最速の私と、大逃げの先輩   作:Lagavulin

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海まで

 エクアルミナは、靴紐を結びかけたまま顔を上げた。

 

 練習コースの先頭を、短い栗色の髪のウマ娘が走っている。後ろとは大きく離れていた。それでも速度を緩めず、最後の直線へ入ってくる。

 

 ワンダラスト。エクアルミナがレースの映像で見た、学園の先輩だった。

 

 ゴールを越えるまで、誰も近づけなかった。減速して戻ってきた彼女は、額に髪を貼りつかせながら、トレーナーの告げる記録を聞いている。

 

「よし! 次は、もう少し先までこの速さで行きたい!」

 

 息が弾んだままなのに、声まで楽しそうだった。

 

 エクアルミナは手元へ目を戻した。途中になっていた靴紐を結び、立ち上がる。黒髪のポニーテールを背中へ払ったところで、柵の向こうを通りかかったワンダと目が合った。

 

「あ、お疲れ! これから走る?」

「いえ、終わりました」

「そっか。じゃあ、またね」

「あの」

 

 呼び止めると、ワンダはすぐに振り返った。

 

「抜かれたら、どうするんですか」

「ん?」

「最初から、あんなに速く走って。もし、最後に追いつかれたら」

 

 自分なら、最後に使う力がなくなるのが怖い。

 

 練習では、前を行く背中を見ながら走ることが多かった。追う相手の足取りが乱れたときや、最後の直線が見えたときに速度を上げる。自分がいちばん速く走れる時間は、まだ短い。

 

 ワンダは水のボトルを持ち替えた。

 

「粘るよ。できるだけ前でゴールしたいから」

「それでも、次も先に行くんですか」

「うん。次は捕まらないように」

 

 答えてから、いたずらっぽく口角を上げる。

 

「でも、抜くつもりで見られてたんだね」

「え」

「追いつかれたら、って」

 

 エクアルミナは返事に詰まった。

 

 どうしてもそう考えてしまった。遠く離れた背中を見て、あれに届くには、どのあたりから速く走ればいいのだろうと。

 

「……すみません」

「ううん! 楽しみになってきた!」

 

 ワンダはボトルの蓋を閉めた。

 

「名前、聞いてもいい?」

「エクアルミナです」

「エクアルミナ。ルミナって呼んでもいい?」

「はい」

「私はワンダラスト」

「知っています。レースの映像、見ました」

「じゃあ、抜かれちゃうところも見た?」

 

 小さく頷くと、先輩は声を上げて笑った。

 

「次は逃げ切るから! そっちも見てね!」

 

 ルミナは、その背中を校舎の入口まで見送った。

 

 抜かれたところを見たと言っても、先輩は笑っていた。次は逃げ切ると、こちらにも見てほしそうに。

 

 鞄から携帯電話を出し、前に見たレースの名前を検索した。今度はゴールの手前だけでなく、先輩が先頭へ出ていくところから見たくなった。

 

  *

 

 その週の金曜日、同じ先輩が掲示板の前にいた。

 

 沿線の観光案内を見ながら、携帯電話と小さな手帳を交互に確かめている。緑の上着のポケットから、何度も折り畳まれた紙が覗いていた。

 

 ルミナは少し離れたところで足を止めた。海の写真に、見覚えのある灯台が写っている。入学して間もない頃から貼られていた案内だ。

 

「ルミナ! 海、好き?」

 

 顔を上げると、ワンダはこちらを見ていた。

 

「はい。でも、ここには行ったことがなくて」

「私も行ったことない! 日曜日に行こうと思ってるんだ」

 

 先輩は手帳を傾けて見せた。駅名の下に出発時刻が2つ、帰りの時刻が3つ書いてある。その間は広く空いていた。

 

「駅から、ここまで歩くんですか?」

「うん。途中に古い商店街もあるんだって」

「お店、決めてるんですか」

「まだ。歩いてから決める」

 

 ルミナは空白の部分を見た。いくつも書き込まれた自分の練習予定とは、ずいぶん違う。

 

