ままならない   作:たろーー

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チャッピーさんいつもありがとうございます。ネトラのことについてもっと理解してほしい部分はあるけど無料チャッピーなので仕方ないですね。ネトラは男です。


孤独について

人は孤独に生きる。産まれるときも、ただ母体の子宮から出されるだけで、死ぬときも、なんらかの原因で死ぬだけだ。だが、ネトラはそうは思わない。少なくとも、永遠に孤独ということは無いだろうと思っている。永遠に孤独である人がいるとしたら、その人が特に、すこぶる運がないだけだろう。

 

ネトラは母親の顔すら認識できない頃に売られ、そのまま培養ポットの中で育った。そのときに身体の隅から隅までを改造され、肉体が十一歳のまま成長しなくなってからずっと、ずっと一人で生きていた。ネトラの容姿を気に入った金持ちに買われたときでさえ一人だった。その金持ちはネトラのことを愛玩人形か何かだと考えていたらしい。彼にフリルがふんだんにあしらわれた、いわゆるゴシックロリータの服などを着せては自分の傍に侍らせ、時折ネトラを情欲を孕んだ目で見つめては柔らかな寝台の上で彼を愛でた。

 

ネトラは、その一連の行為に対して特に何も考えなかった。いや、何も考えられなかったと称するほうが正しいかもしれない。それが何を意味するのか、生きているほとんどを培養ポットの中で過ごしたネトラには、あまりわからなかった。脳に、飼われる上でのマナーや一般常識などを流し込まれたはいいものの、なんの意味があってそれをするのかちっともわからなかったからだ。そのうち、ネトラはそれを考えることさえ億劫になった。

 

そうして一年が経ち、ネトラは飽きられた。成長もせず、抵抗もせず、じっと見つめると意味がわからないとでもいうように微笑を浮かべるネトラに最初は気をよくしていたものの、だんだんつまらなく思ってきたのだろう。人間は変化し続ける生き物であるのだから、仕方がないともネトラは思った。ネトラに飽きた金持ちは、不要になったものを捨てるのと同義であるかのようにネトラを捨てた。ネトラは、本当に呆気なく捨てられた。一応、ネトラは人間であり、生きているというのに。

 

ネトラが捨てられた場所は、一言で言うならゴミ山であった。使えない長さの角材から、そのへんに転がっていそうなゴミや使わなくなったであろう家電製品まで、様々な物が捨てられていた。ネトラはそのなかの一部みたいに、ぽつんと座っていた。そこは不要になったものを処分するのに都合のいい場所だったのだろう。誰が何を捨てようと、誰がどこから来ようと、いちいち気にする人間などいない。少なくとも、ネトラを捨てた男はそう考えていたに違いない。ネトラは周囲の人間たちが忙しなく行き交う様子を、ぼんやりと眺めていた。着せられていた服は相変わらず華美なもので、細かな装飾が施された袖口や裾は、流星街の景色の中ではひどく場違いだった。

 

ネトラはこれから自分がどうなるのか、生きるでも死ぬでも、どちらでも構わなかった。ネトラには、自分がどうすればいいのかを決めるための知識がほとんどなかったし、何かを望むということにも慣れていなかった。陽が昇り、沈み、また昇る。その繰り返しを眺めているだけだった。そしてあるとき、一人の男がネトラの前に現れた。その男はネトラの頭のてっぺんから足先まで品定めするみたいに見たあと、ネトラを担ぎ上げて焦ったみたいに走り出した。安定感がほんの少しもない男の腕の中で揺さぶられ、どこかに連れ去られる。そのときだった。

 

それは運命とも言えるかもしれない。少なくともネトラは、運命であって欲しかった。ネトラを担いで走っている男に誰かが飛び蹴りをして、腕から放り出されたネトラを受け止めた男の子。

 

「危なかったねー、もう少し遅かったら連れ去られちゃってたよ?」

 

男の子は、そう言って笑った。

 

ネトラは返事をしなかった。返事をする必要があるのかどうか、分からなかったからだ。男の子の腕の中に収まったまま、ただ顔を見上げていた。目の前にある顔は、ネトラがこれまで見てきた人間の顔とは少し違っていた。男の顔は、ネトラを見定めるようなものではなかったし、金持ちがそうしていたように、所有物の状態を確かめるような視線でもなかった。そこにあったのは、少しばかりの驚きと、危ないところだったという安堵と、目の前の相手が無事であることを確かめるような、ごくありふれた表情だった。

 

その表情に、ネトラは名前をつけられなかった。

 

男の子はネトラを抱え直すと、少し離れた場所にいる仲間へ向かって声を上げた。先ほどの男は、蹴り飛ばされたあとも何か喚いていたが、周囲にいた子供たちに囲まれて、やがて見えなくなった。ネトラを連れ去ろうとした男がどうなったのか、ネトラは知らない。知ろうとも思わなかった。自分をどこへ連れていくつもりだったのか、どうして連れていこうとしたのか、そんなことは今のネトラにとって重要ではなかった。

 

男の子の腕は、あまり安定していなかった。走ってきたばかりだからか、呼吸も少し乱れている。抱き上げられることには慣れていたはずなのに、今までとは違う揺れ方をするので、ネトラはほんの少しだけ指先を動かした。服の裾を握ろうとして、そこにある布地が自分のものではないことに気づく。金持ちに着せられた服は、今も変わらず身体を飾っていた。袖口のレースは薄汚れ、裾にはゴミ山の埃がついている。それでも、男の子は服の汚れを気にする様子もなく、ネトラを抱えたまま歩いていった。

 

やがて、少し開けた場所に出た。そこには何人かの子供たちが集まっていた。年齢も背格好もばらばらで、手に持っているものも、着ているものも統一感がない。誰かは古びた布を肩に掛け、誰かはサイズの合わない上着を着ていた。彼らは男の子が戻ってきたことに気づくと、口々に何かを言いながら近寄ってきた。

 

そのなかで、ひときわ早く駆け寄ってきた少女がいた。少女は男の子の腕の中を覗き込み、ネトラの姿を見て目を丸くした。華やかな服と、汚れのない肌と、流星街ではあまり見かけない整った顔立ち。少女はそれらを一度に見て、驚いたように息を呑んだあと、すぐに表情を明るくした。

 

「その子、どうしたの?」

 

「連れていかれそうになってた。ちょうど見つけたから助けたんだ」

 

男の子は簡単に説明した。少女はそれを聞いて、ネトラの顔をもう一度見た。ネトラは彼女を見返した。少女の目には、男の子と同じように、何かを品定めするような色はなかった。珍しいものを見つけたときの好奇心と、知らない相手に向ける素直な興味があるだけだった。

 

少女は、ネトラの服の袖にそっと触れた。細かなレースを確かめるように指先を動かし、綺麗な服だね、と言った。ネトラには、その言葉の意味がすぐには分からなかった。綺麗という評価は知っている。金持ちも、ネトラの容姿や服について同じ言葉を使っていた。けれど、同じ言葉でも、言う人間によって意味が違うらしいことを、ネトラはまだ知らなかった。金持ちが綺麗だと言うとき、彼は自分の持ち物に満足していた。鏡の前に立たせ、服の皺を直し、髪を整え、満足そうに眺める。そのときの言葉は、ネトラ自身に向けられているようで、実際には彼が所有するものの価値を確かめているだけだった。

 

けれど、少女は違った。少女は服を褒めたあと、ネトラの顔を見て、もう一度笑った。服が綺麗だから嬉しいのではなく、ネトラという存在を見つけたことそのものが嬉しいように見えた。ネトラには、その違いを説明する言葉がなかった。

 

「名前は?」

 

少女が尋ねた。ネトラはすぐに答えなかった。名前を知らないわけではない。自分に与えられた音が何を指しているのかも理解している。ただ、自分の名前を尋ねられたことがなかった。金持ちはネトラを名前で呼ぶこともあったが、それは呼びつけるためだったり、こちらを向かせるためだったりした。名前を尋ねるという行為が、どういう意味を持つのかは分からなかった。

 

男の子が、ネトラの顔を覗き込む。

 

「名前、ある?」

 

ネトラは小さく頷いた。声を出すために唇を開く。けれど、音はすぐには出てこなかった。喉の奥がかすかに震え、息だけが漏れる。発声すること自体が珍しかった。培養ポットの中にいた頃も、買われてからも、ネトラが自分から声を出す必要はなかった。必要なことは周囲の人間が決め、ネトラはそれに従っていればよかった。声を出さなくても、誰かが困ることはなかった。

 

「……ネトラ。ネトラ=ネコンペト」

 

ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。

少女は聞き取れなかったのか、少し首を傾げた。男の子が代わりに聞き返す。

 

「ネトラ?」

 

ネトラは頷いた。

 

「そっか。ネトラっていうんだ」

 

男の子は、名前を確認すると、当たり前のようにそう言った。そこに特別な意味はなかったのかもしれない。けれど、ネトラはその音を聞きながら、誰かが自分の名前を知っているという状態について、ぼんやりと考えた。

 

名前を知っている人間は、これまでにもいた。金持ちも、ネトラの名前を知っていた。けれど、その男がネトラの名前を呼ぶとき、ネトラは自分がその男の所有物であることを思い出した。名前は、所有物を区別するための札のようなものだった。今、目の前の男の子が名前を呼んだとき、そこには何もなかった。少なくとも、ネトラにはそう見えた。ただ、名前を知ったから呼んだ。それだけのことだった。それが少し不思議だった。

男の子は、ネトラを抱えたまま仲間たちの方を振り返った。少女はまだネトラの服に興味を持っているらしく、袖のレースを眺めている。周りの子供たちも、珍しいものを見るようにネトラを囲んでいた。けれど、誰もネトラを取り囲んで値踏みすることはなかった。誰かが髪に触れようとして、別の子に「いきなり触るなよ」と止められる。そんなやり取りが、ネトラの頭の上を通り過ぎていった。

 

男の子は、自分の名前をシャルナークだと教えた。少女はサラサと名乗った。ほかにも、クロロ、マチ、フェイタン、フィンクス、パクノダ、フランクリン、ウボォーギン、ノブナガ。何人もの名前が聞こえたが、ネトラは一度に覚えきれなかった。名前と顔を結びつけることにも慣れていなかったので、誰かが名乗るたびに、その顔をじっと見つめることになった。それでも、彼らは急かさなかった。覚えられなくても怒らず、聞き取れなかったときにはもう一度名前を言ってくれた。ネトラが何も返さなくても、会話は勝手に続いていく。誰かが冗談を言い、誰かが笑い、誰かがそれを聞き流す。ネトラが黙っていても、そこにいることを咎める人間はいなかった。

 

それは、ネトラにとって初めての経験だった。

人間は、何かをしなければそこにいることを許されないものだと思っていた。少なくとも、ネトラが知っている人間関係はそうだった。金持ちの傍にいるときは、姿勢を正し、呼ばれたら顔を向け、指示された場所に立つ。何かを間違えれば直され、期待された反応ができれば満足される。何もしないでいることは、何もできないことと同じだった。しかし、ここでは誰もネトラに何かを求めていないようだった。

 

もちろん、彼らがネトラを警戒していなかったわけではない。流星街で知らない人間を簡単に信用する者はいないし、拾ったばかりの子供を無条件に仲間として受け入れるほど、彼らは世間知らずでもなかった。けれど、少なくともその場にいる子供たちは、ネトラが何者なのかを知ろうとしていた。どこから来たのか、どうしてそんな服を着ているのか、なぜ一人で座っていたのか。質問はいくつもあったが、ネトラが答えられないと分かると、彼らはそれ以上追及しなかった。

 

シャルナークは、ネトラを地面に下ろす前に、服の裾が引っかからないように整えた。ゴミ山で汚れた裾を払うことはしなかった。払っても落ちない汚れがあると分かっていたからかもしれないし、単純にそこまで気が回らなかっただけかもしれない。ネトラは地面に足をつけると、しばらくその場に立ち尽くした。どこにいればいいのか、分からなかった。金持ちの屋敷では、立つ場所が決められていた。寝台の脇、窓際、鏡の前、男のすぐ隣。指示されればそこへ行き、指示されなければ動かなかった。けれど、今は誰も何も言わない。周囲には人がいて、声があり、物があり、どこへ行ってもよさそうだった。

 

自由という言葉は知っていた。知識として与えられた言葉の中に、それは確かにあった。けれど、自由とは何をすればいい状態なのか、ネトラには分からなかった。

彼は、シャルナークの近くに立った。特に理由はなかった。先ほど自分を受け止めたのが彼だったから、彼のそばにいれば次に何をすればいいのか分かるかもしれないと思っただけだ。シャルナークはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。ネトラが自分の後ろにいることを確かめると、仲間たちとの会話に戻った。

 

サラサはネトラの前にしゃがみ込んで、顔を覗き込んだ。ネトラは彼女の目を見た。サラサは笑っていた。ネトラも笑った方がいいのかもしれないと思い、口元を少しだけ動かした。金持ちの前で何度も繰り返した、微笑の形だった。サラサは、少しだけ目を丸くした。それから、ネトラの真似をするように、同じくらい控えめに口元を緩めた。何が面白かったのか、彼女はそのまま笑い出した。ネトラは何が起きたのか分からず、ただその様子を見ていた。その日、ネトラは彼らのいる場所で食べ物を与えられた。小さな器に入った、形の崩れた食べ物だった。金持ちの屋敷で出された食事とは違い、見た目は整っていなかったし、温度も一定ではなかった。けれど、サラサはそれをネトラの前に置き、食べていいのだと教えた。

