転移してから、まだいくらも経っていない。
頂の光が消えてからも、コキュートスは主の前を譲らず、デミウルゴスは翼を畳もうとしない。セバスだけが拳を下ろし、主と同じ方角を見つめていた。
斜面を少し下った岩陰で、焚き火の明かりに浮かんだ人影は、しばらく頂のほうを見上げていた。小柄で、裾の長い外套を着ている。人間の子どもなのか、人間によく似た別の何かなのか、この距離では見分けがつかない。火の傍らに並んだ硝子の器が、炎を受けて、ときおり小さく瞬いた。
一度だけ、人影がこちらの斜面へ顔を向けた。四人の誰もが、その場で動きを止める。だが人影はすぐに視線を頂へ戻し、天幕の脇から板を一枚取り上げると、焚き火のそばに腰を下ろした。膝の上に板を据え、手を動かし始める。外套の袖口から覗く手は、少しも迷っていなかった。
(……描いてる、のか? 今の光を?)
逃げ出すでも、武器を探すでもない。デミウルゴスが見たという画板に、たった今の出来事を写し取っているのだろう。
ユグドラシルにも、ああいう連中はいた。見たことのないエフェクトが出たと聞けば、危険も顧みずに駆けつけて、何よりも先にスクリーンショットを撮るプレイヤーたちだ。モモンガ自身、身に覚えがないとは言えない。
下りていって、話を聞きたい。その思いが、骨の奥でかすかに疼いた。この世界のことも、あの光のことも、あの人影なら何か知っているかもしれない。だが同じ骨の奥には、別の記憶も沈んでいる。見知らぬフィールドで、異形種だというだけで狩られ続けた日々のことだ。あのとき手を差し伸べてくれたたっち・みーさんは、あくまで例外だった。
「モモンガ様」
背後から、デミウルゴスが声を落として呼んだ。
「あの者は、こちらに気づいておりますでしょうか」
すぐには答えられなかった。こちらは星明かりの斜面、向こうは焚き火の明かりの中だ。明るい場所から暗がりを見上げても、そうはっきりとは見えないはずだった。もっとも、はずだというだけで、確かめる手立てはない。
「ここを離れる。あれの目の届かない場所まで退くぞ」
「かしこまりました。……して、あの者は」
デミウルゴスの声は、穏やかなままだった。穏やかなまま、続く言葉だけを呑み込んでいる。
(……まさか、消しますか、とか言い出さないよな)
「放っておけ。先ほど命じたとおりだ。手は出すな」
「仰せのままに」
デミウルゴスが恭しく頭を下げる。視界の端で、セバスの肩から、わずかに力が抜けたのが分かった。
モモンガはセバスへ向き直った。白い眉の霜は、さっきよりも厚くなっている。
「セバス、風を凌げる場所を探せ。あの赤い石からは離れることになるが、耐えられるか」
「この程度の寒さ、どうということはございません」
即答だった。強がりなのか本心なのか、老執事の顔からは読み取れない。モモンガ自身の骨にも、冷たさは相変わらず貼りついている。それが少しも苦にならないことのほうが、かえって落ち着かなかった。
セバスを先に立て、四人は星明かりの斜面を横切った。頭上では、砕けた岩の欠片が、支えもなく音もなく浮かんでいる。雪を踏む音は四つあるのに、白い息を吐くのは三人だけだった。
セバスが見つけたのは、斜面を横へ回り込んだ先にある、崩れた石の門だった。
半ば雪に埋もれたアーチの内側に、大人がどうにか身を寄せられるほどの窪みがある。門の表面には文様が刻まれていたが、長い年月と氷に削られて、もう元の形をなしていない。誰かが遠い昔、この雪の山に、何かを築こうとしたのだ。
「私ハ外ニ立チマス。私ノ冷気ガ、奥ヘ入ラヌヨウニ」
コキュートスは言うが早いか、門の外の雪を踏み固めた。四本の腕を組み、闇に向き直った背中は、それきり動かない。セバスが小さく頭を下げたが、蟲の武人は振り返りもしなかった。
「デミウルゴス。上から、あれを見張れ」
「はっ」
