雪国のニッペ   作:ネコカリポス

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第4話 暴虐

 

 木々の隙間から、柔らかな陽光が降り注いでいた。

 

 風が吹くたびに枝葉が揺れ、重なり合った木漏れ日が地面の上をゆっくりと移動していく。

 

 どこからか聞こえてくる小鳥の囀り。

 

 湿った土と草木の匂い。

 

 そして、時折頬を撫でていく、秋の涼やかな風。

 

 ベルノンの町からほど近い森は、穏やかな朝の空気に包まれていた。

 

 そんな森の中を、二人の冒険者が歩いていた。

 

 一人は、栗色の髪を左右にまとめた女剣士、セネカ・ロッソ。

 

 もう一人は、大きなリュックを背負った小柄な少年、ニッペである。

 

 目的は、冒険者ギルドで受注した食料調達の依頼。

 

 森で採れる食用の植物や果実、場合によっては獲物の肉などを集め、依頼主である酒場へ届ける仕事だった。

 

 戦闘を前提としない、比較的危険度の低い依頼である。

 

 少なくとも、今のところは。

 

 

 

「森の空気は気持ちがいいですねぇ。のどかだし、へいわですぅ」

 

 

 

 ニッペは大きく息を吸い込むと、満足そうに微笑んだ。

 

 厚手の服にマフラー、ニット帽という相変わらずの格好である。

 

 秋とはいえ、まだそこまで冷え込んでいない森の中では、どう考えても暑そうだった。

 

 しかし、本人はまったく気にしていない。

 

 

 

「平和なのはこのあたりだからよ。奥行ったらやばいのの巣だから。ほらそこ、それ食えるキノコ」

 

 

 

 セネカは足元を指差した。

 

 苔むした倒木の陰に、茶色い傘を広げたキノコがいくつか生えている。

 

 ニッペはしゃがみ込むと、それを一つずつ丁寧に採り始めた。

 

 

 

「おお~。これも食べられるんですねぇ」

 

「そうよ。似たようなので毒持ってるやつもあるから、勝手に採って食べンじゃないわよ?」

 

「はぁい」

 

 

 

 ニッペは素直に頷き、採取したキノコを背中のリュックへしまった。

 

 その様子を眺めながら、セネカはふと眉を上げた。

 

 

 

「にしてもまぁ、よく入るリュックねぇ、それ。従姉弟が作ってくれたんだっけ?」

 

 

 

 森へ入ってからというもの、二人はそれなりの量の食材を採取していた。

 

 キノコに木の実、食用の野草。

 

 それらを次々と放り込んでいるにもかかわらず、リュックが膨らんだ様子はない。

 

 元から大きなリュックではあるが、それにしても収納力がある。

 

 冒険者向けの荷物袋としては、なかなか優秀な代物だった。

 

 

 

「はいぃ。従姉弟がですね? うちはドジで間抜けで鈍くさいから、全部ここにいれておけって」

 

「スッゲー言うわね、アンタの従姉弟……」

 

 

 

 セネカは思わず顔を引きつらせた。

 

 ドジ。

 

 間抜け。

 

 鈍くさい。

 

 たった一言の中に、三種類もの悪口が詰め込まれている。

 

 しかも、それを言われた本人が、まったく気にした様子もなく話しているのだから恐ろしい。

 

 

 

(……いや、まあ、確かにちょっと抜けてるところはあるけどさぁ)

 

 

 

 セネカは横目でニッペを見た。

 

 少年は相変わらずにこにこと笑っている。

 

 どうやら、従姉弟に悪く言われたという認識すらないらしい。

 

 

 

(どんな従姉弟なのよ……)

 

 

 

 少し気になったが、今は仕事中である。

 

 セネカはそれ以上追及せず、採取を続けることにした。

 

 

 

「あ、野草ですぅ。煎じると身体にいいんですよ?」

 

 

 

 しばらく歩いたところで、ニッペが草むらの一角を指差した。

 

 そこには、細長い葉を伸ばした野草が群生していた。

 

 ニッペはそのうちの一本を摘み、葉の形を確かめるように眺めている。

 

 

 

「ふぅん? そういやアンタ、料理出来るとか言ってたわね」

 

「はいぃ。従姉弟がですね? うちはバカでアホでオタンコナスだから、料理ぐらい身に着けておけって」

 

「――ホントスゲー言うわね! アンタの従姉弟!」

 

 

 

 思わず声が大きくなった。

 

 先ほどより悪口が増えている。

 

 しかも、最後にオタンコナスまで追加されていた。

 

 

 

(何!? アンタの従姉弟、悪口の種類だけは豊富なの!?)

 

 

 

 セネカは額を押さえた。

 

 しかし、ニッペは至って平然としている。

 

 むしろ、従姉弟から料理を教わったことを誇らしく思っているようだった。

 

 セネカは何とも言えない気分になった。

 

 言葉だけを聞けば、ずいぶん口の悪い従姉弟である。

 

 だが、その従姉弟はニッペのためにリュックを作り、料理まで教えているという。

 

 悪口と面倒見のよさが、奇妙な形で同居していた。

 

 

 

(……まあ、仲は悪くないんでしょうけど)

 

 

 

 セネカはそう結論づけ、野草の採取へ戻った。

 

 

     ◇

 

 

 それからしばらく。

 

 二人は森の浅い区域を歩き回り、食用のキノコや野草、木の実などを集めていった。

 

 セネカが食べられる植物を見分け、ニッペがそれを採取してリュックへしまう。

 

 役割分担は、思っていた以上にうまくいっていた。

 

 ニッペは動作こそのんびりしているものの、言われたことには素直に従う。

 

 採ったものを丁寧に扱うため、食材を傷めることも少ない。

 

 何より、荷物を背負っているにもかかわらず、疲れた様子をまったく見せなかった。

 