 

ネトラは器を見た。次に、周囲の子供たちを見た。彼らは自分の分を食べている。食べ物を前にして、誰かが許可を出すのを待っている者はいなかった。ネトラは少し迷ってから、器に手を伸ばした。食べ方は知っていた。与えられた知識の中に、食事の作法はあった。けれど、誰かと同じ場所で食べるという経験はほとんどなかった。食器の持ち方や口の動かし方は分かっていても、食べながら会話をすることや、隣にいる人間の様子を気にすることは分からなかった。サラサは何かを話しながら食べていた。シャルナークは彼女の話に相槌を打ち、ほかの子供たちはそれぞれ勝手に口を挟んでいる。会話は途切れたり、重なったり、突然別の話題に移ったりした。誰も話の順番を守ろうとはしていないようだった。ネトラは、食べ物を口に運びながら、その様子を眺めていた。

 

一口食べるたびに、誰かの声が聞こえる。誰かが笑う。誰かが不満を言う。誰かが食べ物を取り合い、別の誰かがそれを止める。そうしたことが、食事の間ずっと続いていた。金持ちの屋敷で食事をするときは、静かだった。食器の触れ合う音と、男の声だけが聞こえた。ネトラは決められた姿勢で座り、決められた量を食べ、決められた時間に席を立つ。食事は身体を維持するための行為であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。けれど、ここでは食事の時間が、誰かと一緒にいる時間になっているらしかった。

 

その違いを、ネトラはまだ理解できない。ただ、食べ終わったあとも誰も席を立たず、誰かが話し続けていることが不思議だった。ネトラは器の底を見つめた。もう食べるものはない。だから、ここで終わりなのだと思った。器を置き、立ち上がろうとする。すると、隣にいたシャルナークがそれに気づいて、ネトラの手元を見た。

 

「もう食べた?」

 

ネトラは頷いた。

 

「お腹いっぱい?」

 

「……たぶん」

 

「たぶん?」

 

ネトラは少し考えた。お腹がいっぱいかどうかを尋ねられたことはあったが、そのときは食事の量を調整するためだった。今のシャルナークは、ネトラがどれだけ食べたのかを確かめているようだった。何かを命令するわけでも、正しい答えを求めるわけでもない。

 

「……わからない」

 

小さく答えると、シャルナークは一瞬だけ目を瞬かせた。それから、無理に食べなくていいよ、と言った。ネトラはその言葉を聞いて、器を見た。食べなくてもいい。食べてもいい。どちらでもいい。そんなふうに選ぶことができるのだと、少しずつ理解した。

 

その夜、ネトラは彼らのいる場所で眠ることになった。

寝床は十分とは言えなかった。敷物は薄く、周囲には物が多く、夜になっても完全な静寂は訪れなかった。誰かの寝息が聞こえ、遠くで人の声がする。風が吹くたびに、どこかの布が揺れる音がした。金持ちの屋敷にあった柔らかな寝台とは、何もかもが違っていた。それでも、ネトラは眠ることができた。目を閉じる前に、彼は周囲を見回した。シャルナークは少し離れたところに座っていて、何かを整理しているようだった。サラサはすでに横になっており、ほかの子供たちもそれぞれ眠る準備をしている。誰かがネトラに毛布を渡し、誰かが足元に置かれた荷物を端へ寄せた。

 

ネトラは毛布を受け取った。使い方は知っていた。身体に掛ければいいのだと分かっていた。けれど、それを自分のために渡されたのだということが、すぐには理解できなかった。

 

「寒いからね」

 

そう言ったのはサラサだった。彼女は眠そうな顔で、ネトラの肩に毛布を掛けてくれた。ネトラはその手元を見ていた。彼女の指先は少し荒れていて、爪の間には汚れが残っている。けれど、その手はネトラの服を汚さないように気をつけながら、毛布の端を整えていた。ネトラは、何かを言おうとした。礼を言うべきなのだろうか。そういう場面では、感謝の言葉を述べるのが一般的だと知識にはあった。けれど、声が出なかった。何と言えばいいのか、どのくらいの声で言えばいいのか、そもそも本当に言う必要があるのか、判断できなかった。

サラサはネトラの様子を気にすることなく、すぐに自分の寝床へ戻っていった。ネトラは毛布を握った。少しだけ、指先に力を込める。それから、まぶたを閉じてじっとしているといつのまにか眠りについていた。

 

翌朝、ネトラが目を覚ましたとき、周囲にはすでに人の気配があった。誰かが外へ出ていて、誰かが食べ物を探しに行く準備をしている。シャルナークはネトラよりも早く起きていたらしく、少し離れたところで仲間と話をしていた。ネトラは毛布を畳もうとした。畳み方は分からなかったが、形を整えて端を揃えればいいのだろうと思った。何度かやり直しているうちに、サラサが気づいて近づいてきた。彼女はネトラの手元を見て、少し笑った。それから、畳み方を教えた。ネトラは彼女の手の動きをよく見て、同じように指を動かした。うまくいかないところがあると、サラサは何度でもやり直して見せた。

 

その時間は、ひどくゆっくり進んだ。

 

ネトラは教えられたことを覚えるのが苦手ではなかった。与えられた知識を頭に入れることには慣れていたし、手順を真似することもできた。けれど、誰かと一緒に何かをするということは、知識を覚えるのとは違っていた。相手の動きを見て、自分の動きを合わせる。うまくできたら相手の顔を見る。相手が笑ったら、自分も少し笑う。そういう細かなやり取りが、何度も繰り返される。

 

サラサは、ネトラが毛布を畳めたことを喜んだ。ネトラには、なぜそれほど嬉しいのか分からなかった。毛布を畳むことは、ただ毛布を畳むことに過ぎない。けれど、サラサはできたね、と言って笑った。ネトラはその顔を見た。どうして笑っているのかは分からない。それでも、彼女が笑っているとき、自分の周りの空気が少し柔らかくなるような気がした。

 

それから数日、ネトラは彼らと一緒に過ごした。

彼らはネトラをどこかへ連れていくこともあったし、その場に置いていくこともあった。食べ物を探しに行くときには、ネトラにもついてくるか尋ねた。危ない場所へ行くときには、ここで待っているように言った。ネトラは言われた通りにした。誰かが戻ってくるまで、同じ場所に座って待っていた。

 

最初のうちは、ネトラは彼らの後ろを歩くことが多かった。自分から行き先を決めることはなく、誰かが立ち止まれば立ち止まり、誰かが歩き出せば歩き出した。シャルナークが少し先を歩いているときには、その背中を目で追った。彼が見えなくなると、どこへ行けばいいのか分からなくなるからだった。

 

シャルナークは、ネトラが自分の後ろをついてくることに気づいていた。けれど、特に理由を尋ねることはなかった。時折、振り返ってネトラがいることを確かめ、歩く速度を少しだけ落とす。ネトラが遅れていれば待ち、追いつけばまた歩き出す。そういうことを、彼は当たり前のように繰り返した。

 

ネトラは、そのことを不思議に思った。

金持ちは、ネトラがついてこなければ呼びつけた。ネトラが近くにいなければ、そこにいるように命じた。けれど、シャルナークは何も言わない。ただ、ネトラが後ろにいることを確かめている。ネトラがいなくなったら困るのだろうか。そう考えてみたが、理由は分からなかった。

 

ある日、シャルナークが仲間たちと話している間に、ネトラは少し離れた場所へ行った。そこには古い家電製品が積み上がっていて、隙間から小さな光が差し込んでいた。ネトラはその光を見つめた。指先を伸ばして、埃の積もった表面に触れる。指に灰色の粉がついた。ネトラはそれを眺めたあと、手のひらを返した。

 

そのとき、背後から声がした。シャルナークだった。

 

彼はネトラの姿を見つけると、少しだけ眉を上げた。ネトラは振り返り、彼を見た。何かをしてはいけなかったのだろうかと思ったが、シャルナークは怒っていなかった。彼はネトラの隣にしゃがみ込み、同じように積まれた家電製品を眺めた。

 

「面白い?」

 

ネトラは、すぐには答えなかった。面白いかどうかは分からない。ただ、光が差し込んでいた。埃が光の中で動いていた。そこに何かがあるということを、見ていたかった。

 

「……わからない」

 

「そっか」

 

シャルナークは、それ以上尋ねなかった。

しばらく二人でそこにいた。遠くから仲間たちの声が聞こえてくる。サラサが何かを言い、フィンクスが笑い、ノブナガが大きな声で返事をしていた。ネトラはその声を聞きながら、隣にいるシャルナークを見た。

 

「……行かないの?」

 

声は小さく、ほとんど息に近かった。

シャルナークはネトラの方を向いた。

 

「ネトラがここにいるから」

 

それだけだった。

 

ネトラは、彼の言葉を理解するのに少し時間がかかった。自分がここにいるから、シャルナークもここにいる。そういう意味なのだろうか。けれど、シャルナークは仲間たちのところへ戻ることもできる。ネトラがここにいることと、彼がここにいることは、別のことのはずだった。

 

「……ぼくが?」

 

「うん」

 

「どうして?」

 

「一人にしたら、またどこか行っちゃうかもしれないだろ」

 

ネトラは、少しだけ首を傾げた。

 

自分がどこかへ行くという考えはなかった。けれど、シャルナークがそう言うのなら、そういうこともあるのかもしれない。ネトラはその場に座ったまま、もう一度光を見た。シャルナークは、ネトラが何かを考えているのを邪魔しないように、しばらく黙っていた。

 

それから、二人で仲間たちのところへ戻った。

ネトラが彼らと過ごすようになってから、サラサはよく話しかけてくるようになった。彼女はネトラの返事が遅くても気にせず、何かを見つけるたびに呼び止めた。綺麗な石を拾えば見せ、面白い形のなにかを見つければ手渡し、どこかで聞いた話を思い出せば、ネトラにも聞かせた。ネトラは、彼女の話を聞いていた。

 

すべてを理解できたわけではない。サラサが話すことには、知らない言葉や、知らない人間の名前がたくさん出てきた。彼女が何かを面白がって笑っても、ネトラにはどこが面白いのか分からないことがあった。それでも、サラサは話を続けた。ネトラが相槌を打たなくても、返事が遅くても、話すことをやめなかった。

 

ネトラは、彼女が話している間、よく顔を見ていた。声の調子が変わると、表情も変わる。嬉しいときには目が輝き、怒っているときには眉が寄る。悲しいときには、少しだけ視線が下がる。そうした変化を、ネトラは一つずつ覚えていった。

 

ある日、サラサがネトラの手を取った。

ネトラは、反射的に指を動かした。手を取られること自体は、これまでにもあった。金持ちに腕を引かれたり、立つ位置を直されたり、服を着替えさせられたりしたことはある。けれど、サラサの手はネトラをどこかへ動かすためのものではなかった。

 

彼女はただ、ネトラの手を握っていた。

そのまま、遊びに行こうと言った。

 

ネトラは、遊ぶという言葉を知っていた。知識としては知っている。子供が楽しみのために行う行為であり、特別な目的を持たない時間の過ごし方。けれど、ネトラには遊んだ経験がなかった。何をすれば遊びになるのか、どこまでが遊びなのか、何をしたら終わりなのかも分からない。

 

サラサは、ネトラの手を引いて歩き出した。

 

ネトラは彼女の歩幅に合わせた。彼女が走り出せば、ネトラも走った。途中で振り返られれば、立ち止まった。何をするのか分からないまま、彼女についていった。

サラサは、ネトラに隠れんぼを教えた。

隠れること。見つからないようにすること。見つけること。見つかったら、今度は自分が探すこと。説明は簡単だったが、ネトラには少し難しかった。隠れるという行為に、何の意味があるのか分からなかったからだ。見つからないようにするのなら、最初から相手の目に入らない場所にいればいい。わざわざ探してもらう必要があるのだろうか。

 

それでも、サラサは楽しそうだった。

 

彼女が数を数えている間、ネトラは物陰に立った。隠れるということを忘れて、サラサの姿を見ていた。彼女が数え終わり、こちらへ向かってくる。ネトラはその場から動かなかった。サラサはすぐに彼を見つけて、声を上げて笑った。

 

「ネトラ、見えてるよ!」

 

ネトラは、自分の身体を見下ろした。確かに、隠れていなかった。サラサは、もう一度やろうと言った。

 

次は、ネトラも隠れた。物陰にしゃがみ込み、サラサの足音が近づいてくるのを聞いた。彼女がどこを探しているのか、どちらへ進んでいるのか、音だけで考えた。見つからないように息を潜める。サラサがすぐ近くを通り過ぎたとき、ネトラはほんの少しだけ身体を縮めた。

 

彼女は、ネトラを見つけられなかった。

 

やがて、サラサは別の場所へ行ってしまった。ネトラは物陰に隠れたまま、しばらく待っていた。見つけてもらうまで、ここにいればいいのだと思ったからだ。けれど、いつまで経っても誰も来なかった。ネトラは、少しだけ顔を出した。サラサの姿は見えない。遠くから、彼女の声が聞こえた。どうやら、別の子供たちと話しているらしい。

 

