朝は、静かに来た。
東の山の端が白んで、月が、ようやく動いた。
軒先の灯りが、霧のように薄れていく。固く均されていた土の道が、足の下で草の根に戻る。
気づけば、そこは村だった。藁と木の屋根。傾いた小屋。火のあとの黒い輪。
まわりに、人の輪郭が戻りはじめた。薄い影が霧と共に、草の上に座る形をとって、少しずつ、色を取り戻していく。最初に戻ってきたのは、子どもだった。
大人の膝の上で身じろぎして、目をこすり、あたりを見回した。
それから何も言わずに、母親の袖を引いた。
「……あさ」
「朝だね」
母親は、朝を初めて見るような顔をしていた。
村の者が、次々に戻ってきた。腕を伸ばして、咳をして、自分の手を眺めた。
誰かが泣き出して、誰かが笑った。
彼は、火の跡のそばに立っていた。晩朝の光の中でも、面は白かった。
「神さま」
戻った者が彼に気づいて、地面に額をつけた。ひとり、またひとり、それが広がっていく。
「やめてください」
誰もやめなかった。子どもが一人、そっと面に手を伸ばした。
母親が慌てて引き戻そうとして、彼は、いい、と言った。
小さな指が、面の縁をなぞった。継ぎ目は、どこにもなかった。
「つめたい」
「そうか」
子どもは満足したように、手を引っ込めた。
村長が、膝の土を払って立ち上がった。
「昨夜のあれは」
「……俺にも、よく」
「街、だったな」
村長はそう言って、あたりを見渡した。それから、口を閉じた。
数が合わなかった。七人、戻らない者がいた。
火のまわりの、座っていたはずの場所が空いていた。椀だけが、草の上に転がっている。
名を呼んでも、返事はなかった。探しても、どこにもいなかった。
最後に見た顔は、どれも笑っていた。
「死んだのか」
「ここには、いません」
「ならば、どこに」
「おそらく、街に残った」
七人の中に、「このまま、思い出さなくて」と言った女がいた。女の椀が、いちばん端に転がっていた。
昼になっても、女は戻らなかった。
村の者は、七人の家の戸を開けて、寝床を整えた。戻ってきたときに、困らないように。
椀は、火の跡に並べて置いた。
夕方、戻った者たちが、ぽつぽつと話しはじめた。
「帰らなきゃ、と思ったんだ。そうしたら、ここにいた」
「俺もだ。畑のことを思い出して」
老婆が言った。
「息子の顔を忘れてたまるか、と思ったら、朝だった」
それきり、誰も何も言わなかった。
村長が、静かに言った。
「帰りたい者は、帰れた。残りたい者は、残った」
彼は何も言えなかった。そのとおりなのかどうかも、わからなかった。
翌日から、村長が動いた。
「神さまの街には、入口がいる」
そう言って、村のはずれの畦に、杭を二本立てた。
彼は、昔どこかで見た茅の輪を思い出していた。しめ縄を渡して、輪にしろと言った。
くぐれば入れるのだ、と思っていた。壺を並べ、縄を張り、石を積んだ。
一度目は、誰も入れなかった。二度目は、ひとり入った。三度目は、手順を変えた。
輪を左から三度くぐり、壺に酒を注ぎ、彼が面の前で手を合わせる。
入れる者と、入れない者がいた。差がわからなかった。
子どもたちは、輪をくぐる遊びを始めた。くぐっても、誰も入れなかった。それでも、遊びは毎日続いた。
そのうち、鳥居のような柱が、二本立った。誰が言い出したのかは、わからない。
ある夜、彼は見た。
輪の外で、ひとりの男が、ただ手を合わせていた。戦で息子を亡くした男だった。
縄にも、柱にも、触れてはいなかった。田の隅の暗がりで、小さく言った。
「どうか、少しだけ」
それだけだった。
男の輪郭が薄れ、霧が浮かび、足元に、橙色の灯りが滲んだ。次の瞬間、男はいなかった。
朝、男は同じ場所に立っていた。入ったときのままだった。街にいた、と言った。
輪も、縄も、要らなかったのだ。誰かが本当に望めば、それでよかった。
彼は、それをしばらく誰にも言わなかった。縄は、そのままにしておいた。
村の者は、縄の前に小さな屋根を掛けた。壺を供え、石を磨いた。
屋根はやがて祠になり、柱は鳥居になった。
街から戻った者は、傾いた屋根を直し、荒れた畑を耕した。
三度目の秋に、稲は黒くならなかった。村は、少しずつ大きくなった。
村の者は、彼を神さまと呼ぶのをやめなかった。彼も、やめろと言わなくなった。
夜は、祠の前に座ることが多くなった。面に触れて、継ぎ目を探す。
毎晩、同じ場所を探して、毎晩、見つからなかった。
霧の深い朝だった。
彼は祠の前にいた。毎朝そこで、供えの壺に酒を継ぎ足すのが、仕事になっていた。
面は外れなかった。一度も。
壺の縁で、何かが動いた。掌ほどの、濡れたものだった。
