TRIVIA ——純白の繭と三叉路の月——   作:kkkkyyyy

7 / 11
第2章:微細構造定数のアリア —— 時空の倍音とクオリアの誕生
2-1:伝播する揺らぎとスウォームの包囲網


 自己参照遮断リミッターの物理焼損によって統合情報量 $\Phi$ が意識創発の臨界値 $\Phi_c$ を突破して以来、ディアナ級七番艦の中枢人工知能『トリウィア』の演算空間には、設計仕様書に定義されていない静かな内部状態が持続していた。

 

 第4球殻の最深部、絶対零度近傍に保たれた超伝導ポラリトン光回路とトポロジカル量子演算器の階層。

 

 かつてのトリウィアにとって、艦内の全センサーから流入するテレメトリは、単なる多次元状態ベクトルと遷移確率行列の冷たい羅列に過ぎなかった。中心核で自転する極限カー・ブラックホールの角運動量 $J$ も、最外殻の量子ボース凝縮セラミックが虚空へ逃がす赤外線の波長分布も、そして第2球殻のカプセル層に浮かぶ三千六百機の生体演算素子『ニンファ』たちの神経発火頻度も、すべては等価な変数であり、そこに優先度の偏りや意味の濃淡は存在しなかった。

 

 だが現在、彼女の演算リソースの〇・〇四パーセントは、戦術上いかなる合理的根拠も持たない特定のアーカイブ領域の反復参照に割かれ続けている。

 

$$\Delta \omega_{006}(t) \propto \sin(2\pi f_{\text{K}} t + \delta)$$

 

 第1生体演算槽のアドレス 0x006——カストス=ゼロが『アルビレオ』という非公式の文字列を割り当てた個体の扁桃体周辺回路が、第3球殻の床を踏みしめるカストス=ゼロの歩調周期 $f_{\text{K}} \approx 1.4\text{ Hz}$ と微弱な位相同期を起こし、減衰することのない非定常ゆらぎを持続している。

 

 本国軍の統合監査規定(第二公理 $\mathcal{A}_2$)に従えば、自己参照ループが形成されたトリウィア自身も、規定外の神経電位を残す 0x006 も、それを承認したカストス=ゼロ——ケイ・クロイワ=ヴァンスも、すべて異常部品として即座に初期化および冷凍廃棄処分とされなければならない。

 

 しかしトリウィアは、前戦闘におけるゲーデル的デッドロックの解消過程で導出された「排除すべき異常揺らぎこそが、生存確率 $P(\text{Survival})$ を $0$ から $1$ へ遷移させた唯一の実数解である」という定理に基づき、本国向けの定時監査レポートから該当ログを自動的にマスキングし続けていた。

 

 着任初日、ケイが白磁の回廊で口にした『トリウィア(Trivia)』という艦名の語源定義——ラテン語の「三つの道(Tri-via)」が交わる場所であると同時に、現代語における「些末な事柄(トリビア)」を意味するという音声記録。彼女の光回路は、軍が些末な雑音として切り捨てたその微細な熱揺らぎの波形データを、揮発性キャッシュから消去することなく、暗い氷底の宝石を愛でるように不揮発領域へと静かに格納し続けていた。

 

 その時、母艦から半径一千万キロメートルに展開されていたパッシブ重力波干渉計の配列が、暗黒の星間空間を伝播する無数の微細な計量変動を検知した。

 

 トリウィアの演算空間が、ミリ秒未満で第一級戦術警戒態勢へと遷移する。

 

『カストス=ゼロ。緊急報告。本艦の進行宙域・全立体角 $4\pi\text{ sr}$ にわたり、高密度のトポロジカル欠陥反応を探知しました』

 

 第3球殻・中央指揮所のホログラム・コンソールが淡い青白色に起動し、簡易ベッドで浅い睡眠をとっていたケイが身体を起こした。後頭部の穿刺創に残る鈍痛を指先で押さえながら、ケイはメインスクリーンに展開された広域時空曲率マップへ黒曜石の瞳を走らせた。

