最速の私と、大逃げの先輩   作:Lagavulin

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もう一度

 ワンダは、練習コースの出口で手帳を開いていた。

 

 ジャパンカップから、ひと月ほどが過ぎていた。レースの疲れも抜け、来年の予定について話すことが増えている。今日はルミナと、あの日に決めた旅行の日程を相談する約束だった。

 

 そのルミナが、まだ来ない。

 

 姿は見えていた。ベンチの前で、2人のウマ娘に携帯電話の画面を見せている。レースの映像らしく、指で少し戻しては、何かを説明していた。

 

 話し終わったと思うと、隣の子がまた質問する。

 

 ワンダは手帳を閉じた。

 

 ルミナと走りたい子が増えた。

 

 以前から多かったけれど、最近は帰り道でもよく呼び止められている。練習を見たい。一緒に走りたい。次のレースでは負けたくない。

 

 最後の言葉は、ワンダも何度も言っていた。

 

 黒いポニーテールが揺れた。

 

 こちらに気づいたルミナが、軽く頭を下げて話を切り上げる。

 

「ありがとうございました! また練習、ご一緒させてください!」

 

 背中へかかった声に、ルミナは振り返って頷いた。それから、小走りでこちらへ来る。

 

「お待たせしました」

「ううん。ちょうど来たところ!」

 

 手帳を鞄へしまいかけて、やめた。

 

 ワンダは来週のページを開く。

 

「ルミナ、次の土曜日って空いてる?」

「はい。旅行のお話ですか」

「決めた国へ行くのは、もう少しまとまった休みが取れたら。その前に、行きたいところができた!」

「どこですか」

「ルミナの町!」

 

 ルミナが目を丸くした。

 

「あの公園で、まだ勝負してないでしょ!」

 

 木の下に落ち葉が集まっていた、短い直線。

 

 初めて連れていってもらった日に、ルミナの得意なコースで勝負しようと誘った。あの日は歩く約束だったから、そのまま丘へ上った。

 

 それきり、2人で走る機会はなかった。

 

「覚えていてくれたんですか」

「もちろん! あのとき、短いと先に行かれちゃうかもって言ってたよね」

「……言いました」

「今なら、どう?」

 

 ルミナは少し考えた。

 

 こちらの足元を見て、それから顔を上げる。

 

「走ってみたいです」

「よし! 決まり!」

 

 土曜日の欄に、町の名前を書いた。

 

 隣から覗き込んでいたルミナが、手帳の端へ指を添える。

 

「日曜日も、空いています」

「うん?」

「母に聞いてみます。よかったら、泊まっていってください」

 

 ワンダは書き終えた線を、翌日の欄まで延ばした。

 

「じゃあ、2日とも私とね!」

「はい」

 

 返事をしたルミナは、その線を見たまま笑っていた。

 

  *

 

 電車が街を離れてからも、ルミナはよく笑っていた。

 

 窓の外を見ているときは、いつもの静かな横顔だった。けれど、ワンダが話しかけると、すぐに口元が緩む。

 

 母が夕飯に何を作ると言っていたか。

 

 公園へ行くなら、どの道を通るか。

 

 そんな話をするたびに、目まで細くなる。

 

「ルミナ、今日はずいぶん嬉しそうだね!」

「嬉しいです」

 

 ためらいなく返ってきた。

 

 ワンダは膝の上で鞄を抱え直す。

 

「まだ着いてないよ?」

「先輩が誘ってくれたときから、楽しみでした」

 

 ルミナは窓の外へ目を向けた。家並みの間を、小さな川が流れている。

 

「また来てもらいたいなとは、思っていたんです。でも、先輩が行きたくなってくれたのが、もっと嬉しくて」

 

 ワンダは、鞄の持ち手を指で撫でた。

 

 あの町へもう一度行きたいと思っていたのは、本当だった。短い直線を見たときから、どちらが先に木の下へ着くのかも気になっていた。

 

 ただ、急に日付まで決めた理由は、ほかにもあった。

 

「最近、ルミナ、よく誘われてるでしょ」

「練習ですか」

「うん。ご飯とか、お休みの日も」

「そうですね」

 

 ルミナがこちらを向く。

 

 ワンダはその顔を見て、少しだけ声を落とした。

 

「次の休みは、私と一緒がよかったんだ」

 

 目の前の顔が、ゆっくりほころんだ。

 

 隠そうともせずに笑うから、ワンダの方が窓を見たくなった。

 

「先輩」

「何?」

「来週も、空いている日があります」

「今、今週の旅行に来たところだよ!」

「はい」

 

 分かっていて言っている顔だった。

 

 ワンダは鞄から手帳を出した。

 

