ、そうなのかい? ……そういう種族なのかね」
マーリャは、改めて少年を見つめた。
確かに、この世界には様々な種族が存在する。
人間と同じ姿をしていても、成長速度が異なる種族。
長い寿命を持つ種族。
外見と実年齢が一致しない種族。
そうした存在がいる以上、見た目だけで年齢を判断することはできない。
少年が成人しているというのなら、そうなのかもしれない。
もっとも、それですべての疑問が解消されたわけではない。
なぜ雪国から来たのか。
なぜ冒険者になりたいのか。
そもそも、どうやってここまで旅をしてきたのか。
聞きたいことは山ほどあった。
マーリャが質問を続けようとした、そのとき。
「――ちょぉぉっとアンタァ!! ヒック」
横から、盛大に酔っ払った声が割り込んだ。
セネカである。
彼女はカウンターに片肘をつき、ふらふらと身体を揺らしながら、ニッペを指差していた。
目は据わっている。
頬は赤い。
そして、何やら妙な迫力があった。
ニッペは、そんな彼女を見つめて首を傾げた。
「はい?」
実に素直な返事だった。
警戒心というものが、まるで感じられない。
目の前にいるのは、酒臭い息を吐きながら絡んでくる成人女性である。
普通なら、多少なりとも身構えるところだろう。
しかし、ニッペは違った。
呼ばれたから返事をした。
ただ、それだけだった。
マーリャは嫌な予感を覚えた。
長年の経験から、酔ったセネカがこの調子で他人に絡み始めた場合、ろくなことにならないと知っている。
ましてや、相手は見知らぬ少年である。
いくら本人が成人を主張しているとはいえ、見た目は子供そのものだ。
何かあってからでは遅い。
「ちょ、セネカ!? お止しよ!」
マーリャは慌てて制止した。
だが、セネカは止まらない。
むしろ、制止されたことで余計に勢いづいた。
「ヒック、ウッサイ!! ママーリャは、だぁってて!!」
「あんた次その舐めた呼び方したら店から叩き出すよ?」
「ハーいっ!!」
元気のよい返事だった。
反省の色は皆無である。
セネカはびしりと敬礼すると、何事もなかったかのようにニッペへ向き直った。
マーリャはため息をついた。
長年の付き合いである。酔ったセネカがどれほど面倒くさい女になるのか、嫌というほど知っていた。
しかし、今夜は特にひどい。
仲間が結婚して引退する。
自分だけが取り残される。
その寂しさを酒で紛らわせようとした結果、判断力が完全に仕事を放棄していた。
とはいえ、本人には本人なりの事情がある。
マーリャとしても、今夜くらいは多少の無礼を大目に見てやるつもりだった。
多少なら。
「――ヒック。ンでよ、がきっ!」
「はい?」
ニッペは素直に返事をした。
セネカは片肘をカウンターにつき、いかにも先輩冒険者らしい顔を作る。
もっとも、頬は真っ赤で、視線も定まっていない。
威厳はなかった。
「ぼーけんしゃにナるだぁあ?」
「はい。そうですよ?」
「――ンじゃあよぉ」
セネカは一度、言葉を切った。
そして、びしりとニッペを指差す。
「――アタしと組もう!!」
「――はあっ!?」
マーリャが叫んだ。
当然である。
つい先ほど知り合ったばかりの相手だ。
名前以外、ほとんど何も知らない。
冒険者としての経験も、戦闘能力も、出身地の詳しい事情さえ不明。
それなのに、いきなりパーティーへ勧誘したのだ。
しかも泥酔状態で。
普通なら、もう少し慎重になるべきところである。
だが。
「ほんとですかぁ!?」
ニッペの顔が、ぱあっと輝いた。
こちらはこちらで、警戒心がまるでない。
「いぃ、いい! も、なーんでもおねぇさんがおしえたげる!! だから組もう!」
セネカは胸を張った。
ぐらり。
椅子ごと傾いた。
「あわわわ」
ニッペが慌てて支える。
「だいじょうぶですかぁ?」
「だぁいじょーぶ! おねぇさん、つよいから!」
強い人間は椅子から落ちない。
少なくとも、マーリャはそう思った。
セネカはふらふらと姿勢を立て直すと、得意げに鼻を鳴らした。
「いーい? 冒険者ってのはねぇ、けーけんが大事なの! けーけん!」
「けーけんですかぁ」
「そーよ! おねぇさん、じゅーいちねんも冒険者やってんだから!」
