深夜の静寂を引き裂くように、夕凪台団地の廊下にポチの情けない嗚咽が響き渡っていた。
「ひっ……ひぐッ……なんで夜な夜な電柱にしがみついて『ワン』って鳴かなきゃいけないわけぇ……!?」
電柱にしがみつき、涙目でブルブルと震えているポチをよそに、飼い主である零はヤニの切れたポケットからジッポライターを取り出してカチリと火をつけた。
「うるせえな。夜更けにジメジメと首を吊って周囲の景観を損ねる害霊が、少しは役目を果たせ。……にしても、夜風が冷える割に空気が澱んでやがる」
零は紫煙をふーっと吐き出しながら、不機嫌そうに舌打ちをした。
ふと、その視線が外廊下の突き当たり、地下階段へと続く重い防火扉へと向けられる
その奥からは、ただの幽霊とは一味違う、もっとドス黒く禍々しい気配がじっとりと這い出そうとしていた。
「おい、ポチ。騒音被害の次は生ゴミでも不法投棄されたような匂いがするんだが」
「だから私はポチじゃない! まぁ元の名前もわすれちゃったんだけど...それでもせめてもう少しマシな名前があるでしょ…!」
「で、あそこには何が居るんだ?地下...?から臭いがするがお前ら害霊のお仲間か?それにしても霊にしては臭すぎるが」
「コレじゃ臭すぎて夜も満足に寝れねぇ...ついでだ、あの不法投棄野郎をぶっ転がしに行くから案内しろ」
そう零が冷たでポチに問いかけると、ポチはガチガチと歯を鳴らしながら必死に首を横に振った。
「ひ、ひぃっ……! あれはダメ、あそこだけは絶対に近づいちゃいけないの! この団地の地下には、私たちみたいな雑魚とは格が違う、無数の首を束ねた『首吊りの主』が棲みついてるのよっ! 下手をすればあなたのそのふざけた肉体ごと、ぐちゃぐちゃのロープに縫い合わされ――」
「……まだ反抗する気か?お前は大人しく俺の言う事を聞け、 犬は従順なのが世の理だろ、それともアレか? 犬らしく生まれたままの姿にでもしてやるか?
どうせお前等害霊なんて霊感ある奴しか見えないんだろ?」
「ひゃああっ!? な、なんでそっちの方向で容赦がないのよこの変質者ぁっ……!! そもそも私、霊体だから服なんて概念最初から――」
「文句が多いぞ。服がないなら今すぐその見栄えの悪い呪いの布切れをちぎり捨てて、ツルッパゲの全裸犬にしてやろうか?」
「もっと最悪の選択肢をブッ込んできたわね!? 頼むから人権――あ、死人だから人権なかったわ私っ……!!」
冷酷な脅し文句と、文字通りの意味ですべての尊厳を剥ぎ取ろうとする悪魔的な眼差しに、ポチはガタガタと全身を震わせながら涙目で首をブンブンと横に振るしかなかった。
「ふーん、無許可で地下に巣くってる不法占拠者ってわけか。おまけに夜中に不快な悪臭まで撒き散らしやがって。どこのどいつかしらねえが、勝手に人の睡眠妨害をしてくれたツケをその身で払わせてやらねえと気が済まねえな」
ポチの必死の懇願を完全に無視し、零は殺伐とした冷笑を浮かべた。彼にとって怪異とは、不可視の脅威や恐ろしい存在ではなく、「真夜中の平穏を害する、ただのドブネズミと同レベルの不愉快な害獣」に過ぎなかった。
「ちょうどいい。夜の散歩がてら、その不法占拠者の巣ごと踏み潰して、二度と無駄吠えできねえように恐怖と絶望の底で這いずり回らせ、ウチの惨めな『二匹目の犬』にしてやらあ」
「なっ……! 本気なのこの男!? 相手は呪いの主よ、人間なんて一飲み――!」
「うるせえ、鳴くなポチ。お前も、人間の安眠を邪魔するクズがどうやって躾けられていくか、その目にしっかり焼き付けておけ」
零は首輪のリードを乱暴に引っ張り、ブルブルと震えるポチを引きずりながら、不気味な湿気を帯びた地下階段へとずかずかと足を踏み出していく。
地下の底から吹き付ける冷気がどれほど猛威を振ろうとも、迷惑害獣を恐怖のどん底に叩き落としに行くその足取りに、迷いは微塵も存在しなかった。