ヨコハマを拠点とする異能集団、武装探偵社。
所属する社員の多くが"異能"をもっており、軍警が手を出せない依頼をこなす組織だ。昼の世界と夜の世界その間を取り仕切る薄暮の武装集団。
そこで働く事務員である
「お疲れ様、調子はどう?」
雪子は文子へ声をかけると、文子はため息をついて振り向いた。どうやら調子は良くなさそうだ。彼女との付き合いは長い。顔を見ただけで何を思っているか簡単に分かる。
「虎を探すって言ったってねぇ…」
「区の災害指定猛獣だっけ?」
「そ、何件か被害あった場所見に行ったけど。酷いもんだったわよかなり」
文子がパソコンの写真を見せた。荒れた畑などが酷い有様だ。飢えた獣の仕業、と言うだけでは足りない程に。
「今は国木田くんと太宰くんが、調査に行ってるんだよね」
そう聞くと、文子は頷いた。
国木田独歩、太宰治。どちらもこの探偵社では優秀な職員だ。二人に任せておけば大丈夫だよ、なんて言うが、文子の顔は依然変わらずだった。
「私にはね、あいつがなにもしないで平穏に仕事を終わらせるとは思わないのよ」
ーートゥルルル…
文子がそういった時、待ってましたと言わんばかりに携帯が鳴る。
文子は名前を見て再びため息をついた。
「ほらね」
そう言って雪子へ見せるように電話にでると、『太宰がいない!!!』と聞こえてくる。
国木田独歩からの電話は、大抵、第一声が大きい。
雪子にも聞こえるほどに。
文子は携帯を耳から少し離した。
「それは大変ね」
『他人事のように言うな! そっちへ戻っていないか』
「戻ってないわよ。今日は一緒に虎探しでしょ?」
窓の外へ目を向ける。
昼下がりの横浜は、拍子抜けするほど穏やかだった。
『その途中で消えたんだ。何か聞いていないか』
「聞いてないけど……川は?」
『……川?』
「天気いいし」
電話の向こうで、国木田が深く息を吸った。
怒鳴り出す前に、文子は付け加えた。
「見つかったら連絡ちょうだい。こっちは昨日の被害現場、もう一回見てくるから」
『単独で追うなよ』
「分かってる。見に行くだけ」
雪子はお盆を片手に、大変そうだなぁと呑気に眺めていた。
とはいえ、ほぼ日常茶飯事のこれらも雪子にとっては愛おしい。
文子が通話を切ると、向かいの机から声がした。
「太宰?」
文子は頷き、自身の腕時計を確かめた。
「あいつ、捜索対象増やしてどうすんのかしら」
「国木田君なら見つけるでしょ」
「そうね。あっちも大変だわ」
そう言いながら、文子は机へ置いていた資料を見た。何度も目で文字を追ってから、袖口を軽く引く。
「また行くの?」
朝から行ったり来たりしている文子を、雪子は気遣わしげに見た。
「少しね。気になることもあるし……ん、お茶ありがとう」
いつの間に飲みきったのか、差し出された空の湯呑を受け取ると、雪子はそのまま文子を見送った。
その頼もしい後ろ姿に、ふっと小さく微笑んだ。
◇
"ここへ来て欲しい"と、太宰から連絡を受けてやって来たのは何の変哲もない食事処だった。
個人でもう一度被害現場へ向かっている時、メールが来たのだ。
文子が中へ入るとすぐ、太宰が片手を上げてニコニコとした笑顔でこちらを見ていた。隣には国木田がいて、二人の前には一人の少年が座っていた。
「国木田、見つけたのねこいつ」
「あぁ、やはりお前の言っていた通り川だった」
文子は少年の隣へ座ると、まじまじと彼を見た。普通の少年。少しボロボロなだけの。
太宰は彼に助けられたんだ、と文子に言った。
「あ、あの…」
少年が恐る恐る声をかける。机には既に大量の茶碗があり、積み重なった茶碗から、相当腹を空かせていたらしいのが分かる。
「自己紹介、まだだったわね。武装探偵社の円地文子よ。よろしくね」
「中島敦です!あの……今日のお仕事というのは」
文子はあら、と目をぱちくりさせ太宰たちを見る。
まだ言ってなかったのか、という気持ちとこの子にどこまで言うつもりなの?という気持ちだった。
すかさず国木田が口を開いた。
「軍の依頼で虎探しをしている」