「ねえ、ルミナも一緒に行かない?」

「行きたいです」

 

 先輩の手が、手帳を閉じる途中で止まった。

 

「早いね」

「ちょうど日曜日は空いています」

「決まり! 駅で待ち合わせね!」

 

 連絡先を交換すると、すぐに駅名と時刻が送られてきた。ルミナはその画面を閉じず、掲示板の海をもう一度見る。

 

「この道、どこまで続いてるんでしょう」

 

 写真の端に、海沿いを延びる細い線があった。

 

 ワンダが隣へ寄って、同じ場所を覗き込んだ。

 

「私も、この道の先が気になってる」

 

  *

 

 電車が街を離れてから、ワンダはよく窓の外を見ていた。

 

 線路沿いに小さな市場が現れると「あそこで降りても面白そう」と言い、川を渡れば、川岸の道がどこへ続くのか目で追う。

 

 帰省の途中なら通り過ぎてしまうものばかりだった。先輩が指さすと、その先へ降りてみたくなる。

 

 ルミナは窓と先輩の横顔を交互に見た。次にどこを見つけるのか、景色と同じくらい気になっていた。

 

 気になるものが見つかる前に通り過ぎてしまうこともあったが、先輩はそれも楽しそうだった。

 

「ルミナは、休みの日って何してる?」

「部屋にいることが多いです。あとは、学園の近くを歩いたり」

「遠くには?」

「帰省するときくらいです」

「そっか。今日は、帰省の途中でもない知らない町だね」

 

 言われてみれば、そうだった。

 

 学校へ行くためでも、家へ帰るためでもない。降りた先には、待っている人も、済ませなければいけない用事もなかった。

 

 隣で手帳を開いた先輩が、さっき通り過ぎた市場の駅名を書いている。今日のページではなく、少し後ろのページだった。

 

「そこにも、行くんですか」

「いつかね。今日でもいいけど」

 

 先輩がこちらを見る。

 

 ルミナは少し考えた。

 

「今日は、海まで行きたいです」

「うん。そうしよう」

 

 ワンダは迷わず手帳を閉じた。

 

 しばらくして、家並みの間から青が見えた。ルミナが顔を寄せるより早く、電車は短いトンネルに入ってしまう。

 

「あ」

「見えた?」

「少しだけ」

「また見えるよ。たぶん」

 

 2人で窓を見たまま待った。

 

 トンネルを出ると、今度は窓いっぱいに海が広がった。線路より低いところで波が砕け、その先に光の筋がいくつも揺れている。

 

 ルミナは窓枠に手をかけた。

 

 先輩が何か言った。波に目を奪われていて、聞き取れなかった。

 

「すみません。何ですか」

「ううん。窓側にしてよかったなって」

 

 こちらへ身を乗り出していたワンダが、自分の席に戻ろうとする。

 

 ルミナは少し座る位置をずらした。

 

「先輩も、どうぞ」

「じゃあ、もうちょっとだけ」

 

 上着の袖が触れる距離で、2人は海を見ていた。

 

  *

 

 写真にあった道は、思っていたより長かった。

 

 駅から商店街を抜けて海へ出ると、浜沿いの道は緩やかに湾を回り込み、遠くの白い灯台へ向かっている。歩く人の道とは別に、ウマ娘向けの走路が隣の運動公園から続いていた。

 

 ワンダは案内図の前で立ち止まり、それからルミナの靴を見た。

 

「走れる靴だ」

「これが、いちばん歩きやすい靴なんです」

「私も」

 

 先輩が片足を少し持ち上げる。履き慣れた靴だった。

 

 携帯電話だけを手元に残し、公園のロッカーに荷物と上着を預けた。伸びをすると、潮の匂いが深く入ってきた。学園のコースでは聞こえない、絶え間ない波の音がする。

 

「灯台の手前まで、軽く走ろうか。そこから先は歩いて」

「はい」

 

 走り出してしばらくは、隣に先輩がいた。

 

 海から吹く風で、短い栗色の髪が頬にかかる。ワンダはそれを指で払って、少し前へ出た。

 

