閉じたはずの目を、開けた覚えはなかった。
それなのに、見えている。横殴りに流れていく、一面の白が。
風が鳴っていた。頭蓋の内側まで揺さぶるような、低く重い唸りだ。細かく軽いものが絶え間なく体を叩き、それが雪だと分かるまでに、少し時間がかかった。
モモンガは、雪の上に座っていた。
ほんの一瞬前まで、彼は玉座に腰を下ろしていたはずだ。ナザリック地下大墳墓、第十階層、玉座の間。天井から垂れる四十一枚の旗を見上げながら、視界の隅で減っていく秒数を数えていた。十二年続いたDMMO-RPG「ユグドラシル」の、最後の一分を。
最後の夜、顔を出してくれた仲間もいた。けれど誰もが短い言葉を交わしただけで、それぞれの明日へ帰っていった。いちばん遅くまで残ってくれたヘロヘロさんも、仕事の疲れには勝てず、眠たげな声で別れを告げてログアウトしていく。誰もいなくなった部屋で机を叩いたあと、玉座の間へ移り、守護者統括アルベドの長い設定文の最後の一行を、出来心で書き換えた。そこまでは、はっきりと覚えている。
旗を見上げながら最後に浮かんだのは、なぜか三人の名前だった。
たっち・みー。ウルベルト・アレイン・オードル。武人建御雷。
正義を口にするたっち・みーさんと、悪を誇るウルベルトさんの言い争いは、ギルドの名物のようなものだった。そこへ割って入るのは、たいていギルド長の役目だ。異形種狩りに追われてゲームをやめかけていた自分に、最初に手を差し伸べてくれたのも、たっち・みーさんだった。
二十三時五十九分五十九秒。悪くなかったな、と胸の内で呟いて、鈴木悟は目を閉じた。
その玉座が、ない。
(……は?)
骨の腰の下にあるのは、膝まで埋まりそうな新雪だった。慌てて立ち上がると、右手には七匹の蛇が絡み合う黄金の杖――ギルド武器、スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンが、ちゃんと握られている。
(サーバーが落ちなかった? いや、それなら玉座の間にいるはずだろ。延長? 新マップ? そんな告知、どこにもなかったぞ。……朝から仕事なんだけどな)
時計も、ゲージも、メニューも出てこない。代わりに、肩の骨に積もっていく雪の重みが、一粒ずつ分かった。ユグドラシルの感覚の再現には、法律の厳しい制限があったはずなのに。
吹きつける雪に瞬きをしかけて、モモンガはようやく気づく。閉じたはずの目を、開けた覚えがないのも当然だった。この顔には、閉じるための瞼がないのだから。
冷たい、ということは分かる。骨の表面を、雪の冷たさが確かに這っている。それなのに、凍えるという感覚だけが、いつまでたってもやって来ない。
顔を上げる。
足元の斜面は闇の底へと落ち込み、反対の側、山の頂の方角には、何かが突き立っていた。天から斜めに打ち込まれたような、途方もなく巨大な影。その周りで、砕けた岩の欠片がいくつも、支えもなく宙に浮かんでいる。
少し離れた雪の上では、赤い結晶がひとつ、熾火のように淡く光っていた。そのそばに、点々と窪みが続いている。半ば雪に埋もれかけた、人の足跡だ。足跡は頂の巨大な影のほうへ向かい、しばらく行ったところで引き返して、斜面の下へと消えていた。
(足跡……? プレイヤーか、それとも)
見たことのないマップを前にしたときの、あの小さな高揚が、こんなときでも胸の底で疼く。それを押しのけるように、別の記憶が骨の奥で身じろぎした。夜の未知のフィールドは、異形種を狙うプレイヤーキラーにとって、これ以上ない狩り場なのだ。
「――モモンガ様」
背後からの声に、反射的に杖を構えかけて、モモンガは止まった。
雪の中に、一人の老人が片膝をついている。後ろへ撫でつけた白髪に、整えられた白い髭。猛禽を思わせる鋭い目。黒い執事服の肩に、雪がうっすらと積もっていた。
(セバス……? たっち・みーさんの、セバスだ)
「お怪我はございませんか」
その口から、白い息がふわりとほどけた。
NPCは喋らない。決められた動きをなぞることはあっても、主の身を案じて眉をひそめたりはしない。少なくとも、ほんの数分前まではそうだった。
