【総集編】男女比1:1000の世界に生きる希少男子が、専属メイドに出会って人生を謳歌する話   作:木刀

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第3話 希少男子、記憶を失う

「あら。おはよう、圭人(けいと)」

 

 目が覚めて、ボーッとしたまま天井を見つめていると、懐かしい声が聞こえた。うーん、と伸びをしながら身体を起こすと、左腕に点滴が刺さっていることに気付く。

 

 たった今までベッド脇の椅子に座って農業系の情報誌を読んでいたらしい声の主を見る。

 

「……おはよう、母さん。ここ、どこ?」

「特区にあるやたら大きな病院よ。見てみなさい、私があなたを産んだ時のより豪華な病室よ。きっと、出てくる食事も豪華に違いないわ」

 

 母の芳乃(よしの)がそう言いながら指し示すのは、無駄に広い高級ホテルの一室のような部屋だった。点けられたままの大型テレビでは朝の情報番組が流れている。やっているのは、今流行りの男装アーティストの特集だった。

 

 その画面端に表示された日付は8月2日。

 

「え、あれ、間違えてない?」

「あれって?」

 

 母さんは聞き返しながらペットボトルから紙コップに水を注いでくれる。受け取って飲むと、病み上がり(?)の身体を気遣ってなのか、常温だった。喉が潤っていくのを感じる。

 

「ふぅ……あ、いや、日付のことだけど……」

「テレビはそんなの間違えないわよ。もしかして寝過ぎて感覚が狂ってるのかしら?」

 

 言われてみると、記憶があるのは日曜日の夜までだった。まさかそこから今まで、ずっと寝てしまったとか……? 終業式はどうなったんだろう? 気付かぬ間に夏休みに入ってしまったみたいだけど、大丈夫なんだろうか。

 

 そこまで考えて、少し頭が痛くなる。

 

「……僕、なにか変な夢を見てた気がする」

 

 それがどんな夢だったのかは、モヤがかかったように思い出せない。

 

「あら奇遇ね。私も昨夜は大きな熊と戦う夢を見たわ。当然勝ったけれど」

「あ、あぁそう……」

 

 人の話を聞かないこの感じは、まさに母さんだった。気を取り直して、会話を続ける。母さんの言うことをいちいち間に受けたら負けだ。

 

「それにしても、母さんが特区に来るなんて珍しいね」

「そりゃあねー。あなたはこんな状態だし、自宅も粉まみれにされて住めない状態だもの」

「……粉?」

「しかも始末に負えないやつね。おばあちゃんのトロフィーは全部死んだわ」

「トロフィー? 死んだ?」

「恵理(えり)もゲームのせぇぶでーた?とかいうのが消えたって気付いて泣いてたわ」

 

 ああ、それは確かに可哀想かも。オンライン上にバックアップを取って無かったなら、ちょっと自業自得ではあるけど。

 

「私もねぇ、田んぼも畑も隣の広田さん一家にお願いしてこっち来ちゃってて、いても立ってもいられない感じよ。まぁ、元凶っぽい人ぶん殴ってちょっとは気が済んだけど。……そういえば熊に似てたわね、あの子。だからあんな夢を見たのかしら?」

 

 話が全然見えてこない……僕の寝ている間に、周防(すおう)家で一体何があったんだろう。

 

「二人は今どこにいるの?」

「大臣さんが都内に取ってくれたホテルよ。ここと同じでとってもお高そうな部屋なんだけど……あまり落ち着かないのよねぇ。二人は喜んでるけど、小さな民宿とかの方が良いわね、私は」

 

 ダイジンさん? 母さんたちにそんな知り合いいたのかな。何にせよ、ホテルはお金がかかるしあまりお世話になるのも悪いだろう。

 

「じゃあ、最初からウチに来れば良いじゃない。……あれ、そういえば鍵はどこにあるのかな? 母さん、知らない?」

 

 当然のように僕がそう言うと、母さんがおかしなものを見るような顔で、こちらをまじまじと見つめる。僕、なにか変なこと言ったかな。

 

「圭人……あなた、もしかして覚えていないの?」

「え? 覚えてないって、何を?」

「月曜日のことよ」

「月曜日って、僕寝てたんじゃないの?」

「あのねぇ、いくら生まれつき寝坊助のあなたでも三日も四日も寝るわけないでしょう?」

 

 呆れられたように言われて、頭を少し働かせる。いや、そりゃそうかもしれないけど。しかし、全然思い出せない。

 

「……いや、何も。あっ、母さん、僕のことからかってるでしょう?」

 

 そうか、きっと今日が月曜日で、テレビでやってるようにみんなで僕をからかってるんだ。そうであれば全ての辻褄が合う。……でも、そのために人の腕に点滴刺すかな。いや、遼子(りょうこ)さんならやりそうか。

 

 とりあえず、先ほどから疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。どうせどこかのタイミングでみんな出てくるんだろう。

 

「そもそも僕、なんで病院のベッドに寝てるのさ? 遼子さんは?」

 

 僕の言葉を聞いた母さんは、テレビの前にあったテーブルの上から携帯端末を手に取った。母さんにしては珍しいことに、少し焦っているように見える。

 

「……ちょっと待って、今、楓(かえで)ちゃんを呼ぶわ」

 

 

 

 カエデちゃん?

 ……一体誰だろう、母さんの新しい友達だろうか。

 

 ていうか、ドッキリは?

