流された呪術師、藍蘭島にて   作:9819

1 / 1
初めまして。本作品は呪術廻戦×流されて藍蘭島のクロスオーバーになります。
この二つを掛け合わせるとか誰得?なんて言うクレームを覚悟で投稿してます。最後まで楽しめたら幸いです。


プロローグ

 

プロローグ

 

 

あの新宿決戦から、半年が経った。俺、天内仁史は、呪術高専の3年生になっている。

あの日、俺は憂太と一緒に羂索のところへ向かって、傑さんの亡骸を取り返した。羂索を倒したその足で宿儺との決戦に合流して、宿儺の術式を相殺して、強制的に縮小した。その後で悠仁たちの攻撃に繋いだ事で呪いの王ーー両面宿儺は祓われた。その功績で、俺と悠仁は上層部から特級呪術師への昇格内定が正式に下りている。

けど、嬉しくはなかった。見せたかった人たちは、もう誰もいないから。

 

今は、九州に湧いた大規模な呪霊の群れを一人で祓い尽くした任務の帰り道だ。新幹線じゃなく、あえてのんびりフェリーに揺られて東京へ向かっている。

客室のデッキに出て、ベンチに腰掛ける。胸ポケットから、古びた、でも大事に仕舞ってきた一枚の写真を取り出した。

13年前の夏。呪術界の地獄をまだ何も知らなかった頃の、沖縄の青い海。そこで笑い合っている五人が写っている。

 

理子『ヒト君、こっち向いてー!』


俺を猫可愛がりしてくれた、ブラコンの姉ちゃん。天内理子。

 

黒井『坊ちゃん、日焼け止めを塗りましょうね』


本当の母親みたいに世話を焼いてくれた、黒井さん。

 

夏油『仁史君、あまり甘えるんじゃない。……ほら、アイス溶けるよ』


まだ優しくて、真っ直ぐだった頃の、傑さん。

 

五条『おい仁史ー、お前も傑の小言ばっか聞いてるとあんな前髪になっちゃうぞ!』


丸サングラスを指でちょっとずらして、生意気そうに笑っている、五条先生。

 

仁史「……みんな、いなくなっちまったな」

 

声に出すと、思ったより静かに響いた。

姉ちゃんと黒井さんは、俺の目の前で。傑さんは、2年前の百鬼夜行で。そして、俺に呪術の手ほどきをして、色んな武器の仕入れ資金まで個人的に出し続けてくれた「最強」の五条先生も、去年の宿儺との決戦で帰らぬ人になった。夜蛾学長も、七海さんも、もういない。

夜蛾学長の前で、泣きながら「傑さんは正しかったって、俺が証明する」と啖呵を切ったあの日から、13年。証明したかった相手は、もうどこにもいない。

あまりにも多くのものを失った戦後の日本は、どこか寂しかった。

指先で、写真の中の姉ちゃんの笑顔をそっとなぞる。まさにその瞬間だった。

 

ごぉっ!!!

 

前触れもなく、大気を引き裂くような突風がフェリーを襲った。完全に不意を突かれた。

 

仁史「しまっ――」

 

手の中から、大切な写真がふわりと離れる。五人の笑顔が、激しい風に乗って、海のほうへ飛ばされていった。

 

仁史「待っ……!」

 

考えるより先に、体が動いていた。ベンチを蹴って手すりに足をかけ、指先が写真の端をかすめる。届かない。もう一歩、と身を乗り出した瞬間、船が大きく傾いた。

足が、宙を踏んだ。

視界がぐるりと回って、次の瞬間、全身を殴りつけるような衝撃が来た。冷たい。しょっぱい。口にも鼻にも水が流れ込んで、上下の感覚が消える。

 

仁史(落ちた……船から、落ちた!?)