胸の奥で、驚きと恐れが爆ぜかける。だが次の瞬間、それはすっと消えていた。自分のものではない手に、感情だけをつまみ取られたかのように。
(落ち着け。……いや、落ち着いてる。落ち着かされてるんだ)
精神の安定化、とでも呼ぶしかない。アンデッドの種族特性である精神作用への耐性が、こんな形で働いているのか。
セバスは、まだ答えを待っている。
その静かな視線が、急に怖くなった。この老執事の忠誠は、たっち・みーさんが設定欄に書き込んだ文字にすぎなかったはずだ。文字が命を得た今も、それは同じ形をしているのか。ここで無様な主の姿を晒し、見限られたら――レベル百のNPCが本気で牙を剥いたら、自分一人で止められるのか。
失望させたくない。そして、それ以上に、失望されるのが怖い。
モモンガは、杖の石突きで雪を一度だけ突いた。
「――私は無事だ、セバス。お前こそ、怪我はないか」
自分でも驚くほど低く、落ち着いた声が出た。その声を聞いた瞬間、もう引き返せない一歩を踏み出してしまった気がした。
「もったいないお言葉でございます。……失礼いたします」
セバスは立ち上がり、主の肩に積もった雪を、白い手袋の手で丁寧に払い落とした。その白い眉に、うっすらと霜が降りている。ユグドラシルなら、レベル百のNPCが環境ダメージごときで顔色を変えることなどない。だが目の前の老執事は、確かに寒さに耐えている顔をしていた。
セバスは再び膝をつき、わずかに声を落とした。
「玉座の間に控えておりましたプレアデスの姿が、どこにも見当たりません。アルベド様のお姿も。それと、この寒さでございますが……じっとしているだけで、体の芯から何かを少しずつ削られていくようでございます。あの赤い石のそばだけは、不思議と温かいのですが」
(アルベドも、プレアデスも、いない。……最後に設定を書き換えた、あのアルベドも)
そのとき、吹雪の上で何かが羽ばたいた。
雪雲の中から、人影が降りてくる。その背に広がるのは鳥の翼ではなく、何本もの触手を束ねた異形の翼だった。
(悪魔の諸相の、触腕の翼……デミウルゴス。ウルベルトさんの――)
赤いストライプの三つ揃えに丸眼鏡、後ろへ撫でつけた黒髪。銀のプレートに包まれた尾が、着地した雪の上をゆっくりと掃く。
「モモンガ様。ご無事で何よりでございます」
続いて、雪を蹴散らす重い足音が追いついてきた。
現れたのは、二メートル半はあろうかという巨大な蟲だった。カマキリと蟻を掛け合わせたような巨躯をライトブルーの甲殻が覆い、四本の腕と鋭い棘を備えている。身の丈の倍はある尾が雪原に溝を刻み、その周りでは、舞い落ちる雪が細かな氷の粒になって光っていた。
(コキュートスまで……建御雷さんの)
「遅参、御容赦ヲ。コキュートス、只今御前ニ」
軋むような声と共に、蟲の口から白い冷気が吐き出された。名乗り終えるより早く、コキュートスは主の背後の闇へと体の向きを変えている。守るべき方角を、誰に命じられるでもなく選んだのだ。
デミウルゴスがセバスの隣に並んで膝をつく。コキュートスだけは膝をついても、半身を闇へ向けたままでいる。
先に口を開いたのは、デミウルゴスだ。
「灼熱の第七階層におりましたはずが、気づけばこの山の中腹におりました。雲の上まで昇って辺りを検めましたところ、雲の切れ間から、斜面を下った遥か先に人里のものと思しき灯りが見えました。ナザリックの影は、見渡せる限りどこにもございません。……それと、もう一つ」
デミウルゴスは、斜面の下に広がる闇を指で示した。
「この斜面を少し下った岩陰に、小さな焚き火と天幕がございます。天幕の傍らには、硝子の器や秤が整然と並べられておりました。おそらくは、錬金術師の野営地かと。……妙なことに、同じ天幕の脇には画板も一枚立てかけてございまして。留められた紙には、この山の頂の影が、白墨のようなもので丁寧に写し取られておりました」
薬品を量る道具と、絵を描く道具。それを同じ天幕に並べる人間を思い浮かべたのか、デミウルゴスの口元が、ほんのわずかに愉しげに歪んだ。
(錬金術師……この雪山で?)