 

 

 ◇

 

 

 診察はすぐに行われた。外傷がないことは、圭人の昏睡中に行った精密検査で既に確認済みだったため、結果が出るのは早かった。

 

「……解離性健忘(かいりせいけんぼう)、分かりやすい言葉で言うなら、強いストレスによる心因性の記憶喪失ですね。ちょうど月曜日からここへ運び込まれるまでの記憶が完全に抜け落ちているようです。また、小見山(おみやま)さんのことも、全く思い出せないようですね」

 

 白衣を着た年配の医師がそう言うと、椅子に座って話を聞いていた周防芳乃は困ったような顔をして尋ねる。

 

「あのー、先生、それってすぐに治るのかしら? なんだかすごく難しそうな名前の病気だけれど……」

 

「うーん、本人次第ですね……簡単に言うと、受け止めきれない現実など、脳が処理できない情報を一時的にシャットダウンしている状態なので……現実を受け入れたり、心の整理がついたりすれば短期間で記憶は戻るでしょう。数日から、ものによっては数ヶ月……ただ、下手をすれば死ぬまで戻らないこともあり得ます」

 

「死ぬまで……?」

「まぁ、必要なことは数ヶ月ほどで思い出すことが多いですけどね」

 

 安心させるようにそう言いながら、医師は電子カルテに何かを書き込んでいく。そして、検査の結果が記されたチェックシートを手に取る。

 

「現段階では、特に貴女……小見山さんに関わる出来事が、記憶を失った大きな要因であることが考えられます。二年以上に及ぶ貴女との記憶が、ごっそり失われていますからね。圭人さんとはどういったご関係ですか? 何か思い当たる節はあるでしょうか?」

 

 そう聞かれたのは、芳乃の背後に立っていたメイド姿の楓だった。

 

 美しい造形の顔は幽霊のように蒼白で、白色灯の下では今にも倒れそうに見えた。芳乃はすぐに立ち上がって、楓をその椅子に座らせる。いつもなら遠慮するはずの楓も、この時ばかりは抵抗することも無かった。

 

「……私は、ご覧の通り、圭人様の専属メイドです……思い当たることは、たしかにあります。でも、一体、どれが原因なのか……」

 

 楓は言葉を選びながら、どうにか声を絞り出した。

 

 精子提供のこと、添い寝のこと、毎日の勉強のこと、いつも二人きりでいたこと……もしかして今までのこと全てが圭人様にとってストレスだったのではないかと、楓は大きな不安に苛まれてしまう。

 

「その中で一番は、なんだと思いますか? 言い換えるなら、この二年間、貴女が彼に対して最も罪悪感を感じていたことは、なんでしょうか?」

 

 そう尋ねられた楓は、悩むことなく返答した。

 

「先生、私は……圭人様に、自分が獣人であることを隠し続けていました……出会ってからずっと。もしかすると、月曜日に拉致された先で……それを知ったのかもしれません」

 

「たしか専属メイドは獣人にしかなれない職業だったはずですが……」

「そうした情報からも、圭人様を遠ざけていたのです……ただ、私の醜い欲望のために」

「楓ちゃん……」

 

 それを聞いた医師は、大きく頷いた。

 

「なるほど……うん、それは可能性としては十分あり得そうです。できることなら、彼を拉致したという当事者たちにも話が聞きたいところですが……」

 

「すぐに手配いたします」

「では、連絡はこちらへ。勾留されている誘拐犯をここへ連れてくるワケにはいかないでしょうからね。いつでもどこへでも、馳せ参じますよ」

「……感謝します、先生」

 

 チェックシートを置いて懐から慣れた手つきで名刺を取り出したドクターは、それを楓に手渡す。そして電子カルテに続きを記入し、ヨシ、と膝を叩いた。

 

「とりあえず今の様子だと、生活に支障が出ることはまず無いでしょう。無理に思い出させたりしようとせず、ひとまずは彼の安心できる環境で様子を見た方が良いと思います。男性に対して安易な投薬は勧められませんが……しばらくして問題があるようでしたら、積極的な治療も考えましょう」

 

「あの、先生ッ…私は……私は圭人様に会っても大丈夫なのでしょうか……?」

 

 その真っ直ぐな問いに、ドクターは頷いてみせた。

 

「貴女と彼の関係そのものは良好だったようだし、おそらくは大丈夫でしょう。ただ、問題は忘れられた貴女の方です」

 

 ドクターは、これから残酷なことを告げるために一度言葉を区切った。

 

「彼に対して貴女との記憶を思い出すように強要することは禁物ですし、これまでと違い、適度な距離感を持って接する必要があります。……近くにいながら他人として過ごす。貴女にその覚悟がありますか?」

 

 その重たい問いかけを受け止めた楓は、ドクターの視線をしっかり受け止めた。

 

「……覚悟はあります。圭人様と共にいることが、私の全てなのです」

「よろしい。では、万が一なにかあった際にも、その名刺の連絡先へ。……ただ小見山さん、あまり無理をしないようにね」

 

「はい。ありがとうございました……」

 

 年配のドクターの言葉に楓は立ち上がり、後ろから芳乃に支えられながら深々とお辞儀をした。その頬を、大粒の涙が伝っていた。

 

 

 ◇

 

 

 部屋の前で、小さく深呼吸をする。

 

「失礼いたします」

 

 ノックして、ドアを開く。

 足音を立てぬように進みカーテンを開け、ベッドへ近付く。

 

「おはようございます、圭人(けいと)様」

「……おはよう、ございます……小見山(おみやま)さん」

 

 いまだ眠そうな目を薄く開けて、圭人様は私を見上げた。

 会ったばかりの他人への視線。乱れる鼓動を必死に抑えつつ、言葉を続ける。

 

「朝食の準備が間もなく整いますので、先にシャワーをどうぞ」

「はい……ありがとうございます」

 

 圭人様はお礼を言って、ゆっくりとベッドから這い出した。

 眠気からか、ふらふらとした足取りで歩く。

 

 一瞬、その身体を支えようとして……慌てて手を引っ込める。

 

「………ッ…」

 

 私は唇を噛み締め、圭人様が寝室から出ていくのを見守るしか無かった。

 

 

 ◇

 

 

「ようこそ、小見山隊長。かつての部下として歓迎いたします」

「久しぶりですね。しかし、私はもう隊長ではありませんよ」

 

 周防圭人(すおう けいと)少年の主治医として小見山さんと共にヘリで陸上自衛軍の収容施設へ向かった私は、周囲の陸自隊員たちの彼女を見る目に面食らった。すれ違う獣人たちがその場で直立し、彼女に対して敬礼を送るのだ。

 

 聞けば小見山さんは現在、軍での階級は持たないらしいが、彼女たちは訓練時代の部下たちらしい。慣れた様子でそれらに応じる彼女の姿は、それがあそこで泣き崩れていた子と同一人物なのかと思うほどだった。

 