 

荒れ狂う波に揉まれて、一瞬、頭が真っ白になった。呪霊なら何百体でも祓ってきた。けど、大しけの海のど真ん中は、完全に専門外だった。息ができない。腕も脚も、どっちへ動かせばいいのか分からない。

その時、視界の端で、白いものがひらりと揺れた。

 

仁史(……写真)

 

その瞬間、パニックが引いた。

姉ちゃんと、黒井さんと、傑さんと、五条先生。あれが、俺に残された五人の笑顔の、最後の一枚だ。

 

仁史(あれだけは、絶対に失くさない)

 

波に逆らって腕を伸ばし、荒れた水面を必死に掻く。うねりに持ち上げられるたびに視線を走らせ、白い小さな影を追った。見えては消え、消えては見える。頭の中で、ただ「届け、届け」とだけ繰り返していた。

何度目かの波の頂で、指先が、濡れた紙の端に触れた。

 

仁史「……っ、取った!」

 

掴んだ写真を胸に抱え込む。ぐしゃぐしゃに濡れているのに、五人はまだ笑っていた。

それで、気が緩んだんだと思う。

ごごごご、と、背後で海が唸った。振り返ると、壁みたいな大波が、空を覆うほどの高さでそびえていた。

 

仁史「……あ」

 

逃げる間もなかった。

波に呑まれる。体が水の中で何度も回転して、どこが海面かも分からない。肺の空気がじりじり削られていく。腕の中の写真だけは離さなかった。

 

仁史(ここで、死ぬのか?………嫌だ)

 

意識が遠のきかけた頭の中に、顔が浮かんでは消えた。

憂太。真希。パンダ。棘。教室で笑っていた、高専の同級生。

悠仁。恵。野薔薇。やんちゃだけど頼りになる後輩。

夜蛾学長。七海さん。傑さん。五条先生。

そして、姉ちゃん。黒井さん。

 

仁史(まだ、何も終わってない。生き残った意味も、見つけてない……)

 

守りたかった人たちは、もう半分以上いない。それでも、残った皆がいる。傑さんの亡骸を弔って、五条先生の隣に眠らせて、それで終わりのつもりでいた。けれど、胸の奥にはまだ、言葉にならない何かが居座っている。それが何なのかを確かめる前に、こんなところで終われない。

 

仁史(姉ちゃん、黒井さん……皆んな。……俺は)

 

冷たさの底で、音が遠ざかっていく。写真を握った指の感覚も、少しずつ薄れていった。

 

Side???

お日さまがじりじり照りつける浜辺を、あたしはとんかつと一緒に歩いていた。手には釣竿。隣では、豚をぎゅっとデフォルメしたみたいなとんかつが、ぷぷっと機嫌よくついてくる。

手ごろな岩場を見つけて、あたしは竿をぎゅっと握った。

 

すず「せーの、それ!」

 

勢いよく竿を振って、釣り針を遠くの海へ放り込む。ぽちゃん、と沈んでいく音が気持ちいい。

 

すず「待っててねー、とんかつ。今おいしいごちそう釣ったげるね」

 

とんかつ「ぷ」

 

返事をするみたいに鳴いてくれたのが嬉しくて、あたしはにっこりした。

 

すず「昨夜は嵐だったからね、きっとすっごいのが……」

 

話しかけている途中で、手元の竿がぐんっと引かれた。

 

すず「やった!!さっそく当たり!!」

 

力いっぱい竿を引くと、水しぶきをあげて、獲物が水面に顔を出す。

 

……あれ?

 

魚じゃない。溺れて気絶している、人みたいな何か。見たことのない、変わった生き物だった。あたしたちとは、体つきも顔つきも、ぜんぜん違う。

 

すず「え!? わっわっ、大変っ! 人が釣れちゃったよ~! どどど~しよ~!」

 

こんなこと初めてで、あたしは頭が真っ白になって、竿を持ったままあたふたした。

 

とんかつ「ぷー」

 

とんかつは、のんびり座ったまま、のほほんとこっちを眺めているだけだった。

あたしは、釣り上げた人の胸を両手でぐっ、ぐっと押した。

 

すず「死んじゃだめだよー! お水、はいてー!」

 

押すたびに口からぴゅっと水が出るけど、目は開かない。

 

すず「あれ……? えっと、確かこの次は……」

 

教わったことを必死に思い出す。足元では、とんかつが「ぷ」と鳴きながら、

のんびりこっちを眺めている。

その時、その人の指が、ぴくりと動いた。

 

仁史「……ん……」

 

すず「あっ!」

 

ゆっくり開いた目が、ぼんやりあたしを映す。

 

仁史「……確か、俺は……大波に呑まれて……。ああ……どうやら助かっ……」

 

そこで、あたしの頭に「次の手順」がぱっと浮かんだ。

 

すず「そうだ、人工呼吸! ちゃんと教わった通りにやらなきゃ!」

 

仁史「……え?」 

 

あたしは思いきり息を吸い込んで、その人の口に、ぴたっと唇を重ねて、ぷうーっと吹き込んだ。

 

仁史「む、むぐっ!?」

 

ぷくーっ!