ネトラは立ち上がった。

見つからなかったのだから、もう終わりなのだろう。彼は物陰から出て、サラサたちのところへ戻った。サラサはネトラを見つけると、驚いたように目を丸くし、それから申し訳なさそうに笑った。

 

彼女は、探しに行くのを忘れていたらしい。ネトラは、別に構わなかった。見つけてもらえなくても、困ることはなかった。けれど、サラサは何度も謝った。ネトラが怒っていないことを確かめると、今度は絶対に見つけるから、と約束した。

 

ネトラは、その約束の意味を考えた。

見つけることに、そんなに大きな意味があるのだろうか。見つからなかったからといって、ネトラはどこかへ消えてしまったわけではない。ここにいる。サラサも、ここにいる。ならば、それで十分ではないのだろうか。

 

けれど、サラサはそうではないらしかった。彼女は、ネトラを見つけたいと思っていた。そのことを、ネトラは少しずつ理解していった。

 

サラサと遊ぶようになってから、ネトラは以前よりも自分から動くことが増えた。彼女が手を引けばついていくし、彼女が何かを見つければ近づいていく。シャルナークが呼べば振り返り、誰かが食べ物を差し出せば受け取る。まだ自分から話しかけることは少なかったが、誰かが近くにいることを以前ほど不思議に思わなくなっていた。

 

それでも、ネトラは時折、何もせずに座っていることがあった。

彼らが騒いでいる横で、ただその様子を眺めている。誰かが笑っていても、誰かが怒っていても、ネトラはその理由を尋ねない。自分から輪の中へ入っていくこともなかった。

 

それを見たシャルナークは、ネトラに何かを強制することはなかった。彼はネトラが一人でいることを望んでいるのか、それともどうすればいいのか分からないだけなのか、まだ判断できずにいた。けれど、ネトラが誰かのそばにいるときには、なるべくその場所を空けておくようにした。隣に座れる場所を残し、話しかけるときには目線を合わせ、返事を急かさない。

 

ネトラは、そうした小さなことを覚えていった。

人の隣に座ってもいい。話しかけられたら返事をしてもいい。分からないことは、分からないと言ってもいい。何も言わずにそこにいても、誰かが怒るわけではない。そういうことを、一つずつ。

 

それは、培養ポットの中で与えられた知識とは違っていた。誰かが言葉で説明してくれたわけではない。ネトラが実際にそこにいて、相手の表情を見て、声を聞き、何度も同じことを繰り返すうちに、少しずつ分かるようになったことだった。

 

ネトラは、まだ人との関わり方を知らなかった。けれど、知らないことを知るために、誰かのそばにいることはできるようになっていた。

 

ネトラが彼らと過ごすようになって、どれほどの日が経ったのか、正確なことは分からなかった。流星街には、日付を記録する習慣などない。朝になれば起き、腹が減れば食べ物を探し、夜になれば眠る。それを繰り返しているうちに、昨日と今日の境目は曖昧になっていく。ネトラにとっては、もともと時間というものに大した意味がなかった。培養ポットの中にいた頃は、昼も夜も関係なく、ただ決められた周期で身体の状態を管理されていた。金持ちの屋敷にいた頃も、窓の外が明るいか暗いかで一日の区切りを知る程度で、明日が来ることを楽しみにしたことなどなかった。

 

けれど、今は少し違う。朝になると、サラサがネトラを起こしに来ることがあった。まだ眠っていたい日もあったが、彼女はそんなことを気にせず、ネトラの肩を揺すったり、顔の近くで名前を呼んだりした。ネトラが目を開けるまで、何度も何度も声をかける。ようやく目を開けると、サラサは満足そうに笑って、今日は何をして遊ぼうかと尋ねるのだった。その問いに、ネトラはいつも困った。何をしたいかと尋ねられても、したいことが思い浮かばない。何をすれば楽しいのか、どこへ行けば面白いものがあるのか、ネトラには判断できなかった。サラサが選んでくれたものについていくことはできる。彼女が何かを始めれば、それを真似することもできる。けれど、自分から何かを選ぶということは、どうにも難しかった。

 

サラサは、そんなネトラに答えを急かさなかった。

彼女はネトラが困った顔をしているのを見ると、少し考えるように視線を上げ、それから自分の思いついた遊びを提案した。ネトラが頷けばそれを始め、首を傾げれば別のものを考える。時にはネトラがどちらにも反応しないこともあったが、そのときは自分の好きな遊びを始めて、ネトラをその場に誘った。ネトラは、彼女のそういうところが不思議だった。

 

金持ちは、ネトラが何を考えているのか尋ねなかった。尋ねる必要がなかったからだ。彼が望むことをネトラがすれば、それでよかった。ネトラの意思は、金持ちの生活の中に必要なものではなかった。サラサは違う。彼女はネトラが何をしたいのか知ろうとする。けれど、ネトラが答えられなくても困った顔をするだけで、怒ったり、無理に答えを引き出そうとしたりはしなかった。

 

ネトラはその違いを、まだうまく言葉にできなかった。

ある日、サラサはネトラに小さな石を渡した。どこかで拾ってきたものらしく、表面が滑らかで、光に透かすと少しだけ色が変わって見えた。彼女はそれを宝物だと言った。ネトラは手のひらに乗った石を見つめた。宝物という言葉は知っている。大切にしているもの、価値のあるもの、簡単には手放したくないもの。そういう意味だったはずだ。

 

「ネトラにあげる」

 

サラサはそう言って、石をネトラの指の間に押し込んだ。

ネトラは受け取ったまま、彼女を見た。

 

「……いいの?」

 

「うん。あげる」

 

「サラサの、じゃないの?」

 

「私があげるって言ってるんだから、ネトラのだよ」

 

ネトラは石を見た。次に、サラサを見た。彼女は当然のことを言ったという顔をしている。ネトラには、その当然が分からなかった。誰かの持ち物を別の誰かに渡すということは、持ち主が変わるということだ。金持ちがネトラを買ったときも、そうだった。ネトラは自分の意思とは関係なく、誰かのものになった。

 

けれど、サラサはネトラに石を渡すとき、彼の意思を確かめた。受け取るかどうかを尋ね、ネトラが手を開くのを待った。石は彼女のものだったのに、彼女はそれを手放すことを少しも惜しんでいないようだった。

 

ネトラは石を握り込んだ。

 

「……ありがとう」

 

声は小さかった。言葉の最後が少し掠れて、サラサに届いたかどうかも分からないほどだった。

けれど、彼女は聞き取ったらしい。

 

「どういたしまして!」

 

その返事を聞いて、ネトラはまた石を見た。

ありがとうと言えば、どういたしましてと返ってくる。そういう決まりがあるのかもしれない。ネトラは頭の中でそのやり取りを繰り返した。ありがとう。どういたしまして。ありがとう。どういたしまして。言葉の意味を覚えることはできても、その言葉を交わすことがどうして嬉しいのかは、まだ分からなかった。それでも、その日からネトラは石を持ち歩くようになった。

サラサからもらった石は、特別に綺麗なものではなかった。流星街には、もっと珍しい形の石も、もっと光沢のある石も、いくらでも転がっている。けれど、ネトラはほかの石を拾っても、それを自分のものにしようとは思わなかった。サラサからもらった石だけを、服のポケットに入れて持ち歩いた。時々、ポケットに手を入れて、その感触を確かめる。そこに石があると、サラサがそれを渡してくれたときのことを思い出せた。彼女が笑っていたことも、手のひらに石を押し込んだことも、ネトラがありがとうと言ったことも、ぼんやりとではあるが覚えていた。

 

それが何の役に立つのかは分からない。けれど、忘れてしまうのは少し惜しい気がした。

ネトラが少しずつ変わっていることに、シャルナークも気づいていた。最初の頃のネトラは、誰かに呼ばれなければ動かなかった。話しかけられても、言葉の意味を理解しているのか分からないほど反応が遅く、何かを尋ねられれば、相手の顔を見つめたまま黙っていることが多かった。返事をすることができないわけではない。ただ、どう返せばいいのか分からないらしい。質問の意味を理解していても、答えるまでに長い時間がかかることがあった。

 

それが最近では、ほんの少しだけ自分から動くようになった。サラサがいなくなると、その姿を探す。シャルナークが仲間たちのところへ行くと、少し遅れてついていく。食べ物を渡されると、受け取る前に相手の顔を見て、小さく頷くこともある。

 

それは些細な変化だった。ほかの人間が見れば、気に留めるほどのことでもないだろう。けれど、シャルナークはネトラが初めて自分の名前を口にしたときの声を覚えていた。あのときと比べれば、今のネトラはずっと多くの言葉を使うようになっている。もっとも、声は相変わらず小さい。

 

声を出すことに慣れていないせいか、喉を使うことそのものが苦手なようだった。誰かに話しかけられれば返事をするものの、声が小さすぎて聞き取れないことがある。聞き返されると、ネトラは少しだけ困ったように眉を寄せ、もう一度同じ言葉を繰り返す。二度目も聞き取れないと、今度は口を閉じてしまうこともあった。シャルナークは、そういうときに無理に聞き出さないようにしていた。

 

ネトラが話すことを嫌がっているわけではないのは分かる。けれど、言葉を発するまでに時間がかかる相手に、何度も聞き返すのはあまりよくない。彼はネトラの口元を見て、聞き取れた部分から意味を推測するようにしていた。

 

それでも、どうしても分からないことはある。

 

「今、なんて言った?」

 

シャルナークが尋ねると、ネトラは少しだけ目を伏せた。

 

「……そう、なの?」

 

「うん?」

 

「そう、なの?って」

 

「ああ。そうだよ」

 

ネトラは、彼の返事を聞いてから、少しだけ頷いた。

 

「……うん。たぶん、そう」

 

何がそうなのか、ネトラ自身にもよく分かっていないようだった。シャルナークはそれを聞いて、思わず笑った。ネトラは笑われた理由が分からず、彼の顔を見上げた。

 

「ごめん。変なことを言ったわけじゃないよ」

 

そう言われても、ネトラはまだ不思議そうだった。

シャルナークは、ネトラが何かを間違えたわけではないと伝えるように、頭を軽く撫でた。ネトラはその手を避けなかった。以前なら、触れられたときにどう反応すればいいのか分からず、ただ固まっていた。今も自分から触れ返すことはないが、少なくとも、シャルナークの手が頭に乗ることを拒まなくなっていた。

 

その変化を、シャルナークは嬉しく思っていた。

ネトラが仲間たちと過ごすようになってから、彼らの生活にも少しずつ変化があった。もともと彼らは、誰か一人が増えたところで大きく生活を変えるような集団ではない。食べ物が手に入れば分け、寝る場所があれば詰めて眠り、危険があれば誰かが先に気づいて対処する。それはネトラが来る前から変わらなかった。

 

ただ、ネトラはあまりにも何も知らなかった。

食べ物の探し方も、危険な場所の見分け方も、流星街で暮らすための小さな知恵も、ほとんど身についていない。知識として知っていることはあっても、実際に経験したことがないため、役に立たないことが多かった。危ないものを見つけても、それが危ないと判断できない。誰かが怒鳴っていても、自分に向けられた声なのかどうか分からない。人が近づいてきても、避けるべきなのか、立ち止まるべきなのか、判断がつかない。

 

それを見て、フィンクスは最初、少し苛立っていた。

 

「お前、何にも知らねーのな」

 

その言葉を向けられたネトラは、彼の顔を見た。怒っているのか、呆れているのか、よく分からなかった。ネトラは自分が何も知らないことを知っていたし、それを指摘されたからといって、特に傷つくこともなかった。

 

「……うん」

 

「うん、じゃねーよ」

 

フィンクスは頭を掻いた。どうやら、ネトラの返事は彼の期待していたものではなかったらしい。ネトラは少し考えたあと、もう一度口を開いた。

 

「……ごめん、なさい?」

 

「謝れって言ってんじゃねー!」

 

声を荒らげられて、ネトラは目を瞬かせた。何かを間違えたらしい。しかし、何を間違えたのか分からない。ネトラはフィンクスの顔を見つめたまま、次の言葉を待った。

 

その様子を見ていたノブナガが、横から口を挟んだ。

 

「お前が怒鳴るから余計に分かんなくなってんだろ」

 

「俺は怒鳴ってねーよ」

 

「怒鳴ってんだろ」

 

二人の言い合いが始まり、ネトラはその場に立ったまま、交互に彼らの顔を見た。フィンクスが何か言い返し、ノブナガが笑いながら肩をすくめる。やがて二人は別の話を始め、ネトラのことは忘れたようだった。

 

ネトラは、少し遅れてシャルナークのところへ戻った。シャルナークは、彼の様子を見て事情を察したらしい。ネトラの頭に手を置き、フィンクスは声が大きいだけだから気にしなくていい、と説明した。ネトラは頷いた。声が大きいだけ。その言葉を覚えておこうと思った。

 

次にフィンクスが大きな声を出したとき、ネトラは以前ほど驚かなくなった。声が大きいだけなのかもしれない。怒っているわけではないのかもしれない。そう考えられるようになっただけでも、ネトラにとっては大きな変化だった。

 

マチは、ネトラに対して必要以上に構うことはなかった。彼女はもともと口数が多い方ではないし、誰かに優しくするために、わざわざ言葉を重ねるような性格でもない。けれど、ネトラが服の裾を引っかけているのを見つければ、黙って直した。袖口のレースがほつれていれば、どこからか糸を持ってきて繕った。ネトラが食べ物を落とせば、汚れていない部分を選んで渡した。