 ルミナも速度を上げる。

 

 やがて、並んでいたはずの足音がずれた。

 

 先輩は前を見ていた。少し離れたところで一度こちらを振り返り、何か言いかける。

 

「先に、どうぞ」

 

 ルミナが言うと、先輩の耳がこちらを向いた。

 

「ついていきます」

「ほんと?」

「はい」

 

 ワンダが笑った。

 

「よし! ついてきて!」

 

 次の数歩で、距離が開いた。

 

 ルミナは目を見張り、すぐに地面を強く蹴った。先輩の背中は、さっきまで手を伸ばせそうなところにあったのに、もう遠い。

 

 速い。

 

 知っていた。学園でも見たし、レースの映像でも見た。それでも、同じ場所から走り出した背中が遠ざかると、足が勝手にその先を求めた。

 

 さっきの電車でも、先輩は窓の外にいろいろなものを見つけ、楽しそうに教えてくれた。走り出した今も、あの背中を追いかけて、隣まで行きたかった。

 

 けれど、速さを緩めてもらうのは嫌だった。あの背中に、自分の脚で届きたかった。

 

 腕を振る。結んだ黒髪が肩の後ろで跳ねる。

 

 先輩は振り返らない。

 

 風を受けた上半身が大きく揺れることもなく、同じ調子で脚が運ばれていく。こちらが速度を上げるたび、先輩も遠くへ行くように見えた。

 

 息が浅くなる。

 

 ルミナは一度長く吐き、もう一度、前へ身体を運んだ。伸ばしすぎていた歩幅を戻すと、足が地面を捉え直す。

 

 ほんの少し、背中が近くなった。

 

 行ける。

 

 もう少しだけ。

 

 走路の終わりを示す白い線が見えた。先輩がそこを越え、ゆっくり速度を落とす。

 

 ルミナは線まで走り切ってから、数歩かけて止まった。

 

 届かなかった。

 

 膝に手をつき、息を吐く。足元の舗装の模様が、吐くたびに小さく揺れて見える。

 

「大丈夫?」

 

 戻ってきた先輩の靴が、視界に入った。

 

「はい」

「ごめん。軽くって言ったのに」

「私が、ついていくって言いました」

 

 顔を上げると、ワンダも息が弾んでいた。額の汗を手の甲で拭いながら、こちらを見ている。

 

 ルミナは、その後ろの道へ目を向けた。

 

 先輩が速かった場所。差を詰められたと思った場所。走り出す前は同じに見えた道が、細かく分かれて思い出される。

 

「最後、少しだけ近づけました」

「聞こえたよ! 後ろから、どんどん近づいてくるんだもん」

「もっと早く、あの速さにできていたら」

「最後までもった?」

 

 ルミナは口を閉じた。

 

 今でも脚に熱が残っている。あの速度を、最初から出し続けられた気はしない。

 

「……まだ、無理です」

「そっか」

 

 ワンダは、なぜか嬉しそうだった。

 

「追いかけてきてるのが分かったらさ、捕まりたくなくなっちゃって。最後、私も速くしたんだよ」

「そうだったんですか」

「うん。もっと楽に終わると思ってた」

 

 ルミナはもう一度道を見た。差がなかなか縮まらなかった理由が、少し分かった気がする。

 

 悔しかった。

 

 自分が速くなった分だけ、先輩も速くなっていた。届くと思ったときには、終わりの線が来てしまった。

 

 けれど、顔を上げたとき、口元は緩んでいた。

 

「もう1回、走りたいです。今度は、先輩に追いつきたい」

 

 ワンダが瞬きをする。

 

「今?」

「少し休んだら」

 

 先輩は笑いながら息を吐き、海の方へ目を向けた。

 

「その前に、灯台まで歩こう。せっかく来たんだし」

「あ……はい」

「走ってる間、海、見えた?」

 

 聞かれて、ルミナは隣に広がる青を見た。

 

「見ていませんでした」

「私も。もったいないことしたね」

 