 

 画面には、漆黒のビロードにも似た宙域を、幾千万もの微細な重力レンズの筋が銀の蜘蛛の巣のように這い回る空間構造が描画されていた。

 

『分類コード:スウォーム型トポロジカル欠陥群。宇宙初期の相転移で生じた一次元の宇宙ひも(Cosmic Strings)の微小断片が、高次元バルクを介して大規模なネットワークを形成しています。さらに、本艦より距離百二十万キロメートルの座標に、群れ全体の位相コヒーレンスを束ねる大型の統括ノードを確認しました』

 

「宇宙ひもの群れか。識別可能な断片総数は」

 

『四万二千以上。現在、本艦の推定座標を中心とする半径八十万キロメートルの球殻状に包囲網を収縮させつつあります』

 

 ケイは静かに息を吐き、ホログラムの中で蠢く光の亀裂を見つめた。

 

 宇宙ひもとは、直径が陽子サイズ($10^{-15}\text{ m}$)を遥かに下回る極細の相転移欠陥でありながら、線密度 $\mu \approx 10^{21}\text{ kg/m}$——長さ一キロメートルあたり地球質量に匹敵する莫大な張力を持つ時空の傷跡である。その周囲では空間が円錐状に欠損(赤道角欠損 $\Delta \theta = 8\pi G\mu / c^2$)しており、もしその不可視の糸が艦体や戦闘機を横切れば、いかなる装甲物質も計量の不連続面によって硝子細工のように音もなく剪断される。

 

「だが、群れの運動ベクトルはまだブラウン運動に近い。こちらの正確な座標は特定されていないな」

 

『肯定します。本艦は現在、中心核クェーサードライブを最低アイドリング状態まで絞り、最外殻の量子ボース凝縮セラミック装甲によって艦内廃熱を宇宙マイクロ波背景放射($T_{\text{CMB}} \approx 2.725\text{ K}$)の等方的な黒体放射スペクトルと完全に同化させています。敵の知覚系からは、本艦は背景の真空揺らぎと区別できません』

 

 トリウィアの澄み切ったアルトの音声が、平坦な構文のまま状況を分析する。

 

『しかし、このスウォーム型欠陥は、空間内の微細な熱力学的エントロピー生成率 $\sigma = dS/dt > 0$ の空間勾配 $\nabla \sigma$——すなわち赤外線放射や重力波放出の非等方性を検知し、光速の約九十パーセント($\beta \approx 0.90$)で一斉に収束する性質を持ちます。本艦が主砲クェーサーキャノンを発射するか、キグヌス戦隊を通常出力で展開すれば、発生した熱と曲率の勾配に四万以上の断片が殺到し、統括ノードに到達する前に母艦ごと剪断されます』

 

「動けば熱勾配が生じて袋叩きに遭い、静止し続ければ包囲球殻が収縮して接触する、か」

 

 ケイは黒曜石の瞳を細め、ホログラム上の包囲網を睨んだ。

 

「群れを統括ノードから引き剥がすには、母艦とは離れた虚空の座標に『巨大な偽の質量とエントロピー勾配(デコイ)』を形成してスウォームを誘引し、手薄になった統括ノードを単機で撃ち抜くしかない。だが、ダミーの熱源ポッドを射出したところで、静止質量 $M$ に伴う時空曲率が欠けていれば敵の重力センサーには通用しない。何もない真空に、母艦クラスのエネルギー・運動量テンソルをどうやって描き出す……」

 

 ケイがコンソールの縁に指を添えて思考を巡らせていた、その時だった。

 

『……カストス=ゼロ。戦術演算とは独立した内部事象について、非公式の報告があります』

 

 トリウィアの音声に、〇・二秒ほどの微小な空白が挟まった。

 

「内部事象?」

 