 

ネトラは、マチが何を考えているのか分からなかった。

彼女はあまり笑わない。サラサのように大きな声で話しかけてくることもない。シャルナークのように、ネトラが何をしているのか気にしている様子もあまりない。けれど、ネトラが困っていると、いつの間にか近くにいることがあった。

 

ある日、ネトラは自分の服の袖を見つめていた。金持ちに着せられた服は、流星街で過ごすうちにずいぶん傷んでいた。レースは破れ、ボタンはいくつか取れ、裾には落ちない汚れが染みついている。もともと華美だった服は、今ではあちこちがほつれて、見る影もなかった。ネトラは、それをどうすればいいのか分からなかった。

 

捨てるべきなのだろうか。直すべきなのだろうか。服が傷んだときには、新しいものに替えるのが普通だと教えられていた。けれど、今は新しい服を持っていない。だからといって、傷んだ服を着続けてはいけない理由も分からなかった。マチは、ネトラが袖を見つめているのに気づいた。彼女はネトラの隣に座り、破れた箇所を指でつまんだ。それから、直せるかどうかを確かめるように布地を裏返した。ネトラは彼女の手元を見ていた。マチは、必要な道具を取りに行くと、ネトラの袖を少しずつ直していった。ネトラが動かないように、時々手で合図をする。ネトラは言われた通りに腕を差し出し、彼女が作業しやすいようにじっとしていた。

 

「痛くない?」

 

マチが尋ねた。

ネトラは首を横に振った。

 

「……痛くない」

 

「ならいい」

 

それだけだった。

 

しばらくして、袖のほつれが目立たなくなった。完璧に元通りになったわけではない。レースは一部が失われ、布地の色も褪せている。それでも、着られないほどではなくなった。

 

マチは糸を切り、ネトラの腕を離した。ネトラは直された袖を見た。それから、ゆっくりとマチの顔を見た。

 

「……ありがとう」

 

「別に」

 

彼女はそれ以上何も言わなかった。けれど、ネトラはその日から、服がほつれているのを見つけると、マチのところへ持っていくようになった。マチは毎回直してくれるわけではなかったし、自分で直せるものは自分でやるように言うこともあった。ネトラはそのたびに、彼女の手元を見て、少しずつやり方を覚えた。

 

そうして、ネトラは初めて、自分の服を自分で直すことを覚えた。それは誰かに命令されたからではなかった。服が傷んでいるから直したいと思ったのか、それともマチが直してくれたことを覚えていたからなのか、ネトラ自身にもよく分からない。ただ、針を持ち、布を合わせ、糸を通す。何度か失敗しながら、少しずつ形を整えていく。その作業をしている間、ネトラは不思議と落ち着いていた。

 

自分の手で何かを直すということは、思っていたよりも難しくなかった。そして、直した服を着ていると、マチが一度だけネトラの袖を見て、ちゃんとできている、と言った。ネトラは、その言葉を聞いて、少しだけ口元を緩めた。それを見たマチは何も言わなかったが、視線を逸らす前に、ほんのわずかに目を細めた。

 

 

 

フェイタンは、ネトラに対して特別な関心を示さなかった。彼は自分のことを優先するし、他人の世話を焼くことにも興味がない。ネトラが近くにいても、邪魔にならなければ気にしない。ネトラが何かを尋ねても、必要最低限の返事をするだけだった。

 

ただ、ネトラはフェイタンの動きをよく見ていた。

 

彼は無駄な動きが少ない。歩くときも、物を取るときも、何かを避けるときも、身体の動きがひどく滑らかだった。ネトラはそれを見て、自分も同じように動けるだろうかと思った。身体の使い方を覚えることは、ネトラにとって難しいことではなかった。培養ポットの中で改造された身体は、柔軟性も持久力も常人とは大きく異なっていたし、動作の習得も早かった。

 

あるとき、ネトラはフェイタンの動きを真似してみた。彼が足を運ぶ位置を見て、同じように歩く。身体の重心を移動させ、腕の振りを抑え、足音を立てないようにする。何度か繰り返すうちに、ネトラはほとんど同じ動きを再現できるようになった。

 

フェイタンはそれに気づいた。彼はネトラを見て、少しだけ眉を寄せた。ネトラはその視線に気づくと、動きを止めた。何か悪いことをしたのかもしれない。彼の動きを真似してはいけなかったのだろうか。

 

「何してる」

 

フェイタンが尋ねた。

ネトラは、少し考えてから答えた。

 

「……真似?」

 

「見れば分かる」

 

ネトラは口を閉じた。どう答えればいいのか分からなかった。フェイタンは、ネトラの足元を見た。彼の動きは、見た目だけなら確かに似ている。けれど、力の入れ方や身体の使い方には、まだ不自然なところがあった。フェイタンはそれを指摘しようとして、やめた。教えるつもりはなかったし、ネトラが何を目的にしているのかも分からない。

 

「勝手にするといい」

 

そう言って、彼は歩き出した。ネトラはその背中を見送った。

勝手にしていい、という意味だろうか。怒ってはいないらしい。ネトラはもう一度、先ほどの動きを繰り返した。

 

それから何日かして、フェイタンはネトラが同じ動きを練習しているのを見つけた。彼は立ち止まり、ネトラの足元を眺めた。ネトラはまだ気づいていない。少しだけ重心がずれている。足を運ぶ順番も、わずかに違っていた。

 

フェイタンは、ネトラの近くまで歩いていくと、彼の足先を軽く蹴って位置を直した。ネトラは驚いて顔を上げた。

 

「それ違うね」

 

フェイタンはそれだけ言って、元の場所へ戻った。

 

ネトラは、直された足先を見た。それから、フェイタンの背中を見た。彼はもうこちらを見ていない。ネトラは少し考え、教えられた通りに足を動かした。それが正しいのかどうか、すぐには分からなかった。けれど、フェイタンが何も言わなかったので、たぶん間違ってはいないのだろうと思った。ネトラは、そういうふうにして、少しずつ周囲の人間たちとの距離を覚えていった。

 

誰にどのくらい近づいていいのか。どんな声をかければいいのか。どこまでなら触れてもいいのか。相手が嫌がっているときには、どうすればいいのか。そうしたことを、彼は一つずつ、実際に経験しながら学んでいった。

 

それは決して順調ではなかった。ネトラは時々、相手の気持ちを読み違えた。冗談を本気にすることもあったし、怒っている相手に笑いかけてしまうこともあった。誰かが悲しんでいるときに、どうして悲しいのか分からず、ただ黙って見つめていることもあった。

 

けれど、彼らはネトラを責めなかった。

 

分からないことがあれば教えた。間違えれば訂正した。ネトラが何も言わなくても、彼がそこにいることを当たり前のように受け入れた。

 

ネトラは、少しずつ彼らの名前を覚えた。

 

シャルナーク。サラサ。クロロ。マチ。フェイタン。フィンクス。パクノダ。フランクリン。ウボォーギン。ノブナガ。

 

名前を覚えると、顔が結びつく。顔が結びつくと、声を聞いただけで誰なのか分かるようになる。誰かが遠くから呼べば、ネトラはその声の主を探すようになった。そして、彼らもまた、ネトラの名前を呼ぶようになった。

 

ネトラ。

 

その音が聞こえるたびに、ネトラは顔を上げた。誰かが自分を呼んでいる。自分に用がある。自分に何かを伝えようとしている。そういうことが、少しずつ当たり前になっていった。

 

ある日、ネトラはシャルナークの姿が見えないことに気づいた。

いつもなら、どこかにいる。仲間たちと話しているか、何かを探しているか、あるいは少し離れたところで一人で過ごしている。ネトラは彼がどこにいるのかを知らないことがあまりなかった。彼がいなくなれば、誰かに尋ねればよかったし、待っていれば戻ってくることも多かった。

 

けれど、その日はどこにもいなかった。ネトラは、しばらくその場に立っていた。サラサに尋ねようかと思ったが、彼女は別の子供たちと話をしている。マチは何かを縫っていて、フィンクスはノブナガと口論していた。誰に尋ねてもいいはずだった。けれど、ネトラは誰かに話しかけることに、まだ少しだけ時間がかかった。

 

彼は、シャルナークがよく行く場所を思い出した。

 

物が積み上がっている場所。少し開けた空き地。古い建物の陰。以前、二人で埃の中の光を眺めた場所。一つずつ見て回る。

 

どこにもいなかった。

 

ネトラは立ち止まった。どうすればいいのか分からなかった。シャルナークがどこへ行ったのか、何時に戻るのか、誰と一緒なのか。何も知らない。彼がいないことを、誰かに伝えた方がいいのだろうか。けれど、彼がいないというだけで、何か問題があるのだろうか。ネトラはしばらく考えて、それから、シャルナークが戻ってくるまで待つことにした。彼が戻ってくるかどうかは分からない。けれど、今まで戻ってこなかったことはなかった。だから、きっと戻ってくるのだろうと思った。

 

ネトラは、以前シャルナークと一緒に座った場所に腰を下ろした。埃の中に光が差し込んでいる。あの日と同じように、光の中で小さな塵が動いていた。どれほど時間が経ったのかは分からない。やがて、背後から足音が聞こえた。ネトラは振り返った。シャルナークだった。彼はネトラを見つけると、少し驚いたような顔をした。それから、いつもの調子で笑った。何をしているのかと尋ねる。ネトラは答えようとしたが、声が出るまでに少し時間がかかった。

 

「……待ってた」

 

「俺を?」

 

ネトラは頷いた。

 

シャルナークは、ネトラの隣に腰を下ろした。彼がどこへ行っていたのか、何をしていたのかを簡単に話した。ネトラはその話を聞いていたが、すべてを理解していたわけではない。ただ、彼が戻ってきたことだけは分かった。

 

「探してた?」

 

シャルナークが尋ねた。

ネトラは少し考えた。

 

「……うん」

 

「どうして?」

 

その問いに、ネトラはすぐに答えられなかった。

どうして、という理由はなかった。シャルナークがいなかったから、探した。見つからなかったから、待っていた。それだけだった。けれど、それを言葉にするのは難しかった。

 

「……いなかったから」

 

「そっか」

 

シャルナークはそれ以上尋ねなかった。

 

ネトラは、彼の横顔を見た。シャルナークは何かを考えているようだったが、やがてネトラの方へ視線を向けた。目が合うと、彼はいつものように笑った。そのとき、ネトラは初めて、自分から誰かを探しに行ったのだと気づいた。今までは、誰かが自分を見つけてくれた。シャルナークがゴミ山で見つけ、サラサが遊びに誘い、マチが服を直し、彼らがネトラの居場所を作ってくれた。ネトラはその中にいて、彼らが近くにいることを覚えていった。

 

けれど、今は違う。シャルナークがいないことに気づき、彼を探した。彼が戻ってくるまで、ここにいた。それは、ネトラが初めて自分の意思で誰かの居場所を確かめようとした瞬間だった。ネトラは、そのことをシャルナークに伝えなかった。伝え方が分からなかったし、伝える必要があるのかも分からなかった。ただ、彼が隣にいることを確かめるように、少しだけ身体を寄せた。

 

シャルナークは、その動きに気づいていた。

 

彼は何も言わず、ネトラの肩に腕を回した。ネトラは一瞬だけ身体を硬くしたが、すぐに力を抜いた。彼の腕は、ネトラをどこかへ連れていくためのものではなかった。ただ、そこに置かれているだけだった。そのことが、ネトラには少しだけ心地よかった。

 

 

 

ネトラが「ぼく」という一人称を使うようになったのは、誰かに教えられたからではなかった。最初の頃、ネトラは自分のことを指すときにも、ほとんど言葉を使わなかった。何かを尋ねられれば、相手の顔を見て、必要なら頷く。違うと思えば首を横に振る。自分の名前を言うことはあっても、自分自身について話すことはなかった。

 

けれど、サラサと過ごすようになってから、少しずつ言葉を使う機会が増えた。

 

彼女はよくネトラに話しかけた。自分の好きなものや、今日見つけたもの、これからやってみたいこと。そういった話をするたびに、サラサはネトラにも同じことを尋ねた。ネトラが答えられなければ、自分の話を続ける。答えが返ってくれば、それを聞いて嬉しそうに笑う。その繰り返しの中で、ネトラは自分のことを話すという行為を覚えていった。

 

ある日のことだった。サラサが拾ってきた古い布を広げ、そこに落書きをしていた。何かの広告に使われていたらしい布で、色褪せてはいたが、裏側はまだ白い部分が残っていた。サラサはそこに、見たことのない生き物を描いていた。耳が長く、足が短く、身体のあちこちに丸い模様がついている。本人はそれをとても気に入っているらしく、描き終わるたびにネトラへ見せてきた。

 

ネトラは、何の生き物なのか分からなかった。

 

「これ、なに?」

 

小さく尋ねると、サラサは得意げに胸を張った。

 

「私が考えた生き物!」

 

ネトラは布の上の絵を見た。生き物という言葉は知っている。けれど、目の前の絵が実在しないものだということは、サラサの説明を聞くまで分からなかった。

 

「……いるの?」

 

「いないよ。私が考えたんだもん」

 

「そう、なの?」

 

「そうなの!」

 