「近頃街を荒らしている噂の人食い虎だよ」
続けて言った太宰に、敦の表情が曇っていく。
「あらあら、どうしたのかしら」
文子が顔を覗き込む。
「ぼ、僕はこれで失礼します!」
敦は椅子から飛び上がり、慌てた様子で床へ転がり落ちる。どこからどう見ても、何か事情を知っているようにしか見えない。この少年を国木田が逃すわけなかった。
「待て小僧。貴様なんか知っているな?」
国木田が敦の首根っこを掴んだ。それでも走っていこうとする少年が、まるで猫のようで少し面白かった。
「無理だ!奴に人が敵うわけない!」
敦が必死な形相で訴える。それを文子は腕を組んで見ていた。ただの普通の少年かと思ったが、そうではないらしい。
「貴様、人食い虎を知っているのか?」
「あいつは僕を狙ってる…殺されかけたんだ!この辺に出たんなら早く逃げないと!」
「小僧!茶漬け代は腕一本か全て話すかだな」
敦の顔に冷や汗が浮かぶ。文子は息を吐いて国木田の肩に手を置いた。
「そこら辺にしといてあげたら?こんな怯えてるのに可哀想よ」
「そーそー、君がやると尋問みたいだよ」
文子と太宰に言われ、国木田はぺっと手を離した。
突然床に落ちた敦は、そのまま体を打ち付ける。すかさず文子は手を差し伸べた。
「中島敦くん……貴方の知ってること、教えてくれるかしら」
床に這う敦に、優しく聞いた。
自身の髪を耳にかけ、彼を見下ろす。その姿に、敦がゆっくりと口を開いた。この人になら安心して話せる、そう思わせる何かが文子にはあった。
敦は彼女の手を取り、体を起こす。
「……ウチの孤児院はあの虎にぶっ壊されたんです。畑を荒らされ…鳥小屋も壊され…それに倉庫も…」
敦の証言は、確かに今までの被害と一致していた。
文子は探偵社を出る前に確認した写真を思い出した。
「死人こそ出なかったけど、貧乏孤児院がそれで立ち行かなくなって、口減らしに僕は追い出された。それにあの人喰い虎…僕を追いかける様に僕の行く所の先々に現れるんです。この間も…」
敦は怯えるように続けた。恐怖からなのか口が止まらない。
「施設を追い出された二週間前から、何度もあいつの影を見た」
「その虎を最後に見たのはいつの話だい?」
「鶴見の辺りであいつを見たのが、確か四日前です」
太宰の問いかけに、敦は素直に答えた。
実際、虎の被害は二週間前からここら一帯で起きている。
敦の証言に矛盾はない。
太宰は少し、何かを考える素振りを見せた。
「あんた、何考えてるの」
「大体君と同じことを考えているよ」
太宰はふ、と笑うとすぐ敦へと顔を向けた。
「敦君これから暇~?虎探しを手伝ってくれたまえ」
「いやですよ!」
間髪入れずに返ってきた拒絶にも、太宰は笑顔を崩さなかった。懐から手帳を取り出し、何事かを書きつける。
「国木田君は社に戻ってこのメモを社長に」
「おい、三人で捕まえる気か?まずは情報の裏を取って…」
「いいから」
短い一言に、国木田が口を閉じる。
文子も太宰へ目を向けた。声を荒らげたわけではない。けれど、さっきまで敦をからかっていたときとは違う響きだった。
国木田はもう一度メモを見て、不満そうに息を吐いた。
「私はついて行っていいのかしら」
「うん、優しいお姉さんがいた方が気が楽だろう?」
太宰が敦を見た。文子もつられて見ると、目が合った。
「僕は嫌ですからね!それってつまり、餌ってことじゃないですか!文子さんがいるからって___」
「報酬出るよー?」
「報酬!?報酬って…そんなものじゃ釣られませんからね!」
敦はきっぱりと言い切った。
文子が腕時計を触る。その隣で、太宰は何も言わずに返事を待っていた。
「ちなみに…その報酬というのは…」
「これくらい」
おずおずという敦に、太宰が袋を見せる。それを見た敦の目が釘づけになった。
太宰も太宰で、どこからそのお金を用意したのか、今は聞かないでおいた。
「くくっ、現金な子」
文子は口元に浮かんだ笑いを、そっと手で隠した。
◇
太宰達が歩いて来たのは、今は使われていない倉庫だった。
すっかり暗くなった外を、三人は歩いた。