 旧知の福祉貢献大臣によると、小見山さんが単身で敵の拠点に乗り込んで圭人くんを助け出したという話だったが、どうやらそれもあながち嘘では無いのかもしれない。

 

「こちらの部屋になります」

 

 案内されたのは、周囲の壁に真っ白に塗られた広めの部屋だった。中央に頑丈そうな椅子があり、手前側にはどこにでもあるような椅子と机のセットが置かれていた。それを見て、就職の面接会場を思い浮かべる。

 

「ここは電波を遮断するよう作られています。通信等はできませんので、ご了承ください」

「ああ、ボイスレコーダーは使っても構わないですかね」

 

 私がそう尋ねると、その隊員はにこやかに応じる。

 

「はい。大臣からも伺っておりますので、大丈夫です。これから24時間、ここで何があっても外に漏れることもありませんから。全てご自由にどうぞ」

「え、いや、そこまでは言ってないんですが……」

 

 私にはもちろん、そんな物騒な真似をする気は無かった。

 

 その隊員が出て行ってドアが閉められると、やがて反対のドアから腰に縄を付けられた赤毛の獣人が連れられてきた。囚人服というより病院着のような服をきせられ、実際、怪我をしているらしい右腕を三角巾で吊っていた。

 

 左眼には医療用の眼帯がされており、残された右眼が小見山さんの姿を捉えると、一瞬怯えたような様子を見せた。……ああ、もしかしてあの怪我、彼女がやったのかな。

 

 広い部屋の中央にある椅子に座らされ、腰紐を椅子に結え付けられる。よく見ると、その椅子は床に溶接されており、けして動かないようにされていた。彼女を連れて来た隊員も、そのまま何も言わずに出て行ってしまう。

 

「こんにちは、アンナ様」

「小見山楓…ッ…な、何しに来たのよ…ッ…!?」

「5年前と先日と、二度も命を救った相手に対して、少し失礼なのではありませんか?」

 

 口調は穏やかだが、これは怒っているな、と気付く。たしかに彼女は圭人少年に対して隠し事をしていたが、それだけで記憶を失うほどのストレスを感じるとは思えない。

 

 圭人少年への聞き取りの中で、獣人への偏見や差別意識は見られなかったからだ。むしろ、獣耳や尻尾を持つことに対する憧れすら感じさせた。

 

 おそらくヒントは、この者たちとのやり取りの中にあるだろう。しかし、警戒された状態ではそれも聞き出せなくなる。

 

「小見山さん、ここは私がやりますから……一旦部屋から出て貰って良いですかね」

「…ッ…すみません、出過ぎた真似をいたしました。それでは、部屋の外で待っております」 

 

 小見山さんは、どうにか己を律して部屋を出て行った。うん、あの若さであれだけ感情をコントロールできるのは素晴らしいな、と考える。

 

 小見山さんの代わりだろうか、先ほどの隊員が部屋の中へ入ってくると、入り口の前で直立不動の体勢に入った。

 

 私に対して下手に出る小見山さんを見て何かを感じ取ったのか、獣人解放同盟で「ゼロツー」と呼ばれる幹部だった女性は、警戒するような表情を見せた。

 

「アンタ、何者なの?」

「はじめまして。私は医師の丸山(まるやま)、周防圭人くんの主治医です。君のことはアンナと呼ばせて貰っても良いかな?」

 

「……好きにしたら良いわ」

 

 私は口調を砕けたものへ変え、アンナの対面にある椅子に座って、目の前の机にボイスレコーダーを置いた。

 

「なに、ちょっとだけ話が聞きたくてね。ああ、今から会話を録音するけれど、これを彼の治療以外に用いるつもりは無いから、安心して欲しい」

 

「治療? あの坊やが怪我でも……いえ、ここでの会話を録音するってことは、もしかしてPTSDの類かしら」

 

「うん、話が早いね。詳細は言えないんだが、今、圭人くんはなかなか大変でね。ちょっと力を貸して欲しいんだ」

 

 私が心底困っているように懇願すると、アンナは目に見えて警戒を緩めた。それを見て、彼女自身が圭人少年へ何かしでかしたという意識は低いな、と察する。

 

「だから小見山楓はピリピリしていたのね……。良いわ、たしかにあの女には、隊員たちの命を救われた。腹立たしいけど、それは事実。坊やにだって、悪いことをしたしね。私が話せることなら、なんでも聴いてちょうだい」

 

「ありがとう、助かるよ」

 

 

 ◇

 

 

 数日後。

 

「楓……お前、大丈夫なのかよ」

 

 後輩の憔悴ぶりを見かねた遼子(りょうこ)が、声をかける。

 

「……なにが、ですか?」

「いや、何がってそりゃ……分かるだろう、自分でも」

 

 言い淀む遼子に対して、横から大川美涼(おおかわ みすず)が声を挟んだ。

 

「遼子ちゃん、楓さん本人が決めたんだから、余計なこと言わないの。はい楓さん、紅茶をどうぞ。少し落ち着くよ」

「……すみません、ありがとうございます」

 

 都内に用意された臨時の物件は、以前住んでいたマンションに近い間取りになっていた。そのリビングに、楓と遼子、そして美涼がいた。

 

 遼子の恋人であり、看護師でもある彼女は、警護チームの一員として働き出していた。

 

 ちょうど、圭人の様子を近くで見守る医療従事者が欲しかったこともあったが、これは同時に、情報漏洩のリスクや、遼子のパートナーという立場から彼女が狙われる可能性を排除するための措置でもあった。

 

 そんな彼女は今や、楓のメンタルケアにも一役買っている状態だ。正直、自分一人じゃどうしたら良いか分からなかったな、と遼子は思う。

 

「しかし一向に記憶が戻る気配がねぇな。普通、こんなにかかるもんなのか?」

 

 圭人が記憶を失ってから、およそ一週間が経とうとしていた。

 

 かつて遼子が夫婦のようだとからかおうとした二人が、同じ屋根の下でこうして他人行儀に暮らしている。そして楓は、圭人によそよそしい態度を取られるたびに精神を削られていた。

 