触腕の翼がひと打ちして、悪魔の姿は門の上の岩棚へ消えた。
窪みの奥で、セバスが片膝をつく。モモンガはその前に立ち、右手の指先を、こめかみの骨に当てた。
ナザリックへの道がないことは、指輪が教えてくれた。ならば、人はどうだ。分からないことがあれば、まず連絡を取る。会社で叩き込まれた手順は、こんな場所でも、少しも抜けていなかった。
〈
『――モモンガ様?』
頭の内側に、デミウルゴスの声がじかに響いた。あの落ち着き払った悪魔が、ほんの一瞬、息を呑んだのが分かる声だった。
「試しただけだ。そのまま見張りを続けよ」
『はっ。……身に余る光栄にございます』
魔法は生きている。この世界でも、届く相手には、ちゃんと届くのだ。
次の名を思い浮かべる。最後の夜、いちばん遅くまで残ってくれた人だ。
(ヘロヘロさん。……いや、普通に寝てるよな。朝から仕事だって言ってたし)
それでも、唱えた。
伸ばした意識の先が、どこにも触れない。断られたのでも、遮られたのでもなかった。その先には、最初から誰もいない。ユグドラシルなら、相手がいなければいないなりに、何かしらの知らせが返ってきたはずだ。今は、それすらない。
誰も出ない電話のほうが、まだましだった。あれでも、呼び出し音くらいは鳴る。
モモンガは、低く名を呼びながら、一人ずつ唱えていった。
ペロロンチーノさん。ぶくぶく茶釜さん。あの姉弟の口喧嘩を、ギルドの誰もが、半分呆れながら聞いていた。やまいこさん。ぷにっと萌えさん。るし★ふぁーさんの名を呼んだときだけは、出たら出たで、また何かやらかされそうな気がした。
(タブラさん。……アルベドの設定、勝手に書き換えたこと、まだ謝ってないんですけど)
たっち・みーさんの名を口にしたとき、窪みの奥で、セバスがわずかに顔を上げた。ウルベルトさん。建御雷さん。
とうにゲームを辞めた人の名も、最後まで残ってくれた人の名も、最後の一人を除いて、一つ残らず。どの名も、考えるより先に浮かんできた。十二年分の名簿は、思っていたよりずっと深く、この骨に刻まれていたらしい。
どの名の先にも、何もなかった。
仲間のうちで最後に残したのは、一つの名前だった。伝えたいことは、もう決まっている。
(ブルー・プラネットさん。見ましたよ、本物の空。……いつか話してくれた、あの空でした)
意識は、やはりどこにも触れなかった。
胸の底へ、何かが静かに沈んでいく。あの見えない手は、今度は動かなかった。均すほどの波が立たないまま、重さだけが少しずつ積もっていく。
モモンガは指を下ろしかけて、止めた。仲間に届かないのなら、ナザリックに残してきた者たちはどうだ。
シャルティア。アウラ。マーレ。玉座の間に控えていたプレアデスの六人。宝物殿のパンドラズ・アクターにまで唱えてみたが、誰にも届かなかった。伸ばした意識の先にあるのは、仲間たちのときと同じ、何もない暗がりだけだ。
最後まで呼べずにいた名が、一つだけ残っている。玉座のすぐ傍らで、最後の一分を共に過ごしたNPC。設定文の最後の一行を、出来心で書き換えた相手だ。
(……アルベド)
唱えた瞬間、伸ばした意識の先が、ほんのわずかに上へ引かれた。
見上げた門の隙間から、消えかけの星がいくつか覗いている。
空のほうへ。星の向こうへ伸びかけて、そこで、ふつりと途切れる。
もう一度、唱えた。今度は、何も引かれなかった。
(今の、なんだ。……気のせい、か?)
三度目を唱える気には、なれなかった。もう一度何もなかったら、さっきの手応えまで嘘になる。
窪みの奥から、セバスが静かにこちらを見ている。何を見て、何を思ったのか。老執事は、何も訊かなかった。
訊かれなかったことに、ほっとしている自分がいた。何ひとつ答えを持たない主の姿を、これ以上、見せずに済んだのだから。
モモンガは門の外へ出た。東の空の端が、ほんのわずかに白み始めている。
(……もう、朝?)