 

 

(……まあ、ポーターとしては悪くないか)

 

 

 

 セネカは内心で評価を改めた。

 

 戦闘能力については依然として不明だが、少なくとも荷物持ちとしては十分に役立っている。

 

 これなら、今回の依頼も問題なく終えられるだろう。

 

 そんなことを考えながら、セネカは周囲を見回した。

 

 

 

「このあたりは、大体採れたわね。ニッペー、次行くよ」

 

「はぁい。……あれぇ?」

 

 

 

 返事をしたニッペが、不意に足を止めた。

 

 

 

「如何したのよ」

 

「セネカさん、見てくださぁい。美味しそうな果物がなってますよ?」

 

「んん? ――ああ、確かにあるわね。いい感じに熟してんのが」

 

 

 

 ニッペの指差す先。

 

 少し離れた場所に立つ大きな木の枝に、赤みを帯びた果実がいくつも実っていた。

 

 陽光を浴びた果皮には艶があり、遠目にも十分に熟していることが分かる。

 

 食料調達の依頼としては、なかなか魅力的な獲物だった。

 

 ただし、一つ問題がある。

 

 高いのだ。

 

 果実が実っているのは、地上からかなり離れた枝先。

 

 木登りをするか、何らかの道具を使わなければ手が届かない。

 

 セネカは少し考えたあと、肩をすくめた。

 

 

 

「けど、あんな高いとこの取りに行くより、そこら辺に落ちてる――」

 

 

 ふよふよ。

 

 

「やつ、を――」

 

 

 ふよふよふよふよ。

 

 

「……拾っ……て」

 

 

 ふよふよふよふよ。

 

 ぱしっ。

 

 

「採れましたぁ!」

 

「うおおぉオぉぉオぉオォおおオォっ!??」

 

 

 

 森中に、セネカの絶叫が響き渡った。

 

 枝に止まっていた小鳥たちが、一斉に飛び立つ。

 

 近くの茂みからも、小動物が慌てて逃げ出していった。

 

 だが、セネカにはそんなことを気にしている余裕などなかった。

 

 目の前で、信じられない光景が繰り広げられていたからだ。

 

 ニッペが、浮いている。

 

 地面から両足を離し、何の支えもなく宙に浮かんでいるのだ。

 

 しかも、羽ばたいているわけでもなければ、何かに吊り下げられているわけでもない。

 

 ただ、ふよふよと。

 

 まるで風に乗った綿毛のように、のんびりと空中を漂っている。

 

 そのまま木の枝まで上昇し、実っていた果実を一つもぎ取ったのである。

 

 

 

「セネカさぁん、採れましたぁ」

 

 

 

 ニッペは嬉しそうに果実を掲げた。

 

 実に満足げな表情だった。

 

 しかし、セネカにとっては果実などどうでもよかった。

 

 

 

「採れましたぁ、じゃねえよ!! 飛んだ!!? あんたいま飛んだか!!? と言うか浮いたか!!?」

 

「? はいぃ、浮けますよぉ?」

 

 ふよふよ。

 

「ま、マジで浮いてる……」

 

 

 

 セネカは口を半開きにしたまま、宙に浮かぶニッペを見上げた。

 

 何度瞬きをしても、光景は変わらない。

 

 ニッペは確かに浮いていた。

 

 しかも、本人にとっては呼吸をするのと同じくらい当たり前のことらしい。

 

 驚いているのはセネカだけだった。

 

 

 

(飛行魔術!? いや、だとしたら遅すぎだし、高度も出てない! どっちかってぇと重力を無視してる飛び方だわ)

 

 

 

 セネカは必死に頭を働かせた。

 

 飛行魔術そのものは、存在する。

 

 魔力を用いて身体を浮かせ、空中を移動する術だ。

 

 ただし、習得難度は高く、誰でも気軽に扱えるようなものではない。

 

 それに、セネカの知る飛行魔術は、もっと明確に推進力を伴うものだった。

 

 少なくとも、目の前の少年のように、何の予備動作もなく、ふわふわと浮かぶものではない。

 

 魔力を練り上げる様子もなかった。

 

 呪文を唱えたわけでもない。

 

 魔法陣が現れたわけでもない。

 

 気がついたときには、なんかすでに浮いていたのである。

 

 

 

(……ホント何なのよ、コイツ)

 

 

 

 セネカは眉をひそめた。

 

 冒険者歴十一年。

 

 これまで様々な魔術や特殊能力を見てきたつもりだった。

 

 だが、こんな奇妙な浮遊の仕方は初めてである。

 

 そして何より。

 

 

 

(――ちょっと待て)

 

 

 

 セネカは、はっとした。

 

 今朝の面接。

 

 自分は確かに尋ねたはずだ。

 

 何か得意なことはないのか、と。

 

 剣が使えるか。

 

 魔法が使えるか。

 

 戦闘で役に立つ能力はあるのか。

 

 それに対するニッペの答えは、料理、荷物運び、火起こしだった。

 

 なのに。

 

 

 

「浮けるなら最初にそう言えやぁぁぁぁぁぁ!! 聞いてねえぞ、わたしゃあぁぁぁぁぁぁぁ!!」《/b》

 

 

 

 セネカの心からの叫びが、森の奥まで響き渡った。

 

 木々に止まっていた鳥たちが、再び一斉に飛び立つ。

 

 今日だけで何度、彼女の大声に驚かされたことだろう。

 

 森の動物たちにしてみれば、いい迷惑である。

 

 

 

「ぜぇ……ぜぇ……」

 

 

 

 セネカは肩で息をしながら、膝に両手をついた。

 

 今朝は酒を飲みすぎて頭が痛かった。

 

 今は目の前の少年のせいで頭が痛い。

 

 どうやら、頭痛とは当分縁が切れそうにないらしい。

 

