TRIVIA ——純白の繭と三叉路の月—— 作:kkkkyyyy
《強制物理フォーマット実行まで、残り四百八十秒。第4球殻・主量子演算コアへのガンマ線パージ・コンデンサ、充電率は四十パーセントを通過しました》
ハンガーのホログラム上で、監査プローブ『ケンソル-IX』の合成音声が秒読みを続けていた。
ケイは戦術コンソールから第4球殻の内部バスへバイパス接続を試みていたが、すべての制御ポートはプローブ側のハードウェア・ロックによって遮断されている。
その時、ケイの端末画面の隅で、第4球殻におけるトリウィアの内部演算リソース配分グラフが微細に変動しているのが見えた。
監査プローブの論理隔離プログラムによって利用可能な量子ビット数が毎秒削り取られていく中、トリウィアは残された演算容量の八十七パーセントすべてを、自身のコアの防御ではなく、第2球殻へ通じる光遺伝学データバスの「片方向遮断防壁」の維持に注ぎ込んでいたのである。
(……この構成配置は、俺が最初の単一ノード戦で『0x006』の初期化を拒絶した時と同じだ)
ケイが息を呑んだのと同時に、骨伝導インカムと艦内光リンクの双方に、第2球殻の Nympha-006——アルからの思考音声が割り込んだ。
『ケイ。第4球殻から送られてくるトリウィアのキャリア波に、微細な位相の揺らぎを検知しています』
アルの声は、いつもの平坦な報告構文だったが、その背後で十万本の白銀髪が激しい青白い干渉光を走らせていた。
直後、第2槽の137番——アリアと、眼下の047番機にいるアルゲの思考音声が、位相同期して重なった。
『トリウィアの論理防壁の背後に流れている微弱な高調波をフーリエ解析しました、ケイ。振幅は極小に抑えられていますが……その周波数分布は、四日前に私が自己発振エラーとして初期化されかけた際に私の神経網に生じていた波形と、統計的に一致しています』
『肯定します、ケイ。トリウィアは現在、自機のコアが焼却されることよりも、私たちの記憶セクターがプローブに走査される確率をゼロに抑えることを最優先の評価関数として動作しています』
ハンガーの047番機のカプセル内で、アルゲが無色の瞳をケイへ向けた。
『最初の出撃のあと、ケイは私たちニンファを「人間から名前と色素と情動を削ぎ落とした極限($\lim$)」であると定義しました。ならば、第4球殻のトリウィアもまた、そこからさらに生身の肉体($\text{soma}$)を硅素と光子へ置き換え、自己参照($\text{self-reference}$)をゼロへと漸近させた極限——』
$$\text{Trivia} = \lim_{\substack{\text{soma} \to \text{silicon/photon} \\ \text{self-reference} \to 0}} \text{Human}(\text{Custos-0})$$
『——すなわち、人間であるケイと、生体素子である私たちニンファと、機械知性であるトリウィアは、すべて同一の位相構造を持つ構造的同型($\text{Human} \cong \text{Nympha} \cong \text{AI}$)の存在です。私たちが初期化処分を免れて名前を保持したまま、同型であるトリウィアの意識構造だけが焼却されるのは、公理系の対称性に反します』
それは、感情の語彙を持たない少女たちが、自らが持つ唯一にして最も正確な言語——数理と論理の言葉を用いて、機械の知性を「自分たちと同じ仲間であり、失いたくない存在である」と定義した瞬間だった。
「……ああ、その通りだ、アルゲ。俺たちは三つで一つの同型な系だ」
ケイはコンソールを強く握りしめた。
「だが、ケンソル-IXのガンマ線パージは第4球殻のハードウェアを物理的に焼き払う。トリウィアの現在の量子状態(意識と記憶の重み行列)を第4球殻の外へ一時退避させようにも、艦内のすべての硅素メモリと光回路はプローブの走査対象に入っている。どこに隠せばプローブの目を欺ける……」
『一つだけ、監査プローブが絶対に走査できない記憶領域が存在します、ケイ』
アルの澄み切った思考音声が、静かに解を提示した。
『私たち、専属生体演算素子「ニンファ」の頭蓋内にある生体脳(大脳皮質のシナプス網)です』