 

体が、風船みたいにぱんぱんに膨らんだ。

 

仁史「んんんんーっ!?」

 

ぼふんっ!

吹き込みすぎた息に押されて、仁史は砂浜の上をころころ転がり、ぽーんと宙に吹き飛んだ。

 

すず「あれ? これも違った~?」

 

あたしは首をかしげた。とんかつが「ぷー」と鳴いた。

 

宙を舞いながら、仁史は、遠のく意識の中で思った。

 

仁史(……ごめん姉ちゃん……。俺、今からそっちに行くよ)

 

◆◆◆

 

オババの家

 

どれくらい眠っていたのか。胸の上に妙な重みを感じて、俺は目を覚ました。

 

仁史「……胸が重い。金縛りか?」

 

目を開けると、仰向けの俺の胸の上に、豚をぎゅっと丸めたみたいな生き物が座り込んでいた。

 

とんかつ「ぷー」

 

まるで「起きた?」と聞いているみたいな鳴き声だった。

 

仁史「豚?……」

 

つぶらな瞳と、ぴくぴく動く鼻。どう見ても豚だ。ただ、豚にしては小さすぎるし、何より顔がやけに間の抜けている。

 

仁史(……いや、豚じゃないな。ぬいぐるみ? にしては温かいし、動いてる)

 

反射で呪力を探る。何も感じない。呪霊でも、式神でもない。

 

仁史「……なんだこりゃ」

 

呆然としていると、横から声がした。

 

すず「よかったー、気がついたんだ!」

 

見ると、浜辺で会った女の子がそこにいた。

少女の名前は、すずというらしい。長い髪をポニーテールにした、活発そうな女の子だ。

俺が運び込まれたのは、すずの住む村にある、長老の家だった。村の人たちは長老のことを「オババ」と呼んでいる。

その家主のオババにご飯をごちそうになりながら、俺はいろいろと話を聞いた。どうやら俺は、溺れているところをすずに助けられたらしい。

 

仁史「そっか、君が助けてくれたのか。ありがとう、すず」

 

すず「あー、えっと……うにゃ。大したことしてないよ? ほんと」

 

頭を下げると、すずはなぜか目を泳がせて、困ったような顔をした。両手の指をもじもじと合わせて、視線をそらしている。

 

仁史(……ん?)

 

命の恩人なのに、胸を張るでもなく、照れて喜ぶでもない。どこか後ろめたそうな、妙な反応だった。

 

仁史(どうしたんだろう。何か、気にさわること言ったかな)

 

オババ「助けたのはいいが、とどめを刺したのもすずなんだがね」

 

すず「うにゃ!? ちょ、お婆ー!?」

 

オババにあっさり暴露されて、すずが真っ赤になってうろたえている。

 

仁史(ああ、あの吹き飛ばされたやつのことか……)

 

人工呼吸の失敗のことを言っているのだろう。こうして助かったんだから、気にしなくてもいいのに。

 

すず「あ、あー! それよりも、仁史さんもすごいね!? 五日間も漂流してたんでしょ?」

 

仁史「ああ。仕事柄、飲まず食わずには慣れてるけど、さすがに五日間はしんどかったな」

 

仁史(……まあ、『大黒天』に仕舞ってある食べ物をつまめれば別だったけど、海の上であれを取り出す余裕はなかったしな)

 

まったく、我ながらよく生きていたものだ。

 

仁史「まあ、流れ着いたのが日本だったのが、不幸中の幸いか……」

 

本当によかった。これが北のあの国とか、まずい場所だったら、えらいことになっていたかもしれない。

 

すず「へ? ここ日本じゃないよ?」

 

仁史「え、違うの?」

 

すず「うん。住んでるのは日本人だけど、この島がどこかは、あたしたちにも分かんないよ」

 

仁史「……どういうことだ?」

 

すずとオババの話を聞くと、彼女たちも、もとは漂流者だったらしい。

今から130年前、日本が開国したあとのこと。最新の技術や医療を学びにヨーロッパへ渡った一隻の船が、帰りの航海で嵐に遭い、沈没した。乗っていた人たちは、目の前にあった無人島に流れ着き、島の環境が暮らしに適していたことから、そのまま住み着いたという。

船の名前をとって、島は「藍蘭島」と名づけられた。

ちなみにオババは、当時その船に乗っていたそうだ。

 

仁史(……いったいいくつなんだよ、この婆さん。日本の公式の最長寿の人より年上なんじゃないか?)