 

 

「何だかすみませぇん」

 

 

 

 ニッペが申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 もっとも、何について謝っているのかは、本人もよく分かっていない様子だったが。

 

 

 

「……あ、謝る気あんの? まぁ、いいわ」

 

 

 

 セネカは額を押さえた。

 

 ここで怒鳴り続けても仕方がない。

 

 そもそも、ニッペにとっては空を浮くことなど、ごく当たり前の行為なのだろう。

 

 当たり前すぎて、特技として申告する必要すら感じなかった。

 

 そう考えれば、一応の説明はつく。

 

 納得できるかどうかは別として。

 

 セネカは大きく息を吐き、改めてニッペを見つめた。

 

 

 

「アンタ、飛べんのね」

 

「はいぃ。うちのいる雪国では、みんなとべるんですよ?」

 

「はあっ!?」

 

 

 

 またしても素っ頓狂な声が出た。

 

 みんな。

 

 今、確かにみんなと言った。

 

 つまり、この少年の故郷では、空を飛ぶことが特別な能力でも何でもないということになる。

 

 

 

「特にですね? 従姉弟が一番はやぁくとべるんですよ? うちは一番おそぉいです」

 

「そ、そうなの」

 

 

 

 セネカは引きつった笑みを浮かべた。

 

 何だろう。

 

 先ほどから、聞けば聞くほど訳が分からなくなっていく。

 

 

 

(マジで何なのよ、アンタの従姉弟……)

 

 

 

 リュックを作れる。

 

 料理を教えられる。

 

 口が悪い。

 

 そして、雪国で一番速く飛べるらしい。

 

 ニッペの話に登場する従姉弟は、情報が増えるたびに人物像がますます謎めいていく。

 

 もっとも、セネカにとって本当に問題なのは、従姉弟の方ではなかった。

 

 

 

(と言うか、国中の奴が全員飛べるって何? 魔法使いの国だったりすんの?)

 

 

 

 セネカは腕を組んだ。

 

 魔術が盛んな国というものは、確かに存在する。

 

 幼い頃から魔術教育を受けられる土地なら、一般的な国より魔術師の割合が高くても不思議ではない。

 

 だが、住人全員が飛べるとなれば話は別だ。

 

 飛行魔術は、決して簡単な術ではない。

 

 習得には相応の才能と訓練が必要であり、熟練の魔術師でも扱えない者は珍しくない。

 

 それを、誰もが当たり前のように使える国。

 

 そんな場所が本当にあるのなら、冒険者の間で噂になっていてもおかしくないはずだった。

 

 しかし、セネカには心当たりがない。

 

 少なくとも、スノウロア皇国にそんな話は聞いたことがなかった。

 

 

 

(……やっぱり、スノウロアじゃないのかしら)

 

 

 

 セネカはちらりとニッペを見た。

 

 当の本人は、先ほど採った果実を大切そうにリュックへしまっている。

 

 そして、何事もなかったかのように地面へ降り立った。

 

 とん。

 

 軽い着地音。

 

 それだけだった。

 

 魔術を使った反動もなければ、疲労した様子もない。

 

 あまりにも自然な動作だった。

 

 

 

(……いや、考えたって分かんないわよね)

 

 

 

 セネカは眉間を揉んだ。

 

 どうにも、この少年には自分の常識が通用しないらしい。

 

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 

 ニッペは、ただの荷物持ちではない。

 

 少なくとも、空中にあるものを採取するという点では、普通のポーターには真似できない能力を持っている。

 

 セネカは木の上を見上げた。

 

 まだいくつもの果実が、枝先で赤く色づいている。

 

 それから、ニッペを見る。

 

 ニッペもこちらを見た。

 

 

 

「?」

 

 こてん。

 

「…………」

 

 

 

 セネカはしばし沈黙した。

 

 そして、ゆっくりと口を開く。

 

 

 

「……ねえ、ニッペ」

 

「はいぃ?」

 

「あの上の果物、全部採れる?」

 

「はいぃ。できますよぉ?」

 

「…………」

 

 

 

 セネカは再び木を見上げた。

 

 あれだけの果実を持ち帰れれば、今回の依頼の報酬もかなり期待できる。

 

 しかも、ニッペなら木に登る必要すらない。

 

 危険な枝先に足をかけることもなく、ただ浮いて採ってくればいいのだ。

 

 セネカの頭の中で、先ほどまでの混乱が少しずつ別の感情へ変わっていった。

 

 

 

(……待てよ?)

 

 

 

 これは。

 

 もしかして。

 

 

 

(……結構、使えるんじゃない?)

 

 

 

 借金を抱えたB級冒険者の目に、ほんのわずかな希望の光が宿った。

 

 一方、そんな彼女の思惑など知る由もなく。

 

 

 

「じゃあ、いっぱい採ってきますねぇ」

 

 

 

 ニッペはにこにこと笑いながら、再びふよふよと浮かび上がった。

 

 セネカはその姿を見上げながら、ぽつりと呟いた。

 

 

 

「……ホント、何なのよアンタ」

 

 

 

 返事の代わりに、頭上からのんびりした声が降ってきた。

 

 

 

「ニッペともうしますぅ」

 

「それは知ってるわよ!!」

 

 

 

 今日何度目か分からないセネカの突っ込みが、森に響いた。

 

 

     ◇

 

 

「――フッ!!」

 

 ザシュッ!

