「――わたしを殺してください」
白靄楔那
冗談じゃない。
聞こえなかったことにして、背を向ける。
――その時だった。
背後で、どさり、と大きな音。
振り返る。
そこに、白靄が倒れていた。
真っ赤な血溜まりの中で、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「貴方が、殺してくれなかったら――」
血に濡れた手が、オレへ伸びる。
反射的に仰け反り、距離を取る。
「貴方が、わたしを――」
「わあああぁぁぁっっっ!!」
***
「朝ですよ? 櫻井くん」
「わあああぁぁぁっっっ!?」
耳元への突然の囁きに驚いて飛び起きた。
寝ぼけ眼を擦った先には、見知らぬ大人の女性が立っていた。
「うふふ、こういう感じ、いかがですか?」
ニコニコ顔で口元に手のひらを当てながら笑う女性。
「あ、えっと……」
「あれれ? 私のこと、忘れてしまいましたか?」
「いえ、覚えて、います。……若草翡翠
「はい。言うなれば、ここの寮長のようなもの、とまで付け加えていただけたら満点です」
「……その寮長のような方が、どうして朝一番にオレの部屋に?」
「昨日、櫻井さんのご到着があまりにも遅かったからです。本当は生活について説明したかったのに」
「ああ、そういう……」
ちらりとドアの方へ目をやる。
たしか、寝室はすべてオートロックじゃなかったか?
「はい。これをどうぞ」
渡されたのは、真っ白いカード。
「部屋のカードキーです。外側からの解錠には、これをお使いください」
「……若草さんが勝手に入ってこられた理由が、これですか」
「ええ。全私室で使えるマスターキーも持ち合わせていますが、よっぽどの理由がない限りは立ち入りませんので」
「今朝は?」
「よっぽどのことでしたので」
……なるほど。
五月の末。
夏も近づくとはいえ、朝はまだ寒い。
若草さんから食堂と教室の場所を教わり、まずは二階の食堂へ向かった。
食事の準備をしているのも、配膳をしているのも生徒らしい。あらゆることを生徒の自主性に任せる、というのがここの方針なのだそうだ。
やたらと手際のよい下級生から受け取ったトーストとハムエッグを前に、空いている席を探す。
――と、見覚えのある顔を見つけた。
白靄楔那。
昨日、自室で首を吊って《死んでいた女》だ。
彼女は両耳にワイヤレスイヤホンを装着。制服のブレザーの下には、昨日と同じ灰色のパーカー。食堂の一番端の席で頬杖をついていた。
オレを一瞥し、顔をそむける。
お互いに顔と名前を知っているだけの、異性の反応。
あまりにも自然。
実に普通。
《首を吊った翌朝》という条件さえなければ。
いや、蘇ったのだから朝食くらい食べるだろう。それは分かる。分かるが……。
ちらりと、今朝の悪夢を思い出す。
ああ、そうだな。
向こうがその気なら、こっちだってこれで良い。
あえて話しかけるようなことはせず、朝食を胃に詰めたオレは、食堂をあとにする。
教室は六階にあった。
下は八歳から、上は十八歳まで。年齢に応じて分けられたクラスが三つあり、オレが入るのは最年長の高校生組だ。
学校というよりは広い会議室のような部屋で、大きなホワイトボードと長机が並んでいる。
「はい。転入生の櫻井碧
「あ、はい。櫻井碧です。十八の、高校三年生です。よろしくお願いします」
頭を下げると、まばらな拍手。
誰もオレのことになど興味がない、といった感じだ。
「では、授業を始めます。僕はここで座っていますので、質問があればどうぞ」
そう言って、灰根柘榴
ホワイトボードには大きく「理科」と書かれている。
授業は参考書を使った自習がメイン。雑談している女子もいれば、手元でゲームをしている男子もいる。
そして、白靄もいた。