「おお~」
ニッペが小さな両手を叩いた。
ぱちぱちぱち。
「すごいですぅ!」
「でっしょぉ~!?」
セネカは満面の笑みを浮かべた。
褒められて嬉しいらしい。
実に分かりやすい女だった。
「それでぇ、何からおしえてくれるんですかぁ?」
「ん~?」
セネカは腕を組んだ。
真剣な表情になる。
十一年間の冒険者経験。
数え切れないほどの依頼。
魔獣との死闘。
危険な旅路。
そのすべてを踏まえ、初心者へ最初に教えるべきことは何か。
セネカは考えた。
考えて。
考えて。
そして。
「まずは酒の飲み方ね!」
「そこからかい!!」
マーリャのツッコミが飛んだ。
「なーによママ! 冒険者にゃお酒はひつじゅひんでしょーが!」
「必需品じゃないよ!」
「お酒ですかぁ?」
「そーよぉ! 仕事終わりの一杯! これがまた美味いのよぉ!」
「へぇ~」
「アンタも飲めるようになんなきゃねぇ!」
「わかりましたぁ」
「分からなくていいよ!!」
マーリャは頭を抱えた。
駄目だ。
この二人を放置してはいけない。
片方は判断力を酒瓶の底に置き忘れ、もう片方は言われたことを素直に信じている。
相性がよすぎる。
悪い意味で。
「――ちょいとセネカっ!」
マーリャは、カウンターを叩いた。
セネカが振り返る。
「んぁ? なーによママーリャ」
「ツーアウトだよ小娘」
「うっす!! はんせーしてゃあす!」
「嘘つけぇ!!」
反省している人間は、普通もう少し申し訳なさそうな顔をする。
しかし、セネカは満面の笑みだった。
マーリャのこめかみに青筋が浮かぶ。
一方、ニッペは二人のやり取りを不思議そうに眺めていた。
「?」
何のことか分かっていない。
そもそも、ツーアウトとは何なのだろう。
何かの競技だろうか。
それとも、この店独自の決まりなのだろうか。
少し気になったが、二人とも忙しそうなので聞かないことにした。
ニッペは、こういうところで妙に空気が読める。
もっとも、本当に読めているのかどうかは別の話だが。
「いよっしゃあ! ンじゃああしたさっそくギルドにいくぞお!」
セネカは勢いよく立ち上がった。
椅子が床を擦り、がたんと音を立てる。
その身体は相変わらずふらふらしていたが、本人は至って上機嫌だった。
仲間ができた。
それも、自分を頼ってくれる新しい仲間が。
酔いの回った頭の中では、それだけで十分だった。
明日から、また冒険ができる。
一人ではない。
そう思うだけで、胸の奥に溜まっていた寂しさが、ほんの少しだけ薄らいだ気がした。
「おー」
ニッペも嬉しそうに片手を上げた。
小さな声だったが、その表情には期待が満ちている。
雪国を出て、知らない町へやって来た。
何もかもが初めての場所で、ようやく冒険者になるための一歩を踏み出せる。
しかも、経験豊富な先輩まで見つかったのだ。
これほど心強いことはない。
少なくとも、ニッペはそう思っていた。
「んじゃかえるわ!! ばーい、ママーリャ!!」
セネカは元気よく手を振った。
そして、出口へ向かおうとする。
その瞬間。
ブチッ
マーリャの中で、何かが切れた。
「――スリーアウトだこんクソガキゃ!! ぶっ飛ベオラアアアッ!!」
怒号。
同時に、マーリャの身体がカウンターの向こうから飛び出した。
両手を台につき、軽やかに身体を浮かせる。
長い脚が宙を切り、一直線にセネカの胸元へ向かった。
見事なドロップキックだった。
酒場の女主人とは思えぬ、無駄のない動きである。
「ドッゥハアアアアアアアっ!?」
直撃。
セネカの身体が、椅子を巻き込む勢いで後方へ吹き飛んだ。
背中から扉に激突。
そのまま勢いよく外へ飛び出し、石畳の上を転がっていく。
そして。
どさり。
ようやく停止した。
「…………」
動かない。
B級冒険者、セネカ・ロッソ。
衝撃猪《インパルスボア》との死闘を生き延びた歴戦の女剣士。
酒場の女主人による一撃で、あえなく撃沈である。
「後生だよっ!! 金はツケといてやる!! とっとと頭冷やして返しにきなっ!!」
マーリャは店の入口から怒鳴った。
頬を引きつらせ、肩で息をしている。
怒りの原因はもちろん、三度にわたる例の舐めきった呼び方だった。