「帰りに決めよう! 今日は、まず勝負!」

「楽しみです」

 

 その声が弾んでいたので、手帳を開くより先に笑ってしまった。

 

  *

 

 ルミナの母に挨拶をして荷物を置くと、2人で公園へ向かった。

 

 前に来たときより、道の向こうの丘がよく見えた。木々の葉が落ち、家の屋根の間から薄い冬空が広がっている。

 

 公園の直線も、覚えていたとおりだった。

 

 端に大きな木があり、根元に乾いた葉が寄っている。

 

「あの木の真横まで、だよね」

「はい。向こうに出発の線があります」

 

 短い距離を1本だけ走ることは、それぞれのトレーナーと相談してきた。周回路をゆっくり走って身体を温めてから、足首や膝を動かす。

 

 ルミナが、直線の端を確かめに行った。

 

 地面に引かれた線の上で立ち止まり、木を見ている。

 

 学園で練習しているときと同じ顔だった。

 

 ワンダも隣へ立つ。

 

 短い。

 

 いつものレースなら、走り始めて間もないうちに通り過ぎてしまう距離だった。

 

 けれど、ここでは最初から全部使える。

 

「ルミナが先に出ることも、あるよね」

「はい。そのつもりです」

「今日は後ろで待たない?」

「待っていたら、先輩が着いてしまいます」

 

 ルミナが髪を結び直す。

 

 さっきまでの笑顔は、もう引っ込んでいた。少し足を前後させ、身体を沈める位置を探している。

 

 ワンダは靴底で地面を押した。

 

 この子に勝ちたい。

 

 あのジャパンカップで、欲しくてたまらなかった最後の半歩。

 

 今日は、渡さない。

 

「合図は、タイマーでいい?」

「はい」

 

 ワンダは携帯電話を操作し、コース脇のベンチに置いた。

 

 直線にほかの利用者がいないことを確かめた。

 

 木の先にも、速度を落とせるだけの道が続いている。

 

 肩を並べ、前を見る。

 

 隣で、息を吐く音がした。

 

 ワンダは重心を前へ移した。

 

 短い電子音が鳴る。

 

 地面を蹴った。

 

 隣の足音も、ほとんど同時に鳴った。

 

 最初の一歩では、まだ肩が見えていた。次で少し離れ、さらに足を運ぶと、視界から黒髪が消えた。

 

 前へ出た。

 

 ワンダは腕を引いた。

 

 いつものように後ろとの距離を測り、どこで呼吸を落ち着けるかを考える必要はない。木まで、このまま行く。

 

 靴底が強く地面を捉える。

 

 足音は、すぐ後ろにあった。

 

 離れない。

 

 むしろ、少し近づいている。

 

 ワンダは歯を食いしばった。

 

 もう来る。

 

 長い直線へ出てから見せる、あの速さを待つつもりはなかった。けれど、ルミナの方も、ここで勝つために走っている。

 

 肩のすぐ後ろで、息が聞こえた。

 

 木が近づく。

 

 腕を振る。脚を伸ばす。

 

 隣へ、ルミナの腕が入ってきた。

 

 ワンダは顔を前へ向けたまま、もう一歩踏み込んだ。

 

 木の幹が、横へ流れた。

 

 その瞬間にも、隣の肩は後ろにあった。

 

  *

 

 速度を落としながら、ワンダは両手を上げた。

 

「勝った!」

 

 少し先まで走ってから、ゆっくり歩く。

 

 隣にルミナが来た。息を弾ませたまま、さっきの木を振り返っている。

 

「あと……もう少し、だったのに」

「うん! 今日は逃げ切った!」

 

 言うと、ルミナは唇を結んだ。

 

 木と、出発した場所を見比べる。最初にどれだけ離れ、どこから近づいたのかを考えているようだった。

 

 ワンダも、もう一度コースを見た。

 

 勝った。

 

 ルミナが追ってきた。

 

 最後まで抜かれなかった。

 

 何度確かめても嬉しくて、また両手を上げたくなった。

 

「先輩」

 

 袖を引かれて、振り向く。

 

 ルミナが笑っていた。

 

 電車の中で見たより、ずっと大きな笑顔だった。

 

「速かったです」

「でしょ!」

「最初から追ったのに、届きませんでした」

 

 こちらの手を両手で握り、少し持ち上げる。

 

「先輩の勝ちです」

 

 嬉しそうに言って、また笑う。

 

 ワンダは口を開きかけた。

 

 勝ったところを見ていた子に、お祝いされているみたいだった。たった今まで、後ろから追い詰めてきた本人なのに。

 

「なんで負けたのに、私より喜んでるの!」

 