 

『ギュアアアア!』

 

 

 

 鋭い一閃が、森の静寂を切り裂いた。

 

 草むらから飛び出してきた大きな鳥が、断末魔の鳴き声を上げて地面に倒れる。

 

 セネカは剣を振り抜いた姿勢のまま、獲物が動かなくなったことを確認した。

 

 

 

「うし、大陸鶏ゲット! コイツは金になるわよぉ~」

 

 

 

 満足げに笑いながら、仕留めた鳥を持ち上げる。

 

 大陸鶏。

 

 アルゼリオン王国をはじめ、大陸の広い地域に生息する大型の鳥類である。

 

 普通の鶏よりも一回り以上大きく、発達した脚と鋭い嘴を持つ。

 

 野生の個体は気性が荒く、迂闊に近づけば怪我をすることもあるが、その肉は非常に美味とされていた。

 

 特に、脂の乗った腿肉は酒場でも人気が高い。

 

 

 

「そうなんです?」

 

 

 

 ニッペが興味深そうに首を傾げた。

 

 

 

「需要があるからね。コイツの唐揚げはビールによく合うのよぉ。冒険者達は必ず頼む一品ね!」

 

 

「なるほどぉ」

 

 

 

 ニッペは感心したように頷いた。

 

 一方、セネカは獲物を眺めながら、すでに頭の中で報酬を計算していた。

 

 

 

(ふっふっふ……いいじゃない、いいじゃない!)

 

 

 

 今回の依頼は、持ち帰った食料の量によって報酬が変わる。

 

 つまり、採れば採るほど儲かるというわけだ。

 

 それに、ニッペという便利な荷物持ちまでいる。

 

 これほど条件のいい仕事も、そうそうない。

 

 

 

「うしっ! 次、魚いくわよ魚! このあたりの川はベルノントラウトがよく住み着くのよ」

 

「お魚さんですかぁ。釣り道具用意しますね?」

 

「お、気が利くじゃーん!」

 

 

 

 ニッペは背中のリュックを下ろすと、中をごそごそと探り始めた。

 

 やがて取り出したのは、釣り竿と糸、釣り針などの一式だった。

 

 どうやら、釣り道具まで持参していたらしい。

 

 

 

(……ホント、何でも入ってんのね、そのリュック)

 

 

 

 セネカは感心しつつも、今さら深く考えないことにした。

 

 何しろ、持ち主は空を浮く少年である。

 

 少々変わったリュックくらいで驚いていては、身が持たない。

 

 

     ◇

 

 

 森の中を流れる小川は、澄んだ水を絶え間なく運んでいた。

 

 水底には丸い石が転がり、その間を小魚たちが素早く泳ぎ回っている。

 

 ところどころにできた深みには、ひときわ大きな魚影も見えた。

 

 ベルノントラウト。

 

 この地域の河川に生息する淡水魚で、引き締まった身と程よい脂が特徴の魚である。

 

 焼いても煮ても美味しく、町の食堂や酒場では定番の食材として扱われていた。

 

 

 

「よし、あそこね」

 

 

 

 セネカは流れの緩やかな場所を見つけると、釣り糸を垂らした。

 

 ニッペもその隣にちょこんと座り、見よう見まねで竿を構える。

 

 

 

「お魚さん、釣れるといいですねぇ」

 

「釣れるわよ。ここ、結構いい場所だから」

 

 

 

 水面を眺めながら、セネカは口元を緩めた。

 

 森での採取。

 

 獲物の狩猟。

 

 そして、川での釣り。

 

 どれも冒険者にとっては珍しくない仕事である。

 

 しかし、今日はいつもよりずっと気楽だった。

 

 荷物を持つ必要がない。

 

 採取した食料の置き場所を心配する必要もない。

 

 そして何より、隣には楽しそうに釣り糸を垂らす新しい仲間がいる。

 

 

 

(……まあ、悪くないかもね)

 

 

 

 セネカは小さく笑った。

 

 昨日までは、マークスとルミンがいた。

 

 長年連れ添った仲間たちとの冒険は、確かに楽しかった。

 

 それが突然終わってしまったことには、まだ寂しさが残っている。

 

 けれど。

 

 新しい冒険というのも、案外悪くないのかもしれない。

 

 そんなことを考えていた、そのとき。

 

 

 

「……あ」

 

「ん?」

 

「セネカさん、引いてますよぉ」

 

「おっ、マジ!?」

 

 

 

 セネカは慌てて竿を握り直した。

 

 糸の先で魚が暴れ、水面に大きな波紋が広がる。

 

 

 

「よっしゃあ! 大物来たぁ!」

 

 

 

 森の中に、景気のいい声が響き渡った。

 

 

     ◇

 

 

「あ、セネカさん。あっちに野草の群生地がありますよぉ?」

 

「でかしたぁ! 根こそぎ――は、拙いからほどほどに採るわよ!」

 

「はぁい」

 

 

 

 川での釣りを終えた二人は、再び森の中を歩いていた。

 

 ニッペが見つけたのは、木々の間に広がる小さな草地だった。

 

 そこには食用に適した野草が、青々とした葉を茂らせている。

 

 セネカは早速しゃがみ込み、慣れた手つきで採取を始めた。

 

 もっとも、全部採ってしまうわけにはいかない。

 

 植物を根こそぎ持ち去れば、次に同じ場所を訪れたとき、何も残っていないということになりかねないからだ。

 

 採取資源を適度に残すのは、冒険者にとって大切な心得の一つである。

 

 セネカも十一年の経験から、そのあたりは十分に理解していた。

 

 ……金に目が眩んで、一瞬忘れかけたが。

 

 

 

「このへんの葉っぱも食べられるんですかぁ?」

 

「それは駄目。苦いだけじゃなくて腹壊すわよ」

 

「おお~、そうなんですねぇ」

 

「こっちの細い葉のやつは大丈夫。スープに入れるとうまいわよ」

 

「なるほどぉ。覚えておきますねぇ」

 

 

 

 ニッペは素直に頷き、教えられた野草を丁寧に摘んでいく。

 

 採取したものは、すべて背中のリュックへ。

 

 キノコ。

 

 木の実。

 

 果物。

 

 野草。

 

 大陸鶏。

 

 ベルノントラウト。

 

 その他にも、森で見つけた食用植物や小さな獲物が次々と加わっていった。

 

 そのたびに、ニッペはリュックを開けては食料をしまい込む。

 

 セネカも最初こそ収納力に驚いていたが、やがて気にしなくなっていた。

 

 何しろ、どれだけ入れても問題なさそうなのだ。

 

 ならば、遠慮する理由もない。

 

 

 

(よっしゃ! これなら結構な報酬になるわね!)

