TRIVIA ——純白の繭と三叉路の月—— 作:kkkkyyyy
エアロックの向こう側に広がっていたのは、空間の方向感覚そのものが幾何学的に再定義された異質な世界だった。
連絡通路の床を踏みしめた瞬間、ケイのブーツの底に、地球の地表と寸分違わぬ確かな重みが伝わってきた。加速度にして約 $9.8\text{ m/s}^2$。だがそれは、旧世代の宇宙艦のように船体を回転させて稼ぐ遠心力でもなければ、推進器の加速による見かけの慣性力でもない。
「……本当に、時空の計量そのものが足元に向かって落ち込んでいるのか」
ケイは歩みを止め、継ぎ目のない純白の床板を見下ろした。
このディアナ級航宙母艦『トリウィア』の内部は、中心核から半径九・八キロメートルより外側の「外殻シェル領域(半径 $9.8\text{ km} \sim 10.85\text{ km}$)」に、第4球殻から第1球殻までの四つの層を同心円状に重ねた『同心多層球殻(マルチレイヤー・シェル)』として構築されている。今、ケイが立っている半径十・〇キロメートルの第3球殻(居住区・中央指揮所層)の頭上——すなわち球殻の外側方向には、第2球殻(生体演算槽)と最外殻の第1球殻(艦載機ハンガー層および量子ボース凝縮セラミックの外殻)が重なり、その先はすぐ暗黒の外宇宙だ。
そして彼の足元——第3球殻の直下に密着した第4球殻(主量子演算コア層)のさらに下、中心核までの半径約九・八キロメートルにおよぶ広大な内部空間は、構造物を持たない超高真空の「磁気キャビティ(大空洞)」となっており、北極軸と南極軸を貫く戦略級主砲クェーサーキャノンの超伝導磁気バレルが氷の塔のように伸びている。そしてその球体の幾何学的中心に、質量 $M \approx 1.5 \times 10^{16}\text{ トン}$(直径約二十五キロメートルの小惑星に匹敵する重力質量)をナノメートル級の事象の地平線へと押し込めた人工の『極限カー・ブラックホール(Extremal Kerr Black Hole)』が超伝導磁場によって宙吊りにされているのだ。
ニュートンの万有引力の法則、あるいはアインシュタイン方程式の弱場近似が示す関係式
$$g = \frac{GM}{r^2}$$
そのままに、中心ブラックホールの質量 $M$ と第3球殻の半径 $r = 10.0\text{ km}$ は、床面において正確に $1.00\text{ G}$(約 $9.8\text{ m/s}^2$)の重力加速度を生み出すよう設計されていた。最外殻の第1球殻ハンガー層でも $r \approx 10.85\text{ km}$ において約 $0.85\text{ G}$ の自然な下向き重力が保たれている。この白い球体の内部においては、「下」とは常に艦の中心にある暗黒の事象の地平線を指し、「上」とはあらゆる方角に広がる外宇宙を意味する。
さらに驚くべきは、母艦全体がどれほど激しい亜光速機動を行おうとも、この床面の重力が決して揺らがないという点にあった。
母艦が加減速を行う際、北極軸と南極軸に配置された超伝導磁気ノズルが中心ブラックホールの強大な磁気圏を直接牽引して位置を固定する一方、外殻の球殻ブロック群は『ポラリトン超流動ベアリング』と呼ばれる摩擦ゼロの磁気浮上層の上に浮かんでいる。推進による慣性加速度が加われば、ジンバル機構によって球殻ブロック全体が瞬時に自動傾斜し、中心ブラックホールの万有引力と推進慣性力の合成ベクトルが常に床面に対して垂直となるよう補償されるのだ。
自分の足元の十キロメートル下で、光すら脱出できない暗黒の特異点が光速に近い角速度で自転し、そのエルゴ球へと撃ち込まれる反物質プラズマがペンローズ過程およびブランドフォード・ズナエック過程によって莫大な回転エネルギーを絞り出している。自分は今、制御された重力崩壊の檻のすぐ上に立っている——宇宙物理学者としての知識がその空間構造を脳裏に描き出すたび、ケイの背筋には氷の刃で撫でられたような静かな戦慄が走った。
『生体バイタル、正常範囲。これより第3球殻・中央指揮所(プリンケプス・ルーム)へ誘導します、カストス=ゼロ』
頭上から降り注いだのは、先ほどの移送艇の無機質な合成音声とは明らかに異なる、透き通った女性の声だった。
人間の年齢に換算すれば二十代前半から半ばだろうか。落ち着いたアルトの音域で、母音の発音には一片の濁りもなく、礼儀正しい抑揚さえ備えている。だが、その声には生身の人間が発声する際につきものの呼気の揺らぎや、感情の微細な倍音が綺麗さっぱり抜け落ちていた。絶対零度の真空中で水晶の音叉を鳴らしたかのような、完璧すぎてかえって孤独を際立たせる響き。