 ルミナの肩が揺れた。

 

「だって、先輩が勝ちに来てくれました」

「勝負なんだから、勝ちに来るよ!」

「はい。誘ってくれて、ここまで来てくれて、本当に勝って」

 

 言いながら、握った手を見下ろす。

 

 頬が上がったままだった。

 

「嬉しいです」

 

 ワンダは、返す言葉を探した。

 

 ここへ来る電車の中でも、ルミナはずっと笑っていた。けれど、勝負の前にはあの顔が消えた。本気で前へ出ようとして、最後まで追ってきた。

 

 負けた直後には、悔しそうにコースを振り返ってもいた。

 

 その顔を、こちらも覚えている。

 

「……悔しくないわけじゃ、ないんだよね」

「悔しいです。出るときに、もう少し――」

 

 すぐに出発点へ目が動いた。

 

 それから、はっとしたようにこちらへ戻る。

 

「でも、今は先輩の顔を見たいです」

 

 ワンダはとうとう笑い出した。

 

 握られた手を引き、ルミナの肩へ額を軽く当てる。

 

「もう。いっぱい喜ぶつもりだったのに!」

「喜んでください」

「喜んでる! すごく!」

 

 顔を上げると、ルミナがまた笑った。

 

 負けた子にこんな顔をされたら、次も勝ちたくなる。

 

 ワンダは空いた手を、ルミナの背中へ回した。

 

 すぐに、腕が返ってきた。

 

「次も、私が勝つよ」

 

 耳元で言うと、抱きしめる力が少し強くなる。

 

「次は、私です」

 

 声まで笑っていた。

 

  *

 

 ベンチへ戻って携帯電話を回収し、もう1本と言い出す前に、2人で上着を着た。

 

 今日は1本。その約束まで破るつもりはなかった。歩きながら息を整え、公園の外へ出る。

 

 ルミナは、時々ワンダの顔を見た。

 

 見て、笑う。

 

 こちらから見ると、目を逸らさずに、もう少し笑う。

 

「そんなに見る?」

「はい」

「明日も一緒にいるよ?」

「明日も、見ます」

 

 ワンダはルミナの手を取った。

 

 口元が緩むのを止められなくなったのは、こちらも同じだった。

 

 家へ戻る途中、駅前の通りへ寄った。古い時計の前で、親子連れが立っている。

 

 針が、もうすぐ重なる。

 

「先輩。鳥が出てきます」

「本当だ! ちょうどいい時間!」

 

 2人で通りの端へ立った。

 

 やがて音楽が鳴り、小さな扉が開いた。中から現れた鳥が翼を動かし、首を左右へ傾ける。

 

 ワンダはつないだ手を軽く揺らした。

 

「動いた!」

「はい」

 

 返事が近すぎた。

 

 ルミナは時計を見上げながら、こちらの肩へ頭を寄せていた。

 

 ワンダも少し寄って、鳥が扉の奥へ帰るまで眺めた。

 

 音楽が止まってからも、すぐには離れなかった。

 

「ねえ、来週の話だけど」

 

 ルミナが顔を上げる。

 

「帰りに決めるんじゃなかったんですか」

「待てなくなった!」

 

 空いた手で、鞄から手帳を取り出した。

 

 ルミナが片側を支えてくれる。2人の指の間で、来週のページが開いた。

 

「水曜日の午後、練習のあとなら空いてる」

「私も、空いています」

「じゃあ、ご飯! どこか行こう!」

 

 ルミナは頷いた。

 

 書き込んでいる間も、手帳を支えて待っている。

 

「ルミナの方も、予定に入れてね」

「入れます」

「誰かに誘われても、もう決まってるって言ってよ?」

 

 言ってから、少し強かったかと思った。

 

 けれど、ルミナは嬉しそうに頷いた。

 

「先輩と約束していますって、言います」

 

 ワンダはペンの蓋を閉めた。

 

 あのベンチの前で、ほかの子と話していたルミナを思い出す。次に誘われたら、今度はそんな返事をするのだ。

 

 ちょっと、聞いてみたかった。

 

 手帳をしまうと、ルミナが指を絡めてきた。

 

「先輩」

「何?」

「今度、またここで走ってください」

「もちろん! 次も捕まらないから!」

 

 ルミナは握った手を一度だけ揺らした。

 

「帰ったら、今日の走り方を思い出しておきます」

「あ、勝つ準備?」

「はい」

 

 前を向いた顔には、まだ笑みが残っていた。

 

「先輩に勝って、もっと喜びたいです」

 

 ワンダは声を上げて笑った。

 

「今日より? 大変だ、負けられない!」

 

 手をつないだまま、2人で家への道を歩き出した。

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