最速の私と、大逃げの先輩 作:Lagavulin
『外からエクアルミナ! 鋭い末脚で一気に差を詰める!』
前の勝負服が近づいてくる。
ルミナは腕を振った。坂を上り切ってから、脚がようやく大きく動き始めていた。前を走っていた子を1人抜き、その外へ身体を運ぶ。もう間に誰もいない。
届く。
さっきまで遠かった背中が、肩が、手の届きそうなところにある。
『エクアルミナ、脚色が違う! 先頭へ迫る! 届くか――!』
ゴール板が横を過ぎた。
前の子の横顔は、最後まで見えなかった。
速度を落としながら、ルミナは自分の足音を聞いた。もう一歩。あと一歩だけ、さっきと同じ速さで踏み出せたら。
そう思っても、走路は後ろへ遠ざかっていく。
息を整えて振り返った先で、着順が掲示された。
2着。
皐月賞のあとにも見た数字が、ダービーの掲示板にあった。
*
ウイニングライブを終え、帰り支度をしている間にも、何度か声をかけられた。
惜しかった。いい脚だった。秋が楽しみだね。
ルミナは、そのたびに顔を上げた。
「ありがとうございます」
応援してもらえたことは嬉しい。最後まで見ていてくれた人には、ちゃんとお礼を言いたかった。
トレーナーとの振り返りでは、直線に入るまでに外を回った距離と、加速を始めた位置の話をした。映像を細かく見るのは明日。今日はまず身体を休めようと言われ、頷いた。
着替えを畳んで鞄へ入れる。
指が止まった。
勝ったら、先輩に何と送ろうか。
朝、この服を出したときには考えていた。文面を作るのは早すぎる気がして、携帯電話を伏せたことまで覚えている。
今、画面にはワンダからの連絡が届いていた。
『見てたよ。帰り、会える?』
ルミナはしばらくその短い文を見た。
『会いたいです』
それだけ送って、鞄を閉じた。
*
学園の最寄り駅で、ワンダは待っていた。
改札を出てくるルミナを見つけると、柱に預けていた背中を起こした。緑の上着の袖が、肘のところまでまくられている。
「ルミナ! お疲れ!」
「お待たせしました」
「ううん。今来たところ」
先輩の隣には、特別なものは何もなかった。花も、お祝いの袋もない。いつもの小さな鞄を肩にかけているだけだった。
その姿を見て、少しだけ息がしやすくなった。
2人で学園へ向かって歩き始める。街路樹の葉が道に影を落としていた。日が長くなって、ライブまで終えたあとでも空はまだ明るい。
「脚、痛くない?」
「疲れていますけど、痛いところはないです」
「そっか」
それから、ワンダはレースのことを尋ねなかった。
ルミナも黙って歩いた。隣の足音はいつもよりゆっくりで、自分の歩幅に合っている。
信号を1つ渡ったところで、口を開いた。
「今日は、惜しかったって言わないでください」
言ってから、先輩の顔を見られなくなった。
まだ何も言われていない。労ってくれた人たちが悪いわけでもない。それなのに、口に出した途端、胸の奥に残っていたものまでこぼれそうだった。
ワンダは歩いたまま頷いた。
「うん」
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
前から来た自転車を避けて、先輩が少し内側へ寄った。肩が触れそうな距離になったが、通り過ぎてもすぐには離れなかった。
公園の脇まで来ると、ルミナは空いているベンチを見た。
「少し、座ってもいいですか」
「もちろん!」
座って鞄を膝に置くと、思っていたより脚が重かった。
ワンダが近くの自動販売機から戻り、水を1本渡してくれた。ルミナはお礼を言い、蓋を開けた。
2口飲んでも、うまく言葉が出てこない。
代わりに携帯電話を取り出した。保存していたレース映像を開き、途中まで進める。
「見てもらえますか」
「うん」
先輩が画面を覗き込んだ。
最終コーナー。前の子たちが動き、ルミナはその外へ進路を取っている。
映像の中の自分は、まだ前を捉えていなかった。外に出れば伸びられると思っていた。実際、直線で脚は伸びた。
そこから先を、もう一度見る。
「ここです」
ルミナは画面を止めた。
残り200m。先頭へ向かう道が開き、自分の歩幅が大きくなったところだった。
「ここで、勝てると思いました」
先輩は画面を見たまま頷いた。
「私も」
「本当ですか」
「うん。立っちゃった。テレビの前で」
ルミナは少しだけ隣を見た。
「声も、出たんですか」
「出たよ。あとちょっとって。結構大きかったと思う」
ワンダは照れたように笑ったが、すぐに画面へ目を戻した。
再生すると、ゴールまでの短い時間が流れた。
やはり、届かない。
さっきも見たはずの結末なのに、映像が終わるたび、身体のどこかが遅れて諦める。
「もう少し前にいれば、とも思うんです」
ルミナは画面を戻した。
「でも、前に行くには、途中で脚を使わないといけなくて。今日の私がそれをしたら、最後は同じようには走れなかったかもしれません」
「うん」
