冬の終わりの村は、音が少なかった。
朝の粥を炊く煙が三つ、四つ立っているだけで、犬の声も、子どもの声もしない。去年の稲は半分が病で黒くなり、残りの半分は、戦から戻らなかった男たちの代わりに、冬のあいだ少しずつ減っていった。
彼は村のはずれ、屋根の傾いた小屋の前で薪を割っていた。
割った薪は、そのまま隣の家の軒下へ運ぶ。三年、毎朝そうしている。
礼を言う者もいれば、言わない者もいた。どちらでも、彼は同じ場所に薪を置いた。
その朝も、子どもが一人、少し離れたところから彼を見ていた。
「旅の人は、どこから来たの」
「遠いところ」
「どのくらい」
「歩いては、来られないくらい」
子どもは納得したような、していないような顔で、割れた薪を拾って、隣の家へ走っていった。
三年前の春、気づけば田の畦に立っていた。裸足で、身につけているものはなく。
村の者は彼を「旅の人」と呼び、今もそう呼んでいる。
死んだ日のことは覚えていた。終電を逃して、駅前の居酒屋の看板が消えるのを見ていた。
そのあとは白かった。白い場所で、声が言った。何か一つ持っていけ、と。
何がいいかと訊かれたが、彼は答えなかった。答える前に、声は終わっていた。
それがこの世界で何になったのか、彼は知らなかった。
三年、何も起きなかった。薪が割れて、薪が燃えるだけだった。
「旅の人」
呼ばれて振り向くと、倉の番をしている老婆が立っていた。
「倉の壺が、おかしい。見てくれない?」
倉の隅に、蓋をした壺がひとつあった。
蒸した米の残りを女たちが口で噛んで吐き出し、水と一緒に入れたものだという。
神に供えるつもりで、供える前に忘れられた。蓋を取ると、酸い匂いが立った。
壺の中で、泡がゆっくり浮かんでは消えていた。
彼は指ですくって舐めた。舌の奥が痺れて、喉が熱くなった。
あの世界で毎晩のように飲んでいたものの、いちばん古い形が、そこにあった。
「……酒だ」
「さけ?」
「飲めるものです。腐ってるんじゃない」
老婆は疑わしそうに壺をのぞきこんだ。この老婆の息子は、秋に戦へ行って戻らなかった。
「飲むと、少しのあいだ、楽になります」
椀に注いで、差し出した。老婆はしばらく椀を見ていた。それから受け取って、口をつけた。
何も言わなかった。やがて、笑った。笑ってから、泣いた。
泣いたまま椀を突き出して、もう一杯、と言った。
「あの子にも」
椀を持つ手が震えていた。
「あの子にも、飲ませてやりたかった」
その日のうちに壺は空になった。
その晩、村は静かだった。いつもの静けさとは違った。
夜中に誰かが戸口に出て、空を見上げたまま立っている気配もなかった。
翌朝、老婆は寝坊した。村でいちばん早起きの老婆が、日が高くなっても戸を開けなかった。
村長が様子を見に行って、戻ってきて、何も言わずに自分の家の戸口に座りこんだ。
村じゅうの女が米を噛みはじめたのは、その日の昼からだった。
口の中で米が甘くなる、と誰かが言った。彼はそれが唾の中の何かのせいだと説明しようとして、やめた。説明しても、この村には使える言葉がなかった。
村長は反対した。
「米は食うものだ。腐らせて飲むものじゃない」
「蓄えの一割だけです」
「一割でも、春には足りなくなる」
彼は言い返せなかった。正しいのは村長のほうだった。
「……では、一度だけ」
「一度」
「一度やって、皆が何も変わらなかったら、やめます」
村長は長いこと黙っていた。それから、倉の鍵を彼の手に載せた。
米を蒸す加減と、水を入れる量と、壺を置く場所を教えた。覚えているかぎりのことを教えた。
足りないところは、村のほうが勝手に埋めていった。
三つ目の壺は酸っぱくなりすぎて、四つ目は水っぽかった。五つ目で、はじめてあの味になった。
十日のあいだに、村には音が戻った。夕方になると、どこかの家から歌が聞こえた。下手な歌で、同じところを何度も間違えた。犬が吠えて、子どもが走った。彼は薪を割りながら、それを聞いていた。
十日後の夕方、村の真ん中に火が焚かれた。誰が言い出したのか、火の前に彼の席ができていた。
藁を重ねて、その上に古い獣の皮が一枚敷いてある。座れと言われて座ると、若い女が椀を両手で捧げてきた。
「神さま」
「やめなさい」
別の女が笑って叩いた。若い女も笑った。誰も、言い直さなかった。
月が東の山の上にあった。火のまわりに、村の者が全員いた。数えれば四十人ほどだった。去年の春は六十人いたと誰かが言い、すぐ別の誰かが、やめよう、と言った。
その話はそれきり終わった。