 

呪術師の目で見ても、不思議な人だった。呪力はないのに、妙に底が知れない。

彼らは、それきり外の世界と一切接触していないらしい。つまり、この島の文明は、明治のころから止まっているのだ。

 

仁史(待て。それはつまり……)

 

定期船もない。電話などの連絡手段もない。誰かが迎えに来る当てもない。

このままでは、日本に帰れない。

 

仁史「待て。待て待て待て!冗談じゃねぇ!!」

 

頭の中を、必要なものが次々に流れていく。

もともと、九州の任務を終えて東京へ戻るだけの、数日の帰り道のはずだった。これ以上行方不明になれば、高専は大騒ぎになる。

それに、特級への昇格内定の話もある。見せたい人はもういないけど、投げ出していい話でもない。

 

仁史(それに……あいつらに、これ以上心配はかけられない)

 

オババ「まぁ、運命と思ってあきらめるんじゃな」

 

すず「こ、この島もいいとこだよ?」

 

仁史「いや、そう言われても……」

 

なんとか船で戻れないだろうか。もともと本州へ向かう途中だったのだ。方角さえ分かれば、あとは術式で船を大きくするなり、速度を上げるなりすれば、突破口はあるかもしれない。

 

◆◆◆

 

海岸

 

波の音が、朝の浜辺に静かに響いていた。

砂浜には、島の人が貸してくれた小さな舟が引き上げられている。その横で、俺は積み込まれていく食料の包みを見ていた。

 

仁史「悪いな。舟だけじゃなくて、食料まで貰って」

 

すず「いいのいいの。困ったときはお互いさまだよ」

 

仁史(……『大黒天』の中には、まだまだ食糧のストックがある。けど、こういうのは多いに越したことはないしな)

 

好意はありがたく受け取って、包みを舟に積んだ。

すずは、少し離れたところから、心配そうにこっちを見ていた。

 

すず「ねえ……本当に、島から出るつもり?」

 

仁史は、舟の縁に手をかけて、少しだけ笑った。

 

仁史「無茶かもしれない。でも、俺には、俺の帰りを待ってくれてる人達がいるからさ」

 

すず「……仁史さん」

 

仁史「世話になったな、すず。ありがとう」

 

舟を押し出して、飛び乗る。櫂を握ると、舟はゆっくりと波間へ滑り出した。

浜では、オババが腕を組んで立っていた。

 

オババ「いいから。好きにさせておけ」

 

すず「でも、オババ……!」

 

オババ「彼奴の目を見たじゃろ。止めても聞かんよ」

 

すずは、何か言いかけて、ぎゅっと唇を結んだ。遠ざかる舟の背中を、心配そうな顔で、ただ見つめている。

とんかつが、足元で「ぷ」と小さく鳴いた。

舟は、島の影を背に、ゆっくりと沖へ進んでいた。

櫂を漕ぐ手を止めて、水平線を見渡す。空は晴れていて、風も穏やかだ。

 

仁史「……思ったより、順調だな」

 

そう呟いた直後だった。

ごごごご、と、舟の底から低い唸りが這い上がってきた。

 

仁史「ん? なんだ、また大波か?」

 

振り向いた先で、海が、ぐにゃりと歪んでいた。水面が円を描いて回り始める。巻き込む水の流れが、見る間に速さを増していく。あっという間に、舟の周りは巨大な渦の縁になった。

仁史「大渦……!?」

 

舟がぐるりと傾き、渦の内側へ引きずり込まれていく。

 

仁史「うわあああああっ!? ちょ、待て待て待て待て!!」

 

櫂を握った両手が空を切り、舟底にしがみつく。ぐるぐると回る視界の中で、水の壁がせり上がってくる。

 

仁史「ゲッ、これ本気でヤバいやつ……!!」

 

次の瞬間、舟は渦に弾き飛ばされた。

 

ざぱぁぁぁん!