さっきの足跡の主か。人がいる。少なくとも、硝子の器で何かを量る誰かが。
「第五階層ノ氷河ニ居タハズガ、目覚メレバコノ雪ノ中。デミウルゴスノ翼ヲ追ッテ参リマシタ。……コノ寒サ、第五階層ニモ劣リマセヌ」
「君には懐かしい寒さだろうね、コキュートス。私には、早くも第七階層の熱が恋しいよ」
軽口めいた言葉とは裏腹に、デミウルゴスの吐く息もまた、白く凍っていた。
それからデミウルゴスは、眼鏡の奥で細めていた瞼をわずかに持ち上げ、隣のセバスへ視線を流した。宝石の眼が、雪明かりを受けて硬く光る。
「セバス。君は、ずっと御方のお側に?」
「玉座の間に控えておりましたので」
「そうか。それは、何よりだね」
穏やかすぎる声に、モモンガは首の骨のあたりがむず痒くなった。セバスは何も答えず、ただ静かに目を伏せている。
(ウルベルトさんとたっち・みーさんの仲の悪さまで、そっくり受け継いでるのか……?)
そして、ふと気づく。玉座の間にいたアルベドたちではなく、最後の一分に思い浮かべた三人が作ったNPCだけが、ここにいる。
(なら、選んだのは誰だ。……まさか、俺なのか)
もしそうなら、仲間たちが残していったナザリックから、この三人を引き剥がしたのは――
「モモンガ様。御命令とあらば、ただちにあの野営地を探ってまいりますが」
「ナラバ、私ハ御方ノ盾トシテ、ココニ残リマショウ。何者ガ来ヨウト、指一本触レサセハシマセヌ」
「その前に、まずは風を凌げる場所を探すべきかと存じます。この寒さの中に、御方を長く立たせておくわけにはまいりません」
三人が三人とも、主のために最善と思う手を差し出してくる。その三つは、少しずつ違う方向を向いていた。
(全員、正しいこと言ってる気がする。……で、どれを選べばいいんだ)
錬金術師がいるなら、この世界のことを聞けるかもしれない。だが、こちらは骸骨と悪魔と巨大な蟲と、目つきの鋭い老人だ。夜の雪山でこの顔ぶれに出くわして、悲鳴を上げない人間がいるとは思えない。
会社なら、こういうときどうするか。誰の案も潰さず、それぞれの得意を活かし、勝手な単独行動だけはさせない。上司の顔色ばかり窺ってきた鈴木悟が、まさか部下の案をさばく側に回るとは思わなかったが。
「デミウルゴス。野営地には近づくな。目の届く高さで周囲を見張り、何かあっても手は出さずに報告しろ。コキュートスは、私の傍らを離れるな。セバスは、声の届く範囲で風を凌げる場所を探せ。お前も冷えているはずだ。あの赤い石から、あまり離れすぎるな」
「はっ」
「御意」
「かしこまりました」
三つの返事が重なる。デミウルゴスが、感に堪えないというように深く息を吐いた。
「我ら三人の献策を、一つたりとも捨てることなく……。流石は、モモンガ様」
(いや、選べなかっただけなんだけど)
それを口に出す度胸は、どこにもなかった。精神の安定化は、焦りまでは消してくれないらしい。
◇
そのとき、ふっと風がやんだ。
吹雪が嘘のように途切れ、世界から音が消える。頭上の雪雲に裂け目が走り、それはみるみるうちに広がっていった。翼を広げかけていたデミウルゴスも、雪を踏み出しかけていたセバスも、その場で動きを止める。
――星だ。