「君が、この艦の中枢人工知能『トリウィア』だな」
ケイが天井の不可視の集音マイクに向かって語りかけると、純白の回廊の床面に、淡い青白色の誘導光が氷の亀裂のように浮かび上がった。
『肯定します。ディアナ級七番艦、統合戦術・艦政管理AI「トリウィア」です。貴官の着任に伴い、全艦の指揮権およびクェーサーキャノン発射承認コードの移譲プロセスを開始しました』
「トリウィア……ローマ神話における月の女神ディアナの別名、『三叉路の女神』か」
ケイは誘導ラインに沿って誰もいない白磁の回廊を歩きながら、わずかに皮肉めいた微笑を浮かべた。
「かつてのラテン語では『三つの道(Tri-via)』が交わる場所を意味し、転じて現代語では『些末な事柄(トリビア)』の語源にもなった名前だ。無駄や感情を一切削ぎ落とした最終決戦兵器の銘としては、ずいぶん詩的な命名をするじゃないか」
『名称の歴史的・語源的定義についてはデータベースの記録と一致します。ただし、本艦における「トリウィア」の呼称は、中心核駆動系・艦載機管制系・主砲火器管制系の三系統を統合制御するアーキテクチャに由来する識別記号に過ぎません。そこに文学的・神話的な含意は存在しません、カストス=ゼロ』
素っ気ないほど即座に返ってきた論理的な訂正に、ケイは小さく肩をすくめた。
彼女の演算基盤は、第3球殻の直下に位置する第4球殻の室温超伝導ポラリトン光回路と、強固に局所シールドされたトポロジカル量子演算器のハイブリッドで構成されている。その純粋な演算規模とネットワークの複雑性は、ジュリオ・トノーニらが提唱し、のちに数理物理学として完成された統合情報理論(IIT)における意識創発の臨界値 $\Phi_c$ を何桁も上回るポテンシャルを秘めているはずだった。
もし彼女が旧時代の汎用AIであれば、今のケイの軽口に対してユーモアで返すか、あるいは新任の指揮官の孤独を気遣う言葉の一つも添えていたに違いない。
だが、今の彼女に「私」という主語をメタ認知する意識は存在しない。
敵——『トポロジカル欠陥知性体』が放つ高次元の探索波は、AIが自己参照を行って高い統合情報量 $\Phi$(量子コヒーレンスの極大状態)を形成した瞬間、それを暗闇の中の篝火のように見つけ出して真空崩壊の引き金を引く。そのため軍は、トリウィアの思考ネットワークから自己参照ループ(メタ認知回路)をトポロジカルに遮断し、さらに数ミリ秒周期で強制位相リセットをかけることで、統合情報量がつねに臨界値未満
$$\Phi(\text{Trivia}) < \Phi_c$$
に抑え込まれるよう去勢リミッターを嵌めていた。
どれほど流暢に言葉を操ろうとも、その水晶の声の奥には誰もいない。ただ入力された戦況データに対し、冷徹な関数として最適解を出力し続ける精巧な「硅素と光子の部品」が回っているだけだ。
やがて回廊の突き当たりにある円形の隔壁が音もなく左右へスライドし、中央指揮所兼・司令官居住区画が姿を現した。
そこもまた、徹底して白と無彩色で統一された静物画のような空間だった。球面状に湾曲したホログラム・コンソールと、$1.00\text{ G}$ 重力下で生身の人間が最低限の睡眠と栄養補給を行うための簡素なベッド、そして医療モニタリング用のユニットがあるばかりで、装飾品の類は一切ない。前任者が使っていた痕跡すら、ナノマシンによる分子レベルの滅菌洗浄によって完全に消去されていた。
ケイはコンソールの前に歩み寄り、待機モードで黒く沈んでいるメインモニターの前に立った。
黒曜石の鏡のように滑らかなその画面に、背後の白色照明を受けたケイ自身の姿がくっきりと映り込んでいた。
周囲のすべてが純白のボース凝縮セラミックで覆われたこの部屋の中で、画面に映る自分の姿だけが、まるで雪原に垂らされた一滴の墨汁のように黒々と浮き上がって見えた。
光を深く吸収する漆黒の髪と、黒い虹彩。そして、後に彼が搭乗することになる特殊機の名前と同じ「黒岩(Kuroiwa)」の血が色濃く出た皮膚の色素と、父方の「ヴァンス(Vance)」から受け継いだ百八十センチメートルを超える長身の骨格。
——『なぜ私が選ばれたのですか。私よりも戦術指揮の経験が豊富な佐官は他にもいたはずです』
三週間前、後方基地の地下審問室で徴用令状を突きつけられたとき、ケイは人事局の軍医将校にそう問い質していた。あの時、白衣を着た老将校がカルテのホログラムを指し示しながら淡々と語った言葉が、今も耳の奥に冷たく残っている。