「寒くないんですか?」
敦は肩が出ている文子へ聞いた。
女性とはお洒落をするものだとはよく言うが、文子の服装は肩の出ている服に、デニムの短パン。靴はスニーカーで動きやすそうだが、露出が些か多く目のやり場に困る。
「寒いわよ。でも慣れたわ」
「文子ちゃんは基本的にこのスタイルなんだよ」
太宰が手に持つ本を閉じ、文子を紹介するように言った。文子は舌打ちをした後軽く太宰を殴る。「うっさい!」らしい。
「……本当に虎はここに現れるんでしょうか」
とある倉庫内に入ると、敦は立ち止まった。
太宰も立ち止まったのを見ると、どうやら目的地はこの倉庫だったようだ。
中の窓から月明かりが三人を照らした。
「現れる。何、心配いらないよ。虎が現れても私の敵じゃない。こう見えても武装探偵社の一隅だ」
倉庫の中は静かだった。高い窓から差す月明かりが、床へ淡い四角を落としている。
文子は壁際に立ち、敦の様子を見ていた。彼は落ち着かないのか、僅かな物音にも視線を動かしている
「すごい自信ですね。なんか羨ましいです。僕なんか孤児院でもずっとダメな奴って言われてて…その上、今日の寝床も明日の食いぶちも知れない身で…」
敦の声が、次第に小さくなった。
「確かにこんな奴がどこでのたれ死んだって誰も気にしない…いや、いっそ虎に食われて死んだ方が…」
敦の呼吸が浅くなってきた。文子は彼を見る。落ち着かせるべきか、太宰をちらっと確認した。太宰は大丈夫、と口パクで言う。
「さて、そろそろかな」
太宰の視線は敦を見ていた。
その顔を確かめ、文子は言いかけた言葉を飲み込んだ。
ーーカタン……
奥で、かすかな音がした。
「今、奥で物音が!きっと奴ですよ、太宰さん!人食い虎だ!僕を食いに来たんだ!」
敦が弾かれたように振り向いた。逃げ道を探す目が入口へ走る。慌てふためくその姿を、文子と太宰は静かに見ていた。
文子は壁から背を離した。
「敦くん。まだ、何も見えてないわ」
「でも、今――」
「落ち着きたまえ、敦君。虎はあんな所からは来ない」
太宰が穏やかに言う。
敦の顔が、ゆっくりと彼へ戻った。
「……どういうことです?」
「そもそも変なのだよ。経営が傾いたからって、そんな理由で養護施設が児童を追放するかい?」
問われて、敦は口を閉じた。
文子は少年の横顔を見る。
食事処で聞いた話を、頭の中でもう一度並べる。施設を追い出された日。街へ来た時期。被害の起きた場所。
あのときから引っかかっていたものが、同じところへ繋がっていく。
けれど敦は、自分が追い出された理由を疑っている様子もなかった。
「普通はね、そうなっても次の施設を斡旋するものよ」
文子が淡々と答える。敦の瞳が揺れた。
「それは……でも僕は……」
「君がこの町に来たのが二週間前。虎が町に現れたのも二週間前。君が鶴見の辺りにいたのが四日前」
太宰は一つずつ、敦自身が話したことを並べていった。
敦は口を開きかけたが、何も言わなかった。否定しようにも、どれも身に覚えがある。
「同じ場所で虎が目撃されたのも四日前。国木田君が言っていたろう。武装探偵社は異能の力を持つ輩の寄り合いだと」
敦の視線が、文子へ向いた。
食事処で名乗った彼女も、探偵社の人間だ。
文子は目を逸らさなかった。
「あまり知られていないが、この世には異能の力を持つ者が少なからずいる」
少しづつ、窓の月明かりが敦を照らしていく。
敦は自分の手へ目を落とした。何かを確かめるように指を開き、また握る。
「そして、その力で成功する者もいれば、力を制御できずに身を滅ぼす者もいる」
文子の指先が、腕時計の縁に触れた。
無意識の仕草だった。
気づいて手を下ろすと、太宰と目が合った。彼はほんの一瞬だけこちらを見て、すぐに敦へ視線を戻す。
「……待ってください」
敦の声が掠れた。
「それ、僕と何の関係があるんですか」
文子は少年を見た。
さっきまで倉庫の奥を警戒していた目が、今は太宰の返事を恐れている。
自分が追われているのだと、彼は信じている。逃げても逃げても虎が現れる、その理由を。