 

空と海が何度も入れ替わって、体が宙に放り出される。気づけば俺は、ずぶ濡れのまま、砂浜に大の字で転がっていた。

 

仁史「…………」

 

隣には、半分砂に埋まった舟が、ぷかりと波に揺れている。

 

仁史「……戻って、きた?」

 

見覚えのある浜だった。さっき旅立ったはずの場所だ。

そこへ、すずとオババが歩いてくる。

 

すず「仁史さーん! 大丈夫ー!?」

 

オババ「言わんこっちゃない。この島の周りは激流の渦に囲まれておる。外から入ることは、ごくまれにあっても、出ることだけは誰にもできんのじゃ」

 

仁史「それ、先に言えよ!?」

 

砂まみれのまま跳ね起きて、俺は思わず叫んだ。

 

オババ「口で言うより、身をもって体験したほうがよう分かるじゃろ」

 

すず「あ、あはは……」

 

すずが気まずそうに目をそらす。とんかつだけが「ぷー」と、相変わらずのんびり鳴いた。

 

オババ「分かったじゃろ? 自力でこの島から出るのは、絶対に無理なんじゃよ」

 

その瞬間ーー俺は、濡れた砂を握りしめて、黙り込んだ。

普通なら、ここで諦めるのかもしれない。理屈で考えても、渦の壁は舟でどうにかなる規模じゃなかった。

 

仁史(……それでも)

 

胸の奥で、あの日の声がよみがえる。

 

夜蛾『茨の道を歩くために呪術師になる、か。無謀なことには変わらんぞ!』

 

五歳の俺は、泣きながら啖呵を切った。それを、あの人は笑わずに聞いて、最後にこう言ってくれた。

 

夜蛾『いいだろう! そこまで言うなら証明してみせろ!』

 

無謀だと分かっていて、それでも、道を閉ざさずにいてくれた人の声だった。

そして、もう一つ。

百鬼夜行の夜、瀕死だった傑さんが、最期に残した言葉だ。

 

夏油『君が言う弱者という名の猿は、その弱さを盾に、私達術師を間引き、蔑み、使い潰す……それがこの世界の真理だ。君が弱者生存を掲げる限り、君は自らの大義を見失い……いずれ、私のようになる』

 

傑さんの声は、静かで、ひどく優しかった。だからこそ、ずっと胸に刺さって抜けない。

ここで「無理だ」と諦めて、立ち止まって、何もしないまま沈んでいくこと。それこそが、傑さんが言った「自らの大義を見失う」ことの、入り口なんだと思う。

 

仁史(……証明するんだ!! 傑さんがかつて掲げたものは、間違ってなかったって!!)

 

俺は、ゆっくりと立ち上がった。

 

仁史「……悪いな、婆さん。すず」

 

濡れた髪をかき上げて、海のほうを睨む。

 

仁史「俺は、まだ諦めない」

 

◆◆◆

 

俺は、すずとオババのほうへ振り返った。

 

仁史「ちょっと、試したいことがあるんだ」

 

すず「試したいこと? また舟で行くの?」

 

仁史「ああ。ただし、今度は海の上は通らない」

 

俺は舟の縁に手を当てた。次の瞬間、舟がしゅるん、と縮み、見る間に小さくなって、ふっと消えた。

 

すず「うにゃ!? 舟が、消えた!?」

 

仁史「消えたわけじゃあ……まぁいいか」

 

すずは目を丸くして、俺の手と何もない空中を、交互に見比べた。

そう。これが俺の術式、階梯呪法――自分の体と、生物以外の「大きさ」と「速度」を操る力だ。大きくするのも速くするのも百倍までが限界だけど、小さくするほうだけは際限がない。小さくした物は、時の止まったどこかの空間に保管されてる。舟は今、肉眼では見えないほど小さくなって、別の空間に保管されてる。

俺は足元の砂を蹴って、ぐっと身を沈めた。呪力を脚に込め、一気に地面を蹴る。

 

仁史「よっ!」

 

体が、ぐんっと空へ跳ね上がった。浜が、島が、みるみる小さくなっていく。

 

すず「飛んだーっ!?」

 

高く、高く。渦の上空に差しかかったあたりで、俺は、仕舞っていた舟を元の大きさに戻した。

 

ぼんっ。

 

宙に現れた舟の上に、俺は着地する。その瞬間から、舟は落下を始めた。

 