 ワンダが歩き始める。ルミナはその隣へ並んだ。

 

 汗の引いていく頬に、潮風が気持ちよかった。

 

  *

 

 灯台は近くで見ると、壁のところどころが灰色になっていた。

 

 白い塗装の下から錆の筋が垂れ、柵には何度も塗り直した跡がある。掲示板の写真では、そこまでは見えなかった。

 

 ルミナは柵に手を置いて、湾を見下ろした。

 

 さっき走った道も見える。隣の先輩が「あの曲がってるところからだね」と指で辿った。

 

「あそこでは、まだ横にいました」

「うん」

「この辺りから、離されました」

「よく覚えてるね」

 

 先輩の指より少し先を、ルミナも指さした。

 

「最後は、あそこです」

「まだ悔しい?」

「はい」

 

 正直に答えると、先輩は肩を揺らした。

 

「いいね! また走ろう。次も負けないから!」

 

 ルミナは隣を見る。

 

 ワンダは携帯電話を取り出していた。海を撮り、灯台を見上げ、それから少し後ろへ下がる。

 

「そこにいて。灯台と一緒に撮れるから」

「私も、ですか」

「うん。せっかくだから」

 

 どこを見ればいいのか迷っている間に、先輩は写真を撮った。

 

 見せてもらうと、ルミナは柵に片手を置いたまま、少し困った顔で立っていた。髪は潮風で乱れている。

 

「変な顔をしていませんか」

「私はこれ好きだけど。もう1枚撮る?」

 

 ルミナは画面を見直した。

 

 自分の横に灯台があり、その向こうに海が写っている。予定表を埋めるときには知らなかった場所に、もう自分が立っていた。

 

「これで、大丈夫です」

 

 すぐに写真が送られてきた。

 

 ルミナは自分の携帯電話を取り出し、少し考えてから、カメラに切り替えた。

 

「先輩も、同じところに立ってもらえますか」

「もちろん!」

 

 ワンダは灯台の壁へ寄り、こちらに向かって手を振った。

 

 ルミナは、その顔がよく見える位置まで近づいて撮った。

 

  *

 

 公園へ戻って荷物を取り、駅へ向かった。帰りの電車では、海と反対側の席が空いていた。

 

 窓の外に畑が流れていく。隣でワンダが手帳を開き、今日のページに短く書き込んでいた。

 

 駅から灯台まで辿った道。それから、ルミナの名前。

 

「私の名前も書くんですね」

「一緒に行ったからね」

 

 先輩は手帳をこちらへ少し傾けた。別の日のページにも、訪れた町と、一緒に行った子の名前が書かれていた。

 

「誰と行ったかで、結構違うんだよ。同じ場所でも」

 

 ルミナは、自分の膝の上の携帯電話を見た。

 

 最後に撮った写真が、まだ画面に出ている。灯台の壁と、こちらへ手を振る先輩だった。

 

「あ、次は湖に行こう! 少し遠いけど、岸に沿って走れる道があるんだって!」

「いつ、行きますか」

 

 手帳を閉じかけた先輩の指が止まる。

 

「まだ、いつって決めてないけど」

「来週の日曜日なら、空いています」

 

 ルミナは予定表を開いて見せた。空いている日を差し出すのは、誘われて頷くより少し緊張した。

 

 今日の続きが欲しかった。先輩が次に見つけるものを、また隣で見たい。走り出したら、今度はもっと先までついていきたい。

 

 ワンダは自分の携帯電話も確かめる。

 

「空いてる! じゃあ来週、行こう!」

「はい」

「また一緒に走る?」

「走りたいです」

 

 先輩が手帳に湖の名前を書いた。

 

 ルミナも、予定表の空白を埋める。行き先だけでは足りない気がして、その下にワンダの名前を入れた。

 

 保存してから顔を上げると、隣ではもう次の道が調べられていた。

 

「この道、どこまで続いてるんでしょう」

「行ってみよう! どこまで続いてるか、確かめようよ!」

 

 ルミナは先輩の画面へ身を寄せた。

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