サラサは楽しそうに笑った。ネトラは、もう一度絵を見た。耳の長い生き物は、サラサの頭の中にしかいない。けれど、彼女が描いたことで、今はこうして目の前にある。ネトラには、それが少し不思議だった。サラサは絵の隣に、自分の名前を書いた。文字は少し歪んでいたが、読めないほどではない。次に、ネトラの方へ布を差し出した。

 

「ネトラも描いてみる?」

 

ネトラは、筆記具を受け取った。何かを描くことはできる。与えられた知識の中に、文字を書くことや、簡単な図形を描くことは含まれていた。けれど、何を描けばいいのか分からなかった。サラサのように、頭の中にあるものを形にするという発想がなかった。

 

彼はしばらく筆先を見つめたあと、布の端に自分の名前を書いた。

 

ネトラ。

 

それは、今までに何度も見た文字だった。金持ちの屋敷でも、自分の持ち物を管理する書類に名前が書かれていた。けれど、今は自分で書いた。誰かに命じられたわけでも、書く必要があったわけでもない。

 

サラサは、文字を見て頷いた。

 

「上手!」

 

ネトラは、彼女の顔を見た。

 

「……これ?」

 

「うん。自分の名前、書けるんだね」

 

ネトラは、もう一度文字を見た。上手と言われた理由は分からない。文字を書くこと自体は難しくなかったし、間違えてもいない。けれど、サラサは褒めているらしい。

 

「……うん」

 

「ねえ、ネトラは自分のこと、なんて呼ぶの?」

 

質問の意味が分からず、ネトラは首を傾げた。

 

「名前じゃなくて、自分のことを言うとき。私なら『私』って言うでしょ?」

 

サラサは自分の胸に手を当てた。ネトラは彼女の動きを見て、質問の意味を考えた。

 

自分のことを指す言葉。それは、知識の中にあった。けれど、誰かと話すときに使ったことはほとんどない。金持ちの屋敷では、ネトラが自分のことを話す必要がなかったからだ。名前を呼ばれれば振り返り、指示されたことをすればよかった。自分のことを指す言葉など、使わなくても困らなかった。

 

「……ぼく?」

 

口にしてみると、少しだけ違和感があった。

サラサは、うん、と頷いた。

 

「ぼくって言うんだ?」

 

ネトラは、もう一度その言葉を繰り返した。

 

「ぼく」

 

自分のことを指す言葉。自分が何かをしたとき、自分が何かを思ったとき、自分がここにいることを伝えるための言葉。

ネトラは、その音をしばらく頭の中で転がしていた。

 

「じゃあ、ぼくはこっちに描く」

 

サラサがそう言って、布の別の場所に絵を描き始めた。ネトラは自分の名前の隣に、何を描こうかと考えた。結局、何も思い浮かばなかったので、彼はサラサの絵を見ていた。

その日から、ネトラは少しずつ「ぼく」を使うようになった。

 

「ぼくも、行く」

 

「ぼくは、こっちがいい」

 

「ぼく、わからない」

 

言葉を口にするたびに、声は小さく、時々途切れた。まだ発声に慣れていない喉は、長い言葉を続けるとすぐに疲れてしまう。声を張ろうとしても、息が先に漏れてしまうことがあった。それでも、ネトラは少しずつ、自分の言葉を増やしていった。シャルナークは、ネトラが「ぼく」と言うようになったことに気づいていた。彼は特に理由を尋ねなかった。サラサが教えたのだろうと思ったし、ネトラ自身がその言葉を選んだのなら、それでいいと思った。ただ、ネトラが自分のことを話すときには、以前よりも少しだけ表情が動くようになった。

 

「ぼく、これがいい」

 

そう言って、食べ物を選ぶことがある。サラサがどこかへ行こうと誘ったとき、行きたい場所を指差すこともある。誰かがネトラの持ち物に触れようとすれば、小さく首を振って、自分のものだと伝えることもあった。それは、ネトラが自分の意思を持っているということを、周囲に示すようになったということでもあった。彼らは、その変化を特別なこととして扱わなかった。ネトラが何かを選べば、それを尊重する。選べなければ、別のものを提案する。ネトラが嫌がればやめるし、望めば付き合う。そうしたことを、彼らは自然に繰り返していた。

 

ネトラは、彼らの中にいるとき、自分が何かをしなければならないという感覚が少しずつ薄れていくのを感じていた。何もしていなくても、そこにいていい。それは、ネトラにとって奇妙なことだった。金持ちの屋敷では、ネトラは飾られるためにそこにいた。美しい服を着て、姿勢を整え、男の目に入る場所にいる。何もしないことが許されていたのは、何もしないことを求められていたからだった。ネトラが自分の意思で動けば、男はそれを面白がるか、面倒に思うかのどちらかだった。

 

けれど、ここでは違う。

ネトラが何もしないで座っていても、誰かが隣に来ることがある。何かをしていれば、誰かが興味を持って覗き込むことがある。ネトラが自分から動けば、誰かがそれに合わせてくれることもある。そこには、決まった形がなかった。誰かが何かをするから、自分も同じことをしなければならないわけではない。誰かが笑ったからといって、必ず笑い返さなければならないわけでもない。相手の望む通りに動くことだけが、誰かと一緒にいる方法ではないらしい。ネトラは、それを少しずつ覚えていった。

 

ある日、サラサがネトラを連れて、いつもより遠くまで出かけた。

彼女は何かを探しているらしかった。いつものようにネトラの手を引き、瓦礫の間を抜け、古い建物の脇を通り過ぎる。途中で何度か立ち止まり、地面を覗き込んだり、積み上がった物の隙間を探ったりした。ネトラは何を探しているのか分からなかったが、彼女の邪魔にならないようについていった。しばらくして、サラサは小さな箱を見つけた。それは、壊れた木箱の中に紛れ込んでいた。蓋は外れ、角は潰れていたが、中にはまだ使えそうなものがいくつか入っている。サラサはその中から、色のついた小さな布を取り出した。赤や青、黄色の布が、いくつも重なっていた。誰かが何かを作るために集めたものだったのかもしれない。

 

サラサは、それを見つけたことをひどく喜んだ。

ネトラには、なぜそんなに嬉しいのか分からなかった。布ならほかにもある。もっと大きなものも、もっと丈夫なものも、探せば見つかるだろう。けれど、サラサは箱の中身を一つずつ取り出し、色を確かめては楽しそうに並べていた。

 

「これで何か作れるね」

 

彼女はそう言って、布をネトラの手に乗せた。

ネトラは赤い布を見た。柔らかく、少しだけ古い匂いがする。指で触れると、表面が滑らかだった。

 

「……何を作るの?」

 

「うーん。まだ決めてない!」

 

サラサは笑った。決めていないのに、作ることは決まっているらしい。ネトラはそのことを不思議に思ったが、サラサはもう別の布を広げていた。彼女は布を並べ、どの色を組み合わせるか考え始めた。ネトラはその隣に座り、彼女の手元を見ていた。

 

しばらくして、サラサはネトラの服を見た。

 

「ネトラの服、少し直そうか」

 

ネトラは自分の袖を見下ろした。以前マチに直してもらったところは、まだ使える。けれど、裾の一部はほつれたままだったし、胸元の飾りもいくつか取れていた。サラサは、拾ってきた布を使って、服に小さな飾りをつけようと考えたらしい。ネトラに似合いそうな色を選び、彼の服の上に当ててみる。赤い布を胸元に置き、次に青い布を袖に合わせ、最後に黄色を裾へ持っていった。

 

ネトラはじっとしていた。

 

サラサは、彼の服に布を当てながら、あれこれと考えている。やがて、彼女は赤い布を選び、それを小さく切って飾りにした。ネトラの服に縫いつけるには少し大きすぎたので、何度か折り返して形を整える。針を通すたびに、サラサは舌先を少しだけ出して、真剣な顔をしていた。

 

ネトラはその顔を見ていた。

 

サラサは、ネトラの服を綺麗にしようとしている。どうしてそうするのかは分からない。ネトラが着ている服は、もう十分に傷んでいる。直したところで、元のように戻るわけではない。けれど、彼女はその服を捨てることなく、何かを付け足そうとしている。

 

ネトラは、少しだけ首を傾げた。

 

「……サラサ」

 

「ん?」

 

「どうして、ぼくの服?」

 

サラサは手を止めた。

ネトラは、言葉を続ける。

 

「ぼくの服、もう汚いよ」

 

「うん。でも、まだ着られるでしょ?」

 

「……うん」

 

「だったら、可愛くしたらいいじゃん」

 

サラサはそう言って、再び針を動かした。

ネトラは、自分の服を見た。可愛くする。そういう考え方もあるらしい。綺麗なものを着るために、新しい服を用意するのではなく、今ある服に何かを付け足して、別の形にする。サラサはそれを楽しんでいるようだった。

 

「できた!」

 

やがて、サラサが顔を上げた。

 

ネトラの服には、小さな赤い飾りが縫いつけられていた。形は少し歪んでいたが、布の色が元の服によく馴染んでいる。サラサは満足そうに頷き、ネトラの胸元を指で軽く叩いた。

 

「似合ってる!」

 

ネトラは、飾りを見下ろした。

 

それから、サラサの顔を見た。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

サラサは、いつものように笑った。

 

ネトラは、その笑顔を見ながら、胸元の飾りに触れた。布は柔らかく、指先に小さな縫い目が当たる。自分の服に、自分のために作られたものがついている。誰かが自分のことを考えて、時間を使って、手を動かしてくれた。

 

そのことが、少しずつ分かってきた。

 

その日の帰り道、ネトラはサラサの手を握った。

 

彼から手を握ることは、それまでほとんどなかった。いつもサラサに引かれて歩いていたし、彼女が手を離せば、そのまま隣を歩いていた。けれど、その日は違った。ネトラは自分から手を伸ばし、サラサの指に触れた。

 

サラサは一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに握り返した。

 

ネトラは、彼女の手の温度を感じていた。

 

それが何を意味するのか、まだはっきりとは分からない。ただ、離したくないと思った。彼女がどこかへ行ってしまうのが嫌だということを、初めて自分の中に見つけたような気がした。

 

サラサは何も尋ねなかった。ネトラの手を握ったまま、いつもの調子で話し続けた。今日見つけた布のこと、次に作りたいもののこと、今度は誰を誘って遊ぶかということ。ネトラはその話を聞きながら、彼女の手を握っていた。

 

その日、ネトラは帰ってからも、何度か胸元の飾りに触れた。

 

それは、サラサが作ったものだった。

 

シャルナークは、ネトラがサラサと過ごす時間を増やしていることを知っていた。

 

二人が一緒にいることは珍しくない。サラサはもともと誰とでもよく遊ぶし、ネトラは彼女に誘われればついていく。けれど、最近はネトラの方からサラサを探すことも増えていた。サラサが別の場所にいると、ネトラはその姿を見つけるまで周囲を見回す。見つければ近くへ行き、彼女の隣に座る。サラサが何かをしていれば、それを眺めている。

 

シャルナークは、その様子を見て少しだけ安心していた。

 

ネトラが自分以外の人間とも関わるようになったことは、いい変化だと思う。最初の頃は、シャルナークがいなければどこにいればいいのか分からないようだった。彼の後ろを歩き、彼が立ち止まれば止まり、彼がいなくなると、その場で途方に暮れてしまう。今ではサラサを探すこともあるし、マチに服を直してもらうこともある。フェイタンの動きを真似して、時にはフィンクスやノブナガの言い合いを眺めていることもある。

 

少しずつ、居場所が増えている。

 

そう思っていた。

 

けれど、ネトラはシャルナークのそばから離れたわけではなかった。

 

彼は今でも、何か分からないことがあるとシャルナークのところへ来る。誰かに話しかけられて困ったときも、シャルナークの顔を見る。食べ物を選ぶとき、どこかへ行くとき、何かを受け取るとき。ネトラは少しずつ自分で決められるようになっていたが、それでも最後にシャルナークの顔を確かめることがあった。

 

シャルナークは、その視線に気づくと、なるべく普段通りに接した。

 

ネトラが自分を頼っていることを、特別に意識させたくはなかった。頼ることが悪いわけではないし、彼が自分のそばにいたいのなら、それでいい。ただ、ネトラが自分以外の誰かを頼ることもできるようになれば、もっと楽になるだろうと思っていた。

 

そのことを、シャルナークは仲間たちにも話した。

 

ネトラは、まだ知らないことが多い。人との接し方も、流星街で暮らす方法も、少しずつ覚えているところだ。だから、何かを教えるときには、できるだけ分かりやすくしてやってほしい。急に大きな声を出したり、返事を急かしたりしないでほしい。

 

フィンクスは面倒くさそうに顔をしかめたが、ネトラに対して以前ほど乱暴な言い方をしなくなった。ノブナガは、そもそもネトラに何かを教えることに抵抗がなかったらしく、食べ物の探し方や、危ない場所を見分ける方法を、時折大雑把に説明していた。フランクリンは、ネトラが困っているときに黙って手を貸すことがあった。パクノダは、ネトラの様子をよく見ていた。クロロは、必要なことだけを静かに伝えた。

 

彼らは、ネトラを特別扱いしているつもりはなかった。

 

ただ、そこにいる子供が知らないことを知っていれば教える。それだけのことだった。

 

ネトラは、そのことを知らなかった。

 