「丸山先生の話だと、おおよその原因は分かったらしいんだけどね……やっぱり急性的な回復のキッカケを掴むのは難しいんだって。だから、生活の中で自然に思い出していくのが一番らしいんだけど……」

 

 丸山とは、圭人に解離性健忘の診断を下した主治医の名前だった。数日前に、陸自の収容施設で犯人たちから聞き取りを行っている。

 

 やはり覚えていないのはあの二日間のことと、小見山楓のことだけ。特に彼女のことを思い出すのであれば、やはりまずはそれまで通りの生活を送るべきだというのが、丸山医師の見解だった。

 

「それにしても長いよなぁ……前回の精子提供もドクターストップだろ?」

「し、仕方ないよ。これ以上トラウマになったら大変だもの」

「そりゃそうだが……いっそ忘れたのがオレのことだったら良かったんだがなァ……」

 

 圭人は、遼子に対しては今まで通りに接してくる。そのせいで、楓との差が浮き彫りになってしまう。今は遼子も怪我人のため顔を合わせる機会も少ないが、復帰すれば圭人とは毎日のように顔を合わせることになる。

 

 今の楓がそれを見て精神状態を保てるのか、遼子には不安でしかなかった。

 

「案外、坊主の頭を一発ぶん殴ったら、思い出すんじゃねぇか?」

「こら遼子ちゃん、短絡すぎ。言って良いことと悪いことがあるでしょ」

「冗談、冗談だって」

 

 圭人は現在、周防一家の三人と共に街へ買い物に出掛けている。

 

 このまま夏休みが明ければ、圭人の名前が福祉貢献ランキングで世界に知られることになる。警護付きであっても、自由に出掛けられるのは今だけという配慮だった。

 

 本来なら専属メイドである楓も同行すべきなのだが、特に妹の恵理(えり)には今の二人の関係を説明するのが難しいという結論に至っており、Bチームが代わりの警護を務めている。

 

 更に言うなら、周防家には自称農家の猛者も一人存在していた。そういう意味では心配はいらないはずなのだが……。

 

「ああ……圭人様……」

 

 リビングで椅子に座ったまま俯く楓の姿に、遼子と美涼は心配そうに顔を見合わせた。

 

 

 ◇

 

 

「主治医として、周防圭人(すおう けいと)くんの精子提供は許可できません」

 

 丸山(まるやま)医師のその言葉に、福祉貢献大臣である結城加代子(ゆうき かよこ)は顔を顰めた。

 

「しかし、獣人解放同盟の手から救い出したのに精子提供が行われないのでは、他国に対して説明がつかん。せめて治療にいつまでかかるのか、分からんものなのか」

 

 PC画面越しの映像通話。コーヒーが入ったマグカップを手にする丸山には、結城が爪でデスクを叩いている音が鮮明に聞こえた。それは彼女がストレスを感じている証拠だった。

 

「分かりませんよ。そもそも、それをどうにか説明するのが貴女たち政治家の仕事でしょう。私も、医師としての仕事をしているだけです」

 

「うぅむ……忙しさにかまけている間に、面倒なことになったな」

 

 丸山医師は男性専門医としてあらゆる医療分野に精通する人物で、福祉貢献制度を扱う結城大臣とも関わりが深かった。政界で恐れられる結城に対しても、歯に衣着せぬ言葉を投げつける。

 

「精子提供再開に向けて最も大切なのは、圭人くんが小見山さんを思い出すことです」

「……小見山楓を? それが必要なのか?」

 

「今の彼女は、本人が思っている以上にギリギリの状態です。ただでさえ専属メイドの仕事を思うようにこなせない中、精子提供も上手くいかず、その役目を他人に取られることになったなら、どうなるか……おそらく、悲嘆に暮れるだけでは済まないでしょう」

 

 それはあり得るかもしれん、と結城も思う。

 

 周防圭人を助けるために、あれだけのことをしてみせたのだ。無いとは思うが、万が一にも彼女が暴走するようなことがあれば、その被害は凄まじいものになるだろう。

 

「しかし専属メイドのために、精子提供を中止するというのか? それではあべこべだろう」

 

 もちろん、陣営を同じくする者として同情はするが、最も重要な仕事をこなせないのでは意味がないとも考える。

 

「大臣。今の段階で考えられる中で、最悪の事態は何だと思います? それは、小見山さんの心が取り返しのつかないほど壊れてしまった後で、圭人くんが記憶を取り戻すことなんですよ」

 

 丸山は強く断言してみせる。結城は、それを黙って聴いていた。

 

「賭けたって良いですが……そうなれば必ず圭人くんは後悔の念に押し潰されて、十中八九、精子提供どころでは無くなります。心因性の射精障害が引き起こされる可能性も十分あり得ます」

 

 本人だけでなく、家族や親しい者たちから伝え聞く彼の印象は、なによりも優しいというものだ。しかし、それは本人も繊細で傷付きやすいことの裏返しでもある。

 

「そもそも私は、彼の解離性健忘の原因が、小見山さんの死を想起してしまったことだと考えているのですよ」

 

「どういうことだ?」

 

「獣人解放同盟で彼との交渉役だった女性によると……彼はマンションの爆発以降、小見山さんの安否をずっと気にしていたのです。更に、獣人の寿命や不妊について触れる彼女たちの声明文の内容と、小見山さんが獣人だということを、同じタイミングで知ってしまった」

 

 小見山楓が、メイド服を上手く利用して獣人であることを隠していたことは、結城も知っていた。しかし、それ自体はけして珍しいことではない。

 

 獣人に対して忌避感を持つ者たちへの配慮や、差別を避けるための手段として、衣服でその特徴を隠す者、隠さざるを得ないという者は多い。ちょうど、彼女の秘書のように。

 

「そして圭人くんは、そうした獣人たちの事情について、何も知らなかった」

「……何も?」

 

 結城の知らない情報だった。内容そのものは報告するようなものでは無いが、しかし偶然に発生する状況とも思えない。

 

「ええ、何も。小見山さんが、獣人に関係する情報を敢えて遮断していたのです」

「何故だ、子供の頃に知ることも無かったのか?」

 