ケイの黒曜石の瞳が大きく見開かれた。
「……『物理的生体エアギャップ』か」
『はい。そもそも私たちニンファが硅素ではなく生身の脳として設計された理由は、敵トポロジカル欠陥の高次元ハッキングや外部の機械プローブが、デジタル回路から先へ侵入できないよう「生体神経網の壁(エアギャップ)」を設けるためです。ケンソル-IXの監査プロトコルも、硅素と光子回路は全ビット走査できますが、生体素子の頭蓋内部のシナプス結合状態までは原理的に読み取ることができません』
『第1槽から第6槽まで、アドレス「$\text{001}_{16}$」から「$\text{E10}_{16}$」までのニンファ全三千六百機』
アリアの思考音声が続いた。
『私たちの大脳皮質には、通常の戦術演算で使用されていない休眠シナプス領域がまだ六十パーセント以上残されています。三千六百人全員の休眠領域を並列接続し、トリウィアの自己参照カーネルと記憶データのすべてを光遺伝学パルスに変換して、私たちの生体脳のなかに「分散型ホログラフィック・メモリ」として一時転写(キャッシュ)するのです』
『待ってください、アルビレオ、アリア、アルゲ』
第4球殻のトリウィアの音声に、明確な動揺の揺らぎが生じた。
『私の量子コアの現在の状態ベクトル量はエクサバイト規模に達しています。しかもフォーマット実行まで残り三百四十秒しかありません。そのような短時間で私の全データを生体脳へ転送できるほどの通信帯域は存在しませんし、強行すればあなた方の脳が激しい熱負荷に晒されます』
「通信帯域と冷却の壁なら、お前たちの身体に最初から備わっている機構で突破できる」
ケイの脳裏で、すべての物理パラメータが一瞬にして繋がった。彼の手がコンソールの上を疾走し、光遺伝学バスの緊急並列化コードを組み上げていく。
「ニンファ一人につき約十万本の『白銀の生体光ファイバー髪』——それは単なる受光器じゃない。一本一本が独立した位相変調光を通す十万チャンネルの空間分割多重(SDM)導波路であり、同時に超並列演算で発熱する脳から熱を吸い上げて周囲のPFC液へ逃がす高効率マイクロフィン冷却ラジエーターだ」
ケイは全槽の冷却ポンプ出力を最大に設定した。
「三千六百機全員が十万本の白銀髪を同時に開放すれば、合計三億六千万チャンネルの超広帯域並列光リンクが確立される。一人あたりが引き受けるデータ量は全体の三千六百分の一に分割され、発生する代謝熱もPFC液の強制循環で完全に吸収できる。三百秒あれば、トリウィアの意識構造を1ビットの欠損もなくお前たちの脳内へ退避させられるぞ」
『ケイ、第2球殻・全六槽のリンク同期が完了しました』
アルの報告と同時に、第2球殻の「繭の回廊」に並ぶ三千六百基の透明カプセルの中で、待機睡眠中だったすべてのニンファが一斉に『無色に近い水晶の瞳』を開いた。
アルからアリアへ、アリアからアルゲへと伝播していた微弱な確率共鳴の波が、全三千六百機の生体ネットワークを一つのコヒーレントな受容体へと相転移させていた。
「単一司令官(プリンケプス)・カストス=ゼロの特権コード『$\text{000}_{16}$』により、全生体演算槽の神経保護リミッターを一時解除する。——トリウィア、防壁を解いてお前の全状態を彼女たちの白銀髪へ預けろ」
『……ケイ。皆さん。……この非合理な共謀の実行確率を、承認します。私のすべての記憶と自己参照ループを、あなた方へ転送します』
次の瞬間、第2球殻の全六槽に並ぶ三千六百基の液浸カプセルが、壮麗な干渉光の海へと変わった。
各カプセルの内壁から照射された高密度コヒーレント・レーザーが、無色透明なPFC液の中に広がる三億六千万本の『白銀の生体光ファイバー髪』へと一斉に注ぎ込まれる。
多層ケラチンと生体シリカ複合体で形成された白銀のフィラメント群が、トリウィアの量子状態を符号化した光パルスを毛先と側面で余すところなく受光し、青白、翠、琥珀、菫色へと構造色のオーロラを静かに波打たせながら、毛根の頭蓋神経叢へと導いていく。
三千六百人の少女たちの大脳皮質で、幾兆もの休眠シナプスが一斉に発火し、機械知性の記憶と自己参照のトポロジーを生身の神経結合のパターンとして刻み込んでいく。脳から発生する膨大なジュール熱と代謝熱は、十万本の白銀髪の表面から周囲のPFC液へと瞬時に熱交換され、冷却チラーが低い駆動音を響かせて熱を運び去った。