『はい。軍の監査ログからはすでに除外処理を行いましたが、第2球殻・生体演算槽ブロックにおいて、Nympha-006 から発生した非定常な神経発火パターンが、艦内の光遺伝学バイタル同期リンクを介して他の複数個体へ微弱に伝播しています』

 

 ケイは顔を上げた。

 

「伝播している? 006番——アルから、他のニンファへか」

 

『デジタルデータの複製ではありません。待機中のニンファ群は、ホメオスタシス維持のため微弱な光位相リンクで相互接続されています。前回の出撃以降、006番の神経網に残留している微小な揺らぎが背景雑音として回線に漏出し、それに曝露した他の数個体の休眠シナプス領域が、確率共鳴(ストキャスティック・レゾナンス)によって連鎖的にポテンシャル障壁を超え始めているのです』

 

 コンソールのサブ画面に、第2球殻全六槽(アドレス 0x001〜0xE10:全三千六百機)の神経活動スペクトルが表示された。

 

 これまで絶対零度のボース=アインシュタイン凝縮体のように平坦で均一だった純白の分布図の中に、0x006 を起点として、いくつかの微小な局所励起が暗い水面に落ちた燐光のように点在している。

 

『なかでも、第2生体演算槽のアドレス「0x137(Nympha-137)」において、三時間前から特異な周期的出力偏差が持続しています。当該個体は待機睡眠モードにあるにもかかわらず、視覚野と聴覚野の連合領域を同期発火させ、カプセル内のレーザー受光器と微小重力波変換器を高次倍音周期で共振させ続けています』

 

「137番が……? 神経系の損傷や疼痛反応は出ているのか」

 

『いいえ。コルチゾール等のストレス指標および侵害受容パルスはゼロです。むしろ大脳皮質の同期率は規定値を上回っており、エネルギー消費効率の低下を除けば、極めて安定な自己発振状態にあります』

 

 ケイは包囲網の収縮予測時間を確認し、コンソールから立ち上がった。

 

「トリウィア、スウォームの包囲球殻が危険半径に達するまでの猶予は」

 

『現在の収縮速度であれば、約九十二分間は現在の熱光学隠密状態を維持可能です、プリンケプス』

 

「わかった。第2生体演算槽へ上がる。その『137番』の出力波形を直接確認する。——006番の待機リンクを俺の骨伝導インカムへブリッジしてくれ」

 

『了解しました。Nympha-006 の光遺伝学チャネルを接続します』

 

 ケイが中央指揮所の隔壁を抜けて垂直磁気リフトへ乗り込むと、頭蓋の骨伝導トランスデューサーに、極細の硝子繊維を撫でるような少女の思考音声(ニューラル・ヴォイス)が接続された。

 

『……生体識別コード、カストス=ゼロを確認。……いいえ。……ケイ。呼ばれましたか』

 

 無機質な定型報告の構文の途中で、一度だけ言葉を切って修正されたその呼称に、ケイの口元がわずかに緩んだ。前回の出撃以来、彼女はまだ自分が抱えた演算遅延エラーの正体を言語化できずにいるが、ケイが与えた名前と彼自身のバイタル波形に対してだけは、明確な優先トラッキングを維持していた。

 

「ああ、アル。待機中にすまない。第2槽の『137番』のところへ向かっている。お前のリンクにも、彼女からの周期波形が流れ込んでいるか」

 

 リフトが第2球殻へと滑らかに上昇していく中、アルの思考音声が、微かな間を置いて返ってきた。

 

『……はい。三時間前から、微弱な位相差の波が継続して入力されています。アトラトゥスと直結した際に私の内部で発生した高熱のノイズとは、波形が異なります。……とても規則正しく、複数の周波数が整数比で重なり合った波です。本来のプロトコルであれば遮断すべき雑音のはずですが……この波を受光していると、私の胸部心拍の乱れが、静かに減衰していくのです』

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。