「彼が自分からテレビを観ない子だったのもあるようですが……地方のローカル局では、周りに存在しない獣人について話題にすることも少なかったようですね。もし好意的、同情的に扱えば、反獣人派からクレームが殺到しますから」

 

 結城は心の中で毒づく。それは政府にとっても頭の痛い問題だった。クレームの中に活動家たちからのものが混じっていたとしても、当事者にはそれを判別する手立てがない。

 

 そしてヤツらは、都合よく人権を盾にする狡猾さをも持ち合わせていた。だからこそ、その急先鋒である反獣人戦線は彼女に利用され、壊滅したのだろう。

 

「授業で習うのも高校からですしね……その辺りは、大臣の方がお詳しいのでは?」

「……そうだったな」

 

 国際条約で決まったこととはいえ、それらの繊細すぎる情報は獣人への偏見や差別を助長しかねないものだとして、扱いには慎重さが求められた。

 

 かつては小中学の教師が暴走して獣人への差別意識を植え込もうとする事例もあり、本人たちに分別のつく16歳頃、つまり第一成人となる高校一年生までは、学校で獣人についての詳細を教えることが禁止されていた。

 

「15歳の少年が、武装集団に拉致監禁された挙句、心身共に最も近くにいた者の死と寿命について、立て続けに突き付けられたのです。その衝撃とストレスは、計り知れないものだったでしょう」

 

「それが引き金(トリガー)か。……ヤツは何故、そこまで獣人のことを、自分が獣人であることを隠そうとしたのか。おそらく周防圭人なら、受け容れてくれただろうに」

「大臣、それは……もう、お解りなのでしょう?」

 

 たしかに結城は、おそらく丸山すら知らないことで、そのことについての回答を既に得ていた。つまり、あれもこれも全てはそういうことだったのだと、今更ながらに思い至る。

 

 かつて、自分でも秘書に対して言っていたではないか。

 

「結局、女なんてものは……か。仕方あるまい、私は自分の勤めを果たすこととしよう。もちろんタイムリミットはあるが、それまではせいぜい防波堤になってやる。……近いうち、この状況を上手く利用できそうな場もあるしな」

 

「ありがとうございます。それにここまで言いながら何ですが、大臣……私は、その日がそう遠くないと考えているんですよ。あくまで、私見ですがね」

 

 虚を突かれたような顔を見せる結城加代子へ対して、丸山医師は画面越しに微笑んだ。彼女の答えと表情に満足して、一方的に通話を切る。

 

 ……

 

 圭人のように先祖返りをする男性が現れるのは、国内でも10年に一人。

 

 一方、丸山が男性専門医となってからは30年以上が経っている。その間に現れた彼らのようなイレギュラーの全てを、彼女は診てきた。

 

 小見山楓から、圭人少年との思い出を全て詳細に聴いていた彼女は、この後起きることにほとんど確信を持っていた。

 

 経験上、それは男性にとって最も心に残る現象のひとつであり、容易に忘れられるものではない。特に、その時が初めてとなれば尚更だ。

 

 多くの話を聴いた中で彼が最も安心したのは、訳も分からないまま全てを受け止めて貰えた、その時だっただろう。日常生活におけるキッカケとして、これ以上のものは無い。

 

 無理を言って精子提供を禁じたことの、隠された意味がそこにはあった。まさか、正直なところを大臣に伝えるわけにもいかない。

 

 結局、小見山楓は、過去の自分の行いに救われることになる。

 

「……あとは、二人次第でしょうね」

 

 丸山は、冷めたコーヒーをようやく口にして、目を細めた。

 

 

 ◇

 

 

 前回の精子提供から二週間が経とうとしていた。

 

 周防圭人(すおう けいと)様が私に関する記憶を失くして以降、精子提供には主治医である丸山(まるやま)医師からのドクターストップがかかっていた。先週に続き、今日予定されていた分も既に中止が決まっている。

 

 彼の専属メイドを務める者としてあってはならないことなのだが……私は正直、これに少しホッとしていた。

 

 以前は一年以上の関係構築があってから精子提供の補助をするようになっていたが、今の関係でそこまで踏み込むと、圭人様に嫌われてしまうのではないかという大きな恐怖があったのだ。

 

 つい先月までは、圭人様に毎日の添い寝まで許されて浮かれていたというのに……それはもう、遥か遠い昔のことのように思える。

 

 夏休みに入っていることもあり、圭人様は早起きをする必要も無いのだが、丸山医師からは、いつも通りの生活を再現し続けるようにという指示があった。

 

 今住んでる仮のマンションには寝室のカメラが無いため、映像でのチェックはできない。当然、添い寝などしているわけも無かった。

 

 私は起床後に、新しく運び入れた高機能ベッドから送られてくる圭人様のバイタルデータだけを確認し、自室で軽い運動をしてシャワーを浴び、メイド服を着て、朝食の準備を始めた。

 

 ……

 

 私は、この世に産まれてから周防圭人様に出会うまでの間、生きていることに幸せを見出せていなかった。

 

 私たち獣人は、その生涯を戦いのため、危険な職務のために使われることが決まっており、自身の命を永らえさせるためには、貢献ポイントを稼ぎ、政府などの雇い主へ媚び続けなければならない。

 

 獣人は、本人たちが望んだわけでもなく、ただ強く美しく産まれたというだけで普通の人間たちには疎まれ続ける。

 

 そのせいで素性を隠す者がほとんどな上、寿命の延長を続けるため、普通の人間たちのように、地方へ転職して穏やかに生活する、なんてこともできない。圭人様が、地元で獣人を見たことが無いと言うのも、当然のことだった。

 

 腹の中にあるお飾りの子宮はそのままでは使い物にならず、自分だけの意思で子を成すことも許されない。働いて、働いて、国家への忠誠を示し続け、大量の貢献ポイントと引き換えに、初めて妊娠機能を取り戻すための処置を行うか検討される。

 

 それは、世界全体で言えば3%ほどの獣人にしか許されていない特権だ。大抵は、寿命の延長だけで貢献ポイントを使い切ってしまう。最初の獣人たちに許されていたことが、その存在を妬み、嫉み、恐怖した者たちの決めた条約発効と共に許されなくなっていた。

 