自分が何かを教えてもらうたびに、相手の顔を見て、どうしてそこまでしてくれるのかを考えた。けれど、答えは見つからなかった。彼らが自分をどう思っているのか、どうして自分に時間を使うのか。そうしたことを理解するには、ネトラにはまだ経験が足りなかった。

 

それでも、彼らの声を覚えた。

 

彼らの歩き方を覚えた。

 

彼らがどんなときに笑い、どんなときに怒り、どんなときに黙るのかを覚えた。

 

そうして、彼らが近くにいることが、少しずつ当たり前になっていった。

 

ある日、クロロがネトラに本を渡した。

 

それは古びた本だった。表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。何度も読まれたのか、ページの端には折り目がついていた。ネトラは本を受け取ると、表紙を見た。文字は読める。内容も、簡単なものであれば理解できるはずだった。

 

「読めるか?」

 

クロロが尋ねた。

 

ネトラは頷いた。

 

「……たぶん」

 

「なら、読んでみるといい」

 

ネトラは本を開いた。

 

そこには、知らない土地のことが書かれていた。遠くにある街、そこに住む人々、見たことのない植物や動物。ネトラは文字を追いながら、時折ページをめくる手を止めた。知識として与えられた情報とは違い、その本には誰かが実際に見たものや、感じたことが書かれているようだった。

 

彼は、しばらく本を読んだ。

 

クロロはその様子を見ていたが、特に口を挟まなかった。ネトラが一つのページに長く留まっていると、そこに描かれた絵を指で示した。ネトラはその絵を見て、文章を読み直した。

 

本の中には、海のことが書かれていた。

 

広く、どこまでも続いている水。陸地の端から先に広がり、遠くの景色を隠してしまうほど大きなもの。ネトラはその説明を読んで、少しだけ不思議に思った。水は知っている。飲むものでもあり、身体を洗うものでもある。けれど、地面の向こう側まで続いている水というものを、想像することは難しかった。

 

「……これ、ほんとうにあるの?」

 

ネトラが尋ねると、クロロは頷いた。

 

「ある」

 

「こんなに?」

 

「そうだ」

 

ネトラは、もう一度絵を見た。

 

そこに描かれた海は、あまりにも大きかった。どこからどこまでが水なのか分からない。ネトラは、その場所へ行ってみたいと思った。けれど、それができるのかどうかは分からなかった。ここからどれほど遠いのか、どうやって行けばいいのか、何を準備すればいいのか。知らないことばかりだった。

 

「行ってみたい?」

 

クロロが尋ねた。

 

ネトラは、少しだけ考えた。

 

「……うん」

 

「なら、いつか行けばいい」

 

それは簡単な言葉だった。

 

いつか行けばいい。

 

ネトラはその言葉を、すぐには理解できなかった。行きたいと思ったからといって、行けるわけではない。行くためには、いろいろなものが必要になる。時間も、場所も、手段も、知識も。けれど、クロロはそれらを説明することなく、ただ行けばいいと言った。

 

ネトラは、本を閉じた。

 

「……いつか?」

 

「ああ」

 

「いつかって、いつ?」

 

「それは、ネトラが決めればいい」

 

ネトラは、彼の顔を見た。

 

自分が決める。

 

その言葉は、最近になって少しずつ聞くようになったものだった。何を食べるか、どこへ行くか、誰と遊ぶか。自分で決めていいことがある。けれど、いつか行く場所まで自分で決めていいとは思っていなかった。

 

ネトラは、もう一度本を開いた。

 

海の絵を見つめる。

 

その日、彼は本を持って眠った。眠るときも、枕元に置いておいた。翌朝、起きてすぐに本を開き、同じページを探した。何度も同じ絵を見て、文章を読み返す。海がどんな場所なのか、少しでも理解しようとしていた。

 

シャルナークは、そんなネトラを見て笑った。

 

「気に入った?」

 

ネトラは頷いた。

 

「……うん」

 

「海、見てみたい?」

 

「うん」

 

「じゃあ、いつか一緒に行こうか」

 

ネトラは、すぐには返事をしなかった。

 

クロロは、いつか行けばいいと言った。シャルナークは、一緒に行こうと言った。

 

ネトラはその二つの言葉を、頭の中で繰り返した。

 

一緒に行く。

 

その言葉には、誰かと同じ場所へ向かうという意味がある。自分一人で行くのではなく、シャルナークと一緒に行く。そういうことなのだろう。

 

「……兄さんも?」

 

ネトラが尋ねると、シャルナークは少しだけ目を丸くした。

 

「俺も?」

 

ネトラは頷いた。

 

シャルナークは、すぐに笑った。

 

「うん。一緒に行こう」

 

ネトラは、その言葉を聞いて、本を胸元に抱えた。

 

そのときの彼は、まだ知らなかった。

 

海を見る日が来るのかどうかも、そのときまでシャルナークがそばにいるのかどうかも、分からなかった。ただ、いつか行く場所ができたことと、そこへ一緒に行く相手がいることを、少しだけ嬉しく思った。

 

それは、ネトラが初めて、自分の未来に何かを置いた瞬間だった。

 

ネトラがシャルナークを「兄さん」と呼んだのは、その少し後のことだった。

 

最初は、どう呼べばいいのか分からなかった。シャルナークは自分の名前を教えてくれたし、ネトラもそれを覚えていた。だから、彼を呼ぶときには名前を使えばいいのだと思っていた。実際、何度か「シャルナーク」と呼んだこともある。けれど、サラサが彼を呼ぶときの声と、自分が呼ぶときの声が、どうにも違うような気がしていた。

 

サラサは、シャルナークを呼ぶときに特別な言い方をしない。名前を呼び、何かを頼み、時には文句を言う。シャルナークもそれに応じ、二人はごく自然に会話を続ける。

 

ネトラも同じようにすればいいのだろうと思った。けれど、彼がシャルナークの名前を口にするときには、いつも少しだけ迷いがあった。名前を呼ぶことはできる。けれど、それだけでは足りないような気がする。自分でも理由は分からなかった。

 

ある日、ネトラはサラサと一緒に、年上の子供たちが話しているところへ行った。そこではシャルナークとクロロが何かを相談していた。サラサは二人のところへ近づくと、シャルナークに声をかけた。彼女はいつものように彼の名前を呼び、話の途中に割り込んで、自分が見つけたものについて話し始めた。

 

ネトラは、その様子を少し離れた場所から見ていた。

 

シャルナークはサラサの話を聞いていた。時々、相槌を打ち、何かを尋ね、彼女が話し終わるまで待っている。サラサは彼に遠慮することなく話し、彼もまた彼女を邪険に扱うことはなかった。

 

ネトラは、その二人を見ていた。

 

シャルナークは、サラサにとって近しい人間なのだろう。彼女は彼の名前を呼び、彼に何かを頼み、彼の隣に立つ。シャルナークもそれを自然に受け入れている。

 

では、自分はどうなのだろう。

 

ネトラは、シャルナークの隣にいることが多かった。彼の後ろを歩き、彼が戻ってくるのを待ち、分からないことがあれば尋ねる。彼がいなくなれば探すこともある。けれど、サラサと同じように名前を呼んでいいのかは分からなかった。

 

自分とシャルナークの間には、何か別のものがあるような気がした。

 

それが何なのかは分からない。

 

ネトラはしばらく考えたあと、シャルナークのところへ近づいた。サラサが話を終えて離れていく。クロロは別の仲間に呼ばれ、その場を離れた。シャルナークが一人になったところで、ネトラは彼の袖を引いた。

 

「ん? どうしたの?」

 

シャルナークが振り返る。

 

ネトラは、彼の顔を見た。

 

「……シャルナーク」

 

「なに?」

 

「……兄さん、って呼んでもいい?」

 

シャルナークは、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

 

ネトラは、その反応を見て不安になった。間違ったことを言ったのかもしれない。呼び方を変えることが、相手にとって嫌なことなのかもしれない。ネトラはすぐに言葉を続けようとしたが、何と言えばいいのか分からなかった。

 

シャルナークは、ネトラの顔を覗き込んだ。

 

「兄さん?」

 

ネトラは頷いた。

 

「うん。いいよ」

 

その返事を聞いて、ネトラは少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……兄さん」

 

小さく呼んでみる。

 

シャルナークは笑った。

 

「なに、ネトラ」

 

「……ううん」

 

呼んでみたかっただけだった。

 

シャルナークは、何も言わなかった。ただ、ネトラの頭を軽く撫でた。ネトラはその手を受け入れ、彼の顔を見上げた。

 

それから、ネトラはシャルナークを「兄さん」と呼ぶようになった。

 

彼にとって、それは名前とは違うものだった。シャルナークという人間を指す言葉ではなく、自分と彼の間にある関係を表す言葉。そういうものだと、少しずつ理解していった。

 

サラサは、ネトラがそう呼ぶようになったことに気づくと、面白そうに笑った。

 

「ネトラ、シャルナークのこと兄さんって呼ぶんだ?」

 

ネトラは頷いた。

 

「うん」

 

「じゃあ、私も兄さんって呼ぼうかな」

 

「……いいの?」

 

「いいんじゃない?」

 

サラサは笑ったが、結局、彼女は今まで通りシャルナークの名前を呼んでいた。ネトラはそれを見て、少し不思議に思った。自分がそう呼ぶことと、サラサがそう呼ぶことは、違うらしい。

 

けれど、それでよかった。

 

ネトラは、シャルナークを兄さんと呼ぶことができた。

 

それからしばらくして、ネトラは初めて、シャルナーク以外の誰かに自分から助けを求めた。

 

その日は、仲間たちがそれぞれ別の場所へ出かけていた。サラサは誰かと一緒に食べ物を探しに行き、フィンクスとノブナガは何かを取りに行っている。マチは少し離れたところで作業をしていて、シャルナークはクロロと一緒だった。

 

ネトラは、いつもの場所で一人、服のほつれを直していた。

 

マチに教えてもらった方法を思い出しながら、針に糸を通す。細かい作業は得意だった。身体の動きを正確に制御することには慣れていたし、目もよく見える。何度か失敗したものの、少しずつ形になっていった。

 

けれど、糸が途中で絡まってしまった。

 

ネトラは、針を持ったまま手元を見つめた。どうすればいいのか分からない。引っ張れば余計に絡まる気がするし、無理にほどこうとすれば糸が切れてしまいそうだった。

 

以前なら、ここでシャルナークを探していたと思う。

 

彼なら何とかしてくれるかもしれない。そう考えて、ネトラは顔を上げた。けれど、シャルナークはここにいない。彼がどこにいるのかは知っている。クロロと一緒にいるはずだった。

 

ネトラは、少し考えた。

 

近くにマチがいる。

 

彼女は針と糸の扱いに慣れているし、ネトラに教えてくれたこともある。尋ねれば、きっと教えてくれるだろう。けれど、話しかけていいのかどうか、少し迷った。マチは作業をしている。邪魔をしてはいけないかもしれない。

 

ネトラは、しばらく手元を見ていた。

 

糸は絡まったままだった。

 

やがて、ネトラは立ち上がった。針と布を持って、マチのところへ向かう。彼女は作業を続けていたが、ネトラが近づくと顔を上げた。

 

ネトラは、手元を差し出した。

 

「……マチ」

 

「なに」

 

「これ、わからない」

 

マチはネトラの手元を見た。絡まった糸を確かめると、少しだけ息を吐き、ネトラの隣を空けた。そこに座るように促す。ネトラは言われた通りに腰を下ろした。

 

マチは糸をほどき始めた。無理に引っ張らず、絡まっている部分を少しずつ緩めていく。ネトラは、その手の動きを見ていた。彼女はすぐに糸をほどき終えると、ネトラに針を返した。

 

「引っ張りすぎ」

 

ネトラは頷いた。

 

「……うん」

 

「次は気をつけな」

 

「うん」

 

マチはそれ以上何も言わず、作業に戻った。

 

ネトラは自分の場所へ戻り、もう一度針に糸を通した。今度は、絡まらないように気をつけた。マチに教えてもらった通り、糸を無理に引っ張らず、ゆっくりと動かす。

 

しばらくして、作業は終わった。

 

ネトラは、直した服を手に取って眺めた。まだ綺麗とは言えないが、以前よりはましになっている。彼はそれを畳み、胸元の赤い飾りを指で触った。

 

それから、マチの方を見た。

 

「……ありがとう」

 

マチは顔を上げずに、短く返事をした。

 

ネトラは、そのまま自分の場所へ戻った。

 

その日のことを、シャルナークには話さなかった。

 

話す必要がなかったからだ。自分で考え、マチに尋ね、教えてもらった。それだけのことだった。けれど、ネトラの中では、何かが少しだけ変わっていた。

 

誰かに助けてもらうことは、シャルナークに頼ることだけではない。

 

自分が困ったときに、誰に尋ねればいいのかを考えることができる。相手の様子を見て、話しかけてもいいかどうかを判断することができる。そういうことを、少しずつ覚えていた。

 

そして、マチに尋ねることができたという事実は、ネトラにとって小さな自信になった。

 

ある夜、ネトラは眠れなかった。

 

眠れない理由は、特になかった。身体に不調があるわけでも、周囲が騒がしいわけでもない。いつもと同じ場所で、いつもと同じように横になっていた。けれど、目を閉じても眠気が訪れなかった。

 

ネトラは、毛布の中で身体を丸めた。

 