 

 

 

 借金。

 

 生活費。

 

 装備の手入れ代。

 

 そして、今夜の酒代。

 

 次々と頭に浮かぶ出費を、セネカは獲物の数で塗りつぶしていった。

 

 そうして。

 

 気がつけば、太陽はすっかり高く昇っていた。

 

 

     ◇

 

 

 昼を少し過ぎた頃。

 

 

 

「――で」

 

 

 

 セネカは腕を組み、目の前の光景を眺めていた。

 

 足元には、採取した食料を確認するために並べられた品々。

 

 キノコ。

 

 野草。

 

 木の実。

 

 果物。

 

 大陸鶏。

 

 ベルノントラウト。

 

 その他諸々。

 

 その量は、どう考えても二人で半日かけて集めたとは思えないほどだった。

 

 しかも、それらはすべて、たった一つのリュックから取り出されたものである。

 

 セネカはしばらく無言で眺めていたが。

 

 ついに、我慢できなくなった。

 

 

 

《b》「いくら何でもリュックに入りすぎだろ!!?」

 

 

 

 森に怒号が響いた。

 

 

 

「いっぱいとれましたねぇ」

 

 

 

 ニッペは嬉しそうに笑っている。

 

 

 

「採れましたねーじゃなくて! どーすんのよ、こんな馬鹿みたいな量! こんなの持ち運べないでしょ!」

 

 

 

 セネカは両手を広げた。

 

 確かに、今回の依頼は大量の食料を持ち帰る仕事である。

 

 だから、できる限り採取しようと考えた。

 

 考えたのだが。

 

 流石に限度というものがある。

 

 目の前に並んでいる食料は、明らかにその限度を超えていた。

 

 これだけの量を運ぶなら、荷車が必要になるだろう。

 

 下手をすれば、荷車一台でも足りないかもしれない。

 

 ましてや、二人で持ち帰るなど到底不可能である。

 

 

 

「あーもう、調子乗りすぎたぁ。帰りのこと計算に入れ忘れるとか、冒険者失格でしょ!? 金に目が眩んだ……」

 

 

 

 セネカは頭を抱えた。

 

 自分で自分が情けなくなる。

 

 十一年も冒険者を続けてきたというのに、こんな初歩的な失敗をするとは。

 

 しかも、今回は新人を連れているのだ。

 

 本来なら、経験豊富な自分がしっかりと手本を示さなければならない。

 

 それなのに、報酬に目が眩んで採取しすぎるなど。

 

 

 

(……あぁぁぁ! 何やってんのよアタシぃぃぃ!)

 

 

 

 セネカは深いため息をついた。

 

 とりあえず、持ち帰れる分だけ選別するしかない。

 

 残りは……。

 

 残念だが、諦めることになるだろう。

 

 そう考えた、そのときだった。

 

 

 

「よいしょ」

 

 ひょいっ。

 

 

「――――――」

 

 

 

 セネカの思考が停止した。

 

 ニッペが。

 

 リュックを。

 

 持ち上げた。

 

 それだけである。

 

 それだけなのだが。

 

 先ほどまで大量の食料を詰め込んでいた、あの巨大なリュックを。

 

 小柄な少年が、まるで空っぽの袋でも持つかのように、軽々と背負っていたのである。

 

 膝を曲げて踏ん張ることもない。

 

 重さに身体を傾けることもない。

 

 ただ、ごく自然な動作で。

 

 ひょいっ、と。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 セネカは目を見開いたまま固まっていた。

 

 理解が追いつかない。

 

 いや、正確には理解したくない。

 

 あれだけの食料を詰め込んだリュックが、軽いはずなどないのだ。

 

 普通なら、大人の男が数人がかりでも持ち上げるのに苦労するだろう。

 

 それを、目の前の少年は何の苦もなく背負っている。

 

 

 

「? どうかしましたぁ?」

 

 

 

 ニッペが不思議そうに首を傾げた。

 

 その顔には、何の疑問も浮かんでいない。

 

 どうやら本人にとっては、ごく当たり前のことらしい。

 

 セネカのこめかみが、ぴくりと引きつった。

 

 空を浮く。

 

 何でも入るリュックを持っている。

 

 そして、信じられない量の荷物を軽々と背負う。

 

 今日一日で、いったい何度この少年に驚かされれば気が済むのだろうか。

 

 セネカは大きく息を吸い込んだ。

 

 そして。

 

 

 

「どうかしてんのはお前だぁぁぁぁ!!」

 

 

 

 森の奥まで響き渡る大絶叫を上げた。

 

 驚いた鳥たちが、またしても一斉に飛び立った。

 

 今日という日は、どうやら森の動物たちにとっても厄日らしい。

 

 

  ◇

 

 

「……あ~、まぁいいわ。考えてみればウチらにとっちゃメリットしかないしね」

 

 

 

 セネカは大きくため息をついた。

 

 目の前では、ニッペが相変わらず巨大なリュックを背負っている。

 

 その中には、今日一日で採取した大量の食料が詰め込まれていた。

 

 大陸鶏。

 

 ベルノントラウト。

 

 食用のキノコや野草。

 

 そして、色とりどりの果物。

 

 本来なら荷車を何台か用意して運ぶような量を、この小さな少年は何の苦もなく背負っているのだ。

 