 それからおよそ35年。寿命を迎えて死亡した獣人の人数も、既に数万人という規模になっている。戦場で死亡した者を含めずに、その数になるのだ。公表はされていないが、昨年は戦死した者の数を、ついに逆転している。

 

 今生きている獣人たちは、死の恐怖に怯えながら延々と走り続ける長距離ランナーのようなものだった。次の給水所まで辿り着けない者、一定のタイムから遅れてしまった者は、呆気なく脱落させられる。それを、いつか死ぬまで続けるのだ。

 

 こんな状況で、私は神を信じたことも無かったが、ただ圭人様と出会えたことだけは、運命に感謝してもし足りないと思っていた。

 

 しかし、今となってはその想いの強さが、自身を苛む呪いと化している。

 

 最初の精子提供から一年と13日。

 既にこの世界には圭人様の子供たちが数多く産まれている。

 

 一方、私は圭人様と子を成す機能すら持たぬまま。それどころか、更には存在そのものまで忘れ去られてしまった。ああ、なんという残酷な仕打ちか。

 

 折角、あと少しで願いが叶ったかもしれないというのに……。

 

 圭人様はもちろん、私なんかのことを忘れてしまっても、相変わらずお優しかった。しかし今の優しさは、やはり以前とは違って「他人への優しさ」なのだ。

 

 現在、都内に逗留しているご一家と過ごす圭人様の様子を遠くから見ているだけで、そのことをまざまざと突き付けられる。その楽しそうな顔は、今の私の前では見せていただけない。

 

 そして、ご家族と別れた圭人様は、記憶を取り戻すためだけに仮の住居へ戻られて、私と過ごす。その他人行儀な姿と、彼を家族から引き離しているという罪悪感に、私はますます心を蝕まれていく。

 

 心を通わせることなく、ただ職務としてだけ彼に仕えることが、こんなに苦しくなるだなんて……この二年と四ヶ月で、私はなんて弱くなってしまったのか。

 

 もちろん、最初から関係を構築し直すことは可能だろう。遼子(りょうこ)先輩も『もう一度惚れ直させてやりゃ良いじゃねえか』と言ってくれる。

 

 しかしそれは、かつての夢のような生活と、あの時の圭人様の笑顔を諦めるようで、私には上手く切り替えることができなかった。

 

 それに、圭人様が少なからず好まれていたという以前の私の姿も、もう思い出せなくなっている。まさかこんなに不器用だとは、自分でも思っていなかった。

 

 いや、そもそも……。

 

「……私なんて最初から、圭人様には相応しくなかったのよ」

 

 自分の中にいる、もう一人の自分が、私の口を使って言う。

 

 そうだ。むしろ今まで、何を勘違いをしていたのか。厚かましくも圭人様と添い遂げるなど、まるで乙女の夢のようなことを考えて、恥を知るべきだ。

 

「……生きている価値など無い。そのまま朽ちて死んでしまえ、小見山楓(おみやま かえで)」

 

 また別の一人が、そう言って私を責めた。

 手にした包丁の表面に、醜く歪んだ自分の顔が映っている……。

 

 ……

 

 朝食の準備を終え、圭人様がお休みになっている寝室の前に足を運ぶ。

 

 以前は、浮かれてしまう心を鎮めるために深呼吸をしていたが、今のそれは、圭人様から他人として扱われる覚悟をするための儀式だ。

 

 長い深呼吸の後、ノックしてドアを開ける。

 

「失礼いた、し……ッ…」

 

 私は、猫科獣人の持つ鋭い臭覚でそれに気付いた。

 

 意識を切り替えた私は、すぐに寝室を出て廊下を引き返す。このマンションには、眼鏡型デバイスで遠隔操作できる浴槽が無かったからだ。

 

 たとえ環境が変わろうとも、専属メイドとして、圭人様が少しでも安心できるよう完璧な対応をしなくてはならない。

 

 今回は圭人様の体質も理解しているため、時間がある。

 

 浴槽にお湯を溜めながら、ベッド上ですぐに身体を拭うための温かい濡れタオルも準備しなくては。それに入浴剤と、あとは……。

 

 その時の私の心は、圭人様の専属メイドとしての使命感で満たされていて、個人的な不安を感じる余裕など無かった。

 

 ……

 

 私が浴室のドアの外で諸々の処理をしていると、それまで湯船の中でボーッとされていた圭人様が、泣きそうな顔でこちらへ向いた。

 

「ご、ごめんなさい、楓さん」

「謝らないでください。夢精(これ)は男性として、むしろ誇るべきことなのですよ」

 

 いつかのように私は微笑んで、圭人様の謝罪に応える。

 

 その機能は他の女たちを孕ませるためのものだが、そんなことは関係ない。それも含めて圭人様であり、私がただ、彼の子を孕めないというだけの話だ。

 

 圭人様に、いつか思い出していただけたら。また以前のように微笑んでいただけたら、もはやそれだけで、私は良かった。……いや、今の私には、それすらも過ぎた願いなのだろうか。

 

「……怒ってないの?」

 

 圭人様は、不安そうな顔でこちらを窺う。

 その顔は儚げな少女のようですらあり、相変わらず可愛らしい。

 

「ええ、もちろんです。圭人様が夢精されたからといって、専属メイドの私が怒ることなんてあり得ません。先ほども言いましたが、むしろ誇ってくださいませ」

 

 やはり以前のような関係にまで至ってないため、私がそのようなことで怒ると思われているのだろう。彼の不安を和らげようと努めて笑みを作り、それが何でもないことなのだと示してみせる。

 

 考えてみれば、あれだけの精力を持つ圭人様が二週間も精を吐き出していなかったのだから、こうなったのは当然の帰結と言えるだろう。むしろ、今までよく保ったものだとすら言えるかもしれない。

 

「それより、あまり長風呂をされると、のぼせてしまいますよ」

 

 ただ、少しでも安心していただくため。

 そんな私の言葉を聞いた圭人様は、それでも不安そうな様子のままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ううん、そうじゃなくて……僕が今まで、楓さんを忘れていたこと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ごんっ。

 

