宵の街とかぐや姫   作:LuN@iL

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第三話 釣りで占う戦は魚でない者を釣り上げたなら何をもたらすだろう


第三話 川辺の占いと不滅の影

緩やかな川、向こう岸が霞んでいる。その手前の河原に、軍勢が陣を張っていた。

幕の列。繋がれた馬。積み上げられた槍。兵士たちは口数が少なく、鎧の紐を、何度も結び直していた。海を渡る戦が、近い。

 

どこかで、馬が嘶いた。誰かが砥石で刀を研ぐ音が、規則正しく続いている。

笑う者は、一人もいなかった。

村から、米と薪が運ばれてきた。籠を背負った男たちの先頭に、村長がいる。

その籠のひとつの縁に、小さなものが乗っていた。村長は気づいていなかった。

兵士が、積まれた米を数えていた。

 

「三十だ。約束どおりだな」

 

「はい」

 

「ところで」

 

兵士は、声をひそめた。

 

「お前の村に、白い酒を醸す酒神がいると聞いた」

 

村長は、一瞬、言葉に詰まった。

 

「……さようで」

 

「面をつけているとか」

 

「ええ」

 

兵士は、それ以上は訊かなかった。ただ、村長の顔を、じっと見ていた。

河原の浅瀬に、皇后がいた。裳の裾をからげて、石の上に膝をつき、糸を垂らしている。着物の糸を一本抜いて、飯粒を餌にした、細い糸だった。

兵士たちは、少し離れたところで、黙ってそれを見ていた。

 

「鮎が釣れれば、勝つそうだ」

 

「釣れなければ」

 

「……言うな」

 

川の面は、動かなかった。

籠の縁から降りた小さなものが、いつのまにか、岸の石の上に来ていた。ウミウシだった。

糸の行方を、身を乗り出して見ている。石の苔が、ぬるりと滑った。

ぽちゃん、と小さな音がした。

糸が、ぴんと張った。

 

「かかった」

 

誰かが言った。皇后の手が、わずかに震えた。兵士たちが息を呑む。

糸が引き揚げられた。

針の先で、掌ほどの柔らかいものが、ぶらりと揺れた。

 

「鮎では、ない」

 

「……魚では、ない」

 

ざわめきが広がった。吉か凶か、誰も口にしなかった。

皇后は、そのものを、そっと掌に載せた。濡れた体の端に、針が浅く引っかかっている。

 

「何かしら、これは」

 

怖がっている声ではなかった。むしろ、少し、面白がっていた。

ウミウシは、何も言わなかった。体を縮めて、じっとしていた。

 

 

 

そのころ、祠の台は空だった。

壺の隣で、いつも体を伸ばしているものが、いない。供えの木の実だけが、縁に残っている。

 

「ウミウシさま、村長さんの籠に乗ってったよ」

 

子どもが言った。

 

「どこへ」

 

「川のほう。兵隊さんがいるところ」

 

彼は、祠の前に立ったまま、しばらく動かなかった。川までは、歩いて半日の道のはずだった。

足が、前に出た。そのとたん、霧が出た。

白い霧が、足元から立ち上って、鳥居を、祠を、壺を、のみこんでいく。彼は歩いた。霧の中を、何歩か。

足の裏の感触が、変わった。土ではなかった。砂利だった。

霧が、薄れた。目の前に、河原と、幕の列と、鎧の兵士たちがいた。

どうやって来たのか、彼にもわからなかった。

 

悲鳴が、上がった。

甲高い、女の声だった。

皇后が、掌のウミウシを握ったまま、身を引いていた。霧の中から、白い面をつけた男が現れた。その面には、目の穴も、口の穴もなかった。

 

「敵だ」

 

「皇后をお守りしろ」

 

刀が抜かれた。槍が構えられた。何人もの兵士が、一斉に駆け寄ってくる。

彼は、動かなかった。

最初の刃が、胸に沈んだ。二本目が肩を裂き、槍が背を貫いた。

血は、出なかった。傷口から、白い霧が立ち上った。

刃の入った場所からも、貫かれた場所からも、湯気のように、静かに。

霧は、ゆっくりと傷をなめて、消えた。

破れた衣が、糸を引くように寄り集まって、元の形に戻っていく。

あとには、傷ひとつ、なかった。

兵士たちは、動かなかった。刀を握ったまま、槍を突き出したまま、誰も、一手を出せなかった。

 

「……斬れん」

 

誰かが、かすれた声で言った。

彼は、自分の胸のあたりを見下ろした。それから、顔を上げた。

 

「それ」

 

彼は、皇后の手を指した。

 

「返してもらえないか」

 

「酒神さま」

 

兵士たちの後ろで、村長が、地面に額をつけていた。

 

「酒神さま、お許しを。この方々は、何もご存じなくて」

 

皇后が、はっとした顔をした。

村の者と取引をしたときに、聞いていた。白く濁った酒を醸す、白い面の酒神がいる、と。

 

「あなたが、酒神」

 