 最初こそ驚いたセネカだったが、冷静に考えれば悪い話ではなかった。

 

 むしろ、これほど優秀な荷物持ちなど、滅多にお目にかかれない。

 

 

 

(……まぁ、戦闘能力は相変わらず分かんないけどさ)

 

 

 

 少なくとも、今回の依頼に関しては大活躍だった。

 

 これなら報酬も期待できる。

 

 酒場の借金を返しても、十分に釣りが来るかもしれない。

 

 

 

「おそれいりますぅ」

 

 

 

 ニッペがぺこりと頭を下げた。

 

 

 

「……ほめちゃいねーのよ」

 

 

 

 セネカは呆れたように肩をすくめた。

 

 もっとも、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 

 なんだかんだで、悪くない一日だった。

 

 新しい仲間。

 

 初めての依頼。

 

 予想以上の収穫。

 

 昨日までの自分には想像もできなかったが、これからの冒険者生活も案外うまくやっていけるかもしれない。

 

 そんなことを考えた、そのときだった。

 

 

 

 ――ズズズゥン。

 

「――っ!?」

 

 

 

 セネカの表情が変わった。

 

 地面が、微かに揺れたのだ。

 

 いや。

 

 揺れたというより、何か巨大なものが地面を踏みしめたような振動だった。

 

 森の奥から、低く重い音が伝わってくる。

 

 風が止んだ。

 

 先ほどまで聞こえていた小鳥の囀りも、いつの間にか消えている。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 セネカは無言で森の奥を見つめた。

 

 背筋に、冷たいものが走る。

 

 冒険者歴十一年。

 

 幾度となく危険な魔獣と対峙してきた彼女には、理屈では説明できない感覚があった。

 

 死の気配。

 

 それが、近づいてきている。

 

 

 

「セネカさぁん?」

 

 

 

 ニッペが不思議そうに首を傾げた。

 

 

 

「……ニッペ。帰るよ」

 

「ぇえ?」

 

 

 

 セネカは低い声で告げた。

 

 普段の軽薄な調子は、そこにはない。

 

 

 

(……アタシの勘がやべぇっつってる。こっちになんか来る!)

 

 

 

 セネカは剣の柄に手を添えた。

 

 森の中で、何かが動いている。

 

 それも、一体や二体の小型魔獣ではない。

 

 もっと大きく、もっと重い何か。

 

 

 ドドドドド……。

 

 

 地響きが近づいてくる。

 

 

 ドドドドドドドドドド……!

 

 

 木々が揺れた。

 

 枝が折れ、葉が舞い散る。

 

 

 ドドドドドドドドドドドドドドド!!

 

 

 その音は、もはや地鳴りに近かった。

 

 

 

「……嘘でしょ」

 

 

 

 セネカは呟いた。

 

 そして。

 

 それは、姿を現した。

 

 

『――ゴガアアアアアアアアアアアッ!!!』

 

 

 凄まじい咆哮が、森を震わせた。

 

 木々の間から飛び出してきたのは、巨大な猿だった。

 

 いや。

 

 猿と呼ぶには、あまりにも異形だった。

 

 筋肉質な巨体。

 

 盛り上がった肩と胸。

 

 地面を抉るほど太い脚。

 

 そして、何より目を引くのは、四(・)本(・)の(・)腕(・)である。

 

 通常の猿と同じ位置に生えた二本の腕に加え、その下からもう一対の腕が伸びていた。

 

 いずれも丸太のように太く、握り締められた拳は岩塊を思わせる。

 

 全身を覆う毛皮は、血を思わせる鮮やかな赤。

 

 剥き出しになった牙の間からは、荒々しい呼吸とともに白い息が漏れていた。

 

 そこにいたのは、紛れもない怪物だった。

 

 

 

「――なっ……!」

 

 

 

 セネカの喉から、掠れた声が漏れた。

 

 知っている。

 

 この魔獣を、彼女は知っていた。

 

 直接戦ったことこそない。

 

 しかし、冒険者であれば知らない者はいないほど有名な危険種だった。

 

 

 

「――【暴虐狒々(ライオットコング)】っ……!」

 

『――ゴガアアアアアアアアアアアッ!!!』

 

 再び咆哮が響き渡った。

 

 暴虐狒々(ライオットコング)。

 

 A級に分類される大型魔獣。

 

 その名が示す通り、極めて凶暴な性質を持ち、四本の腕から繰り出される攻撃は岩を砕き、大木をへし折る。

 

 分厚い筋肉は生半可な刃を通さず、一度暴れ始めれば周囲の地形すら変えてしまう。

 

 単純な膂力だけで言えば、昨日討伐した衝撃猪(インパルスボア)を遥かに上回る怪物である。

 

 しかも、厄介なのはその食性だった。

 

 暴虐狒々は雑食性であり、植物から小動物、大型の獣に至るまで、口に入るものなら何でも食べる。

 

 特に食欲が旺盛な個体は、食料を求めて広範囲を移動することが知られていた。

 

 

 

「――ふわぁ」

 

 

 

 そんな怪物を前にして、ニッペも驚きの声をあげている。

 

 

 

「何で……コイツが……!」

 

 

 

 声が震える。

 

 

 

(――A級魔獣が近くにいるなんて聞いてないわよっ!? くっそ、ギルドの奴らぁ……!)