「えっ、ちょ…ッ、楓さんッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから先のことは、覚えていない。何故なら私は不安そうな圭人様をそのままにして、気を失って倒れてしまったからだ。

 

 ああ、なんという失態……男性を介助し、守るべき者がこのようなことになるとは。

 

 ……それは専属メイドとして、あまりに不甲斐ない姿だった。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 大川美涼(おおかわ みすず)はベッドの中で微睡んでいた。

 

 病院を辞めてから10日以上が経ち、今の生活パターンにも慣れ始めていた。病院の看護師には夜間勤務もあったから、むしろ身体的には大分楽になっている。

 

 貴重な男性の警護チームは、所属としては福祉貢献省の上級職員という扱いなので、彼女にとっては大幅なキャリアアップとも言えた。

 

 急な退職だったが、病院では経験豊富な新しいスタッフが即日採用されたということだ。どうやら結城(ゆうき)大臣が裏で手を回してくれたらしい。

 

(まさか、こんなことになるなんて……)

 

 ベッドに横たわる美涼は、すぐ隣で自分と同じように生まれたままの姿で爆睡する遼子(りょうこ)の寝顔を、じっと見る。いつも、大きな尻尾のせいで横向きに眠っている。

 

 二週間ほど前に右の上腕を骨折していた彼女だったが、さすが獣人の治癒力ということなのか、既に固定具は外されていた。まだ重い物は持つなと指導は受けていたけれど、ほとんど元の生活を送れるようになっている。

 

(……少し叫び過ぎてしまった。ここが完全防音で良かった)

 

 二人は昨晩、久しぶりに身体を重ねていた。遼子の怪我があって、お互いに我慢を続けていたためか、かなりのめり込んでしまった。そのせいで、身体にはまだ気怠さが残っている。

 

 その醜態を思い出すうち喉の渇きを覚えた。そして、ベッドから降りようとしたその時、美涼の携帯端末から電話の着信音が鳴った。

 

 時計を見ると、まだ朝の7時を過ぎたところだ。サイドテーブルに手を伸ばして端末の画面を確認すると、相手の名前は【周防圭人(すおう けいと)】とある。

 

 美涼は慌てて通話ボタンを押した。

 

「はいっ、もしもし…」

『あ、美涼さんッ!? あのッ、楓さんが、楓さんが…ッ!!』

 

 慌てた様子の圭人から、どうにか「脱衣所で小見山楓(おみやま かえで)が倒れ、血も出ている」との内容を聞き出して、美涼は完全に看護師モードへ切り替わった。

 

 すぐに遼子を叩き起こし、急いで服を着て、医療用バッグを片手に玄関を飛び出る。いざという時のため、二人には圭人たちと同じマンションの一室を提供されており、現場への到着は早かった。

 

 預かっている合鍵を使って玄関ドアを開け、最速で脱衣所へ向かう。

 

「楓さんっ、大丈夫ですかっ!?」

「み、美涼さん……ッ」

 

 そこには、裸のままどうにか止血を試みている圭人と、頭部から血を流して倒れる小見山楓の姿があった。

 

 

 ◇

 

 

「………ここは…?」

 

 私が目を覚ましたのは、圭人様の使用している高機能ベッドの上だった。横になったまま、何故こんなところに……と頭を働かせる。

 

 頭部に違和感を覚えて頭に右手をやると、包帯がぐるりと巻かれていることに気付いた。当然、着けていたヘッドドレスは脱がされていて、隠していた猫耳が外気に触れている。

 

 包帯の上から触れた感じだと、右のこめかみ上部にガーゼの感触があった。どうやら倒れた拍子に浅い裂傷を作って出血してしまったらしい。

 

 いや、ということは、あれは夢じゃ無かったのだろうか……?

 

 窓の外では既に日が高くなっていた。最近はよく寝れていなかったのに、随分と長い時間眠ってしまったようだ。久しぶりに、頭がすっきりとした感覚がある。

 

 ふと、左手に違和感を覚えた。

 まさかと思いながら身体を横に向け、右手で布団を捲り上げる。

 

「…………ぁ…」

 

 思わず、口から声が漏れる。

 

 そこには、以前のように丸めた身体を私にくっつけて眠る圭人様の姿があった。身体にはバスローブを纏っていて、その両手は、私の左の掌を優しく包んでいる。

 

 どうやら、私を心配して添い寝をするうち、疲れて眠ってしまったらしい。

 

 そういえば、かつての私は添い寝を許していただきたくて、その効能についてあれこれ力説したことがある。もしかすると、お優しい圭人様はそれを鵜呑みにしてしまったのかもしれない。

 

 頭の処置をした者は、それを止めなかったのだろうか……と考えて、あるカップルの姿が真っ先に思い浮かんだ。とりわけ頭に狐耳を生やした方は、こうした悪戯を喜んで実行するだろう。

 

 もしかすると今も、どこかで見ているかもしれない。

 

「……ぅあ」

 

 我慢が効いたのは、ここまでだった。

 私は、涙腺のコントロールを、完全に失ってしまう。

 

「…ッ…うぐッ……うぅッ…ッ」

 

 圭人様の睡眠を妨げてしまうことを気にしながら身体を起こし、全身を震わせながら声を押し殺して泣く。

 

 私が涙を流すのは人生でまだ二度目のことで、こんな風に声を出して泣くのは初めてだ。いや、覚えていないだけで、赤ん坊の頃に泣いたことはあるのかもしれない。

 

 しかし、嬉しくて泣いたのは、正真正銘これが最初のことだった。

 

 ……

 

 結局、圭人様は私の身体の揺れに気付いて、目を覚ましてしまった。

 

「……あれ、楓さん…? どこか痛いの?」

「…ッ…いいえ、大丈夫です…ッ」

 

 起きてすぐ私の心配をする圭人様に、どうにか嗚咽を抑えながら返答する。きっと今の私の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっているだろう。急いで涙を拭い、どうにか心を落ち着ける。

 

「……本当に? 浴室の入り口に頭を掠めただけだって言われたけど……楓さん、全然起きないし、心配したよ」

 

「え、ええ。本当ですよ、少し寝不足だっただけで……このくらい、私たちにとっては怪我のうちに入りませんから。獣人は、傷の治りが早いのです」

 