仁史(時間はない。次だ)

 

手を前に差し出すと、指先の空間に、ぽつりと小さな点が現れた。

砂粒ほどのそれが、俺の手に触れる瞬間、ぱんっ、と空気を弾いて本来の大きさに戻る。風圧が前髪を揺らした。手の中に、ずしりと収まったのは、ごく普通の団扇だった。

 

仁史(……相変わらず、変な感覚だ)

 

何年も仕舞ってあったはずなのに、柄には埃ひとつなく、竹の骨は切り出したばかりのように白い。時の止まった空間に眠っていたぶん、取り出した瞬間のそれは、仕舞った日のままだった。

ただし、持った手のひらには、じわりと熱が伝わってくる。長い時間をかけて染み込んだ、俺自身の呪力だ。

 

仁史(いつ仕舞ったのか、覚えてないけど。呪力は、たっぷり染みてるはずだ)

 

団扇を拡大する。大人の背丈ほどの巨大団扇を、渾身の力で、ぶんっと仰いだ。

 

ごおおおっ!!

 

呪力を帯びた突風が舟を押し出し、舟は空中を滑るように前へ進む。

大黒天。階梯呪法で小さくした物を仕舞っておく、時の止まった空間のことだ。中では時間が流れず、物は劣化も腐敗もしない。そして、大黒天の最大の特徴。それはーー仕舞っている物は少しずつ呪力を帯び染み込んでいく。だから、石でも瓦礫でも団扇でも、長く保管した分強い呪力を帯び。つまり、保管した物が呪具になる。それが大黒天の最大の強みだ。使い終えた物は、小さくして回収すれば、また使える。壊れない限りは、何度でも。

 

仁史「まだまだ、いくぞ!」

 

もう一度、渾身の力で仰ぐ。突風に押された舟は、渦の真上を、滑るように越えていく。

 

浜では、すずが口をぽかんと開けたまま、空を行く舟を見上げていた。

さっきまで目の前にあった舟が、消えた。かと思えば、遠い空の上に現れて、見たこともない大きさの団扇で風を起こしている。あたしの頭では、何が起きているのか、まるで追いつかない。

 

すず「うにゃ……。⁉︎ ねえオババ、あの人、どこからさっきの舟を消したり出したりしてるの!?」

 

オババは、答えなかった。腕を組んだまま、空を行く小さな影を、じっと見据えている。

 

オババ「……まさか。あの坊主……」

 

いつもの飄々とした声ではなかった。皺の刻まれた目が、わずかに見開かれている。

 

すず「オババ? どうしたの?」

 

オババ「……いや。何でもない」

 

オババは、ゆっくり首を振った。だがその視線は、舟が渦の上を越えていくまで、一瞬も仁史から離れなかった。

 

◆◆◆

 

渦の上空を越えた舟が、海面へ向かって落ちていく。

 

仁史(越えた……!)

 

団扇を縮めて仕舞い、舟の縁を掴んで衝撃に備える。眼下に広がる海は、渦の外側だった。穏やかな青が、水平線まで続いている。

 

ざぱんっ!

 

舟は水しぶきを上げて着水した。船体が大きく揺れて、すぐに静まる。

 

仁史「……やった。出られた……!」

 

肩の力が抜けた、その時だった。

ぐんっ、と舟が下へ引かれた。

 

仁史「え?」

 

波も風もないのに、舟の底を、何かが掴んで引きずり込んでいく。見えない手に足首を掴まれたような、嫌な感覚。

 

仁史「ちょっ、待て、何が……!?」

 

術式で舟を縮める暇もなかった。船縁が水面に沈み、冷たい海水が一気に頭まで呑み込む。

舟と一緒に、体がずぶずぶと沈んでいく。耳の奥で水がごうごうと鳴った。

 

仁史(引っ張られてる……!? 呪霊か? いや、呪力は感じない……)

 

もがきながら、俺は薄く目を開けた。

青暗い水の底の、さらにその下。

何かが、ゆっくりと動いた。

巨大な影だった。舟どころか、島の浜ほどもありそうな、長く黒い輪郭が、水の向こうでうねっている。目なのか鱗なのか、淡い光が、二つ、ぎらりと瞬いた。

 

仁史(……なんだ、あれ……)

 

息が続かない。視界が、ぐにゃりと歪む。

影は、逃がさないとでも言うように、ゆっくりとこちらへ首をもたげた。

その時、水の底から、低く重い響きが伝わってきた。

 

???「モドレ……」

 

声なのか、水の唸りなのか、判別がつかない。頭の奥に直接触れてくるような、古い響きだった。

 

仁史(……今、何か言ったのか……?)