夜空一面に、星が散っていた。数えることなど到底できない光の粒が空の端から端までを埋め尽くし、その真ん中を、淡く輝く帯が川のように流れている。星明かりが雪原を青白く照らし出す。山頂に突き立つ巨大な影も、宙に浮かぶ岩の欠片も、この空の前では小さく見えた。
鈴木悟の生きていた二一三八年の空に、星はない。汚れた大気が空を塞ぎ、星が見えないことのほうが当たり前の時代だった。それでも、画像で見た星座の形くらいは覚えている。三つ星の並ぶ狩人の姿や、柄杓の形をした七つの星。そのどれもが、この空のどこにも見当たらなかった。
ナザリックの第六階層にも、夜空はある。自然をこよなく愛したギルドメンバー、ブルー・プラネットさんが心血を注いで作り上げた、作り物の空だ。
(ブルー・プラネットさん。……見えてますか。俺、今、本物の――)
言葉になる前に、またあの見えない手が、感情を均していく。この空を皆で見たかった、という願いさえも。
(……泣くことも、できないのか)
視線を下ろすと、三人は空を見ていなかった。眉に霜をまとったセバスも、宝石の眼に星を映そうともしないデミウルゴスも、冷気をまとって身じろぎひとつしないコキュートスも、これほどの星空には目もくれず、ただ主だけを見つめている。
これは、ゲームではない。
そして、ナザリックさえないこの場所で、彼らが仰ぐ主は、自分一人しかいない。
ならば、演じ続けるしかなかった。創造主たちが去ったあとに残された、この三人を守るために。
モモンガは、右手を持ち上げた。骨の指に嵌まった指輪の一つ、リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン。ナザリックの中を自在に転移するための、ギルドメンバーの証だ。
帰れさえすれば、あとはどうにでもなる。帰る場所がなかったら、という問いだけは、今は考えないことにした。
「命令は少し待て。試すことがある。三人とも、そこを動くな」
指輪に意識を向ける。使い方は、骨の奥が覚えていた。行き先を思い浮かべれば、それで――
何も、起きなかった。
円卓の間も、第六階層の円形劇場も、玉座の間も。思い浮かべたどの行き先にも、指輪は応えない。拒まれたのではなかった。最初からそこへ続く道がこの世界のどこにもないかのように、指輪はただ黙り込んでいる。胸の底が冷えかけたところを、また見えない手が均していった。
代わりに、山が応えた。
頂に突き立つ巨大な影の芯を、青白い光が一筋、下から上へと駆け上がっていく。宙に浮かぶ岩の欠片が、一斉にかすかに震えた。山の奥深くから、低い唸りのようなものが骨に伝わってくる。
コキュートスが音もなく主の前に出た。デミウルゴスの背で翼が開き、セバスが静かに拳を構える。
光は数度明滅し、やがて消えた。
(今のは……俺のせいか? 指輪に意識を向けた、その瞬間に)
「モモンガ様、今の光は」
「分からん。だが、動くな」
デミウルゴスの問いに答えながら、モモンガは頂の影から目を離せなかった。骨に伝わっていた唸りは、いつの間にか途絶えている。
拳を構えたままのセバスが、ふいに野営地の方角へ顔を向けた。つられて、モモンガも振り返る。
斜面を少し下った岩陰、焚き火の明かりの中で、小さな人影がひとつ、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。