 これ以上心配させまいと、私は早口で伝える。

 

「獣人……」

 

 その言葉に、圭人様が反応する。その視線の先には、私の猫耳があった。

 私も「ついに言ってしまった」と心の中で覚悟を決める。

 

 そして、追求が始まった。

 

「……楓さんが獣人なの、なぜ隠してたの? 僕が獣人を差別すると思った?」

 

 その表情は、とても寂しそうだった。圭人様にそんな顔をさせてしまった罪悪感に押しつぶされそうになりながら、私は心からの本音を打ち明ける。もう、何も隠す気は無かった。

 

「いいえ、そんなことは一度も考えませんでした。むしろ、その逆です。……私は、お優しい圭人様に、可哀想だと思われたく無かったのです」

 

「……可哀想?」

 

「はい。圭人様には同情ではなく、同じヒトとして純粋に愛されたいと願ってしまった。ただ、私が浅はかだったのです。……この身体では、圭人様との子を宿すこともできないというのに」

 

 私の独白を聞いた圭人様は、驚いて顔を赤くしていた。

 

「……愛されたいって……えっ、楓さんは、僕との子供が欲しかったの……?」

「はい。ずっと、そう願っておりました」

「ずっと……って?」

「圭人様と、初めてお会いした時からです」

 

 そこで圭人様が、少し固まった。顔には戸惑いが浮かんでいる。

 

「……僕、まだ結構子供だったと思うんだけど……その、精通もしてなかったし」

「ですから、自制し、悟られぬよう気を付けておりました」

 

 今ここで全てを曝け出してしまおうと決めた私は、これまで隠し続けていた醜い劣情までも明け透けに答えた。それを聞いて衝撃を受けている圭人様に対し、少し申し訳ない気持ちになる。

 

「ごめん、混乱してる。ちょっと待ってね……」

 

 そして圭人様は腕を組み、しばらく思案する様子を見せる。

 

 その間、私は裁きが下されるのを待つ罪人のような気分に陥った。精通前の少年に性欲を抱いていたなどと、けして許される告白では無い。

 

 年齢的には5歳差だが……二年前、一緒に暮らし始めた年に、私は18歳の第二成人になっている。未成年者との姦淫など、普通に法で裁かれる年齢だった。男性へのそれは、更に罪が重い。

 

 やがて、圭人様本人から沙汰が下される。

 

「楓さん。僕は相手が楓さんなら、子供ができなくても気にしないよ。寿命だって、僕がなんとかしてあげる。……でも、そういうことは僕が大人になるまで、あと少しだけ待って欲しいな」

 

「……え?」

 

 言っている意味が、よく分からない。

 私のポカンとした表情を見た圭人様が、慌てて話を続けようとする。

 

「いや、え、えっと、つまり何が言いたいかというと……」

「は、はい」

 

 正座になった私は、緊張しながらその言葉を待つ。そして……。

 

「僕は楓さんに、そばにいて欲しいんだ。……で、できれば、ずっと」

 

 それは私が強く願っていたことと、ほとんど同じだった。圭人様にそれを伝えたくて、身を乗り出す。

 

「私の願いも同じです。共に暮らし、いつか年老いて動けなくなった圭人様を、四六時中、自らの手で完璧に、隅々までお世話すること……そのためなら、全てを犠牲にしても良い覚悟でした」

 

 それは、圭人様の特殊体質によって叶えられなかった、誰にも譲りたくない、専属メイドとしての私の夢だった。勢いよくそれを伝えると、圭人様は大きく首を傾げた。

 

「……いや、うーん? それって同じなのかな?」

 

 ……あれ? 少し風向きが変わった気がする。もしかして私は今、なにか変なことを口走ったのだろうか。

 

「わ、私にとっては同じなのです」

 

 私は焦って前のめりになり必死に訴えた。ここに来て、要らぬ誤解はされたくない。至近距離でそれを聞いた圭人様は、少し悩んだ後、上目遣いで私に尋ねる。

 

「……じゃあ、僕が死ぬまで、長生きしてくれるってことで良いんだよね?」

 

 ああ、圭人様にとっては、獣人である私が長く生きることが大事なのだ。その想いを悟って、また涙が溢れそうになる。

 

 私は答える代わりに圭人様の愛らしい顔へ近付き、その唇に己のそれを重ねた。圭人様は固まり、一瞬、時が止まる。

 

「か、かか、楓さん…ッ…!?」

 

 飛び退いて口元を両手で押さえ、動揺しながら顔を真っ赤にする圭人様の表情は、戸惑いより喜びが勝っているように見えた。

 

「ふふ、女心を弄ぶからですよ」

 

 圭人様は、何年も自制を続けた女の情念を甘く見過ぎだった。今度、そのことについてもしっかりお勉強していただこう。こうなったら、何もかも全てを知っていただかなくては。

 

「……僕は本気なのに」

「私だって、冗談でこんなことはいたしません」

 

 私が余裕そうに見えたのか、納得いかなそうに頬を膨らませる圭人様。その様子がまた可愛くて、私は声を上げて笑ってしまった。

 

「ふふふ、ん……ッ、……」

「……、これはお返しだからね、楓さん」

 

 圭人様はそんな私に近付いて、もう一度口付けを交わしてくる。どうやら、仕返しをしたつもりらしかった。たまらず、その身体を抱きしめてしまう。

 

 おずおずと、私の背中にも手が回される。

 

「ああ、ずっと、この時を待っておりました。おかえりなさいませ、圭人様」

「あ……うん。ただいま、楓さん」

 

 それは、お互いにまだ伝えられていなかった言葉だった。

 

 

 ◇

 

 

 その日の夜から、周防圭人の精子提供は再開された。

 丸山(まるやま)医師からその連絡を受けた結城加代子(ゆうき かよこ)は、笑って応じた。

 

 通話を切ると、上機嫌に独り言を口にする。

 

「ふん、まったく人騒がせなヤツらだ。

 ……さて、次は私の番だな。精々世界を騒がせてやるとするか」

 

 彼女には、世界のルールを変えるための新たな戦いが待っていた。

 

 

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