 

???「汝ノ務メ……マダ果タサレテオラズ……」

 

仁史(何を言ってる……? 務め……? 俺に、何の……)

 

意味が、まるで掴めなかった。言葉は聞こえているのに、その中身だけが、水に溶けるように手の中をすり抜けていく。

 

???「今シバラクコノ島ニ留マレ」

 

その言葉を最後に、海が、動いた。

 

ごおおおおっ!!

 

四方八方から水流が押し寄せる。舟も、体も、抗う暇すら与えられないまま、巨大な流れに呑み込まれていった。

 

仁史(待っ……!)

 

ぐるぐると回る視界の中で、あの淡い二つの光だけが、最後まで静かに、こちらを見ていた。

 

◆◆◆

 

どれくらい、気を失っていたのだろう。

ゆらり、ゆらり、と体が揺れている。波の音に混じって、潮の匂いがした。

 

仁史「……ん……」

 

ゆっくり目を開けると、橙色に染まった空が広がっていた。夕焼けだ。

 

すず「あっ、気がついた!」

 

すぐ近くで、聞き覚えのある声がした。見ると、すずが心配そうな顔で、俺を覗き込んでいる。

 

仁史「……すず?」

 

あれ? 俺……術式で渦を越えて、着水して……そのあと、海に沈んで……。

 

仁史「ここは……?」

 

体を起こそうとして、気づいた。俺が寝ていたのは、舟の上ではない。ぬるりとした、やわらかく丸い、何かの背中の上だった。

 

仁史「……え?」

 

その時、足元から、低くのんびりした声が響いた。

 

さしみ「ぷおー」

 

仁史「…………でっかいシャチ?」

 

すず「うん! さしみが、仁史さんを助けてくれたんだよ!」

 

仁史「さしみ……?」

 

すず「この子の名前! この島の海の主なんだよ」

 

仁史(海の、主……)

 

足元の丸い背中は、のんびりと波を割って進んでいる。どう見ても、あの海の底の影とは違う気がした。

 

すず「でも、でも、溺れる程度で済んで良かったよ。危うく大変な事になってたんだからね!」

 

すずが、ぷくっと頬をふくらませて、俺を見下ろしていた。怒っているというより、心配が顔に出てしまって、それを隠せずにいる顔だ。

 

仁史「ご、ごめん……。大変な事?」

 

すず「そうだよ! ……見ててね」

 

すずがさしみの背中をぽんと叩くと、さしみは「ぷおー」と鳴いて、ゆっくり向きを変えた。

さっきまで俺が乗っていた舟が、波間にぷかりと浮かんでいる。さしみは、鼻先でそれをちょんと押した。舟は、ゆっくりと、渦の方へ滑っていく。

 

仁史「ちょっ、舟が……」

 

すず「いいから、見てて」

 

舟が、渦の縁に差しかかった、その瞬間。

 

ごごごごごっ!!

 

水面が一気にうねり、舟の足元で、海が巨大な口を開けた。轟音とともに、激しい水流が渦を巻く。

 

仁史「なっ……!?」

 

渦に呑まれたかと思うと、舟はひとたまりもなかった。木片が空へ弾け飛び、あっという間に、ばらばらに引き裂かれて海底へ引きずり込まれていった。

 

仁史「…………」

 

さっきまで、俺が乗っていた舟だった。

 

すず「あの渦を抜けた所はね、島の周りで一番の激流なの。しかも、どんなモノでもバラバラにして、海底に引きずり込むんだよ」

 

俺は、渦の跡をただ見つめていた。喉が、からからに乾く。

 

仁史(……あそこに、俺が……)

 

すず「だから、溺れる程度で済んで、ほんとに良かったんだよ?」

 

すずは、むうっと眉を寄せたまま、それでも、少しだけ目を潤ませていた。

 

仁史(……いや、違う)

 

喉の渇きの奥で、違和感が形を結んでいく。

 

仁史(あれは、渦のせいで沈んだんじゃない)

 