「もっと早く動けばよかったのか、もっと内側にいられたのか。明日、トレーナーさんと確かめます」
決めていることは、ちゃんと言えた。
そのあとに続く言葉だけ、声が小さくなった。
「でも、今日は勝ちたかったです」
携帯電話の端を、親指で強く押さえていた。
「前は、次があるって思っていました。次こそ、って。今日は、その次だったのに」
ワンダは何も言わなかった。
続きを待っているのが分かった。ルミナは俯いたまま息を吸い、ゆっくり吐いた。
「最後がいちばん速くても、2着でした」
記録に残る速さを、嬉しく思えない日が来るとは考えていなかった。
先輩の背中を初めて追った海沿いでは、少し差を詰められただけで、もう1回走りたいと思えた。今日は走り直したかった。もう1回別の勝負をするのではなく、終わってしまったあの直線へ戻りたかった。
「ああ、悔しい!」
ワンダが膝の上で拳を握った。思わず顔を上げると、先輩もまだ画面を見つめていた。
「私も、今日、ルミナが勝つところを見たかった!」
ルミナは携帯電話を伏せた。
そんなふうに言われると、返事の代わりに頷くことしかできなかった。
*
公園を出る頃には、空の色が変わっていた。
歩きながら、ワンダが以前の敗戦の話をした。直線の入口では逃げ切れると思ったこと。後ろの足音が近づいてきても、自分が遅くなった気はしなかったこと。
「抜かれたあともさ、もう1回抜き返せるんじゃないかって、しばらく思ってるんだよね」
「先輩も?」
「うん。さっきまで先にいたんだから、って」
ルミナはその横顔を見た。
映像では、先輩は抜かれていた。そのあとも走っていた。
当たり前のことなのに、抜かれたあとの数秒を、今までそんなふうに見たことがなかった。
いつも明るい先輩にも、今日の自分と同じように、終わらせたくないレースがあった。その悔しさを持ったまま、また誰より先へ飛び出していく。
隣で歩く人の横顔を、ルミナはもう一度見た。最初にあの走りを見たときより、遠くまで行ける人に思えた。
「次、映像を見るとき、そこも見ます」
「ええ、そこ?」
「はい」
「逃げ切ったレースも見て! 勝ったときは格好いいから!」
「勝ったレースは、何度も見ています」
ワンダがこちらを向いた。
ルミナは少し遅れて、自分が言ったことに気づいた。
「走り方が、知りたくて」
そこまで言って、ルミナは少し迷った。
練習の参考にするだけなら、何度もゴールのあとまで見る必要はなかった。勝って腕を上げる先輩を見ると、自分もまた走りたくなる。そのことも、伝えたかった。
「それと、先輩が勝ったところを見るの、好きです」
ワンダが目を丸くする。
「おお! じゃあ、もっと見せなきゃね!」
笑った顔を見て、ルミナも口元を緩めた。
学園の門が見えたところで、ワンダが足を止めた。
「ここでいい? 私、買い物してから戻るから」
「はい。今日は、ありがとうございました」
鞄の持ち手を握り直し、頭を下げる。
先輩が「また明日」と言った。
その袖を、ルミナはつかんでいた。
ワンダが振り返る。握った布が、指の中で小さくよれた。
「……もう少し、一緒にいてもらえませんか」
歩いている間は、帰れると思っていた。
部屋に戻って、鞄を置いて、着替えて。そこまで考えると、今日が終わることより、先輩と別れる方が嫌だった。
ワンダは門の脇のベンチを見た。
「座ろうか」
「買い物は」
「あとで行けるよ」
そのまま隣へ戻ってきたので、袖を離すきっかけを失った。
ベンチに腰を下ろしてからも、ルミナは薄い布を指先で持っていた。先輩はそれを見たが、何も言わず、こちら側の腕を楽な位置へ置き直した。
話をしない時間が続いた。
門を通っていく子たちの声と、遠くのグラウンドから聞こえる笛の音がした。先輩の靴先が、たまに小さく動く。
ルミナは、次に何を言うか考えるのをやめた。
しばらくして、ワンダが誘った。
「明日も会おう!」
ルミナは顔を上げた。
「いいんですか」
「もちろん! 夕飯、一緒に食べよう。お腹すくまで話してもいいし!」
「……はい」
返事をすると、先輩の耳が少しこちらへ傾いた。
握っていた指をほどく。袖には小さな皺が残っていた。ルミナが指で伸ばそうとすると、ワンダは笑って腕を引いた。
「それくらい平気」
「すみません」
「明日までには戻るよ」
ようやくルミナも笑えた。
立ち上がる前に、隣を見る。
「先輩。秋は、どこを走りますか」
「まだ決まってないけど、東京の2000mは考えてる」
「私も、候補に入っています」
ワンダは、一度だけ瞬きをした。
それから、さっきまでとは違う顔で笑った。
「おお、じゃあ勝負だね!」
「はい」
同じレースへ出たら、先輩はきっと待たない。
今日、袖をつかんだら戻ってきてくれた人が、走路では遠くへ行く。その背中を思い浮かべると、重かった脚の先に、少しだけ力が戻った。
「そのときは、捕まえに行きます」
「来てね! 私も全力で逃げるから!」
鞄を持ち直し、ルミナは立ち上がった。