「っ、ハァハァ……ぁぁぁぁ!!」
敦が身体を折った。指が床を掻き、爪の先が鋭く伸びる。
文子は息を呑み、半歩退いた。助けを求めるようにこちらを向いた少年の顔が、月明かりの下で変わっていく。
「多分、施設の人達は虎の正体を知っていたが、君には教えなかったのだろう」
太宰が歩み寄る。
「君だけが分かっていなかったんだよ。君も異能の力を持つ者だ。現身に飢獣を降ろす、月下の能力者」
少年の姿は、もうなかった。
月明かりの下で、白い毛に覆われた巨体が身を起こす。低い唸り声が倉庫に響き、鋭い爪が床を擦った。
文子は虎の動きを追いながら、太宰から距離を取った。あの爪をまともに受ければ、ただでは済まない。
それでも、太宰は逃げなかった。
「獣に食い殺される最期というのも、なかなか悪くないが……」
「冗談でもやめなさいよ」
文子の声に、太宰が口元を緩める。
こちらを振り返る余裕さえあるのかと、彼女は少し呆れた。
虎が身を低くする。
その視線が太宰を捉えた瞬間、文子も口を閉じた。
太宰は虎へ向き直り、静かに手を上げた。
「君では私を殺せない」
虎が床を蹴った。
舞い上がる埃の向こうから、白い巨体が迫る。文子は身構えたが、太宰は逃げなかった。
鋭い爪が届く、その直前。
「異能力――」
彼が手を伸ばす。
指先が、虎の額へ触れた。
「人間失格」
青い光が弾けた。
幾重にも連なる文字の帯が、太宰と虎を取り巻く。月明かりとは違う鮮やかな光に、文子は僅かに目を細めた。
唸り声が途切れる。
白い毛並みがほどけるように消え、その下から少年の姿が現れた。
「私の能力は、あらゆる他の異能力を触れただけで無効化する」
静かに告げる太宰を、文子は見ていた。
知っている能力だ。彼に触れられている間、自分も異能を使えなくなる。
けれど、あれほど暴れていた虎が一瞬で敦へ戻る光景には、改めて息を呑んだ。
光が薄れていく。
太宰の指が額を離れると、敦の身体が前へ傾いた。意識を失ったまま、ちょうど彼の胸元へ倒れ込もうとする。
それを一瞬受け止めたあと、
「男と抱き合う趣味はない!」
太宰がひょいと身を躱した。
「ちょっと!」
文子は慌てて踏み出し、敦の腕を掴んだ。勢いを殺しきれず膝をつきながらも、その頭が床へぶつかる前に支える。
「危ないわね!……てか、私の出番なかったじゃない!これいる必要あった?」
文子は敦をそっと床へ寝かせ、呼吸が落ち着いているのを確かめた。それから、ようやく太宰を睨む。
「あったよ。私が寂しくないだろう?」
「そんな理由で!?最悪!だったら帰ってたのに!」
太宰は楽しそうに笑っている。
文子は膝についた埃を払った。一緒に来いと言われなければすぐ帰っていたことが、この男には分かっていたのだろう。わざと着いてくるように言ったのだ。
「おい、太宰!」
倉庫の扉が開き、国木田が入ってきた。
身構えたまま辺りを見回す。その視線が、床に横たわる敦と、傍らでそれを見つめる文子で止まった。
「遅かったな、国木田君。虎は捕らえたよ」
太宰が片手を上げる。
国木田は二人へ近づき、敦の顔を確かめるように屈んだ。
「まさか、この小僧が」
「虎に変身する能力者だ」
国木田の眉間に皺が寄った。
食事処で怯えていた少年と、追っていた猛獣。その二つがようやく結びついたらしい。
「本人に自覚はなかったみたいね」
文子が付け加えると、国木田は短く息を吐いた。それから、折り畳まれた紙を懐から取り出す。
「まったく……何だ、このメモは」
「“十五番街の倉庫に虎が出る。逃げられぬ様、周囲を固めろ”……実に簡潔で良いメモだ」
太宰は悪びれもせず答えた。
国木田が紙を握り締める。その様子を見て、文子は敦から静かに手を離し、立ち上がった
「このメモ、要点抜けすぎじゃない」
「本当にな。おかげで非番の奴らまで駆り出した」
国木田がそう言った瞬間、入口から物音がして誰かが入ってきた。
一人ではない。数人の足音がする。
「なんだい、怪我人は無しかい。つまんないね」