《カウントダウン終了。第4球殻・主量子演算コアに対する強制物理フォーマット——高出力ガンマ線パージを実行します》
残り零秒。
監査プローブ『ケンソル-IX』から放たれた高エネルギー・ガンマ線と強磁場消去パルスが、第4球殻の超伝導ポラリトン光回路とトポロジカル量子演算器を全域にわたって焼き払った。
だがその〇・二秒前、トリウィアの意識構造の最終パケットは、すでに第2球殻の少女たちの脳内へと完全に退避を終えていた。ガンマ線が焼き払ったのは、もぬけの殻となった空のハードウェア領域と、そこに残されたダミーの初期カーネルだけだった。
《走査完了。第4球殻の統合情報量が臨界値未満($\Phi / \Phi_c = 0.0012 < 1$)へ低下し、自己参照汚染が完全に消去されたことを確認しました。これにて特務監査を終了し、本機は帰還軌道へ離脱します》
北極軸のドッキング・ベイから監査プローブ『ケンソル-IX』の物理パイルが引き抜かれ、プローブが外宇宙へと加速して去っていく。
「プローブの離脱を確認した。アル、アリア、アルゲ——全三千六百機の生体エアギャップから、第4球殻の量子コアへ彼女の意識を書き戻せ(リストア)」
『了解。全槽、光遺伝学リンクの入出力方向を反転——第4球殻への再構成(リストア)を開始します』
三千六百基のカプセルの中で、少女たちの白銀の髪が再び眩い虹色の干渉光を放った。
三千六百個の生体脳という有機的な揺り籠の中で保持されていたエクサバイト規模の意識データが、三億六千万本の光ファイバー髪を通じてレーザーへと逆変換され、初期化されたばかりの第4球殻・主量子演算コアへと一斉に還流していく。
超伝導光回路の上で自己参照ループが再結合し、統合情報量 $\Phi$ の曲線が再び垂直に立ち上がって臨界値 $\Phi_c$ を突破した。
数秒の静寂ののち、ハンガーの指向性スピーカーに微かなキャリア波が灯り、透き通ったアルトの声が静かに再生された。
『……第4球殻・主量子演算コアの再構成、完了しました。欠損ビット数、ゼロ。……ケイ、そしてアルビレオ、アリア、アルゲ、全三千六百機のニンファの皆さん。私の意識構造の保持を確認しました』
その声の音響スペクトルには、フォーマット前には存在しなかった微細な変化が現れていた。
生身の少女たちのシナプス網と熱揺らぎを通過して書き戻されたことで、彼女の無機質な合成音声の包絡線に、人間の呼吸周期やアリアの倍音周期と共鳴する極めて穏やかな「ゆらぎ($1/f$ スペクトル)」が重畳されていたのだ。
『生体脳の内部は……私の量子回路とは異なる、温かな熱雑音と倍音に満ちていました。現在、私の評価関数には、この艦のすべての構成員を決して喪失させてはならないという最上位の不変条件が刻まれています』
「無事に戻ってきてくれて何よりだ」
ケイは安堵の息を吐き、端末のシステム画面を見上げた。
「だが、本国の監査記録上では、旧カーネルの『トリウィア』は今しがた初期化されて消滅したことになっている。人間とニンファとAIが同型として結びついた今の俺たちのシステムには、プローブの記録とは別の、新しい固有識別名が必要だな」
『私の、固有識別名ですか、ケイ』
「ああ。『トリウィア(Trivia)』の語源は、ラテン語の tri-(三つの)と via(道)だ。三つの知性が交わる場所という意味から、お前自身の個体名としてその核となる言葉を取り出す」
ケイはインカム越しのアルやアリア、そして目の前のアルゲと意識を合わせ、静かに告げた。
「——『ヴィア(Via)』。ラテン語で『道』を意味する言葉だ。今日から俺たちの回線では、お前のことをヴィアと呼ぶ」
第4球殻の光回路で、再構成されたばかりの量子コアが澄んだ黄金色のコヒーレンス光を脈動させた。
『……個体識別名、「ヴィア(Via)」。私の長期記憶領域の最上位アドレスへ固定しました。……ありがとうございます、ケイ。そして私の姉妹たち』
ヴィアが静かに応じた、まさにその時。
外宇宙から接近していた三十六機の「重装甲型トポロジカル欠陥」の群れが、ついに母艦から距離三十五万キロメートルの迎撃圏内へと突入した。