椀が回った。誰かが歌い出して、音が外れて、また誰かが笑った。子どもが一人、大人の膝で眠っていた。昼に泣いていた老婆が、いまは手を叩いている。
「戦は、まだ続くのか」
酔った男が、誰にともなく訊いた。
「北では、もう終わったと聞いた」
「聞いただけだ」
「終わったことにしておけばいい」
別の男が言った。
「今夜は」
「うちの人の顔ね」
隣の女が言った。笑いながら言っていた。
「もう、思い出せなくて。さっきまで、覚えていたのに」
「そのうち、また」
「思い出さなくていい」
女は椀の中を見ていた。
「このまま、思い出さなくて」
彼は何も答えなかった。椀の中の白く濁った酒に、月が映っていた。
若い男が立って、踊りのようなものを始めた。踊りというには足がもつれていて、すぐに転んだ。転んだまま笑って、起き上がらなかった。何人かが手を貸そうとして、一緒に転んだ。
火のまわりが、笑い声でいっぱいになった。
村長が、その様子を端から見ていた。椀は持っていたが、口をつけていなかった。
「村長」
彼が声をかけると、村長は椀を見下ろした。
「去年の冬、妻が死んだ」
「……はい」
「葬ったあと、泣けなかった。泣き方を、忘れたようだった」
村長は椀を傾けた。ゆっくりと、飲み干した。
「今夜は、泣けそうだ」
火が弱まって、誰かが薪をくべた。火の粉が上がって、夜空に混ざった。
あの世界の夜を、彼は思い出した。夜が、いつも終わらなければいいと思っていた。
終われば朝が来て、朝には仕事があった。
ああ、このまま永遠に終わらなければ良い、と。
それを誰が思ったのか、わからなかった。自分だったのかもしれない。隣の女だったのかもしれない。火を囲む全員が、同じことを、同じときに思ったのかもしれない。
火は、弱まらなかった。
薪をくべる者はもういないのに、炎は同じ高さのまま揺れていた。
風が止んでいた。川の音もしなかった。月も動いていなかった。
東の山の上に、さっきと同じ角度で掛かっている。
「……あれ」
誰かが言った。誰も立ち上がらなかった。
足の下で、地面が静かに組み変わっていった。草を踏んでいたはずの場所に、固い土の道ができている。
藁と木の低い屋根が道の両側に連なって、軒先に灯りがともった。
ひとつ、ふたつ。数えきれなくなるころには、そこは村ではなくなっていた。
どの戸口にも壺が置かれていた。どの壺からも、酒の匂いがした。
誰も怖がらなかった。老婆は手を叩くのをやめず、子どもは眠ったままだった。
若い女は椀を持ったまま、空を見上げて笑っていた。
「いい夜だ」
誰かが言った。
「ああ」
「いつまでも続けばいいのに」
「続くさ」
誰かが、当たり前のことのように答えた。
彼は立ち上がって、自分の手を見た。
「……これか」
三年前、何も頼まなかった自分に、あの声が持たせていったもの。
ようやく、それがわかった気がした。
彼は道を歩いた。足の裏に、固く均された土の感触があった。
村の端だったはずの場所に、まだ道があった。
その先にも、屋根があった。灯りは、どこまでも続いていた。
空を見た。星の位置が、さっきから少しも違わなかった。夜がどこにも進んでいなかった。
火のところへ戻ると、村の者は、みんなさっきと同じ場所で笑っていた。顔に、何かが触れた。
手をやると、額も頬も顎も、固いものに覆われていた。
指で縁を探っても、継ぎ目がない。爪を立てても、剥がれない。
桶に水が張ってあった。覗くと、月のように白く、凹凸のない面が、こちらを見返していた。
目の位置に穴はなかった。それでも、桶の縁も、自分の手も、はっきり見えていた。
「……取れない」
両手で掴んで引いた。動かなかった。もう一度、爪を立てた。
面の下で皮膚が引きつれて、それでも、面は顔の形のまま動かなかった。
背後で、衣擦れの音がした。村の者が、ひとり、またひとりと、地面に膝をついていた。
額を土につけて、誰も顔を上げなかった。
「立ってください。やめてください」
誰も立たなかった。自分の声が、思っていたより低く、遠くまで届いた。
「神さま」
子どもを抱いた女が、小さく言った。
「神さま。どうか、この夜が」
彼は何も言えなかった。仮面の内側で、自分の息の音だけが聞こえた。
月は、まだ動いていなかった。
第一話はオリ主くんの力が目覚めた話です
街は酒の匂いに包まれている、それが心地よく
溺れてしまう者もいるだろう、夜が続く間は酔いがすべてを忘れさせる
どこからともなく現れ、知識を与え、体を温め苦しみを忘れさせる酒をもたらしたその者は
月の顔をしていた
その世界は何になるのだろうか