しかし、それだけではない。
酔った勢いで見知らぬ少年を仲間に誘い、ろくに話も聞かずに帰ろうとしたこと。
それもまた、彼女の怒りを買っていた。
マーリャは、倒れたセネカを見下ろす。
そして、深々とため息をついた。
まったく。
世話の焼ける娘だ。
もっとも、今夜のセネカがどれほど傷ついていたのかも、マーリャには分かっている。
だからこそ、これ以上酒を飲ませるわけにはいかなかった。
頭を冷やして、ゆっくり眠るべきだ。
明日になれば、少しは落ち着くだろう。
そう思いながら、マーリャは店内へ戻っていった。
一方。
「…………」
セネカは完全に沈黙していた。
白目を剥き、石畳の上で大の字になっている。
その姿は、先ほどまで自信満々に冒険者の心得を語っていた人物とは思えなかった。
ニッペは、そんな彼女の傍らにしゃがみ込んだ。
「たいじょうぶですかぁ?」
返事はない。
つんつん。
頬を突いてみる。
やはり反応はない。
ただ、胸は規則正しく上下している。
呼吸はしているようだった。
ニッペは、ほっと胸を撫で下ろした。
どうやら、気を失っているだけらしい。
それにしても、冒険者というのは大変な仕事なのだろう。
初めて出会った先輩は、ずいぶん疲れているようだった。
ニッペはしばらく考えたあと、こくりと頷いた。
困っている人がいたら助ける。
それは、雪国にいた頃から当たり前のことだった。
ましてや、この人は自分を仲間に誘ってくれた恩人である。
放っておくわけにはいかない。
ニッペはセネカの身体をそっと抱え起こした。
それから、どうしたものかと周囲を見回す。
自分は今日、この町に着いたばかりだ。
宿屋がどこにあるのかも、まだよく知らない。
幸い、通りの向こうから仕事帰りらしい男が歩いてきた。
ニッペはその男に声をかけ、近くの宿屋の場所を教えてもらうことにした。
小さな身体に似合わず、セネカを支える足取りは不思議なほど安定していた。
もっとも、そんなことを気にする者は誰もいない。
夜も更けた町の片隅で、雪国から来た少年が酔いつぶれた女冒険者を運んでいる。
それだけでも十分に奇妙な光景だったのだから。
やがて、ニッペは教えられた宿屋へ辿り着いた。
幸いにも、そこはセネカが普段から利用している宿だった。
事情を説明すると、顔馴染みの宿の主人は呆れたようにため息をついた。
どうやら、セネカが酒を飲みすぎるのは今に始まったことではないらしい。
主人に案内され、ニッペは彼女を部屋まで運んだ。
寝台へ寝かせると、毛布を丁寧に掛けてやる。
セネカは一度だけ寝返りを打ち、何やら寝言を呟いた。
「……マークスぅ……ルミンのばかぁ……」
ニッペは、その言葉を聞いて首を傾げた。
誰かの名前だろうか。
きっと、大切な人たちなのだろう。
その声は、少しだけ寂しそうだった。
ニッペはしばらくセネカの寝顔を見つめていた。
そして、そっと微笑んだ。
「……あしたから、よろしくおねがいしますねぇ」
小さな声で、そう告げる。
もちろん、返事はなかった。
それでも、ニッペは嬉しかった。
雪国を出て、初めて訪れた町。
そこで、自分と一緒に冒険してくれる人に出会えた。
明日は冒険者ギルドへ行く。
きっと、知らないことがたくさんあるだろう。
どんな冒険が待っているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、ニッペも眠くなってきた。
長旅の疲れが、ようやく身体に出てきたのかもしれない。
部屋には寝台が一つしかなかった。
ニッペは少し考えた。
そして、セネカの邪魔にならないよう、寝台の端にちょこんと腰を下ろした。
そのまま、毛布の余った部分を身体に掛ける。
「……おやすみなさぁい」
小さく呟くと、目を閉じた。
ほどなくして、穏やかな寝息が聞こえ始める。
こうして。
酔った勢いで新しい仲間を勧誘した女冒険者と。
その約束を心から喜んだ雪国の少年は。
同じ寝台で、朝を迎えることになったのである。
――もっとも。
その約束をした当人は、翌朝、綺麗さっぱり忘れていたのだが。
これが、昨夜の出来事である。
---
第二話 了