柔らかそうな体を縁に引っかけて、ゆっくり、這い上がってくる。
「……ナメクジか」
「ウミウシ」
声がした。澄んだ、少女の声だった。
彼はあたりを見回した。誰もいない。霧の中に、祠と鳥居と、壺があるだけだった。
「ここ。下」
視線を落とした。壺の縁で、小さな体が、触角のようなものをこちらへ向けていた。
「……酔ってるのか、俺は」
「酔ってない。たぶん」
ウミウシは縁を乗り越えて、供えの台に落ちた。べしゃ、と濁り酒に半分浸かって、慌てて這い出した。
「あなたが、神?」
「村では、そう呼ばれてる」
「そう。よかった」
ウミウシは、台の上で、ぐったりと体を伸ばした。
「三月、探した」
「三月」
「海から、ずっと。山を越えて」
「ウミウシが?」
「途中で、鳥に三回、食べられかけた」
「……よく生きてたな」
「三回とも、ぺって吐き出された。まずかったんだと思う」
「この体は、私のじゃないの」
少し、間があった。
「犬DOGEの。私の相棒。犬だったんだけど」
「犬が、ウミウシに」
「私の体は、もうない。船が壊れて、体も壊れて。残ったのが、これだけ」
「船」
「月から来たの」
彼は何も言わなかった。言うべきことが、なかった。
「かぐや、っていうの。よろしく」
ウミウシが、体を少し持ち上げた。会釈のつもりらしかった。
「……神です」
「うん、知ってる」
「山の人が言ってた」
かぐやは言った。
「悲しい人が眠れる街を、酒の神さまが案内してくれるって。だから、もしかしてって」
「もしかして?」
「あなたが、ヤチヨなの?」
「ヤチヨ?」
「...知らない? ヤチヨって人」
「……知らない」
「...そっか」
声が、少し小さくなった。
彼は、祠を見た。三年前は縄だったものが、いまは屋根を持っている。
鳥居の下に、濁り酒の壺が並んでいる。
「祈れ」
「え」
「祠に祈れば、入れる。俺の街だ」
「……入ったら、どうなるの」
「入ればわかる」
ウミウシは、しばらく祠を見上げていた。
それから、小さく体を丸めた。霧が、色を変えた。
白かった霧が、ほのかに橙を帯びた。祠の屋根に、提灯が下がる。ひとつ、ふたつ。
鳥居の向こうに、道が現れた。藁と木の低い屋根が、両側に連なっていく。
道の両側に、提灯が下がっていた。どの提灯の下にも、湯気の立つ椀が置かれている。
誰が置いたのでもなかった。道の真ん中に、少女が座っていた。
十五、六に見えた。裸足で、膝を抱えている。髪が、提灯の灯りを透かして、淡く光っていた。
少女は、自分の手を見ていた。
指を、ゆっくり曲げた。もう一度、開いた。
「手が、ある」
声が、震えていた。
「ある。……ちゃんと、ある」
ぽろぽろと、涙がこぼれた。拭いもせずに、何度も指を曲げていた。
彼は何も言わなかった。言わないほうがいい、と思った。
しばらくして、盃を差し出した。濁り酒が、なみなみと注いである。
少女は受け取って、ためらいもせず、飲んだ。
そして、むせた。
「にが……っ、なにこれ?...にがい?」
「酒だ」
「知ってるよ!知ってるけど、にがい...」
咳き込みながら、少女は笑った。顔をくしゃくしゃにして、久しぶりに笑ったような声だった。
笑い終わるころには、涙も止まっていた。
道の先で、笑い声がした。縁台に、七人が座っていた。村の者だった。
あの朝、戻らなかった七人が、椀を手に、肩を寄せ合って笑っている。
「思い出さなくていい」と言った女が、こちらに気づいて、椀を掲げた。
「あの人たちは」
少女が訊いた。
「帰りたくない人たちだ」
彼は言った。
「帰りたくなったら、帰れる」
少女はしばらく、その笑い声を見ていた。それから、彼の顔を見上げた。
「それ、外さないの?」
「外れない」
「ふうん」
少女は、面をまじまじと眺めた。
「月みたい」
彼は何も答えなかった。面の内側で、自分の息の音がした。
「多分、ここにいる間だけだ」
しばらくして、彼は言った。
「その姿は。外に出れば、また、さっきのに戻る」
少女は、自分の手を見た。それから、道の先を見た。
提灯が、どこまでも並んでいる。
「……帰る場所があるなら」
少女は、小さく言った。
「それでも、いい」
二人は並んで、灯りの列を見ていた。
灯りの列は、道の向こうまで続いていた。どこまで続いているのか、彼にもわからなかった。
無限に続く街は忘却を望む者を溺れさせる
けれどきっとそれだけが救いになるのだ
少しの救いも永久の眠りも望むなら与えられる
未来にあるいは今に残した事があるならば
過去に忘れたくない事があるならば
きっと夜は明けるだろう