そう言って現れたのは、探偵社の専属医である与謝野晶子だった。
文子とは古い友人であり、親友だ。
晶子はまず文子を見ると、怪我がないことを確認して次に横たわる少年へと視線を移した。
「中々できるようになったじゃないか太宰。まぁ僕には及ばないけどね」
晶子の後ろから乱歩が顔を出した。散らばった木片を避けて歩いてくると、文子の隣で足を止め、敦を覗き込む。
「文子、汚れてる」
「え?」
乱歩に指された場所を見れば、服の腰部分が白く汚れていた。敦を受け止める時についたのだろう。
「あぁ……こいつが受け止めないから」
「私が受け止めるより、敦君も嬉しいだろうと思って」
「意識ないんだけど、この子」
太宰は悪びれもせず笑っている。文子は呆れて息を吐き、腰の埃を払った。
「でもこの人、どうするんです?自覚はなかった訳でしょ?」
そう言いながら、乱歩たちについてやってきたのは、宮沢賢治だった。まだ14歳の幼い彼も、異能をもつ探偵職員だ。
賢治の問いに、国木田が手元のメモから顔を上げた。眠ったままの敦を見下ろし、眉間の皺を深くする。
「どうする太宰? 一応、区の災害指定猛獣だぞ」
昼間、食事処で怯えていた少年と、つい先程まで倉庫を駆け回っていた白虎。同じ存在だと知った今も、こうして見ると随分と印象が違う。
文子は敦の顔へ視線を戻した。
虎に追われているのだと、必死に訴えていた。自分が虎だとも知らず、寝る場所さえないまま逃げ続けていたのだ。
「実はもう決めてある」
太宰の声に、文子が顔を上げる。
「まさか…」
「そのまさかさ!文子ちゃん」
彼は床に倒れた敦を指し、晴れやかに言い放った。
「うちの社員にする!」
「はああああ!? 何の権限があって貴様は!」
国木田の怒鳴り声が倉庫に響き渡った。文子は思わず片耳を塞ぐ。
「ちょっと、起きちゃうでしょ」
「いや、起こすのだよ。起きろ少年!」
太宰が敦の肩を揺する。
文子は何か言いかけたが、敦の瞼が動いたのを見て口を閉じた。
「……ん……?」
薄く開いた目が、周りに集まる顔を順に映していく。敦はぼんやりと太宰を見上げ、それから身体を起こそうとした。
「ゆっくりでいいわよ」
文子が背中を支える。敦は小さく礼を言ったものの、まだ状況が飲み込めないらしく、壊れた倉庫の中を不安そうに見回した。
「敦君、変身中の記憶は全く無しかい?」
「何の事です?」
太宰は文子へ目を向けた。彼女も軽く首を振る。とぼけている様子ではなかった。
「あ、でもまだ右手に残ってる」
敦が自分の右手を見た。
白い毛に覆われた、大きな獣の手。曲がった指先には、鋭い爪が残っている。
「うわあああああああ!なにこれなにこれ!やだやだやだやだ!」
悲鳴を上げ、敦はその手を振り回した。
「ちょっと、振らない! 危ないから!」
文子は背中から手を離して身を引いた。太宰が笑いながら敦の右手を取ると、白い毛が消え、見慣れた人間の手へ戻っていく。
敦は息を止めるようにして、それを見つめていた。
「……僕が……?」
左手で右の手首を掴み、裏返しては指を曲げる。何度確かめても、もう爪も毛もなかった。
文子はその隣にしゃがみ直した。
「驚いたわよね。私たちも、今日初めて見たもの」
敦が顔を上げる。今にも何かを尋ねそうな唇が震え、けれど声にはならなかった。
「聞きたいことは、後で聞くわ。今夜寝る場所も決めなきゃいけないし」
「……でも、僕……」
「中島敦!」
突然、名前を呼ばれて敦の肩が跳ねた。
彼が顔を上げた先で、太宰が笑っていた。
「これより君は私達の仲間になれ。今日から君は武装探偵社の一員だ」
「はい?」
敦の口から、間の抜けた声が漏れた。
太宰を見て、国木田を見て、それから隣の文子を見る。説明を求めるような目に、文子は小さく肩をすくめた。
「私を見ても、今聞いたばかりよ」
「太宰、貴様にそんな権限はないと言っているだろう!」
「まぁまぁいいじゃない」
文子は国木田を宥める。敦は状況が分からずキョロキョロしていた。
ここから始まる新しい生活は、一体どうなるのか。今は誰も分からなかった。