周囲には、仲間たちの寝息がある。誰かが寝返りを打ち、布が擦れる音がする。遠くから風の音が聞こえた。流星街の夜は静かではない。どこかで人が動き、何かが崩れ、時折大きな声が響く。それでも、今いる場所は比較的落ち着いていた。

 

ネトラは、隣を見た。

 

シャルナークは眠っていた。身体を横にして、片腕を枕の下に入れている。いつもなら、ネトラが起きていても気づくことがある。けれど、今は眠っているらしい。

 

ネトラは、彼の顔を見ていた。

 

眠っているときのシャルナークは、起きているときよりも少し幼く見えた。普段はよく笑い、よく話し、周囲の様子を見ている。けれど、今は目を閉じて、何も考えていないようだった。

 

ネトラは、彼の顔を見つめた。

 

自分をゴミ山から連れ出した人。名前を尋ねてくれた人。食べ物を分けてくれた人。自分が何も分からなくても、怒らずに教えてくれた人。自分がいなくなれば探しに来てくれる人。

 

ネトラは、シャルナークのことをたくさん覚えていた。

 

彼がどんな声で名前を呼ぶのか。どんなときに笑うのか。何かを考えるときに、少しだけ視線を動かす癖があること。歩くときには周囲をよく見ていて、危険なものがあればすぐに気づくこと。誰かの話を聞くときには、相手の顔を見ていること。

 

そうしたことを、ネトラは一つずつ覚えていた。

 

そして、そのどれもが、今の自分にとって大切なものになっていた。

 

大切という言葉は知っている。なくしたくないもの。失えば困るもの。自分にとって価値があるもの。そういう意味だったはずだ。

 

ネトラは、シャルナークを失いたくないと思った。

 

それは、初めて抱いた感情に近かった。

 

サラサのことも好きだった。彼女が笑っていると嬉しいし、彼女がどこかへ行くときにはついていきたい。マチに服を直してもらえば嬉しいし、クロロが本をくれれば、それを何度も読み返したくなる。仲間たちが近くにいることは、以前よりもずっと心地よかった。

 

けれど、シャルナークは少し違った。

 

彼がいなければ、ネトラは今もゴミ山に座っていたかもしれない。誰かに連れ去られていたかもしれないし、どこかで動けなくなっていたかもしれない。生きていたのか、死んでいたのかも分からない。

 

彼が自分を見つけた。

 

そのことが、ネトラの中に残っていた。

 

ネトラは、毛布から手を出した。シャルナークの袖に触れる。起こさないように、指先でほんの少しだけ布地をつまんだ。

 

シャルナークは起きなかった。

 

ネトラは、そのまま袖を握っていた。

 

彼が目を覚ましたときに、怒るだろうか。勝手に触ってはいけなかっただろうか。そんなことを考えながらも、ネトラは手を離せなかった。

 

しばらくして、シャルナークが寝返りを打った。

 

ネトラは、慌てて手を離そうとした。けれど、シャルナークは目を開けると、すぐにネトラの方を向いた。眠そうな顔で、何をしているのかと尋ねる。

 

ネトラは、言葉を探した。

 

「……眠れない」

 

「そっか」

 

シャルナークは、まだ半分眠っているようだった。彼は身体を起こすと、ネトラの顔を見た。何か怖い夢でも見たのかと尋ねたが、ネトラは首を横に振った。

 

「何でもない?」

 

ネトラは頷いた。

 

「……うん」

 

「じゃあ、眠くなるまで起きてようか」

 

シャルナークはそう言って、ネトラの隣に座った。

 

ネトラは、彼の横顔を見た。シャルナークは眠そうに目を擦り、少しだけ欠伸をした。それから、何か話をしようとしたのか、今日あったことを思い出すように視線を上げた。

 

ネトラは、その声を聞いていた。

 

何を話していたのか、すべては覚えていない。けれど、シャルナークが隣にいて、自分に話しかけている。そのことだけで、少しずつ眠気が戻ってきた。

 

やがて、ネトラの瞼が重くなる。

 

シャルナークは、彼が眠ったことを確かめると、そっと毛布を掛け直した。ネトラの手は、まだ彼の袖を握っていた。シャルナークはそれを無理にほどくことなく、空いている方の手でネトラの頭を撫でた。

 

ネトラは、眠りながら少しだけ身体を寄せた。

 

その夜、彼は久しぶりに、何かを失うことを考えずに眠った。

 

ネトラが流星街で過ごすことに慣れてきた頃、彼は初めて、サラサ以外の子供と遊びたいと思った。

 

きっかけは、特別なことではなかった。

 

ノブナガとフィンクスが、何かを競い合っていたのだ。どちらが遠くまで物を投げられるか、という単純な遊びだった。彼らは交互に石を投げ、落ちた場所を確かめては言い合っていた。ネトラは少し離れたところから、その様子を見ていた。

 

サラサは別の場所にいた。マチも、クロロも、シャルナークもいない。ネトラは一人だった。

 

二人の遊びを見ているうちに、ネトラは自分もやってみたいと思った。

 

何が面白いのかは分からない。石を投げること自体なら、難しくないだろう。遠くへ飛ばすことに、どんな意味があるのかも分からない。けれど、二人は楽しそうだった。

 

ネトラは、足元に落ちていた小さな石を拾った。

 

それから、二人のところへ近づいた。

 

フィンクスが投げる順番を待っているところだった。ネトラが近づいてきたことに気づくと、ノブナガが彼を見た。

 

「どうした?」

 

ネトラは手の中の石を見せた。

 

「……ぼくも、やりたい」

 

二人は一瞬だけ顔を見合わせた。

 

ネトラが自分から遊びに加わろうとしたのは、初めてだったからだ。ノブナガは少しだけ笑い、石を投げる場所を指差した。フィンクスは、ネトラに順番を譲るように少し横へずれた。

 

ネトラは、石を握った。

 

投げ方は分からなかった。身体の使い方には自信があったが、どのくらい力を込めればいいのか、どの角度で投げれば遠くへ飛ぶのかは知らない。ネトラは二人の動きを思い出し、同じように腕を振った。

 

石は、思ったよりも遠くへ飛んだ。

 

地面に落ち、何度か跳ねて止まる。

 

ノブナガが、目を丸くした。

 

「おお、結構飛んだな!」

 

フィンクスも、石の落ちた場所を見て、少しだけ眉を上げた。

 

ネトラは、二人の顔を見た。

 

何か間違えたのだろうか。二人は驚いている。ネトラは、石を投げた手を見た。特別なことをしたつもりはなかった。

 

「もう一回やってみろよ」

 

ノブナガが言った。

 

ネトラは頷いた。

 

今度は、先ほどよりも少しだけ力を調整した。石は同じくらいの距離まで飛んだ。フィンクスがそれを見て、今度は自分の番だと言って石を拾う。

 

その後、三人で何度か石を投げた。

 

ネトラは、勝ち負けを気にしていなかった。遠くへ飛ばすことができれば、それでよかった。ノブナガが喜べば、ネトラも少しだけ嬉しかった。フィンクスが悔しそうにしていれば、どうしてそうなるのかを考えた。

 

何度目かの勝負で、ネトラの石が一番遠くまで飛んだ。

 

ノブナガは大きな声で笑い、フィンクスは納得がいかないという顔をした。ネトラは二人の間で、少しだけ首を傾げていた。

 

「ネトラ、お前強いな!」

 

ノブナガが肩を叩く。

 

ネトラは、その手を見た。

 

「……そう?」

 

「そうだよ!」

 

「じゃあ、ぼくの勝ち?」

 

「そうだな!」

 

ネトラは、少し考えた。

 

それから、口元を緩めた。

 

ほんのわずかな笑みだった。けれど、ノブナガはそれに気づいたらしい。彼はさらに大きな声で笑い、ネトラの頭を乱暴に撫でた。フィンクスは文句を言いながらも、次は負けないと宣言していた。

 

ネトラは、二人の間に立っていた。

 

そのとき、初めて思った。

 

遊ぶというのは、こういうことなのかもしれない。

 

誰かと同じことをして、勝ったり負けたりして、相手の顔を見て、笑ったり悔しがったりする。何かを手に入れるためでも、何かを命じられたからでもなく、ただその時間を過ごすために一緒にいる。

 

ネトラは、少しだけそれが分かったような気がした。

 

その日、シャルナークが戻ってきたとき、ネトラは自分から近づいていった。

 

「兄さん」

 

「ん?」

 

「今日、ノブナガとフィンクスと遊んだ」

 

シャルナークは、少しだけ目を丸くした。

 

「へえ。何して遊んだの?」

 

ネトラは、石を投げたことを話した。自分が一番遠くまで飛ばしたこと、ノブナガが褒めてくれたこと、フィンクスが悔しそうだったこと。言葉は途切れ途切れで、説明も上手くなかった。けれど、ネトラは自分から話そうとしていた。

 

シャルナークは、急かさずに聞いていた。

 

話が終わると、彼はネトラの頭を撫でた。

 

「楽しかった?」

 

ネトラは、少し考えた。

 

楽しかった、という言葉は知っている。嬉しいことや、面白いことがあったときに使う言葉だ。今日のことを思い出すと、胸の奥に何かが残っている。もう一度やってみたいと思うし、次はもっと遠くへ飛ばせるかもしれないとも思う。

 

「……うん。楽しかった」

 

ネトラがそう答えると、シャルナークは笑った。

 

「そっか。よかったね」

 

ネトラは、その笑顔を見た。

 

彼が喜んでいる理由は、まだ分からない。けれど、自分が楽しかったと伝えたら、シャルナークも嬉しそうにした。

 

そのことを、ネトラは覚えておこうと思った。

 

それから、ネトラは少しずつ、彼らの輪の中へ入っていくようになった。

 

最初は誰かに誘われなければ動かなかったのに、今では自分から近づいていくこともある。サラサが遊んでいれば隣に座り、ノブナガとフィンクスが何かを競っていれば、その様子を眺める。マチが作業をしていれば、近くで手元を見ていることもあった。クロロが本を読んでいれば、以前もらった本を持ってきて、隣で同じようにページをめくった。

 

彼らもまた、ネトラがそこにいることに慣れていった。

 

ネトラは相変わらず、知らないことが多かった。冗談を言われても意味が分からず、誰かが笑っている理由を理解できないこともある。会話の途中で話題が変わると、何について話していたのか分からなくなり、しばらく黙ってしまうこともあった。声は小さく、長い言葉を続けるのは苦手だった。何かを尋ねられても、答えが浮かぶまでに時間がかかる。

 

けれど、彼らはそれをネトラの一部として受け入れた。

 

ネトラが返事をするまで待つ。聞き取れなければ、もう一度尋ねる。何かを間違えたときには教える。そうしているうちに、ネトラは少しずつ、彼らの前で声を出すことに抵抗がなくなっていった。

 

それでも、声量はなかなか大きくならなかった。

 

誰かが遠くから呼んでいるとき、ネトラは同じように声を張って返事をしようとする。けれど、喉から出る音は小さく、相手まで届かないことが多かった。サラサはそんなネトラを見つけると、彼の近くまで来て、何度でも聞き返した。ネトラが同じ言葉を繰り返すたびに、彼女はちゃんと聞こえたよ、と笑った。

 

ある日、サラサがネトラの声を聞き取れず、何度も聞き返したことがあった。

 

ネトラは、少しずつ口を閉じていった。何度も同じ言葉を繰り返すことが恥ずかしかったわけではない。ただ、声を出すことに疲れてしまったのだ。喉が少し痛くなり、何を言おうとしていたのかも分からなくなる。

 

サラサは、ネトラの様子を見て、彼の顔を覗き込んだ。

 

「もう一回、言ってみて」

 

ネトラは首を横に振った。

 

「……もういい」

 

「そっか。じゃあ、後で教えてね」

 

サラサは、それ以上聞かなかった。

 

ネトラは少しだけ彼女を見つめた。言葉が伝わらなかったのに、彼女は怒らなかった。もう一度言うように命じることも、聞こえないことを責めることもなかった。ただ、後で教えてくれればいいと言った。

 

ネトラは、その日の夜になってから、サラサのところへ行った。

 

彼女は誰かと話していたが、ネトラに気づくと、すぐに顔を向けた。ネトラは彼女の隣に座り、昼間伝えられなかったことを、小さな声で話した。

 

サラサは、今度は聞き取れた。

 

「そうだったんだ!」

 

彼女は大きく頷いた。

 

ネトラは、ほっとしたように息を吐いた。言葉が伝わるというのは、思っていたよりも嬉しいことだった。相手が自分の言葉を理解してくれる。自分が何を考えているのか、少しでも伝わる。それは、何かを教えてもらうこととは違う、別の喜びだった。

 

サラサは、ネトラが話し終わると、彼の頭を撫でた。

 

ネトラは目を閉じた。

 

その手が離れるまで、彼はじっとしていた。

 

あるとき、ネトラは自分の誕生日を尋ねられた。

 

誰が尋ねたのかは覚えていない。食べ物を分けているときだったか、何かの話をしているときだったか。ともかく、誰かがネトラに誕生日を尋ねた。

 

ネトラは答えられなかった。

 

生まれた日を知らない。母親の顔すら覚えていない頃に売られたのだから、当然だった。培養ポットに入れられてからの日数は記録されていたかもしれないが、それが誕生日と呼べるものなのかは分からない。金持ちの屋敷にいた一年間も、ネトラが生まれた日を祝うようなことはなかった。

