緩やかな川、向こう岸が霞んでいる。その手前の河原に、軍勢が陣を張っていた。
幕の列。繋がれた馬。積み上げられた槍。兵士たちは口数が少なく、鎧の紐を、何度も結び直していた。海を渡る戦が、近い。
どこかで、馬が嘶いた。誰かが砥石で刀を研ぐ音が、規則正しく続いている。
笑う者は、一人もいなかった。
村から、米と薪が運ばれてきた。籠を背負った男たちの先頭に、村長がいる。
その籠のひとつの縁に、小さなものが乗っていた。村長は気づいていなかった。
兵士が、積まれた米を数えていた。
「三十だ。約束どおりだな」
「はい」
「ところで」
兵士は、声をひそめた。
「お前の村に、白い酒を醸す酒神がいると聞いた」
村長は、一瞬、言葉に詰まった。
「……さようで」
「面をつけているとか」
「ええ」
兵士は、それ以上は訊かなかった。ただ、村長の顔を、じっと見ていた。
河原の浅瀬に、皇后がいた。裳の裾をからげて、石の上に膝をつき、糸を垂らしている。着物の糸を一本抜いて、飯粒を餌にした、細い糸だった。
兵士たちは、少し離れたところで、黙ってそれを見ていた。
「鮎が釣れれば、勝つそうだ」
「釣れなければ」
「……言うな」
川の面は、動かなかった。
籠の縁から降りた小さなものが、いつのまにか、岸の石の上に来ていた。ウミウシだった。
糸の行方を、身を乗り出して見ている。石の苔が、ぬるりと滑った。
ぽちゃん、と小さな音がした。
糸が、ぴんと張った。
「かかった」
誰かが言った。皇后の手が、わずかに震えた。兵士たちが息を呑む。
糸が引き揚げられた。
針の先で、掌ほどの柔らかいものが、ぶらりと揺れた。
「鮎では、ない」
「……魚では、ない」
ざわめきが広がった。吉か凶か、誰も口にしなかった。
皇后は、そのものを、そっと掌に載せた。濡れた体の端に、針が浅く引っかかっている。
「何かしら、これは」
怖がっている声ではなかった。むしろ、少し、面白がっていた。
ウミウシは、何も言わなかった。体を縮めて、じっとしていた。
そのころ、祠の台は空だった。
壺の隣で、いつも体を伸ばしているものが、いない。供えの木の実だけが、縁に残っている。
「ウミウシさま、村長さんの籠に乗ってったよ」
子どもが言った。
「どこへ」
「川のほう。兵隊さんがいるところ」
彼は、祠の前に立ったまま、しばらく動かなかった。川までは、歩いて半日の道のはずだった。
足が、前に出た。そのとたん、霧が出た。
白い霧が、足元から立ち上って、鳥居を、祠を、壺を、のみこんでいく。彼は歩いた。霧の中を、何歩か。
足の裏の感触が、変わった。土ではなかった。砂利だった。
霧が、薄れた。目の前に、河原と、幕の列と、鎧の兵士たちがいた。
どうやって来たのか、彼にもわからなかった。
悲鳴が、上がった。
甲高い、女の声だった。
皇后が、掌のウミウシを握ったまま、身を引いていた。霧の中から、白い面をつけた男が現れた。その面には、目の穴も、口の穴もなかった。
「敵だ」
「皇后をお守りしろ」
刀が抜かれた。槍が構えられた。何人もの兵士が、一斉に駆け寄ってくる。
彼は、動かなかった。
最初の刃が、胸に沈んだ。二本目が肩を裂き、槍が背を貫いた。
血は、出なかった。傷口から、白い霧が立ち上った。
刃の入った場所からも、貫かれた場所からも、湯気のように、静かに。
霧は、ゆっくりと傷をなめて、消えた。
破れた衣が、糸を引くように寄り集まって、元の形に戻っていく。
あとには、傷ひとつ、なかった。
兵士たちは、動かなかった。刀を握ったまま、槍を突き出したまま、誰も、一手を出せなかった。
「……斬れん」
誰かが、かすれた声で言った。
彼は、自分の胸のあたりを見下ろした。それから、顔を上げた。
「それ」
彼は、皇后の手を指した。
「返してもらえないか」
「酒神さま」
兵士たちの後ろで、村長が、地面に額をつけていた。
「酒神さま、お許しを。この方々は、何もご存じなくて」
皇后が、はっとした顔をした。
村の者と取引をしたときに、聞いていた。白く濁った酒を醸す、白い面の酒神がいる、と。
「あなたが、酒神」
彼は、何も言わなかった。皇后は、掌をおずおずと差し出した。