ユグドラシルの時計が零時を回ったのは、ついさっきのはずだ。伝言を一通り試しただけで、夜が明けるわけがない。この山の夜は、向こうの時計とは関係なく、とうに更けていたのだろう。零時という数字は、ここでは何の意味も持たないらしい。
入口の脇では、コキュートスが同じ姿勢のまま闇を睨んでいた。甲殻の縁には、細かな霜がびっしりと貼りついている。
「ご苦労だな、コキュートス」
「勿体ナキ御言葉。コノ程度、何ノ苦ニモナリマセヌ」
答える声が、ほんのわずかに弾んでいた。セバスと同じ台詞だ、とモモンガは思ったが、口には出さなかった。
◇
転移の夜が、明けようとしていた。
岩棚の上から見下ろす焚き火のそばで、小さな人影は、まだ手を動かしていた。画板に向かい、時おり顔を上げて頂を仰ぎ、また紙に目を落とす。一度だけ立ち上がり、硝子の器を手に雪の上を歩き回ったが、何かを確かめ終えると、すぐに火のそばへ戻った。秤に何かを載せては紙に書きつけ、また頂を仰ぐ。
一度、人影がこの岩棚のあたりを仰いだことがある。デミウルゴスは身じろぎもせず、岩と同じ影になってやり過ごした。気づかれたとは思わない。思わないが、確かめようのないことを一つ抱えるのは、悪魔にとってもあまり愉快ではなかった。
恐れるより先に、記録を取る人間。
デミウルゴスは、その振る舞いを冷ややかに値踏みした。あれが愚かさなら、扱いやすい。賢さなら、なお使い道がある。どちらにせよ、黙らせるだけなら造作もない距離だった。爪の一振りで、事は足りる。
だが、御方は手を出すなと仰せになった。
ならば、あの人間はもはや、ただの目撃者ではない。御方が生かすと決めた、使い道のある何かだ。その値打ちを測るのは、御方がそれをどうお使いになるかを見てからでいい。
頂の影は、あれきり沈黙している。あの光は、御方が指輪に意識を向けられた、まさにその時に走った。偶然と呼ぶには、間がよすぎる。だが、何がどう応えたのかまでは、まだ読めない。読めないものは、読めるまで眺めておけばいい。
頭の内に御声が響いたのは、少し前のことだ。この地で御方が最初に〈伝言〉を賜った相手が、自分だった。それだけで、身を刺す夜気など、取るに足りないものになった。門の外に立つコキュートスにも、窪みの奥のセバスにも、御声はまだ届いていないはずだ。
門の前には今、その御方が立っておられる。もう長いこと、身じろぎひとつなさらない。
〈伝言〉を試されたのは、届くかどうかを確かめるためだ。確かめた上で、御方は、別の誰かへ呼びかけられたに違いない。ナザリックの守護者たちへ。あるいは、去っていかれた至高の御方々へ。
そして、答えはなかった。
デミウルゴスは、凍った息をひとつ吐いた。
この地にいるナザリックの者は、我ら三人だけということになる。玉座の間で御方のお側に控えていたアルベドも、プレアデスもいない。代わりに、第七階層の自分と、第五階層のコキュートスがいる。御方の近くにいた者が、連れてこられたのではない。守護者統括を差し置いて、守護者がふたりと執事がひとり。役職で選ばれたのでもない。
ならば、三人に共通するものは一つしかなかった。ウルベルト・アレイン・オードル様、武人建御雷様、そして、たっち・みー様。我らを創りたもうた御方々の、その御名だ。
背後で、雪を踏む音がした。
「デミウルゴス」
振り返るより先に、膝をついていた。
「あれは、どうしている」
「変わらず、絵を描き続けております。一度、硝子の器で雪を量っておりましたが、こちらへ近づく様子はございません」
「そうか」
御方は焚き火を見下ろしたまま、しばらく黙しておられた。眼窩の奥の赤い光は、遠い炎のほうを向いたまま動かない。
「……デミウルゴス。お前は、どう考える」
「何について、でございましょう」
「我々が、ここにいることについてだ。なぜ、この四人だけなのか」
問われるまでもないことだった。それでも、御方は問われた。答えはとうにご存じのはずで、ご存じの上で、こちらの考えの深さを測っておられるのだろう。
「恐れながら、申し上げます」
デミウルゴスは顔を伏せたまま、言葉を選んだ。