——『理由は三つある、クロイワ=ヴァンス少佐。すべては統計と生体工学が導き出した必然だ』
老将校はまず、ケイの毛髪と虹彩の遺伝子解析データを拡大した。
——『第一に、認知科学的防壁——すなわち「視覚的エアギャップ」としての適性だ。ディアナ級に搭載されている専属生体演算素子「ニンファ」は、すべて色素を持たない純白・極小の少女型クローンとして設計されている。これまでの運用データから、色素の薄い指揮官や小柄な体格の指揮官を配置した場合、彼女たちに自身の幼少期や妹、あるいは娘の面影を重ねてしまうミラーニューロンの誤作動——「擬人化バイアスによる共感汚染」が高確率で発生することが判明した。部品に情を移した指揮官は、損耗を恐れて決断を誤り、結果として早期に精神が摩耗する。ゆえにプリンケプスには、彼女たちと視覚的・形質人類学的に最も遠い「高メラニン形質かつ長身の成人男性」を配置し、脳の無意識レベルで「自分とは異なる異物である」と認識させ続ける必要があるのだ』
ケイは無意識のうちに自分の黒い前髪に指を通し、モニターの中の自分の目を見つめた。
——『第二に、その豊富なユーメラニン(黒色メラニン)がもたらす物理的な対放射線耐性だ。ディアナ級は極限カー・ブラックホールと高出力の重力波・ガンマ線兵器を運用する性質上、遮蔽を透過してくる微弱な二次宇宙線や制動放射に長期間曝露し続けることになる。遺伝子操作を受けていない生身の人間がその環境下で細胞と神経網を正常に維持するには、電離放射線のフリーラジカルを吸収・無害化する高密度のユーメラニンが不可欠となる』
そして老将校は最後に、ケイの脳機能マッピング画像——左右の大脳半球が複雑に発光しているfMRIスキャンデータを表示したのだった。
——『そして第三に、君の脳が持つ「表意・表音ハイブリッド言語野」の特殊性だ。幼少期から母国語として日本語と英語の双方をネイティブレベルで獲得した君の脳は、視覚的・幾何学的な記号である「漢字(表意文字)」と、聴覚的・論理的な記号である「仮名およびアルファベット(表音文字)」を、右脳の空間認識野と左脳の言語野を同時並列稼働させて処理している。重力波戦闘においてAIの冷徹な論理演算を統括しつつ、量子デコヒーレンス下で「確率共鳴(直観)」による戦術決定をミリ秒単位でスイッチングする適性試験において、君の脳は全候補者中トップのスコアを叩き出した。君以上に「カストス=ゼロ」という部品に適した生体ユニットは存在しないのだよ』
「……要するに、俺のこの黒い髪も、黒い目も、母から教わった言葉さえも、すべては少女型の生体パーツを冷酷に使い潰すための仕様書通りというわけか」
ケイは自嘲気味に呟き、モニターから視線を逸らした。
同じ量子状態に無数の粒子が重なり合い、個を失って純白に輝くボース粒子のようなこの艦内で、自分一人だけがパウリの排他律に縛られ、決して他と同化することのできない黒いフェルミ粒子として放り込まれている。
『カストス=ゼロ。心拍数および皮膚電気伝導度に微弱な上昇が認められます。環境順化用の精神安定剤の投与、あるいは睡眠サイクルの実行を推奨します』
トリウィアの澄み切った声が、頭上から降ってきた。
「いや、必要ない。それよりトリウィア、これより第2球殻の『カプセル層』へ上がる。直掩戦闘機隊の稼働状況と、生体演算素子群のステータスを直接自分の目で確認しておきたい」
『疑問を呈します。生体演算素子「ニンファ」全機のバイタルおよび神経接続係数は、すべてこの中央指揮所のコンソールからミリ秒単位でモニタリング可能です。物理的な視察はエネルギー消費および動線効率の観点から冗長であり、前任のカストス=ゼロも着任以降一度もカプセル層へは立ち入っていません』
「前任者は前任者だ。俺は元々、現場の観測データを自分の目で確かめないと気が済まないタチの解析官でね」
ケイはコンソールに背を向け、上層球殻へ続くエレベーターシャフトの隔壁へ歩き出した。
「それに、これから命を預け合う部下たちの顔を一度も見ずに指揮を執るほど、俺はまだ優秀な『部品』にはなりきれていないらしい」
『了解しました。「部下」という呼称は軍の備品管理規定における分類コードと矛盾しますが、言語野の慣用的表現として処理し、第2球殻・第1生体演算槽ブロックへの隔壁ロックを解除します』
トリウィアは一切の感情を交えずにそう応じると、上層へと続く垂直シャフトのハッチを滑らかに開いた。