深夜二時五十五分。
昭和の面影を色濃く残し、時代の波に取り残されたかのようにひっそりと佇む寂れた郊外のマンモス団地――「夕凪台団地」。
ひんやりと湿った夜風が吹き抜ける外廊下には、水漏れパイプから落ちる
「ポチャン、ポチャン」
という単調で気味の悪い水音だけが虚しく響き渡っていた。
夜な夜な住人が理由も分からないまま奇妙な自死を遂げ、見えないロープで首を吊り上げられるという不気味な怪奇の噂が囁かれるこの魔境。一歩足を踏み入れれば、いかに屈強な人間であっても狂気に飲まれ、絶望の底で命を落とすと言われている。
しかし、そんな恐怖のスポットに足を踏み入れた一人の男は、周囲の異様な気配や澱んだ呪いの空気などまるで意に介さず、ただ深い溜息を吐きながら面倒臭そうに歩いていた。
「ハァ...」
彼、狗飼 零《いぬかい れい》にとって、夜な夜な現れる幽霊や怪異とは、恐怖の対象どころか、「真夜中に静寂を破る、ただの不法侵入にして迷
惑な害獣(あるいは騒音の元凶)」に他ならなかったのだ。
――ギィィィ……ン、ギィィィ……ン。
静寂を切り裂くように、頭上の暗闇から錆びついた金属ロープが軋むような不気味な音が響き渡る。
吹き抜けの天井から、幾重もの黒髪の束がドサリと垂れ下がり、冷たい死者の息が男の耳元をねっとりと這う。
「……見ィ……た……な……」
直後、目に見えない強烈な「見えないロープ」が男の首元へと容赦なく巻きつき、その身体をふわりと宙へと引き上げた。確実に首を絞め上げる窒息の圧力が襲いかかる。
しかし、当の男の顔にあったのは恐怖でも怯えでもなく、深夜の安眠を邪魔されたことに対する剝き出しの不機嫌と、猛烈なウザそうな表情だけだった。
「――っせえな、夜中にガタガタと人の頭上で暴れてんじゃねえよ。近所迷惑だろが」
腹の底から響く凄まじい低音を吐き捨てると、男は宙吊りのまま、触れるはずのない冷たい霊体の腕をガシッと力任せに鷲掴みにした。
「ひゃ、ひゃあぁっ……!? な、なにこの変質者ぁっ――!?」
天井の暗闇から這い出そうとしていた女の幽霊は、恐怖を教えて絶望に沈めるはずが、逆にセクハラじみた実力行使で全身を容赦なく揉みしだかれ、青白い顔を一気に真っ赤に染めてパニックの渦へと突き落とされた。
「しょ、触るなっ! 私はこの団地を呪う恐ろしい怨霊で――」
「うるせえ、死人に人権無し! ぐうの音も出ねえように黙らせてやらあ!」
「きゃああっ!? なんで霊体に触れるのよ!? 最低最悪よこの迷惑男っ……!!」
怨霊としての揺るぎない威厳は完全に粉砕され、常識外れの怪力から繰り出される無慈悲なスキンシップに、女の幽霊はポロポロと大粒の涙をこぼして泣き叫ぶしかなかった。
「夜更けにジメジメと湧いて出て人を不愉快にするんじゃねえ。お前は今日から俺のペットの『犬』だ。その辺の電柱にしがみついて番犬でもしてろ!」
男はそう言い放つと、容赦なく霊的な首輪を幽霊の首元にカチャリと装着した。
圧倒的なフィジカルと、幽霊を害獣扱いするマイペースすぎる暴挙の前に、呪いも殺意も完全にペースを狂わされた怨霊は、半泣きになりながら真夜中の電柱にしがみつかされる羽目になったのだった。
だが、『死人に人権無し!』の迷惑対策ツアーは、まだ始まったばかりに過ぎない。