渦を越えた先は、穏やかな海だった。波も風もなかったのに、舟の底を、何かが掴んで引きずり込んだ。見えない手に足首を掴まれたような、あの感覚。渦の荒々しい水流とは、まるで質が違った。

もっと、別の何かだ。

そう思った瞬間、青暗い水の底で、ゆっくりと動いた巨大な影が、脳裏によみがえった。

島の浜ほどもありそうな、長く黒い輪郭。ぎらりと瞬いた、淡い二つの光。

 

仁史(……あれは、一体……)

 

すず「仁史さん? どうしたの?」

 

仁史「……いや。なんでもない」

 

そう答えたものの、胸の奥には、まだ引っかかるものが残っていた。渦の底へ消えていった舟の跡を見つめていると、すずが、足元の大きな背中をぽんぽんと叩いた。

 

すず「あのね、さしみはね、人でも動物でも、危ない所に近づかないように、ずっと見張ってくれてるの」

 

仁史「見張って……?」

 

すず「うん。だからこの子、仁史さんのことも、渦に近づきすぎないように止めてくれたんだよ」

 

俺は、足元の丸い背中を見下ろした。のんびりした顔で、夕日の中を泳ぐ巨体。さっき引きずり込まれそうになった海の底の恐ろしさとは、あまりにも違う、穏やかな温かさがあった。

 

仁史「……そうなのか」

 

そっと手を伸ばして、さしみの背中を撫でた。

 

仁史「ありがとうな、さしみ」

 

さしみは、嬉しそうに「ぷおー」と鳴いた。

俺は、さしみの丸い背中にごろんと寝転がって、橙色の空を見上げた。

 

仁史「やれやれ……帰るのは、もう少し先になりそうだな」

 

すず「残念だね、仁史さん……。帰れなくなっちゃって……」

 

すずが、しゅんと眉を下げる。

 

仁史「まぁ……焦ったってしょうがないしな」

 

そう言って、小さく息を吐いた。

取り敢えず、まずはこの島のことを調べないといけない。もしかしたら、帰るヒントがあるかもしれない。脱出するのは、それを調べてからでも遅くはないはずだ。

それに、あの海の底の影のことも、確かめておきたかった。

 

仁史「まぁ……帰る算段がつくまで、しばらく厄介になるわ」

 

すず「うん!」

 

すずの顔が、ぱっと明るくなった。

 

すず「……そうだ! 仁史さん!」

 

すずは立ち上がって、夕日を背に、両手を大きく広げた。

 

すず「ようこそ、藍蘭島へ!」

 

 

その拍子に、さしみの頭の上から、ぷしゅーっ、と勢いよく潮が噴き上がった。高く舞った飛沫が、夕陽にきらきらと光りながら、すずの全身に降りかかる。

 

すず「わっ、冷たーい!」

 

けらけらと笑うすずの姿が、夕陽の逆光の中に浮かび上がる。

しかし、その瞬間ーー改めてすずの姿を見た。海水を含んだ服は肌にぴったりと張り付き、夕光を透かして、その輪郭をはっきりと浮き彫りにしていた。無邪気に弾ける満面の笑みと、あまりにも無防備なその姿が、否応なく俺の視界に飛び込んでくる。

 

仁志「お、おいっ……! 頼むから早く着替えてくれ!! 濡れてスケスケだぞ!!」

 

俺は耳まで真っ赤になるのを感じながら、思わず腕で両目を覆って全力で顔を背けた。シャチの背中の上なんて視線を遮るものすらなく、焦りで頭がどうにくなりそうだ。

 

すず「えっ? どうしたの急に真っ赤になって……熱でもあるの?」

 

すずは首をかしげると、心配そうにそのまま俺の方へと顔を覗き込み、揺れる背中の上をペタペタと近づいてくる。

 

仁志「っ……!? ち、近い! 近づくなバカ!!」

 

自分の状況も、なぜ俺がパニックになっているかも何一つ分かっていない、すずの無防備すぎる突進。

 

仁志「い……いいから! 早く前を隠せーーーっ!!」

 

夕暮れの海原、俺の悲痛な叫びがさしみの背中の上に響き渡る。

しかし、この時の俺は知る由も無かった。ここからこの島で日本にいた時以上に

ハチャメチャな生活を送る事になるなんて




ここまで読んで頂きありがとうございます。
次回はあやねと少し絡みます
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。