私――安田優子は、パソコンの画面に目を落としていた。
案件一覧を眺めていると、フロアの奥から声が聞こえた。
「おはようございます」
よく通る、穏やかな声だった。
――坂本裕也。
この部署の部長だ。
壁際のデスクの奥には、ガラスで仕切られた一角がある。
ブラインドは半分だけ開いていた。
坂本部長の声で、数人の社員が同時に立ち上がった。
私は一拍遅れ、慌てて立ち上がる。
「部長、おはようございます!」
返事の大きさまで揃っていた。
坂本部長は柔らかい笑みを浮かべた。
「今日の稼働状況を、九時半までに一度まとめてください」
近くの社員がすぐに頷いた。
指示というより、確認に近い言い方だった。
私は席に戻った。
キーボードを打つ音が、さっきより少し速くなっていた。
坂本部長は歩きながら、別の社員に声を掛ける。
「昨日のクライアントの案件、もう一度だけ確認しておきましょうか」
「はい、私の方で整理しておきます」
すぐに答えたのは、須藤幸子だった。
「助かります。さすがですね」
坂本部長が笑った。
幸子は礼を述べ、すぐに仕事に取り掛かった。
私は画面を見たまま、指を止めた。
整いすぎていた。
坂本部長がガラスの内側に入ると、フロアは少し静かになった。
仕事に戻ったが、案件の処理で手が止まった。
――この先が分かりにくい。
そのとき、幸子が近づいてきた。
「ねえ、安田さん。困ってることない?」
「あっ、はい。ここなんですけど」
私が画面を示すと、幸子は隣に立ち、丁寧に説明してくれた。
「入社してまだ二週間ですからね。安田さんなら、そのうち慣れますよ」
幸子は微笑んで、席に戻った。
胸の奥が少し温かくなった。
入社して最初に声を掛けてくれたのも、幸子さんだった。
「あっ、あの、すみません! 誤作動です!」
裏返った声が聞こえた。
和田雅子がデスクの下に潜り込み、配線に触れていた。
周囲の社員たちが顔を向ける。
幸子がゆっくり歩いていった。
「和田さん。そこから少し離れてくれる?」
雅子は青ざめた顔で這い出した。
「気にしなくていいのよ。この画面になるのは、誤作動じゃなくて――」
幸子が説明すると、雅子は何度も頷いた。
幸子は雅子の肩をさすった。
「慎重に考えるのは、悪いことじゃないと思いますよ。この仕事は、丁寧さが求められます」
雅子は小さく頭を下げた。
私はフロアの奥に目をやった。
坂本は部長は、パソコンの画面を見ながら微笑んでいた。
「どうしたの、安田さん」
隣の社員が聞いた。
「あっ、いえ。坂本部長、頼り甲斐があるなと思いまして」
私は適当に答えた。
その社員はにこりと笑った。
「まだ三十五歳ですけど、社内でも評判なんです。一分の隙もない人だって。坂本部長、AB型なんですよ。AB型って、きちんとした人が多いでしょ」
「そうですね。しっかりしていて、優しい印象があります」
私はパソコンに向き直った。
けれど、もう一度だけ奥を見た。
坂本は、まだ笑っていた。
パソコンの画面を見ながら。
その笑顔だけが、残った。