 

 

 

 森の浅い区域で受けられるD級採取依頼。

 

 少なくとも、セネカがギルドで確認した時点では、危険な魔獣の出没情報などなかった。

 

 もしA級魔獣が確認されていたなら、ギルドは必ず注意喚起を行うはずだ。

 

 しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。

 

 問題は、なぜこの怪物がここにいるのかということだった。

 

 

 

(……だとしても、何で真っ直ぐこっち来た? このあたりにコイツが餌にするようなモンなんて――)

 

 

 

 そこで、セネカの思考が止まった。

 

 

 

(――あ)

 

 

 

 ゆっくりと視線を動かす。

 

 ニッペ。

 

 その背中。

 

 巨大なリュック。

 

 中には、大量の食料。

 

 肉。

 

 魚。

 

 果物。

 

 野草。

 

 それらが、文字通り山ほど詰め込まれている。

 

 

 

『グルルルルルッ……!』

 

 

 

 暴虐狒々が低く唸った。

 

 その視線は、セネカではなく、ニッペの背中へ向けられていた。

 

 

 

「ふぇ?」

 

 

 

 ニッペが首を傾げる。

 

 

 

(――そうかっ!! ニッペの荷物かっ!!)

 

 

 

 セネカは歯噛みした。

 

 

 

(やらかした! やっぱ調子に乗って集めすぎたか!!)

 

 

 

 狒々は、食料の匂いに引き寄せられたのだ。

 

 森の深層から移動してきたのか、それとも元々この近くを徘徊していたのか。

 

 今となっては、どちらでもよかった。

 

 

 目の前にA級魔獣がいる。

 

 

 それがすべてだった。

 

 

 

「――ニッペぇぇ!! 荷物置いて逃げるよっ!! ほらダッシュ!!」

 

 

 

 セネカは叫んだ。

 

 食料など惜しくない。

 

 今日一日の成果がすべて無駄になったとしても構わない。

 

 命さえあれば、また稼げる。

 

 借金だって返せる。

 

 だが、ここで死んでしまえば、それまでだ。

 

 セネカはニッペの腕を掴もうとした。

 

 しかし。

 

 

 

「――できません」

 

 

 

 返ってきたのは、予想外の言葉だった。

 

 

 

「――あぁっ!?」

 

 

 

 セネカは思わず振り返った。

 

 ニッペは、いつものようににこにこと笑ってはいなかった。

 

 その小さな顔には、珍しく真剣な表情が浮かんでいる。

 

 

 

「食料をまってるひとがいます。なら、おいていけません」

 

「――こんっ……!」

 

 

 

 セネカは言葉を詰まらせた。

 

 確かにそうだ。

 

 依頼主は、食料を必要としている。

 

 だからこそ、冒険者ギルドに依頼を出したのだ。

 

 ニッペの言っていることは、決して間違っていない。

 

 だが、それは。

 

 今、この状況で言うべきことではない。

 

 

 

「――状況考えろバカガキっ!! 冒険者は命あってだ!!」

 

「でも――」

 

『ゴガアアアアアッ!!』

 

 

 

 暴虐狒々(ライオットコング)が動いた。

 

 四本の腕のうち、一本が大きく振り上げられる。

 

 それだけで、周囲の空気が押し潰されるような圧迫感が生まれた。

 

 セネカの背筋に、ぞっとするほど冷たいものが走る。

 

 

 

「――ニッペぇぇぇ!!!」

 

 

 

 セネカは咄嗟にニッペへ飛びついた。

 

 小さな身体を抱え込み、そのまま横へ跳ぶ。

 

 直後。

 

 ズドオオォン!!

 

 凄まじい衝撃音が響き渡った。

 

 狒々の拳が、二人のいた場所へ叩きつけられたのだ。

 

 地面が爆ぜた。

 

 土砂が舞い上がり、砕けた石が周囲へ飛び散る。

 

 衝撃で近くの木々が大きく揺れた。

 

 

 

「えほっ……! ――っぶねえ!」

 

 

 

 セネカは咳き込みながら立ち上がった。

 

 間一髪だった。

 

 あと一瞬遅れていれば、二人まとめて肉塊になっていただろう。

 

 セネカは背後を振り返った。

 

 そこには、狒々の拳によって大きく抉られた地面があった。

 

 ぞっとする。

 

 あんなものをまともに受ければ、盾ごと身体を粉砕される。

 

 B級冒険者である自分ですら、正面から戦って勝てる相手ではない。

 

 

 

「セネカさ――」

 

 

 

 ガシッ。

 

 セネカはニッペの両肩を掴んだ。

 

 その顔を、真正面から見据える。

 

 

 

「いいかガキっ。アンタが冒険者としてやってくっつーなら、よく覚えとけ」

 

 

 

 低い声だった。

 

 怒りを押し殺したような、しかし、どこか切実な響きを持った声。

 

 ニッペは目を丸くして、セネカを見つめた。

 

 

 

「――冒険者はなぁ! 他人を犠牲にしたとしても、自分の命を優先しなきゃなんねぇ生き物なんだよっ!!」

 

「――」

 

 

 ニッペは黙っている。

 

 セネカは続けた。

 

 

 

「誰かを守るなんざ綺麗事は、テメェの命を碌に護れねぇ馬鹿の戯れ言だ!!」

 

 

 

 それは、十一年間の冒険者生活で彼女が学んだことだった。

 

 冒険者という職業は、決して華やかなものではない。

 

 英雄譚に描かれるような、勇気と友情だけで乗り越えられる世界ではないのだ。

 

 実力の足りない者は死ぬ。

 

 判断を誤った者は死ぬ。

 

 そして、時には仲間を助けようとした者まで、道連れになって死ぬ。

 

 セネカは、そんな光景を何度も見てきた。

 

 だからこそ、生き残ることを何よりも重視してきた。

 

 逃げるべきときには逃げる。

 

 捨てるべきものは捨てる。

 

 どれほど悔しくても、どれほど惨めでも。

 

 生きてさえいれば、次がある。

 

 

 

「だから生き抜かなきゃなんないんだよ。犠牲にするモンのためにも!」

 

 

 

 セネカの声が震えた。

 

 恐怖からではない。

 

 いや、恐怖もあった。

 

 だが、それ以上に、目の前の少年へ伝えなければならないという思いがあった。

 