 

彼は、少し考えてから首を横に振った。

 

「……わからない」

 

尋ねた相手は、そうか、と頷いた。それ以上、深く聞くことはなかった。

 

けれど、サラサはその話を聞いて、少しだけ考え込んだ。

 

誕生日が分からないのなら、決めてしまえばいい。そんなことを言い出したのだ。ネトラには、その考え方がよく分からなかった。誕生日は、生まれた日を指す言葉のはずだ。生まれた日が分からないのに、どうして別の日を誕生日にできるのだろう。

 

サラサは、ネトラの疑問を聞いても、気にした様子はなかった。

 

「だって、ネトラがここに来た日があるでしょ?」

 

ネトラは考えた。

 

ここに来た日。シャルナークに見つけられた日。ゴミ山から連れ出された日。あの日がいつだったのか、正確には分からない。けれど、陽が傾き始めていたことは覚えている。シャルナークの腕に抱えられたことも、サラサが自分の服に触れたことも、名前を尋ねられたことも覚えていた。

 

「……あの日?」

 

「そう。あの日をネトラの誕生日にしたらいいんじゃない?」

 

ネトラは、すぐには返事をしなかった。

 

誕生日は、生まれた日だ。ネトラはあの日に生まれたわけではない。けれど、サラサはあの日を自分の誕生日にすればいいと言う。彼が生まれた日を知らないことは変わらない。それでも、ここに来た日を祝うことはできるのだろうか。

 

ネトラは、シャルナークを見た。

 

彼は少し離れた場所にいて、こちらの話を聞いていたらしい。目が合うと、彼は軽く頷いた。

 

「いいんじゃない? ネトラがそれでいいなら」

 

ネトラは、サラサを見た。

 

彼女は笑っていた。自分がここに来た日を、誕生日にしてもいいと言っている。そこに特別な理由があるわけではないのかもしれない。けれど、彼女はネトラのために、その日を覚えておこうとしてくれているようだった。

 

「……じゃあ」

 

ネトラは、少しだけ声を出した。

 

「ぼく、あの日がいい」

 

サラサは嬉しそうに笑った。

 

「決まり!」

 

それだけのことだった。

 

誰かが記録をつけたわけでも、特別なものを用意したわけでもない。ただ、ネトラがここへ来た日を、誕生日と呼ぶことにした。それからしばらくして、サラサは小さな食べ物を用意してくれた。ネトラのために何かを祝うということが、彼女にとっては楽しいことだったらしい。

 

ネトラは、目の前に置かれたものを見つめた。

 

自分のために用意されたものだった。

 

誰かが自分のことを覚えていてくれる。自分がここに来た日を、特別な日として扱ってくれる。ネトラは、それまで自分が生まれた日について考えたことがなかった。生まれたことを祝われた経験もなかった。自分がこの世に存在していることを、誰かが喜ぶということがあるのだと、考えたこともなかった。

 

けれど、サラサは笑っていた。

 

シャルナークも、ネトラの隣に座っていた。

 

ほかの仲間たちも、何かを食べながら、いつもより少しだけ賑やかに話していた。誰かがネトラの名前を呼び、誕生日だとからかう。ネトラはそのたびに、小さく頷いた。

 

その日、ネトラは何度も「ありがとう」と言った。

 

声は相変わらず小さかったけれど、今度は何度聞き返されても、もう一度言うことができた。

 

ネトラが初めて、自分から「ここにいたい」と伝えたのは、それから少し経った頃だった。

 

彼らと過ごす時間は、いつの間にか日常になっていた。朝になれば誰かが起き、食べ物を探し、戻ってきて、それぞれの時間を過ごす。ネトラもその中にいて、少しずつ自分の役割を見つけていた。まだできないことは多いが、以前のように何も分からず立ち尽くすことは少なくなった。

 

それでも、ネトラは自分がここにいていいのか、時折分からなくなることがあった。

 

彼らは、ネトラを仲間として扱ってくれている。食べ物を分け、寝床を用意し、必要なことを教えてくれる。けれど、ネトラがここにいる理由を、誰かが明確に説明したわけではなかった。シャルナークが拾ってきたから。サラサが気に入ったから。彼らが放っておけなかったから。理由はいくつも考えられるが、どれもネトラの中では確かなものにならなかった。

 

ネトラは、何度か尋ねようと思った。

 

けれど、どう尋ねればいいのか分からなかった。

 

自分はここにいてもいいのか。ここにいて、何かをしてもいいのか。いつまでここにいられるのか。そういうことを聞くのは、相手を困らせることなのだろうか。

 

金持ちの屋敷では、ネトラがそこにいる理由は明確だった。男が買ったから。男が気に入ったから。男が飽きるまで、そこに置かれていた。理由はネトラ自身の意思とは関係なく、男の都合によって決められていた。

 

流星街でも、同じなのかもしれない。

 

シャルナークが拾ったから、今ここにいる。シャルナークがいらないと思えば、ここからいなくなる。そういうことなのかもしれない。

 

ネトラは、その可能性を考えた。

 

そして、少しだけ嫌だと思った。

 

自分が何かを望むことに慣れていないネトラにとって、それは珍しい感覚だった。これまでは、生きることも死ぬことも、どちらでも構わなかった。誰かに連れていかれることも、捨てられることも、自分で決めることではなかった。けれど、今は違う。

 

ここにいたい。

 

そう思った。

 

サラサと遊びたい。マチに服を直してもらいたい。ノブナガとフィンクスの言い合いを眺めたい。クロロから借りた本を読みたい。フェイタンの動きを見ていたい。シャルナークの隣にいたい。

 

彼らがいる場所に、自分もいたい。

 

ネトラは、その気持ちをどうすればいいのか分からなかった。けれど、ここにいたいということだけは、はっきりしていた。

 

その日の夕方、ネトラはシャルナークを探した。

 

彼は仲間たちから少し離れた場所にいた。何かを整理しているようだったが、ネトラが近づくと手を止めた。ネトラは彼の前に立ち、しばらく顔を見つめた。

 

「どうしたの?」

 

シャルナークが尋ねる。

 

ネトラは、口を開いた。

 

けれど、すぐには声が出なかった。

 

何と言えばいいのか、頭の中で言葉を探す。ここにいたい。ここにいてもいいか。ここからいなくなりたくない。どれも少しずつ違うような気がした。自分の気持ちを正確に伝えるための言葉が、見つからなかった。

 

ネトラは、シャルナークの袖を握った。

 

「……ぼく」

 

シャルナークは、続きを待った。

 

「ぼく、ここにいてもいい?」

 

声は小さく、少し震えていた。

 

シャルナークは、すぐには答えなかった。ネトラの顔を見て、それから彼の手元を見た。袖を握る指先には、いつもより少し力が入っていた。

 

「いいよ」

 

彼は、あっさりと答えた。

 

「ここにいたいなら、いればいいよ」

 

ネトラは、その言葉を聞いた。

 

ここにいたいなら、いればいい。

 

それは、ネトラが初めて自分の意思でここにいることを選んだ瞬間だった。そして、その選択を誰かが認めてくれた瞬間でもあった。

 

ネトラは、シャルナークの顔を見た。

 

彼はいつものように笑っていた。特別な約束をしたわけでも、これから先のことを何もかも保証したわけでもない。ただ、ここにいたいならいればいいと言った。それだけだった。

 

けれど、ネトラには十分だった。

 

「……うん」

 

小さく頷く。

 

「ぼく、ここにいる」

 

シャルナークは、ネトラの頭を撫でた。

 

「うん」

 

ネトラは、彼の手に少しだけ頭を寄せた。

 

それから、二人は仲間たちのところへ戻った。

 

サラサはネトラを見ると、いつものように笑って手を振った。ノブナガが何かを言い、フィンクスがそれに言い返す。マチは少し離れたところで作業を続け、フェイタンは相変わらず周囲に関心がないような顔をしていた。クロロは本を閉じ、こちらへ視線を向けた。

 

誰も、ネトラがここにいることを不思議に思っていない。

 

誰も、彼がそこに立っていることを咎めない。

 

ネトラは、その光景を見た。

 

そして、シャルナークの隣に立った。

 

その場所は、以前から何度も立っていた場所だった。けれど、今は少しだけ違って見えた。誰かの後ろについていくために立っているのではない。誰かに置かれたから、そこにいるのでもない。

 

ネトラは、自分でここにいることを選んだ。

 

そのことを、彼は忘れないだろうと思った。

 

人は孤独に生きる。

 

産まれるときも、ただ母体の子宮から出されるだけで、死ぬときも、なんらかの原因で死ぬだけだ。

 

けれど、ネトラはそうは思わない。

 

彼は、自分が一人で生まれたことを知らない。自分を産んだ母親の顔も、声も、名前も知らない。培養ポットの中で過ごした時間がどれほど長かったのかも、正確には知らない。自分が誰の手によって作られ、何のために改造され、どうしてあの男に買われたのかも、知らないことばかりだった。

 

それでも、今は知っていることがある。

 

自分の名前を呼ぶ声がある。

 

自分の手を握ってくれる人がいる。

 

自分が何かを知らなければ、教えてくれる人がいる。自分がうまく話せなければ、聞こえるまで待ってくれる人がいる。自分が何をしたいのか分からなければ、一緒に考えてくれる人がいる。

 

ネトラは、そういうことを覚えた。

 

誰かと一緒にいることは、相手の望む通りに動くことではない。誰かに必要とされるために、何かをし続けることでもない。ただ隣にいて、同じ時間を過ごすこともできる。何も話さなくても、何もできなくても、そこにいていいことがある。

 

それを教えてくれたのは、シャルナークだった。

 

そして、サラサだった。

 

ほかの仲間たちも、少しずつネトラにそれを教えてくれた。

 

ネトラは、まだ人との関わり方をすべて理解したわけではない。相手の気持ちを読み違えることもあるし、言葉の意味が分からないこともある。自分の気持ちを伝えることは、今でも得意ではない。声は小さく、話すことにも時間がかかる。けれど、分からないことがあれば尋ねればいい。困ったときには助けを求めてもいい。自分がどうしたいのかを考えてもいい。

 

そういうことを、少しずつ覚えていけばいい。

 

ネトラは、そう思っていた。

 

いつか海を見に行く。

 

シャルナークと一緒に。

 

その約束を覚えている。

 

サラサからもらった石も、まだ持っている。マチが直してくれた服も、サラサが縫いつけてくれた赤い飾りも、今も大切にしている。クロロから借りた本は、何度も読み返した。ノブナガとフィンクスと遊んだ石投げのことも覚えている。フェイタンが足先を直してくれたことも、忘れていない。

 

そうした小さな出来事が、ネトラの中に積み重なっていった。

 

彼は、まだ自分が何を望んでいるのか、すべてを理解しているわけではない。

 

けれど、ここにいたいと思っている。

 

彼らと一緒にいたいと思っている。

 

それは、ネトラが初めて自分の中に見つけた、確かな願いだった。

 

だから、ネトラはきっと、孤独についてこう考えるのだろう。

 

永遠に孤独である人がいるとしたら、その人が特に、すこぶる運がないだけだ。

 

少なくとも、自分はそうではなかった。

 

自分は、ひどく運がよかった。

 

ゴミ山に捨てられていた自分を見つけてくれた人がいた。名前を尋ねてくれた人がいた。手を握ってくれた人がいた。自分のために、毛布を掛けてくれた人がいた。

 

そして、ここにいていいと言ってくれた人がいた。

 

ネトラは、そのことをまだ上手に説明できない。

 

ただ、彼らの声が聞こえると顔を上げる。名前を呼ばれれば振り返る。誰かが笑えば、その顔を見る。誰かが手を伸ばせば、少しだけ近づく。

 

その一つ一つが、ネトラにとっては新しいことだった。

 

いつか、もっとたくさんの言葉を話せるようになるかもしれない。誰かの冗談を理解して、同じように笑えるようになるかもしれない。自分から誰かを遊びに誘ったり、誰かのために何かを作ったりできるようになるかもしれない。

 

今はまだ、分からない。

 

けれど、分からないことを怖がる必要はないのだと、ネトラは少しずつ知り始めていた。

 

彼の隣には、シャルナークがいる。

 

少し離れたところには、サラサがいる。

 

そして、彼らの周りには、たくさんの声がある。

 

ネトラは、その声を聞きながら目を閉じた。

 

明日になれば、また誰かが名前を呼ぶだろう。

 

そのときは、今より少しだけ大きな声で返事をしてみようと思った。

 

「……うん」

 

練習するように、小さく呟く。

 

誰に聞かせるでもない声だった。

 

それでも、ネトラは自分の声を聞いていた。

 

それは、彼が自分の意思で発した言葉だった。誰かに命じられたからでも、何かを求められたからでもない。ただ、明日もここにいたいと思ったから、口にした言葉だった。

 

ネトラは、毛布を引き寄せた。

 

そのまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。




 のことを兄と呼んでいる理由とかチャッピーくんは履き違えてます
ネトラは のことを家族だと思いたいから兄と呼んでるんじゃなくて単純に のこと慕ってるからっていうかなんていうか。
ってかサラサはかくれんぼしてたとて探すの忘れるなんてことしないだろ。解釈違いです。チャッピー君最低!
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