彼は、ウミウシをそっと受け取った。針を、指で外す。体の端に、小さな痕が残った。
「……ごめん」
ウミウシが、小さく言った。皇后は、目を丸くした。
「しゃべるのね」
「使いだ」
彼は言った。
皇后の目の下には、濃い影があった。兵士たちの顔にも。
鎧の紐を結ぶ手が、まだ、細かく震えている者がいた。
彼は、腰の瓢箪を外した。栓を抜くと、酸い匂いと、甘い匂いが立った。
「ひと晩、休んでいけ」
皇后は、瓢箪を見つめた。兵士の一人が、小さく首を振った。毒かもしれない、という顔だった。
皇后は、瓢箪を受け取って、口をつけた。
「……悪くはない」
彼の掌で、ウミウシが、少し笑った。霧が、橙に染まった。幕の列に、提灯が下がった。
馬の姿が薄れ、積んだ槍が草の根に溶けて、河原が、藁と木の低い屋根の道に変わっていく。
握っていた槍だけが、人の姿が消えたあとの河原に、ばらばらと転がった。
提灯の灯りの下で、少女が笑っていた。
十二単に裸足で、髪が灯りを透かして光っている。彼女は、何度入っても、最初に自分の指を曲げて確かめる。今夜も、そうした。それから、ぽろりと涙をこぼして、袖で拭った。
「慣れないなあ」
縁台に、兵士たちが座っていた。鎧のまま、椀を傾けている。紐を結び直す手は、震えていなかった。村長が、椀を両手に持って、兵士たちの間を回っていた。こういうことには、慣れていた。
少女は、にやりと笑った。
「あなたたち、あの人に切りかかったでしょ。みんな、青い顔して、怖いんだぁ」
「やめてくれ」
「とって食いはしない、口も無いしな」
兵士たちは、どっと笑った。
一人が、笑いながら言った。
「明日のことは、明日だ」
誰かが歌い出した。村の歌とは、まるで違う、荒い調子の歌だった。
皇后は、少し離れて座っていた。少女が、その隣に腰を下ろす。
「あなたは、何者」
「かぐや」
「かぐや」
「月から来たの。……さっきの体は、犬DOGEの」
「犬」
「相棒。いまは、ウミウシだけど」
皇后は、笑わなかった。ただ、頷いた。
「遠いのね」
「うん。遠い」
「私も、これから、遠くへ行くの」
皇后は、椀の中を見た。
「帰ってこられるかは、わからない」
少女は、何も言わなかった。
「だから、今夜は、忘れていたかった」
「忘れて、いいと思う」
少女は、小さく言った。
「でも、朝になったら、帰るんでしょう」
「ええ」
皇后は、顔を上げた。
「帰りたくなったら帰れると、聞いたから」
「うん」
「私には、やることがあるの」
朝が来た。
提灯が薄れ、道が草の根に戻っていく。河原に、人の輪郭が戻ってきた。鎧の紐を結んだ手。握りしめた拳。転がった槍だけが、持ち主のいない場所で、静かに朝を待っていた。
兵士たちは、一人ずつ、それを拾い上げた。
「……いい酒だった」
昨夜、首を振った兵士が、槍の柄を握って、ぽつりと言った。
「夢か」
彼は言った。
「夢であって、夢でない、私にもわからない」
兵士は、それきり黙って、頭を下げた。
皇后が、川を見ていた。昨日と同じ川だった。向こう岸が霞んでいる。ただ、立ち姿だけが、昨日とは違った。
「船を出せ」
声は、静かだった。
兵士たちが、動き出す。
船が一艘、また一艘、岸を離れていった。
皇后が、最後に一度だけ、振り返った。
「帰ってきたら、また、あの酒を」
「待っている」
皇后は、小さく笑った。
「……帰ってこられたら、ね」
それだけ言って、船に乗った。
彼は、河原に立っていた。掌に、ウミウシがいる。体の端に、針の痕が、小さく残っていた。
「……犬DOGEの体に、傷、つけちゃった」
ウミウシは、しばらく、痕を見ていた。
「次は、どこへ行く」
彼が訊いた。
ウミウシは、掌の上で、少し考えた。
「……ヤチヨの噂が、あるところ」
「どこだ」
「わからない。でも」
ウミウシは、体を伸ばした。
「二千年あるから」
彼は、それ以上は、何も訊かなかった。
川に背を向けた。流れとは反対の、上流へ続く道を、ふたりは歩き出した。
旅路に何が待つのかはわからない
だが長い時の中できっとまた会えただろう
彼女より長い時を歩む者が待つのだから