「我ら三人は、モモンガ様がお選びになったのだと拝察いたします。場所でも役職でもなく、創造主の御名によって。去っていかれた御方々の遺したものとして、モモンガ様は我らを、この地へお連れくださった。……違いますでしょうか」
返事は、すぐには来なかった。
岩棚の下で、門を守るコキュートスの吐く冷気が、白く細く流れていく。銀の尾が、岩の上の雪を一度だけ払った。デミウルゴスは顔を伏せたまま、待った。否と仰せになるなら、この浅はかな推測ごと、己を恥じればいい。
やがて、低い声が落ちてきた。
「……お前たちは、ここにいる。今は、それで足りる」
否、ではなかった。
理由など語るまでもない、と仰せなのだ。御方にとって、それは確かめるまでもない当然のことだった。
伏せた顔の下で、デミウルゴスは静かに目を閉じた。胸の奥が、灼熱の第七階層よりも、なお熱い。
ならば、この身のすべてで、その選びに報いる。御方が口になさらない望みまで、先回りして叶えてみせよう。
「モモンガ様。あの人間は、いかがなさいますか。夜が明ければ、山を下りるやもしれません」
「見張りを続けよ。……あれが何者なのか、私は知りたい」
知りたい、と御方は仰せになった。ならば、あれはもう御方の持ち物だ。傷ひとつ付けずにお渡しするまでが、見張りの務めになる。
顔を上げると、御方は、また空を見上げておられた。白み始めた東の端から、星が一つずつ消えていく。あの光の粒に、御方は何をご覧になっているのか。デミウルゴスには分からなかった。分からないことが、なぜか、少しだけ口惜しい。
岩棚の下、門の内側には、セバスの気配がある。あの男は、この光栄の重さを分かっているのだろうか。分かっていないのなら、それもまた、たっち・みー様の創られた者らしい。
視線を焚き火へ戻したとき、デミウルゴスは眉を寄せた。
「――モモンガ様」
焚き火のそばから、人影が消えている。
探すまでもなかった。小さな人影は、斜面を登ってきていた。こちらへではない。四人が最初に立っていた場所、赤い石が淡く光る、あの雪の上へ向かっている。
「手は出すな。見ていろ」
御方の声は低く、少しも揺らがなかった。
人影は赤い石のそばで足を止めると、雪の上に屈み込んだ。点々と残る足跡を指でなぞり、コキュートスの尾が刻んだ溝を覗き込み、細かな氷の粒が光る雪を、硝子の小瓶にひとすくい収める。それから懐から紙を取り出し、膝の上で、何かを書きつけた。
書き終えた紙を丁寧に折り畳み、赤い石の脇に置いて、手頃な石で重しをする。
それきり人影は立ち上がり、一度も振り返ることなく、斜面を下っていった。
◇
夜が明けた。転移から、最初の朝だった。
雪原の向こうから昇る日は、目が痛くなるほど白い。痛む目など持っていないくせに、モモンガは思わず、眼窩を細めかけた。朝の光の中で見る頂の影は、夜よりもなお大きく、宙に浮かぶ岩の欠片が、その周りで白く光っている。セバスの眉の霜が、日差しを受けて、ようやく少しずつ溶け始めていた。
セバスが持ち帰った紙は、まだ冷たかった。
「赤い石の脇に、重しを載せて置かれておりました。ほかには、何も」
「ご苦労」
受け取って、開く。門の外からはコキュートスが、岩棚から降りてきたデミウルゴスが、そして目の前のセバスが、それぞれ黙って主の手元を見つめていた。誰も、何も言わない。主が読み終えるのを、当然のように待っている。
見たことのない文字が、几帳面な筆致で並んでいた。日本語でも、英語でも、ユグドラシルで目にしたどの文字でもない。
(……読めない)
宛名も、差出人も分からない。誰かがこちらへ何かを伝えようとしたことだけは、確かなのに。
(こっちのは、一つも届かなかったのにな)
朝日に透かしてみても、文字は文字のままだった。
文字の下に、絵があった。
白墨で描かれた、小さな絵だ。星の散る夜空。雪の斜面。そこに並ぶ、四つの影。迷いのない、静かな線だった。描いた者が怯えていなかったことだけは、文字が読めなくても分かる。
悪魔と、巨大な蟲と、老人の影は、真ん中の一つを見つめていた。
骸骨だけが、空を見上げていた。