イヤホンを装着して、黙々と問題を解いている。
……あれは良いのだろうか。
いや、それよりも。
昨日、自分の首を吊っていた奴が、今日は生物の問題を解いている。それも、ずいぶん真面目に。
生命の扱いは雑なくせに、授業態度は立派らしい。
「これは……暇だな」
独り言を漏らして、参考書へ視線を戻した。
新天地での生活初日。
とりあえず、今のところは平和だ。
午前の授業が終わり、購買でサンドイッチとアイスコーヒーを買った。
適当な場所で昼食を済ませ、午後の教室に戻ろうと廊下を歩く。
時間を確認しようとボディバッグを開いてスマホを取り出した、その時だった。
「あたっ」
角から出てきた誰かとぶつかり、よろけた拍子にバッグの中身を床へばら撒いた。
「すみませ――」
「……はい、これ」
手渡されたカードキー。
そこに居たのはクラスメイト兼隣人の、白靄楔那だった。
「……何? 人の顔見て黙るなんて、とても失礼な対応ですね。《センパイ》」
「ああいや、……そうだな。悪かった」
「……別に、気にしてるわけじゃないです」
財布とスマホを拾い、ボディバッグへ仕舞う。
白靄はもう教室へ向かって歩き始めていたので、その後に続いた。
「ついてこないでくれますか?」
「無理を言うなよ。同じ場所に行くんだぞ」
「なら、わたしが先に行きます。そこで立ち止まっててください」
「……こういった場合って、『先に行ってください』にならないか?」
「年上なんですから先を譲ってください。レディーファーストって言葉、知ってます? それに、それだとわたしが遅刻しますので」
「……さいですか」
言われた通り、立ち止まって白靄の背を見送る。
昨日のことは、何も言ってこない。
だったら、それでいい。こちらから蒸し返す理由もない。
自習オンリーの授業は、午後も滞りなく終了した。
放課後、軽く施設内を歩いてみたものの、外出届がなければ進めない場所が多い。三十分もしないうちに部屋の前まで戻ってきていた。
「……ありゃ?」
カードキーを読み取り機に翳すも、反応しない。
何度やっても同じだ。
昼に床へ落としたのが悪かったのか? いや、踏みつけたわけでもあるまいし、あの程度の衝撃でどうにかなるとは思えない。
「……困った」
すぐに若草さんに事情を話すと、マスターキーで開けてくれた。
「故障かしらね。明日には新しいものを用意するから、朝一で届けに行くわね」
「オレから取りに行きますよ」
「わかったわ。男子高校生の部屋ですもの。見られたくないティシュやら何やらあるわよねぇ」
「コメントし難いこと言わないでください」
愉快そうに笑う若草さんを見送り、部屋で一休み。
夕食を済ませて戻ってくる頃には、さすがに疲れが溜まっていた。
戸締まりだけは内側から済ませ、ベッドへ倒れ込む。
「……シャワー、浴びなきゃ……」
口ではそう言いつつも、身体は動かない。
そのまま、深い眠りに落ちていった。
***
「は」
しばらくして、目を覚ました。
暗い室内。
静寂に満ちた部屋で、時間も確認せずに天井を見上げる。
まず気になったのは濁った鉄の香り。
続いて、暗闇に慣れてきた視界に大きな「何か」が映った。ベッドの上、オレの隣に、誰かが横たわっている。
そして、ベッドが濡れていた。
「う、わ――!」
慌ててベッドから離れる。後ずさりすると背中が窓に当たり、揺れるカーテンが手に触れた。
「……誰だ!」
緊急事態に備えて《瞳》を光らせ、カーテンを思い切り横に引く。
月明かりに照らされた室内。
そこには、首元に大きな包丁を突き立てた状態で白目を剥く、白靄楔那が倒れていた。
「う、わあああぁぁぁっっっ!」
叫び、尻餅をつく。
彼女の頭上には、数字が視えない。
――とどのつまり、彼女は文字通り、死んでいたのだ。