 冒険者になったばかりの、この世間知らずな少年に。

 

 命を懸けるということの意味を。

 

 

 

「だからアンタも犠牲にしろ。食料だろうと何だろうと――」

 

 そこで、セネカは一度言葉を切った。

 

 そして。

 

 

 

「ア(・)タ(・)シ(・)だ(・)ろ(・)う(・)と(・)」

 

「――ぇ?」

 

 

 

 ニッペが小さく声を漏らした。

 

 セネカは、その肩から手を離した。

 

 

 

「アタシが囮になる。だからアンタは町に逃げろ。んで助け呼んでこい」

 

「――え、え?」

 

 

 

 ニッペは困惑したように瞬きを繰り返した。

 

 当然だろう。

 

 先ほどまで、他人を犠牲にしてでも生き残れと言っていた人物が、自分を犠牲にすると言い出したのだから。

 

 だが、セネカにとっては矛盾していなかった。

 

 少なくとも、彼女自身はそう考えていた。

 

 自分はB級冒険者だ。

 

 十一年間、修羅場を潜り抜けてきた。

 

 相手がA級魔獣であっても、時間を稼ぐ程度ならできるかもしれない。

 

 しかし、ニッペは違う。

 

 今日登録したばかりのE級冒険者。

 

 戦闘経験もない。

 

 少なくとも、セネカはそう認識していた。

 

 そんな少年を、この怪物の前に置いておくわけにはいかない。

 

 

 

「安心しろ。死ぬ気はない。少しでも応援が来るまでの時間を稼ぐだけよ」

 

 

 

 セネカは笑ってみせた。

 

 いつものような、少し不敵な笑みだった。

 

 しかし、その額には冷や汗が浮かんでいる。

 

 勝算など、ほとんどない。

 

 A級魔獣を相手に、B級冒険者が単独で時間を稼ぐ。

 

 言葉にすれば簡単だが、実際には命懸けどころの話ではない。

 

 それでも。

 

 他に方法はなかった。

 

 

 

「でもぅ……セネカさ――」

 

 

「――いいから行けよクソガキがぁ!!! それともアタシを殺してぇのかぁ!!?」

 

 

「――」

 

 

 

 ニッペの言葉が止まった。

 

 セネカは、少年の目を真っ直ぐに見つめた。

 

 その視線に込められていたのは、怒りではない。

 

 ただ一つ。

 

 生きてほしい。

 

 それだけだった。

 

 ニッペは、しばらく黙っていた。

 

 何かを言いたそうに口を開きかける。

 

 しかし、結局何も言わなかった。

 

 そして。

 

 ――ダッ!

 

 小さな足音が、森の中へ遠ざかっていった。

 

 セネカは、その背中を見送った。

 

 追いかけようとはしなかった。

 

 ただ、少年の姿が木々の向こうへ消えるまで、じっと見つめていた。

 

 

 

(そう、それでいい)

 

 

 

 胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。

 

 

 

(何かを犠牲にしなきゃ、冒険者は務まらない)

 

 

 

 ニッペは逃げた。

 

 それでいい。

 

 今の彼に必要なのは、怪物へ立ち向かう勇気ではない。

 

 生き残るために、何かを捨てる覚悟だ。

 

 今日、そのことを学んでくれたのなら。

 

 少なくとも、自分がここに残る意味はあった。

 

 

 

「――ハァ。バカだよなぁ、アタシも……」

 

 

 

 セネカは小さく笑った。

 

 自分で言っておきながら、何とも滑稽な話である。

 

 他人を犠牲にしてでも生き残れ。

 

 そう教えた本人が、真っ先に他人のために命を懸けているのだから。

 

 マークスとルミンがこの場にいたら、何と言うだろう。

 

 きっと呆れるに違いない。

 

 いや。

 

 あの二人なら、こう言うかもしれない。

 

 

 ――やっぱりセネカはセネカだね。

 

 

 

「まぁ、でも」

 

 

 

 セネカは剣を抜いた。

 

 使い慣れた刃が、木漏れ日を受けて鈍く光る。

 

 左腕にはバックラー。

 

 何度も命を救ってくれた、小さな盾。

 

 十一年間、苦楽を共にしてきた相棒たちだった。

 

 

 

「これも、らしいっちゃらしいか……」

 

『――グルルルルルゥゥ……!』

 

 

 暴虐狒々が唸った。

 

 四本の腕を地面につき、巨体をゆっくりと持ち上げる。

 

 その視線は、もはや逃げていった少年ではなく、目の前に残った女冒険者へ向けられていた。

 

 セネカは剣を構えた。

 

 膝を軽く曲げ、重心を落とす。

 

 呼吸を整える。

 

 恐怖は消えない。

 

 心臓は早鐘を打ち、握った剣の柄は汗で湿っている。

 

 それでも、足は震えなかった。

 

 十一年間。

 

 この足で、何度も死地を踏み越えてきたのだ。

 

 今さら、怪物一匹を前にして逃げ腰になってたまるものか。

 

 

 

「待たせたわね、クソザル」

 

 

 

 セネカは口の端を吊り上げた。

 

 いつもの、擦れた冒険者の笑み。

 

 英雄でもない。

 

 勇者でもない。

 

 ただ、十一年間生き残ってきただけの、一人の女冒険者。

 

 だが。

 

 それがどうした。

 

 

 

「さ、こいよ。アタシを――」

 

 

 

 剣先を怪物へ向ける。

 

 赤い巨体が、怒りに満ちた咆哮を上げた。

 

 それに負けじと、セネカも声を張り上げる。

 

 

 

「冒険者セネカ・ロッソを舐めんなよっ!!」

 

 

 

 森が震えた。

 

 怪物が吠えた。

 

 そして、一人の冒険者が地を蹴った。

 

 

     第四話 了

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