彼は、何も言わなかった。皇后は、掌をおずおずと差し出した。

彼は、ウミウシをそっと受け取った。針を、指で外す。体の端に、小さな痕が残った。

 

「……ごめん」

 

ウミウシが、小さく言った。皇后は、目を丸くした。

 

「しゃべるのね」

 

「使いだ」

 

彼は言った。

皇后の目の下には、濃い影があった。兵士たちの顔にも。

鎧の紐を結ぶ手が、まだ、細かく震えている者がいた。

彼は、腰の瓢箪を外した。栓を抜くと、酸い匂いと、甘い匂いが立った。

 

「ひと晩、休んでいけ」

 

皇后は、瓢箪を見つめた。兵士の一人が、小さく首を振った。毒かもしれない、という顔だった。

皇后は、瓢箪を受け取って、口をつけた。

 

「……悪くはない」

 

彼の掌で、ウミウシが、少し笑った。霧が、橙に染まった。幕の列に、提灯が下がった。

馬の姿が薄れ、積んだ槍が草の根に溶けて、河原が、藁と木の低い屋根の道に変わっていく。

握っていた槍だけが、人の姿が消えたあとの河原に、ばらばらと転がった。

 

提灯の灯りの下で、少女が笑っていた。

十二単に裸足で、髪が灯りを透かして光っている。彼女は、何度入っても、最初に自分の指を曲げて確かめる。今夜も、そうした。それから、ぽろりと涙をこぼして、袖で拭った。

 

「慣れないなあ」

 

縁台に、兵士たちが座っていた。鎧のまま、椀を傾けている。紐を結び直す手は、震えていなかった。村長が、椀を両手に持って、兵士たちの間を回っていた。こういうことには、慣れていた。

 

少女は、にやりと笑った。

 

「あなたたち、あの人に切りかかったでしょ。みんな、青い顔して、怖いんだぁ」

 

「やめてくれ」

 

「とって食いはしない、口も無いしな」

 

兵士たちは、どっと笑った。

一人が、笑いながら言った。

 

 

「明日のことは、明日だ」

 

誰かが歌い出した。村の歌とは、まるで違う、荒い調子の歌だった。

皇后は、少し離れて座っていた。少女が、その隣に腰を下ろす。

 

「あなたは、何者」

 

「かぐや」

 

「かぐや」

 

「月から来たの。……さっきの体は、犬DOGEの」

 

「犬」

 

「相棒。いまは、ウミウシだけど」

 

皇后は、笑わなかった。ただ、頷いた。

 

「遠いのね」

 

「うん。遠い」

 

「私も、これから、遠くへ行くの」

 

皇后は、椀の中を見た。

 

「帰ってこられるかは、わからない」

 

少女は、何も言わなかった。

 

「だから、今夜は、忘れていたかった」

 

「忘れて、いいと思う」

 

少女は、小さく言った。

 

「でも、朝になったら、帰るんでしょう」

 

「ええ」

 

皇后は、顔を上げた。

 

「帰りたくなったら帰れると、聞いたから」

 

「うん」

 

「私には、やることがあるの」

 

 

 

朝が来た。

提灯が薄れ、道が草の根に戻っていく。河原に、人の輪郭が戻ってきた。鎧の紐を結んだ手。握りしめた拳。転がった槍だけが、持ち主のいない場所で、静かに朝を待っていた。

兵士たちは、一人ずつ、それを拾い上げた。

 

「……いい酒だった」

 

昨夜、首を振った兵士が、槍の柄を握って、ぽつりと言った。

 

「夢か」

 

 

彼は言った。

 

「夢であって、夢でない、私にもわからない」

 

兵士は、それきり黙って、頭を下げた。

皇后が、川を見ていた。昨日と同じ川だった。向こう岸が霞んでいる。ただ、立ち姿だけが、昨日とは違った。

 

「船を出せ」

 

声は、静かだった。

兵士たちが、動き出す。

船が一艘、また一艘、岸を離れていった。

皇后が、最後に一度だけ、振り返った。

 

「帰ってきたら、また、あの酒を」

 

「待っている」

 

皇后は、小さく笑った。

 

「……帰ってこられたら、ね」

 

それだけ言って、船に乗った。

彼は、河原に立っていた。掌に、ウミウシがいる。体の端に、針の痕が、小さく残っていた。

 

「……犬DOGEの体に、傷、つけちゃった」

 

ウミウシは、しばらく、痕を見ていた。

 

「次は、どこへ行く」

 

彼が訊いた。

ウミウシは、掌の上で、少し考えた。

 

「……ヤチヨの噂が、あるところ」

 

「どこだ」

 

「わからない。でも」

 

ウミウシは、体を伸ばした。

 

「二千年あるから」

 

彼は、それ以上は、何も訊かなかった。

川に背を向けた。流れとは反対の、上流へ続く道を、ふたりは歩き出した。

 




旅路に何が待つのかはわからない
だが長い時の中できっとまた会えただろう
彼女より長い時を歩む者が待つのだから
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